阿哈馬江(Ahmadjan)のホームページ より
帳 主 の 雜 感 
「五十七代約九百年のあいだ」、「天皇」は中絶? 


 昨日(二千六年九月十七日)付『朝日新聞』「第3社会」面(p.33)の「ことば談話室」は、
    「天皇」のおくり名  「○○院」とされた時代も
といふ表題の一文(署名入り)であり、その中に次のやうに記されてゐる。
 天皇というと、よく「連綿と続く」と形容される。だが、没後の「おくり名」に目を向けると、900年近く「天皇」は姿を消していた。
 天皇が亡くなると「昭和天皇」などと名前がおくられる。ところが、平安中期の村上天皇を最後に、その後は「○○院」などと呼ばれるようになったとされる。それが、江戸末期の1841年おくり名に「天皇」の語が復活した。・・・・・(以下略)
 
 本帳の読者の皆様には御存知の方も少なくないと思ふが、安コ天皇と後醍醐天皇は、もとより「天皇」である。よつて、上文の「村上天皇を最後に」といふのは誤りである。しかし、そのあたり、「「○○院」などと呼ばれるようになったとされる」といふ微妙な書き方に、或は、字数制限のため安徳天皇と後醍醐天皇のことを書けなかつた筆者の思ひが込められてゐるのかも知れぬ。(多分、違ふと思ふが)
 なほ、三宅雪嶺の「立ち上げた(注1)」雑誌『日本及日本人』の平成十四年新春号(通巻第一六四三号、平成十四年一月)、六五頁に、
    断絶していた天皇号
と題する署名入りのコラムがあり、其処にも900年といふ数字が挙げられてゐるので、此処に其の一部を引用する。
 インターネットでは、驚くほど無知で幼稚な意見が、堂々と「論陣」を張っていたりするから空恐ろしい。
 ・・・・・(中略)・・・・・
 数月前、この手の「反天皇制」論者とインターネット(弁護士や大学教授などインテリが集うML)上で論争したことがある。論争相手の五十代男性は、天皇制こそが諸悪の根元だといってはばからない。
 その屁理屈を何度論破しても愚劣な謬見に固執するので、こちらも視点を変えて、
 「天皇制天皇制というが、だいたい天皇という称号が五十七代にわたって断絶していた事実を知っているのか。約九〇〇年間、日本に『天皇』は存在しなかったのだぞ」
 と称号問題に絞ったら、相手は急に低姿勢になった。事実を知らなかったのだ。
 ・・・・・(中略)・・・・・
 反天皇制論者のほとんどは、こんな歴史的な事実を知らない。と思っていたら、国粋主義者の多くもそれを知らないことが分かって唖然とした。左右ともにイデオロギーや信仰が優先し、歴史的事実への認識が薄いのは遺憾なことだ。
 ・・・・・(以下略)
 
 勿論、上文における「事実」なるものは事実ではない。そもそも、「天皇」が存在しない云々といふのは、あくまでも諡號・追号の問題に過ぎぬ。例へば、宣命には、
天皇詔旨掛畏伊勢度會五十鈴河上下津磐根大宮柱廣敷立高天原千木高知稱辭定奉天照皇太~廣前、恐美毛申給倍度。・・・・・(以下略)
後光明の御代、萬治二年(一六五九)九月十一日の伊勢例幣の宣命
 
といふ常套句があるが、此処には「天皇」と明記されてをり、「約九〇〇年間、日本に『天皇』は存在しなかった」といふ「事実」は、ない。
 或は、当該の筆者、相手の「五十代男性」のみならず『日本及日本人』の読者が、安コ天皇や諡号・追号のことを知つてゐることはないと最初からタカをくゝり、敢へて挑発的な一文をものしたのやも知れぬ。(違ふと思ふが)
 そもそも、この手の「天皇」号断絶に関する問題自体、比較的近年に至るまで一般には殆ど知られてゐなかつた。当該の問題が江湖に知識として共有されるやうになつたのは、藤田覚の名著『幕末の天皇』講談社選書メチエ26)(講談社、一九九四年九月)によつてである。同書、一三〇頁および一三二頁に曰く。
 『雲上明覧』の安政四(一八五七)年版を開いてみると、はじめの方のページの上段の欄に歴代天皇が載せられている。初代神武天皇から第六十二代村上天皇までは「・・・・・・天皇」と記されているが、第六十三代の冷泉院から第百十九代の後桃園院(光格天皇の先代)までは「・・・・・・院」という院号で、第百二十代の光格天皇からまた「・・・・・・天皇」となっている。すなわち、村上天皇(在位は天慶九〈九四六〉年〜康保四〈九六七〉年)以来、五十七代約九百年のあいだ「天皇」号は中絶していたのである。
 
 ちなみに、我々はたとえば「後醍醐天皇」などと呼ぶが、江戸時代の人はそうは呼ばずに「後醍醐院」と呼んでいた。院号なのである。院号であることが気になったのか、明治時代に入ると、政府は「・・・・・・院天皇」と称したりしたが、なお「・・・・・・院」を引きずっていた。このような「・・・・・・院」と院号をおくられた歴代天皇について、「院」を省いて「・・・・・・天皇」と称するようになったのは、大正十四(一九二五)年に時の政府が決めたからである。「後醍醐天皇」などと呼びはじめたのは、たかだか六十九年前からに過ぎない。
 
 要するに、当該の藤田の著述が世に現れることによつて、初めて読書子たちは啓蒙されたのである。しかも、同氏による不注意な叙述までが無批判に受け容れられ、それが「歴史的事実」の名のもとに再生産されてゐる、とも言ふことができよう。ちなみに、上記『朝日新聞』のコラムには藤田の名が挙げられてゐるが、『日本及日本人』のコラムの方に、氏の名は、見えない。
 天皇号および院号の正確な沿革については、『帝室制度史』(帝國學士院編纂兼發行、昭和二十年(一九四五)三月)に的確に叙述されてゐる。同書の七二七〜七二八頁に曰く。
天皇の追號に院號を以てすることは、宇多天皇を最初とし、在位に於いては是より先なれども其の後に崩じたまひし陽成天皇も亦其の例に據れり。院は本來上皇の殿舍の稱にして、轉じて其の殿舍に在ます上皇をも某院と稱し奉り、延きて崩後の追號にも院の字を附することゝなれるなり。宇多天皇の後、醍醐天皇は讓位の後數日にして崩御あり、村上天皇は讓位なかりしを以て、共に山陵に因る名を以て追號と爲し、院號を以てせざりしが、冷泉天皇以後は、讓位ありしと否とを問はず、常に某院と稱し奉る例となり、追號は即ち院號となるに至れり。・・・・・(中略)・・・・・ 後世の文獻には、冷泉天皇以後に在りても、某院と稱せずして、某天皇又は某院天皇と記し、又は此等を混用して一定せざるものあれども、安コ天皇及び後醍醐天皇を除くの外、何れも某院と追號せられしことは資料に徴し之を窺ふを得べし。・・・・・(中略)・・・・・ 大正十四年に至り從來某院天皇と稱する例ありしを改めて爾後院の字を除くことに勅定せられたり。
 
 ところで、決して誤りも少なくない帳ではあるが、藤田の著述ほどの影響力はないにしても、「親王・諸王小傳」中の伏見宮貞致親王のページに於て紹介した史実は、「インターネット」上の「論陣」にも、いさゝか影響を与へることがあつたやうである(注2)。しかし、それらが、知られざる史実を原史料に基づいて更に明らかにしようといふ方向に向かはなかつたことは、甚だ遺憾であつた。どなたかからか新しい情報を御教示いただければ、と願つてゐたのであつたが。
(平成十八年九月十八日)

(注1) この表現が日本語として定着したのは、せいぜい十年程前に過ぎないやうであるので、同時代的には不適切な用法であるが、ワザと使はせていただく。しかし、特に意図はない。
(注2) 当該の問題に関して、私が「インターネット」上で「論陣」を張つたことは、一度たりとも、ない。




「生きる」 「手榴弾で死ね!」



帳 主 の 雜 感 の目次 へ
日本の親王 ・ 諸王
阿哈馬江(Ahmadjan)のホームページの
トップページ



本頁更新日時 : 2008.07.03.
本頁開設日時 : 2006.09.21.
 

Copyright: Ahmadjan 2006.9.- All rights reserved.