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帳 主 の 雜 感 
兎糞を召された大正天皇 


 明治三十年、盛岡に生まれ、遠野で教員・教育委員、『遠野市史』の編集委員を勤めた吉田政吉の『新盛岡物語』(国書刊行会、昭和四十九年(一九七四)十二月)中の「南部中尉銅像建設のこと」に、南部家四十二代の南部利祥としながをめぐる、次のような話が記されている(66〜37頁)。
 
 利祥は学習院の小学生時代、大正天皇の皇太子時代の御学友に挙げられました。物静かだが心に強いところのある子供だったので、殿下からなかなか御信任があったそうです。
 こんな挿話そうわ があります。
 南部の屋敷に盛岡の家臣から、盛岡で俗に兎玉とか兎糞とか呼ばれる菓子を献上して来ました。兎糞というのは今でも売ってると思いますが、固い黒餡を白砂糖で固めた丸い物で、ちょっと兎の糞に似ているので、それで冗談半分に誰かが言ったのが、本名みたいになったものだそうですが、私達の子供の頃は、上等菓子の部類に入るものでした。
 利祥はこの菓子が大変気に入っていたので、家臣達はお屋敷へのお土産みやげといえば、いつもこれを持って上ったものなそうです。
 さて、利祥は自分が好きなものなので、それをある日殿下に差し上げた。宮中ではそんな事は厳重に禁じていたのですが、だがそこは子供同士のこと、こっそりその禁を破ったわけです。
 それから何日か経って、殿下がお菓子を食べられる時、「これでなく、こんな菓子を出せ」と駄々をこねられた。
 だが、お側の人はそんな菓子は知らないし、また宮中にありません。それで色々詮議となったが、これは御学友の誰かが差し上げたものかも知れない…となり、よく調べて見ると南部利祥の差し上げたものとわかった。そして、さらにその騒ぎを大きくしたのは、兎糞という名でした。もちろん伯爵家でも旧家の南部家でも食べている物に、悪い物がある筈はない…としつつも、糞と名のつく物を殿下に差し上げたとあっては不敬であり、かつお側の者の責任にかかわります。
 それで宮内省では、その実際を調査するためにわざ々々係官を盛岡に派遣し、その兎糞菓子を調査させました。
 宮内省の調査官は名称の由来もよく了解し、またその製造元にも、何の不備不良も無かったので安心して帰ったそうですが、一時はなかなかの騒ぎだったそうです。
 
 兎糞調査官発遣についての記録が、宮内庁に残っているか否か、私は知らない。
 なお、この南部利祥は、日露戦争で戦死した。竹田恒徳(もと恒コ王)の『私の肖像画 ──皇族からスポーツ大使へ──』(恒文社、一九八五年七月)の12頁に、次のように見える。
 
 父【恒久王】は戦争中の話はあまりしなかったが、ただ南部少尉のことはよく聞かされた。南部利祥少尉は南部藩主の四十二代目である。日露戦争に従軍した父と南部少尉の二人が、戦線で並んで馬を進めていた時のこと、ふと両者の位置が入れ替わった。その直後に南部少尉は敵弾を受けて倒れた。父は「南部が身代わりになって戦死した」といって、凱旋後、家にその写真を飾って永く祀っていた。その南部利祥氏から二代を経たいまの当主利英氏がまた私の親友である。
 
 この南部利英は、摂関家の一條家の出身で、南部家の養子となったのであるが、彼の義兄、一條實孝元公爵の談話記録、「公卿長屋」(『公卿・将軍・大名』(東西文明社、昭和三十三年(一九五八)八月)所収、77〜96頁)は、たいへんに興味深い内容のものであり、兎も角、一読の価値がある。
 
(平成二十年九月二十四日)




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本頁更新日時 : 2009.09.30.
本頁開設日時 : 2008.11.15.
 

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