阿哈馬江(Ahmadjan)のホームページ より
帳 主 の 雜 感 
萬 里 小 路 殿 


 連休中は、ほとんど外出しなかった。
 現在、千葉県木更津市にある金鈴恁テ墳にちなんだ「木更津市郷土博物館金のすず」にて、企画展「書画に見る請西藩主 林忠崇」が開かれており、是非とも観に行きたいものであるが、本業に追われ、上総国にまで足を伸ばす余裕はない。本展観は十月十八日までとの由であるが、なかなか状況は厳しい。終了後に図録を購入、という結果となることが予想される。
 図録と言えば、木更津から更に南下した安房国北条の城址にそびえ立つ「館山市立博物館」において平成八年二月十日から三月二十四日まで開かれていた企画展「万里小路までのこうじ通房みちふさ」(安房の人物シリーズC)も、展観終了の後、かなり経ってから館山を訪れ、図録のみを購入した(今でも恐らく在庫はあると思われる)。
万里小路通房 1996

  萬里小路通房は、「三房」の一人として有名な藤原宣房の直系の子孫である。宣房は、「正中の変」の後、後醍醐天皇の勅使として、弁明のため鎌倉に下向し、安達時顯と長崎圓喜入道により厳しく詰問され、醜態を晒した(『花園院宸記』)ものの、甚だ困難な使命を果たし得たことが知られる。
 宣房の二子息が、後醍醐天皇の近臣、藤房・季房兄弟である。兄の藤房は、
    いかにせん憑む陰とて立ちよれば猶袖ぬらす松の下露
の歌でも名高い。
 なお、モンゴル帝国に関するビジュアル系の本、Peter Brent, The Mongol Empire. London, 1976 の 161ページに、次の画像が掲げられている。
Brent 1976, p.161

  左方に記されている歌から、この画像の主が藤房であることが判明するが、下方の説明(キャプション)には、
    Japanese warrior knights like this helped to repulse the Mongol-led invations which Kubilai Khan mounted from the mainland.
とあり、まことに噴飯モノである。著者、P.Brent 氏は、『蒙古襲来絵詞』をろくに見ていなかったのであろう。
 この(?)藤房の弟、季房が、萬里小路通房の直系の先祖にあたる。季房の曾孫、時房は『建内記』の記主であり、この日記の伝存により、多くの歴史情報が後世に伝えられたことは、周知の事実であろう。しかし、時房の子、冬房は「補陀落渡海」に出発してしまい、宣房・季房の男系血統は断絶してしまったのであった。
(平成二十一年秋の彼岸)


 
追記
 
萬里小路殿」補
 『実践女子大学文学部 紀要』第四十八集(日野、二〇〇六年三月)13〜25頁に、児島薫「桃夭塾卒業生、本野久子について」という論文が掲載されている。
 この論文で取り上げられている、「下田歌子の最初の弟子とも呼ぶことのできる」本野久子は、旧姓野村。16頁に、「野村久子は初め、万里小路までのこうじ正秀に嫁したが、一子忠秀を残して離縁し、1893年に本野一郎と結婚した」と述べられている。23頁「註」10) にも、万里小路家について、少しばかり言及がある。
 普通であれば、このような情報には気づかないであろうが、紀要をパラパラと繰っていた所、「万里小路までのこうじ」の文字がたまたま目に入ったのであった。
(二千九年十月十三日)



姉小路ちがい 羽州湯沢の京都奥さん



帳 主 の 雜 感 の目次 へ
日本の親王 ・ 諸王
阿哈馬江(Ahmadjan)のホームページの
トップページ



本頁更新日時 : 2009.10.22.
本頁開設日時 : 2009.09.30.
 

Copyright: Ahmadjan 2009.9.- All rights reserved.