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帳 主 の 雜 感 
羽州湯沢の京都奥さん 


 佐竹南家の第十九代当主で植物学者であった佐竹義輔の「雑文集」を、過日、古本屋で例の如く百円で購入した。私自身が野生植物に聊か興味があるので、たいへんに面白く読むことができた。
佐竹義輔『花のある風景』

佐竹義輔
『花のある風景』

(この人と植物@)
(鎌倉、アボック社、一九八四年年一月)
    ・「ニューギニア調査余録」 1〜16頁
     (初出、『南洋経済研究』一九九四年七月)
    ・「「チャタレイ夫人の恋人」に現れた植物」 17〜21頁
     (初出、『読書春秋』一九五四年二月)
    ・「正月と植物」 22〜25頁
     (初出、『読書春秋』一九五五年一月)
    ・「ある老人の遺した花暦」 26〜29頁
     (初出、『読書春秋』一九五六年五月)
    ・「秋の花」 30〜33頁
     (初出、『読書春秋』一九五八年十一月)
    ・「アマチュアの世界」 34〜39頁
     (初出、『青淵』一九五九年二月)
    ・「吉野のサクラ」 40〜41頁
     (初出、『日本の歴史 月報』5、一九五九年六月)
    ・「記載ということ」 42〜45頁
     (初出、『玉川百科大辞典 月報』第6号、一九五九年三月)
    ・「酒と七夕と大名行列」 46〜51頁
     (初出、『サンケイ随筆』新年号・一九六〇年)
    ・「武田博士との対談」 52〜45頁
     (初出、『科学読売』一九六五年六月)
      ※ 武田久吉博士
    ・「「新政あらまさ」浅草の店」 76〜78頁
     (初出、『新政』2号、一九六六年)
    ・「尾瀬の植物」 79〜85頁
     (初出、『ハイカー』一九六六年六月号)
    ・「ハタハタ」 86〜89頁
     (初出、『味覚の記録』一九六七年八月)
    ・「私の研究歴」 90〜102頁
     (初出、『自然科学と博物館』34巻9〜10号、一九六七年)
    ・「閉鎖花というもの」 103〜106頁
     (初出、『群像』3月号、一九六七年)
    ・「花の手帖」 107〜122頁
     (初出、『花の手帖──野の花』一九六八年四月)
    ・「西イリアン記・余話」 123〜125頁
     (初出、『教育美術』一九六八年十月)
    ・「竹中さんのこと」 126〜128頁
     (初出、『岳花酒仙──竹中要博士追悼集』一九六九年)
    ・「日本の植物」 129〜143頁
     (初出、『写真集 日本の花』一九七二年七月)
    ・「ネパールのホシクサ」 144〜149頁
     (初出、『植物と自然』一九七三年三月)
    ・「飯豊山の植物」 150〜160頁
     (初出、『ガーデンライフ』一九七五年八月)
    ・「花の北岳紀行」 161〜170頁
     (初出、『ガーデンライフ』一九七七年八月)
    ・「日本のウスユキソウの仲間たち」 171〜181頁
     (初出、『ガーデンライフ』一九七九年五月)
    ・「早田文蔵先生」 182〜188頁
     (初出、『採集と飼育』一九八二年六月)
    ・「岳麓花暦」 189〜194頁
     (初出、『『MAKINO』牧野植物同好会誌』一九八三年第三号)
    ・「対談=牧野富太郎先生のこと」 195〜204頁
     (一九八三年十二月五日 於 山梨県長坂 聞き手 川村カウ(牧野植物同好会幹事
    ・「私の略歴」 206〜209頁
    ・「論文目録 1929〜1978」 210〜215頁
    ・「あとがき」(一九八三年十二月) 217頁

 本書に収録されている文章は、著者の専門分野に関係するものが多いが、「酒と七夕と大名行列」には、佐竹南家に関する興味深い逸話があるので、その一部を紹介したい(誤植等訂正せず)。
 七夕祭り。戸毎に大きな孟宗竹をたて、これに五色の短冊、折紙や紙細工、くす玉などのつくり物を下げ、夜は提灯や大小さまざまの額燈篭をつるして夏の夜を飾る。とくに商店が軒をつらねたメーンストリートはこれらの飾り物でトンネルができる。この七夕祭りは、家中かちゆうのものが京都奥さんと愛称する奥方が京都からもってきたものであると伝えている。
 この京都奥さんというのは、古文書によると、京都五摂家の一つである鷹司家の姫君が南家七代の義安に輿入れした奥方であった。義安は宗家名代として上洛し、正徳元年辛卯二月十五日に参内し、左大臣鷹司兼煕かねひろ公に謁見し自筆の詠歌を賜った。そして、どういういきさつがあったかわからないがその姫君を娶ることになった。堂上公卿の姫君が僻地の一支族に輿入れするなどは例のないことであった。そこで、姫君はひとまず鷹司家の諸太夫、牧宮内権太夫の養女となり、そこから正徳三年八月に義安に嫁したという。今から二百四十年あまり昔のことである。当時の田舎の人々にとって、清宮さんが島津さんと結婚されること以上に破天荒のニュースだったに違いない。
 義安が参内したのは二十歳、結婚したのが二十二歳である。参内したとき見染められて結婚話がもちあがったが、月とスッポンほどちがう当時の身分や家柄のため、話がなかなかまとまらず、二年かかって姫君の思いが達せられた、と想像するのはほほえましい。この京都奥さんは美しく優雅であった上に、七夕祭りその他の行事や、この地方に珍しい植物を二、三移植したりなどして、庶民から尊敬と人望をあつめたと伝えられている。その植物の一つにまゆみがあり、今も老木が一本残っているそうだが、私はまだ見ていない。
 江戸相撲が湯沢に巡業したとき、奥方が鷹司家の出であるために格式ある御簾をかかげた七本槍を立てて見物したところ、力士は南家の家柄に驚き、直ちに高家御覧の式によって締込みを直して相撲をとったので、家臣も一般見物人も家柄の威力に今更のようにびっくりしたといいう話も伝わっている。京都奥さんの法号を保寿院殿祝鳳瑞光大姉といい、日善寺という日蓮宗の寺に寺領十石を与えてまつられ、今もその位牌が安置されている。
  京都との関係が深い佐竹の分家としては、角館の北家(高倉永慶の四男、義寛が継承)が特に有名であるが、久保田(秋田)藩家老の東家(高倉永慶の次男、義隣が継承)と、湯沢の南家も、忘れてはならない。
 さて、本書の「あとがき」には、
華やかな園芸植物の花よりも、雑草の目立たぬ小さな花の美に私はひかれるのである。この雑文集を読まれて、いくらかでも共感して下さる方があれば、著者の幸これに過ぎるものはない。
とあるが、 刊行より四半世紀後の一読者は大いに共感している次第である。
(二千九年十月十七日)




萬里小路殿 「神の手」本



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本頁更新日時 : 2010.05.09.
本頁開設日時 : 2009.10.22.
 

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