久しぶりの更新となります。替え歌コーナーの方はストックを吐き出しているらしくしばらくはちょくちょく更新できるんだそうですが雑話コーナーの方はストックなんてないから担当としては苦慮するばかりです。
ホントはファンとかもいないだろうからしばらくこのままにしようと思っていたのですがシローこと伴宿禰玄風から更新をたびたび要望されてました。シローの姿こそ冷静ですが彼の内に秘めた熱意に押し出されるようにして更新することにしました。
今回は学校の授業でも教えられる内容の遣隋使についてです。
西暦607年の秋に聖徳太子は小野妹子という部下を隋という国(現在の中国)に派遣します。(注:7年前にも隋に日本の使者は派遣されています。)目的は隋と仲良くなり留学生を送って隋のすすんだ文化を学ばせるということでした。
日本は隋と対等の関係になりたいとして隋の皇帝であった煬帝(ようだい)に
「日出(ひい)ヅル処(ところ)ノ
天子(てんし)日没(ひぼつ)スル処ノ天子ニ
書致(しょいた)ス恙(つつが)ナキヤ云々(うんぬん)」
というちょっとわかりやすくすると
「太陽が出る方向の天皇から太陽が沈む方向の皇帝に手紙を出します。お元気ですか」
というような意味です。
この手紙をもらった煬帝は激怒しました。
なぜかというと普通に考えて現在友達や知り合いにこんな書き出しの手紙書いたら礼儀に厳しい人なら怒るでしょう。
だっていくらそれぞれの位置が東と西ということでも太陽が出る方角が手紙の送り主で受け取り主は太陽が沈むなんて縁起のいい表現ではないです。煬帝の気持ちは最もです。
さらにもう一つ付け加えるなら手紙にあった「日没スル処ノ天子」という部分の「没スル」とは「死ぬ」という意味もあるのです。だから意味の解釈によっては「日没スル処ノ天子」とは「死ぬ皇帝」ともとれるのです。なんかこれじゃあ対等を主張ではなく相手を見下した内容のように私は感じます。
歴研なら私がミスターTあたりに送るとナイフとフォークを使う際に音を立てられるのが嫌という程、礼儀に厳しい彼は激怒するでしょう。
これは聖徳太子がワザとこのような書き出しにしたということではなくミスであるということがその後のことを調べればわかります。
この手紙は聖徳太子が隋との関係が対等であると主張したと言われてますがどうやら誤解かもしれないということです。
その訳はこの後煬帝は小野妹子にこの手紙の返事を渡します。怒りモードの煬帝ですが高句麗という国(現在の中国東北部に存在した国)と戦争中ということもあり手紙の失礼さを指摘する返事を小野妹子に預け使者を送ります。
小野妹子は返事の内容を知っていたらしく途中でなくしましたと報告しますが聖徳太子は返事のことを知ったようで日本に派遣された隋の使者を隋へ返すべく派遣した小野妹子にまたもや手紙を持たせます。しかしその書き出しは
「東(やまと)ノ天皇(すめらみこと)
敬(つつし)ミテ西(もろこし)の皇帝(キミ)ニ
白(もう)ス、云々」
わかりやすくすると
「東の天皇から礼を尽くして西の皇帝に言います。」
という風に変化しています。
このことから聖徳太子は607年の手紙を
「東の天皇から西の皇帝に手紙を出します。お元気ですか」
という書き出しのつもりだったことがわかります。
なんでこんな風なミスが起こったのかというと日本があまり手紙の書き方を知らなかったからのようです。
しかし遣隋使により隋に留学した人物たちの中にはこの後の日本に大きく貢献していくことになっていきます。まさに遣隋使は聖徳太子の英断と言えます。
最後に余談ですが「日出(ひい)ヅル処ノ天子日没スル処ノ天子ニ書致ス恙ナキヤ云々」という607年の手紙の通り隋は煬帝の時代に滅亡していきます。皮肉にもこの煬帝が激怒した手紙は彼の行く末を示す結果となりました。

参考文献「うめぼし博士の逆・日本史 神話の時代編」樋口清之、祥伝社、1995年
2005年6月14日
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