野蛮な雑話第3回「大津事件後日談」
今回も受け売り話である。1891年(明治24年)来日中のロシア皇太子に警察官が襲いかかり怪我を負わせたという大津事件が発生した。この判決を巡り政府と現在の最高裁判所にあたる大審院の意見が食い違った。
この時期、政府は江戸時代の不平等条約を改正しようと必死になってので犯人の津田三蔵に対し特別に不敬罪を適用し死刑にしようとしていた。結局、大審院長の児島惟謙により司法権の独立が確認される形で法にのっとり津田を無期懲役にして事件は幕を閉じた。この事件は政界混乱のおおいなる序章であった。
この判決に驚愕したのはロシアとの不平等条約を解消しようと必死だった外相の青木周蔵と児島の上司である法相の山田顕義だった。青木は発狂して政界を離れ、イギリス大使としてロンドンに派遣される。また山田は明治の初期に内閣制度(今の日本も内閣制度)の代わりに存在した太政官制度の神祇官という役職の再興運動にのめりこみ、2人は政界を離れた。
 しかし重要だったことは児島は青木外相、山田法相の属するグループの怒りを買ったことである。この2人は江戸幕府を倒した際の中心的な勢力であった旧長州藩(現在の山口県)出身で長州の有望な人材を大臣のコネでそれぞれの省に入れていたのである。しかも青木に至っては未来の長州閥を背負って立つと見られただけにショックは大きかった。
 長州はこの2人が去ることにより動揺した松方正義内閣は議会を解散して総選挙にに至るも内務省の総力を挙げて同じ長州閥の内務大臣、品川弥二郎が選挙干渉し対立候補者を警察に検挙させるも児島惟謙が裁判を拒否して失敗した。そして品川は辞任、松方内閣が崩壊して伊藤博文内閣へ。
 そして長州の有望な人材はたった一つだけ残った陸軍大臣の桂太郎の下へ集まり長州陸軍閥を形成し児島惟謙はおおいに長州の恨みを買った。それはやがてドス黒い渦となり児島に襲い掛かることになる。

2004年12月30日