野蛮な雑話第6回「司法官弄花事件その後」
今回は前回のおまけ。
児島惟謙は辞めるにあたりライバルの松岡康毅検事総長を道連れに辞職させたようです。ささやかな復讐だけど長州閥へのダメージは微々たる物であろう。
さて彼らはこの後どうなって言ったのか?
今回の主役、児島惟謙とライバルの松岡康毅だけだがインターネットで調べた範囲で記しておく。
なんで2人だけなのかというと田中不二麿と三好退蔵、児玉淳一郎はネットで調べてもわからなかったし伊藤博文と山県有朋は高校日本史では常識の人物なので私が掲載しなくてもネットで検索すればポンポン出てきます。

児島惟謙
1894(明治27)年から貴族院勅撰議員、1898(明治31)年から1902年まで衆議院議員を務め1908(明治41)年明治41(1908)年に亡くなります。

松岡康毅
1893(明治26)年12月、日本法律学校第2代校長に就任。
1894(明治27)年1月、第二次伊藤博文内閣の内務次官に就任。
その後、内務省所管事務政府委員、台湾事務局委員、内務省文官普通試験委員長を歴任。
検事総長を辞めざるを得なくなってもちゃんと伊藤にフォローされているなぁ。
1898(明治31)年1月、第三次伊藤博文内閣の内務次官に再任。
同年11月、行政裁判所長官に就任。
1903(明治36)年8月、日本大学初代学長に就任。
1906(明治39)年1月、西園寺内閣の農商務大臣に就任。
1917(大正6)年8月、男爵。
1920(大正9)年11月、枢密院顧問官に任ぜられる。
1922(大正11)年3月、日本大学初代総長に就任。
1923(大正12)年9月1日、関東大震災で亡くなります。
最期はアツイ死にかたやったんや。


さらにおまけ「影響は法典論争にも」

大津事件の余波は長州閥の壊滅や司法官弄花事件だけでは終わらなかった。
なんとある法律の論争にも影響してしまった。
この論争は「法典論争」と呼ばれた。
「法典論争」ってなんやねん?というと1890(明治23)年フランス人のボアソナードという学者のアドバイスを参考に作成された民法を公布(「公布」の意味=国の方針などの予定を人々に知らせること)します。1893(明治26」年に施行ということになった。
しかしイギリスの法律を重視するグループが民法はまだ早いという意見を発表した。
そして大学を舞台として予定通りボアソナード式の民法施行を主張フランス派と民法施行延期を主張したイギリス派が論争した。
この論争の行方は民法同様に施行か延期かどうかでもめていた商法が1890(明治23)年11月に第1回帝国議会で延期されイギリス派が勢いづいていた。
とここまではあらすじです。

重要なところはこの論争の最高期は司法官弄花事件の舞台である1892(明治25)年であり、花札に参加していてその事を仲間にしゃべちゃった、A(被害者なので名誉のため仮名にしておきます。)が法典論争におけるフランス派の中心人物であり、児島惟謙の他に参加したメンバーも裁判にかけられますがそれらのメンバーもフランス派の人たちです。

結局、裁判は全員無罪で終わりますが花札のことをしゃべったAはこの年の5月に辞職してしまい、フランス派は中心人物を失ってしまいます。
またこの人が辞職する前年と翌年にフランス派の有力な人物が病死するということもフランス派に打撃を与えます。

民法は結局延期となってしまいますが司法官弄花事件での風評被害はフランス派にとって大きなものであった。

最後に感想を述べると大津事件の犯人である津田三蔵が倒した歴史というドミノは彼が考えている規模より長く壮大なものだったに違いない。
そして私自身も4話分も使うとは思わなかった。


Fin

参考HPはんちはんかい備忘録

2005年2月26日


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