時は流れ続ける。何事に左右されることなく...



藤田徹氏現る

1997年9月、後の塾長こと藤田徹氏が某MLに突然出現した。後の塾生

02のWebを見て、某MLに興味を持ったようである。塾生02とは、この時

点で何度かメールをやりとりしていたらしい。その週末、後の塾生01と塾

生02とそのチームメイトで印西凸凹ランドにて練習する事になっていた。

話の流れでは藤田氏も来る事になっている。DR250Rに乗っているとい

うのはわかるが、さすがに、人物像までははっきりしない。実は恐ろしい人

なのではないのだろうか...。



第一の接触

そして、その週末。DR250Rは...、すでに走っていた。派手さはないが

スムーズな走りをしている。そして、速い。あの人が藤田氏であろう。昼休

みにその藤田氏が、我々のピットにお越しになられた。恐ろしい人ではなか

った。とても爽やかな方だ。


コースの事務所に場所を移し、ベンチで水を飲み飲み話をする。話によれ

ば、今年大阪方面から千葉県に引っ越してきたそうだ。レース参戦暦もか

なりのもののようである。なかなかアクティブな人である。


しかしこの時、以後の展開を予想し得た者は誰もいなかった。



「タフマン」降臨

1997年9月21日印西凸凹ランド、ホリデイエンデューロ第2戦。午前3時

間午後2時間2ヒート制の5時間レースである。このレースに、藤田氏も参

戦してきた。しかも、5時間を独りで走り切るという。そして、本当に独りで

走り切ってしまった。


「独りで、それも休まず走った方が疲れない。」


その後、その場に居合わせた某ML千葉支部員が、藤田氏のことを「タフマ

ン」と呼ぶようになった。藤田氏も気に入ったようである。自分から、「藤田

@タフマン01」と名乗るようになった。


のちに藤田氏の戦歴を知る事になる。その戦歴は、「タフマン」が「タフマン

」であることを証明していた。ついでにいえば、某所では「バケモノ」なんて

呼ばれていたことも判明した。



魔界からに使者

タフマン氏が犬小屋掲示板「GeroCity」(当時)に登場するようになった。

その当時は「タフマン」だけであったが、タフマン氏の就く職種からの連想で

誰彼無く「先生」とよぶようになっていた。


そんな折、某MLで、タフマン氏の出身地方面の方々からの怪情報がが流

れてきた。タフマンを名乗る人物は、実は「悪魔」である。気をつけた方がい

い。かなりにやり手だ。DEVIL@CHIBAと呼んでくれ...。


そうだったのか。表の聖人ぶりに騙されていたようだ。しかし、知るのがあ

まりにも遅かったようである。既に悪魔に魂を抜かれつつある人物が数名

存在していた。



悪魔散る!?

某MLでタフマン先生が「F2小湊で走行会」の企画を持ち上げた。しかし

その企画の次の週には某MLでの一大イベントが控えていたため、反応は

いまいちだった。ならば、とタフマン先生はその企画を1週早めた。しかし、

これもだめだった。反応すらなかった。「タフマン」を名乗る人物の正体に

薄々気付き始めたようである。


しかし、悪魔は三度企画を出してきた。それも土曜日曜両日に渡る本格的

なものを。その企画が某MLに流れた当初それなりに参加希望者が名乗り

を上げたが、同時期に行われる某ML千葉支部の企画に大半が流れてい

った。その結果、1人(後の塾生01)のみの参加と言う事になった。それも

日曜日だけの日帰り参加である。ちなみに、塾生01が参加する事にした

のは、「タフマン先生」に各地で洗脳され続けたからと言う噂もある。



小湊スパルタ塾発足

1人だけの参加者になった塾生01に、塾生02が言った。

「スパルタ塾でしごかれてきな」

「先生」が「塾」を、「DEVIL」が「スパルタ」と言う連想を呼んだのだろう。

命からがら生還した塾生01は、タフマン先生を「塾長」、小湊での出来事

を「小湊スパルタ塾」と呼ぶようになる。実際F2小湊であった出来事は

「スパルタ」そのものであったらしい。



謎の関西人

12月上旬、犬小屋掲示板に「謎の関西人」を名乗る人物が忽然と現れた

そして塾長を発見する。この人物、名乗り方は十分謎なのだが、メールア

ドレスからその身元がバレバレであった。かつて塾長を「バケモノ」と称した

XR乗りのための掲示板の主宰者である。


謎の関西人、ノリの良さはハンパではなかった。

塾長に「小湊スパルタ塾神戸校校長」を任命されると、謎の関西人は即日

その名を拝命し、その数日後には、かのXRのホームページに「小湊スパ

ルタ塾神戸校」(掲示板)を開校させてしまったのである。



アンダーグラウンドからの脱出

大晦日も近ずく12月下旬、神戸校校長が3年ぶりにレース参戦する事に

なった。神戸校校長は以前あるチームに所属していたそうだが、ノリの良さ

が爆発し「小湊スパルタ塾」でエントリーしてしまった。この名前でのレース

参戦は塾全体を通して始めてである。地下に潜伏していた「小湊スパルタ

塾」が、初めて公衆の面前に放たれた瞬間である。


また、塾長も年明けから「小湊スパルタ塾」で参戦を始め、入賞フェチぶりを

遺憾無く発揮し、メジャー化をひた走り始める。


おもしろ半分、冗談半分で始まった「小湊スパルタ塾」

もう冗談では済まなくなってきた。



東西交流使節

1998年2月下旬。神戸校校長と塾生05がレースに参戦参加、塾生06も

京都から応援に来る。この時とばかり、関東本部より東西交流使節団が送

り込まれた。塾生01独りだけ。おまけに日帰りではあるが。


大阪府河内長野市「プラザ坂下」。

本部と神戸校交流の記念すべき第一歩を記す。

ちょうど1ヶ月後には、聖地小湊巡礼が控えている...。



約束の地

関西から神戸校校長、塾生06が遠路はるばる駆けつけ、小湊スパルタ塾

本部及びその周辺の人々もF2小湊に集結した。

小湊スパルタ塾春季特別講習。

小湊スパルタ塾始まって以来最大のイベントである。

2日目に雨が降ったものの、怪我もなく無事に終了。そして、別れを惜しみ

再会を約して、またそれぞれの普段の生活へと戻っていく。いつの日か、ま

た聖地で会えることを祈りつつ...。



彼方からの手紙

春季特別講習の余韻も未だ醒めやらぬ、梅雨入り間近。1人の人物がマレ

ーシアから日本へと帰国してきた。帰国前から燃えたぎっていたバイク熱が

帰国して完全に爆発する。すぐさま、小湊スパルタ塾神戸校に入塾志願す

るが、入塾要綱に完全に抵触していた。

塾長よりも速いと思われる人は入塾できないのである。

そうなると当然のごとく、校長を任命されることになる。そうして、名古屋校

が開校した。東西を結ぶ重要な拠点である。



抗争勃発

そして、1999年年明けとともにただならぬニュースが舞い込んできた。

「塾長は倒したにょろ。この看板はいただいていくにょろ」

この語尾の「にょろ」は、にょろにょろ団!

塾生に敗れても門下に入らなかったくせになんたる不届き者!看板を取り

返すべく、小湊巌龍島で待ち受ける。

「遅い。遅いぞ、武蔵。」歴史では武蔵が勝つことになっている。そして、歴

史は繰り返......さなかった。武蔵は遂に現れなかった。恐れをなして逃げた

のである。こうして、戦わずして看板は取り戻せたのである。





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