さよならへのプロローグ
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別れが突然にやってくる人の哀しみは、そこがスタート地点になりますが、老犬と暮らす者または深刻な病気を抱えている犬と暮らす者にとっては、ゴールまでの長く苦しい道のりがあり、ゴールを迎えて新たな哀しみへのスタートが始まります。確かに心の準備をする時間は与えられてはおりますが、それがなんの意味も持たないことを思い知るだけなのです。

突然の衝撃に襲われた人も 心の準備をしていた人も 深い哀しみが続いていくものなのでしょうが、私の場合はペコが10歳を超え、歳を重ねる度に不安は増大されていきました。そして13歳で初めてペコが倒れてからは更に不安は募り、白内障になり、耳が遠くなり、身体的機能が14歳15歳と衰えてくると犬との生活を楽しむというより、義務的な毎日と試練のような葛藤が多くなりました。

混迷そして

2003年はペコの下痢が半年以上続き 介護の疲れが更に不安を駆り立て まるで抜け出せない迷路にでもいるような毎日でした。

2004年を迎えてからは、毎夜 夫婦で この深刻な未来について話さずにはいられないほどでした。

今 考えると手の届くすぐそこまで、避けられない別れが来ているのだという焦りのようなものに連日怯えていたように思います。

苦しんでいるペコを冷静に見ている私がいます。そして その私を『冷たい奴だ』と罵る私がいます。重い感情も長期にわたると麻痺してしまうのか慣れなのか、『本当はペコがいなくなることを望んでいるんじゃないのか!だから苦しんでいても平気なんだろう』と囁く私がいます。どこか後ろめたい私がいます。『そんな筈ないだろう!ペコを失うことは私自身を失うことと同じ意味を持つのだ!!』と叫ぶ私がいます。『愛しすぎて壊れてしまいそうなんだ』と嘆く私がいます。

どれも『私』でした。。。

逝かせたいわけじゃない、別れたくなんかない。だけど、ペコが生きていることを手放しでは喜べない状況でした。

逝かないでほしいと思う気持ちと苦しんでいるのなら早く楽にしてやりたいと思う気持ちとの狭間で答えなどないまま、不安な夜を積み重ねていただけだったのです。
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『長生きすることと、生きる屍となるまで生きながらえることとは違う』

苦しんでいるペコを見続けているのは辛く、そんな時 この言葉だけが頭の中でグルグルと回っていました。

私の望む『安らかな眠るような死』など 安楽死以外に有り得ないような気がして このままペコの苦しみが続くようなら 安楽死のことを先生に相談してみようと悩み続け、追い詰められていました。

結局 その相談は必要なくなってしまいましたが。。。

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