其れは何時の日か翅をひろげて飛んでいくのだらう
わたしは其れを手の内に飾ってやらうと思ひて手をそれは思い切り伸ばすのだけれども
其れはとても鮮やかにわたしを嘲笑ひながらひらひらと宙(そら)を行つて―――
Butterfly
吾が知己の奨めで高等学校の教師をすることになったは今年の四月からのことだ。
去年の暮、吾は唐突に長年勤めていた大学を辞めた。
妻が交通事故で他界したのは三年前の秋。
突然に起こった不幸に事象を飲み込めず、吾は床に伏した。
葬儀は知己が手はずを整えてくれた。
吾は喪主を務めた記憶も危うく、気がつけば妻の墓は出来上がっていた。
一向に新しいものへ何かをする活力が沸かなかった。
予め妻から生前貰っていた彼女の髪。
彼女の”細胞”を、自分の研究していた”生物に組み込んだ”のが最後の実験だった。
お蔭で”妻”は、吾の愛する”植物”として庭で暮らしている。
生前の記憶は全く無く――…勿論、”彼女”でないのだから当たり前なのだろうが、少し期待していた気持ちはあった…――、
ただ、吾が話して聞かせたことを真似て時々”妻”のふりをしてくれる。
子の居ない夫婦だったから、このまま隠居してしまってもよいと思っていた。既に老後を暮らしていけるだけの蓄えはある。
もうどうせ”彼女”はいない。彼女の思い出に似た生き物を眺めながら、閉じていこう。
このまま閉じた世界で優しい風に囲まれて植物を育て、”妻”と笑いあっていたかった。
ある日唐突に尋ねて来た知己に吾はそう現在の考えを述べる。
しかし彼は何故か悲しそうに頭を振り、吾の手を取ってこう云った。
”草狩、教えることで逆に学ぶことがあるそうだ。実は君にとてもよい話を持ってきたのだが、聞いてくれるか”
※
『先生、さようなら』
『また明日ね、先生』
セーラー服の襟を翻しながら二人の女生徒が廊下を駆け抜けてゆく。
『また明日、気をつけて帰るのだぞ』
彼女たちのその揺れ遠ざかる背中へ別れの挨拶を投げながら今日一日の終わりを思う。
職員室から出ればその時刻が知れる見事な夕日が辺りを鮮やかなただ一色に染め上げんとしていたし、
何よりいつでも騒がしき学び舎に人の気配が薄れていくこの侘びしさが、ああ”終わり”なのだ、と思わせる。
また始まる明日の為に今日を閉じる建物の中を進んでいくと中庭を挟んだ反対側の棟にふと、一つの影を見た。
先ほど通りすがった女生徒と同じく襟の風に揺れる様を見たから女生徒と判断する。
何気なく視線を其方に向けつつ歩く。無機質な廊下に只響く自分の足音がメトロノォムのように正確に聞こえる中、
歩きながら吾は自分の知る生徒だろうかと無意識にその生徒の顔を確認していた。
其処が何年生の教室の並ぶ廊下であったかは覚えていない。
彼女は中庭を見渡せる廊下の窓辺の縁に両腕をつき、その上に顎から頬を押し付けるようにして空を見上げていた。
―――何をしているのだ。
次に思ったことはやや訂正されて『何を見ているのだ』で、手にした教材の資料を小脇に抱え直しながら窓に近づいた。
彼女は吾の視線に気がつくこともなく、ただ、ただ茜色の宙を眺めている。
吾は彼女の視線追う。すっかり立ち止まって、彼女と同じように茜色を見上げた。
流れる薄い雲は金色にたなびき、そろそろ半闇が足音を忍ばせて空に滲むグラディションの中を、
ひらり。
ひらり。
一羽の蝶が宙をたゆたう。
ナミアゲハと呼ばれる一番一般的に広く”アゲハ蝶”と知られる種であろう。
鮮やかな黒と白の模様も今は白い部分が夕日に溶け込むような色になっていて、
黒蝶の翅のかたちのフレェム越しに夕焼けを見ているような錯覚を覚える。
確かにそれは見上げて損の無い美しさで、彼女はあれに見蕩れていたのだろう、と納得して
『――みた?』
視線を降ろしたところで彼女はいつの間にか吾の居る方へ顔をむけていた。
吾は彼女の視線に気がつかなかったその数秒に慄き、ぎくりと肩を揺らした。
この学校には個性的な生徒は数多くあれど、また吾の眼前の彼女もとみに個性的な外見を持っていた。
結い上げられた黒髪は、何故か一房のみ夕日を反射して赤く輝く。
前髪はそこだけ伸ばしてあるのか整った顔の右側を大分隠し、残る左の、
女性にしてはややきつめの眼差しが弧を描くように細まって此方を見ている。
『あれ、見てたんじゃないの、センセ…』
『え……』
『え、じゃないよセンセ。しっかりしなよ、分からないならさ、別にいいから』
『その……すまない』
吾は反射的に謝罪していた。
彼女を見詰めてしまった。子供といえど初対面の相手を観察するなどという失礼を女性に働く教師がいるものか。
少し視線を逸らしてしまったから、失礼にあたらぬよう表情を引き締めて彼女を見遣る。
すると、彼女は少々オーバーに見える左目を丸くしたようだった。
『…何でいきなり謝ってんの?センセ』
確かに何をした…訳でない。ただ彼女につられて宙を見上げただけだ。蝶を見ただけだ。
そして彼女を。
吾は益々何やら居た堪れないような感覚に陥り、軽く失語した。
彼女の顔が――…整った、顔――…そう、彼女の顔は、整っていたのが、いけないのだろうか。
人の顔に平均値や上下などの価値を決めて順位などつけるべきものではない、特に教師は。
しかしこのときだけは夕闇が…夕闇が彼女を縁取っていたから、だからそう思ったのかもしれない。
校舎の中にはほとんど気配というものがなくなって、笑う見知らぬ彼女が在って、だから吾は柄にもなく緊張など
蝶がひらりと吾の前を横切った。
―――もしや蝶を見上げた時に間抜けな顔を晒しただろうか。
―――それよりもまずこの沈黙をどうにかするのが先ではないのか、草狩。
―――しかしこの女生徒は級友に明日にでも吾のこの失態を語るのだろうか。
吾が数秒の間に自問自答している内面なぞ彼女は知らないし知れないだろうが、ふいに空気を切り替えるように質問を投げてきた。
『センセ、確か、3年のほう教えてる人だよね』
『う、うむ……草狩、という』
『…何で生徒相手に噛んでんのさ…授業でもいつもそんななの?』
駄目じゃん。
軽く突き放す言葉を与えながらも彼女は随分と柔らかく笑んだ。
蝶が今度は彼女の目の前をゆるゆると横切っていく。
吾は只、困惑したような表情を彼女に向けてしまっていたに違いない。
景色に夕闇が満ちてくる。
辺りが暗くなっていけばいくほどこの空間が作り出す特殊な雰囲気に呑まれてしまっているようで。
『あ、あたしそろそろ行かなきゃ。救護団のひとたち、そろそろ出てくる筈だから』
今日こそ”キョウスケさま”に合うの、と、彼女は空を見上げながら云った。
救護団―――、という単語と、キョウスケ、という人名と思しきものを脳内にて点で結ぶ。
救護団の総番は湯山という名の生徒がこの学校では任についており、確か彼の下の名前が――…狂介、だったな、と考えていた。
彼を待ってこの時刻まで残っていたのか、いじらしい思春期の少女の行動と―――少し苦笑を刻みかけた吾の目に見えたものは、
はにかむように彼女が笑うところだった。
先ほどは空気に似合った艶さえある薄い笑みを浮かべていたというのに、一瞬の時を以って彼女が表情を変えた。
歳相応の、愛らしい普通の少女の笑みに、吾は再度たじろいだ。
『じゃあね、草狩センセ』
彼女は颯爽と踵を返す。校内にチャイムが鳴った。最終下校時刻を告げる鐘だ。
『待っ――――…』
何故吾は彼女を呼び止めようとしているのだろう。
鐘が鳴り響く。遠ざかる彼女の姿をさえぎるように蝶が吾の目の前をひらりと飛ぶ。
教材を腕に抱えながら吾は廊下を移動して反対側の棟に向かった。
最初は大股に歩き、次第に小走りになり、やがて走り、しまいには奔走した。
何故、追いかけているのだ。
何の用事もないだろう。
第一、会ってどうするというのだ。
今日初めて出会った女生徒で名前も知らない。
しかし、何故か、彼女に、吾はあの、
三年前に味わった縁の底に見たあの感覚を
―――ミツヒコ、普通ジャナイコトッテ、イケナイコトナノ
蝶は標本にされるために生まれて来た訳ではない。
美しいと褒め称えられるためにある訳ではない。
生き抜き、子孫をなすためにある。
魅せようとしてるわけではない、勝手に人間が魅せられているだけだ。
※
鐘が鳴り終わる頃、吾は渡り廊下から校庭を、白い髪の背の高い少年と、
それに寄り添うようにして歩く少女の姿を息を切らせながら見下ろしていた。
あまりに二人は遠くを歩いていたから表情などは読めない。
吾は暫く彼らが校門から出て行くまでを見下ろしていた。
いつまでそうしていたかは覚えていない、随分長く立ち尽くした。
蝶が、すっかり暗くなった宙を飛んでいた。
※
あとがき
草狩の性格と口調がコレなのでなんもしてないのに悪い事してる気分で一杯で