〜 虹色の中で 〜




「雲行きが怪しくなってきましたね。」
 ここはサランの町の礼拝堂。その窓から、灰色の厚い雲がたれこめた空を見て、クリフトは
言った。
「ここのところ、雨が降りませんでしたから。植物達にとっては恵みの雨になるでしょうね。」
 そう穏やかな口調で言ったのは、サランの町のレニエ神父。幼い頃からこの教会で育って
きたクリフトにとっては、父とも師とも言える人だ。
「クリフト、用事が済んだのなら早くお城に戻ったほうがいいでしょう。王様やアリーナ姫様が
あなたの帰りを待っているでしょうし、雨が降ってきてしまったら、その中を帰るのは大変で
すから。」
「そうですね。」
 今日、クリフトは王からの手紙を神父に渡すためにここに来た。王妃が亡くなって今年でち
ょうど10年になるので、追悼の儀式を行うという旨を伝える手紙のようだった。
 久しぶりのサランの教会が懐かしくて、クリフトはつい長居をしてしまったのだが、レニエ神
父の言うとおり、早く城に戻ったほうがいいと思った。
 礼拝堂の扉のところまでレニエ神父は見送りに来てくれた。クリフトは暗い空を見やると、
ずっと向こうのほうを指差して言った。
「あ、あちらのほうは明るいですね。これなら、雨が降ってもすぐに晴れるでしょう。」
 レニエ神父は彼の言葉ににっこりしながら頷くと、早くお行きなさい、と促した。

 城に戻ったクリフトは、王と、自分がお世話をしているアリーナ姫のもとに、ただ今戻ったこ
とを伝えるために赴いた。王に挨拶をし、アリーナの部屋へと向かう。
 ドアの前に立ち、手の甲で軽くノックをしてから、クリフトは言った。
「姫様、クリフトです。ただ今サランの町より戻りました。」
 だが、返事はない。クリフトは「やれやれ、またか」とため息をついて、メイドを呼んで、アリ
ーナの部屋のドアを開けさせた。
「やっぱり。」
 ドアを入って右側の壁には、大きな穴があけられていた。穴の向こうでは、雨が降り始め
ていた。

          * * * * * * * * * * * * * * *

 その頃、アリーナはサントハイム城裏の森の中にいた。
「あ、雨降ってきちゃった……。」
 頬をかすめる雨の雫に気づき、アリーナはつぶやいた。身を包んだ彼女の黄色の衣服が、
だんだんとその色を濃くしていく。
 すると突然。
「きゃっ!」
 稲妻が、天を裂くかのような閃光を奔らせた。その直後、地を揺るがすような大きな音が、
辺りに響く。
 正直、今まで雷なんて怖くないと思っていたアリーナだったが、今回は違っていた。雷の
音は、いつもは室内で聞くものだった。でも今は外にいるのだ。いつ自分に雷が落ちてきて
もおかしくない。はじめて、アリーナは雷に対して恐怖を感じた。
「どうしよう……」
 ここは城の敷地内だが、この雨と雷の中を走って城に戻るのは怖すぎた。とりあえず大き
な木の陰に隠れて様子を見よう。アリーナはそう思って、幹のどっしりとした木の下にしゃが
みこんだ。
 地を激しく打ち付ける雨音と、時折それに重なる雷鳴。濡れた体は、だんだんと体温を奪
われていき、彼女に寒気を感じさせた。今、広い森の中に、おそらくは自分一人しかいない
だろうということが、アリーナの恐怖感をいっそう募らせていた。
(怖い…)
 アリーナは目をぎゅっとつぶり、両耳を手でふさいだ。耳をふさいでも、まわりを取り巻く音
たちは、彼女の体の芯にまで響いていた。

 どれくらい経っただろう。ふいに、誰かの気配を感じた。
 目を開けると、同じ目線上に、息を切らして頬を上気させたクリフトがいた。
「ク、クリフト?」
「よかった…」
 降りしきる雨の中、森の中を駆けずり回って彼女を探していたのだろう。彼の全身はずぶ
ぬれだった。
「大丈夫ですか?お怪我は?」
 彼の額にはりついた髪とあごから、雫がとめどなく滴り落ちていた。それは、彼がどれくら
い長い間、彼女を捜すために雨の中にいたのかということをあらわしていた。アリーナが首を
振ると、
「そうですか、よかった。お寒くはありませんか?私の上着で大変失礼なのですが、これ
を。」
と言って、神官服のコートで彼女の体を覆った。
 ふわりと鼻をかすめるクリフトの匂いに、アリーナは思わずどきっとする。その香りは、懐か
しさと安らぎを感じさせたが、それだけではないような気がして。
「あ…りがと。」
 小さくつぶやき、うつむく。クリフトは、彼女がうつむいた理由は、反省しているからだろうと
思った。
「そんなふうにうつむかないでください。とにかく無事でよかった、それだけです。」
 彼女の顔を覗き込むように言ったが、アリーナは目をあわせようとはしなかった。クリフトは
苦笑いし、小降りになってきた雨を見つめた。
「小降りになってきましたね。このぐらいなら城に帰れるでしょう。大丈夫ですか?立てます
か?」
 クリフトはおもむろに立ち上がり、アリーナに手を差し伸べた。その手は大きくて、少し骨ば
っていて。彼の手にすがりながら、クリフトの手ってこんなだったっけ、とアリーナは思う。そう
いえば手だけじゃない。いつからか、クリフトの背中が広くなって、声も変わって。小さな頃と
は、何かが違う。
「それにしても、よくわかったわね。わたしがここにいるって。」
 照れ隠しのつもりか、アリーナは早口で言った。相変わらず、クリフトとは視線を合わせよ
うとしない。
「だてに姫様のお付を10年もやってません。」
 クリフトは冗談めかして言い、笑う。アリーナはぷっとむくれると、そっぽを向いた。
「あ」
 そのアリーナが、小さく声を漏らした。いつしかやんだ雨の後、ゆっくりと空から払いのけら
れていく雲の隙間から、虹が見えたのだ。
「クリフト!見て、虹よ!」
 彼の神官服の裾をひっぱり、アリーナはその方向を指し示した。先ほどよりも、大きくはっ
きりと空に架かる七色の橋が見えた。
「きれいですね。」
 クリフトが微笑みながらアリーナに言った。射してきた日差しに、彼の群青色の髪についた
水滴が反射し、きらきらと輝いている。
「うん。きれいね。」
 彼女がそう返答したのは、彼と虹のどちらを見ていたからなのか。
「この虹が消えるまで、見ていたいな。いいでしょ?」
 小首を傾げてお願いするアリーナに、クリフトは思わず微笑んで頷いてしまった。アリーナ
も嬉しそうに笑うと、空に視線を投げかける。

 空は、虹色に染まっていた。