
| 日本の南に連なる南西諸島。その中心をなす琉球諸島には沖縄本島を中心に宮古・八重山諸島など大小200余の島々がある。南島に関しては、古の時代から多くの記録が残されている。主な文献資料には、中国の正史「隋書」にみえる「琉求国」の記載、国内資料としては AC616年(推古24)の夜久人3人の来航の記録がある。また8世紀以降は遣唐使船の南路航行に伴う中継地として開発整備され、南島の重要性は一段と高まった。太宰府出土の「奄美嶋」木簡などに、当時の実態を知ることができる。 | また正倉院伝世の各種器物にも色濃く窺うことができる。考古資料としてひときわ注目されるのは、弥生時代を中心として南海産の貝を使用した装身具の存在である。九州・本州の各地をはじめ、最北端の北海道・伊達市有珠10遺跡に至るまで分布しており、南海の産物に対する古代人の関心の強さをまざまざと窺うことができる。日本民俗学の泰斗柳田國男は、稲と子安貝の伝播と分布から、日本文化の淵源を探求し続けた。それを端的に示すものが氏の教示にヒントを得て作られた島崎藤村の詩歌である。 |

| 愛知県最南端の伊良湖岬の浜辺に流れ着いた椰子のみを見て、柳田國男は日本文化の淵源に思いを馳せ、その探求に努め、「日本民俗学」の祖として偉大な足跡を遺した。四方を海に囲まれた島国日本には、古来、東西南北の各方面から新しい文化の伝播が見られた。日本は、これを受容し消化して、独自の日本文化を形成発展させてきた。 | その中の祖源的な要素の一つである南方からの文化刺激として、当然のことながら、窓口として、沖縄などの南島地域の文化が考えられる。このように考えることによって、日本文化の祖源形態のひとつをより的確に辿ることができよう。すなわち沖縄の歴史と文化を十分に理解することは、とりも直さず日本文化の本質にせまることである。 |
| 明治二十四年、余は、余が学友にて暫く琉球の師範学校に教師たりし人より、彼の地には、五十巻ばかりの琉球語をもって記されたる文書あり、而かも、今は如何なることを記載せるものなるかをだに、詳にする者なしということを聞きたり。爾後、其の事念頭を去らざりしに、二十六年に至りて、余も又暫く琉球に居住する身となりぬ。到着するや、直に彼の五十巻ばかりの文書のことを問い試みしかども、固より、其の名も知らず、有無さへ実は確ならざる程の、極めて空漠なる問なりしが故に、一年余すぎての後も、猶聞き出すことなかりき。二十七年に至り、偶々小橋川朝昇といふ人の編纂せし琉球大歌集を見しに、其の凡例に、 一、神歌ハ、オモロナリ、遠キ神代ノ昔ハ、コレヲ以テ、天地ヲ動シ、鬼神ヲ泣シムトカヤ、然ルニ、末ノ代ニ至テハ、適職官ト雖モ往古綴リオキシ成句ヲ唱フルノミニテ、其ノ意趣ハ何物タルコトヲ知ラザルゾ嘆カシ、セメテ今伝ルモノサヘ失ハズシテ、古ノ道ニ心ヲ尽サバ、好古ノ君子ト云フベシ。 とあるを見、初めて、琉球にオモロというものあることを知れり。然れども、本文神歌と題せる下には、唯だ余白をおきたるのみにて、其の一をだに記さざれば残りおほきことに思いたりしに、後、沖縄県庁にて編輯せし琉球資料を閲して、オモロ双紙二十二冊を得たり。五十巻ばかりの文書とは、即ち、之を言ひしなりけりと、是よりは其のオモロ御さうしの研究に着手せり、 |
| 沖縄の古代文化を理解するには、難解で解説書なしでは理解できないといわれている沖縄最古の歌謡集「おもろさうし」を解読し、沖縄の古代人の生活に思いをはせることが最適の方法であろうと私は思った。この歌謡の中には沖縄の古代の人びとの生活のすべてが込められている。冒頭に掲げた伊波普猷氏は、「おもろ研究の父」とも呼ばれ、おもろ研究に初めて体系的に取組んだ偉大な功績者である。私の沖縄古代文化研究は、昭和50年8月に浦添城跡 | 公園で記念碑を発見した際の、 伊波普猷氏とは一体何者なのだろうかという疑問から出発した。その後、比嘉春潮氏の著作「新稿・沖縄の歴史」を読むうちに、難解な「おもろさうし」の解説書の読破に挑戦しようと思い立ち、外間守善氏の著作を中心に手当たり次第に関連資料を読み漁った。以下のページは、岩波書店、日本思想体系「おもろさうし」掲載の解説、外間守善氏の「おもろ概説」及び西郷信綱氏の「オモロの世界」の内容を筆写したものである。 |
