■刃の亀裂点/もしくは新たなる出会いに際しての祝辞■
――限界が近い。
木漏れ日を浴びて走りながら、男はそれを嫌と言うほど感じている。
足がもつれる。身体が前に出ない。湿度と高温をともなった空気を無理矢理呼吸するたび、肺に灼けつくような痛みが走る。
体中に、疲労が蓄積していた。
この数日間、まともな休息をとっていない。
眠ることはおろか、ひととき体を休めることすら満足に出来ていないのだ。もっとも影に身をひそめて、押しつぶされそうな緊張を全身に感じながら数十分ほどまどろんでいるのが常だった今までの日々を、果たして「まともな休息」と形容できるのかどうかはわからないが――。
――もうすこしで、抜けられるというのに――。
もうどれくらい経ったのか、覚えていない。
「それ」が始まったのが、どれくらい前からだったのか。
「それ」が起きるまで横にいたはずの人間の顔も、もうはっきり思い出せない。とても大切な人だったという、それだけはしっかりと覚えているというのに。
静かだった夜の街の、穏やかな空気も覚えていない。夜空を見上げながら、その誰かに囁いた言葉も忘れてしまった。とても大事な言葉だったのに。
仲間と呼べる者も、いた――はずだ。顔も名前も思い出せないが。
つい、この間のことのはずなのに。
すべて、こぼれてしまった。
自分の意識の淵から、澱み溢れてくる別なものに押し上げられて。
不可解ないくつもの事件が重なったものを、男は「それ」とひとまとめに呼んでいた。
「それ」がもたらしたものは、いくつもある。
突然暴れ始めた、原住生物たち。
生態系の変質。
おぼろに浮かんでは消える白い霧。
徐々に大きく、頻度を増していく地震。
地下坑道で起きた、自動作業機械――統制システム『ボルオプト』を含めた――の故障。
何度も派遣され、そして永久に還ってこないいくつもの調査隊。
移住民たちの間にわずかづつ生じ始める、奇妙な齟齬。
突然失われていく正気。
消えていく人々。
「声」。
一件繋がりのないように見えるそれらの事柄は、しかしまったく同時期に起き始めたものだった。
ひとつふたつなら偶然で片づけられる。
だがそれを偶然と呼ぶものは、もはや移住民にはひとりもいまい。
――俺以外にひとりでも、そんな人間が生き残っていればの話だが。
ずきり、と胸が痛む。
幻痛なのか、それとも身体の上げている悲鳴なのか。
それも判別できないほどに男は疲労している。身体も、精神も。
もうそれに耐えられないと、自分の肉体はずっと前から告げてきていた。このままでは目的を果たす前に、間違いなく自分は倒れてしまうだろう、と。
走りながら、かぶりを振った。
――最後の生き残りと別れてから、もうどれくらい経っただろう?
今までのことを思い出そうと、こんな時だというのに必死になっている。
いや、こんな時だからなのかもしれない。今精神をつなぎ止めていなくては、すぐに男の足は止まってしまうに違いなかった。
すなわち、もう動けなくなる。ここに至る途中で原住生物たちの群れの中に消えていった、自分のつかの間の相棒のように。
――そうだ、あれは一昨日の――。
あの日、自分はひとりになった。丸二日一睡もせずに、ひたすら森を駆け抜けた。
だが最後の相棒の顔も、男はもう思い出してやることができない。
男の記憶は、もう数日ほどの過去のことさえも曖昧になってきている。正常な思考ができなくなっているのが、自分でも判る。
繰り返される戦いと、それがもたらす緊張と、限界をとうに超えつつある肉体の疲労と。
そして、「声」。
原住生物たちに追い回されて、森の中でじっと息をひそめていたのが、昨日。
命からがら都市を抜けて来たのが、一昨日の朝。
街の中、正気を失った人々から逃げ回ったのが……逃げ回り続けたのが。
頭の中に響く「声」に、耐えきれなくなったのが。
霧から遠ざかるため、セントラルドームのタワーに登ったのが。
『パイオニア2』からの通信が届いていることに気付いたのが。
気が狂いそうな焦燥と、混乱する記憶。
『……また会えるの。きっと会えるの』
大切な。
『ずっと待ってるの。ずっと、ここで待ってるから』
――最後に、あいつの声を聞いたのが――。
思いだしかけた記憶に、よたよたと歩調が鈍る。
どっと吹き出してきた疲労に上体がよろめいたその時、すぐ背後から咆哮が上がった。
「……しまっ……!」
思わず声が出る。一瞬で意識が立ち戻る。
記憶の惑乱に朦朧としていたのは一瞬。しかし致命的な一瞬だった。
がつん、という音を耳元で聞いたのと同時に、とてつもない痛みが脳天に届いた。
「くぁ――あああああああッ!!」
茂みを蹴散らし、背後から男に跳びかかってきたのは、狼に似た原住生物だった。
その太く頑丈な牙が、男の肩口に深々と食い込んでいた。強靱な防護服があっさりと食い破られ、めきめきと肩の骨を砕いていく感覚と激痛に男は絶叫する。
体重をかけられ、前倒しになった。
背中からのしかかる形になった原住生物が、力任せに男の肩の肉を引きちぎって咀嚼する。もはやうめき声すら上げられない痛みが男を襲う。
無意識に腰をまさぐったが、武器はとうの昔になくなっていたことを思い出させただけだった。
――武器さえあれば。
自分自身の考えを滑稽に思う。
もうこんな状態になっては、武器のひとつふたつがあっても助からない。
そして予想がついた。次にこの獣が牙を立ててくるのは、自分の首筋だ。
助からない。諦観にも似た感情が頭をよぎる。
しかしその一方で、強烈な生の欲求も渦巻いていた。
死にたくない。
――死にたくない。死ねば、もう、あいつと、あいつを――。
断片的な思考が、浮かんでは消える。自分が生きたいという欲求が、生きていたいと願う、その理由が。
滑稽だ。自分は戦士のはずだったのに。
身命を賭して、戦うことが生業だったのに。
いつか訪れる死をも、覚悟していたはずなのに。
身体は、いまだのしかかった獣を跳ね飛ばそうともがいている。
武器もなくなり、余力も尽きかけて、それでもまだ生きようとしている。
何故生きようとするのかと言えば――。
『ずっと待ってるの。ずっと、ここで待ってるから』
自分を見上げる瞳。
恐怖にわなないた唇から、しかししっかりと放たれたその言葉。結んだ約束。
自分を――信じ切った。
「……が、あっ……!!」
雄叫びを上げる。無事な手を地面につく。身体を無理矢理にひねる。
三百キロを超す獣をはねのけ、男の身体が反転した。
わずかにとまどったような素振りを見せた獣が、吠え声とともに跳びかかってくる。
頭を噛み砕かんと開かれた顎に、男はためらわず無事な手を突っ込んだ。
がちりと噛み合う両顎。新たな激痛が走る。骨が砕けなかったのは奇跡のようなものだ。
男は自分よりも肉の総量で勝る獣と、噛みつかれた腕を中心にしてぎりぎりと押し合った。
「…………し、」
砕けんばかりにかみ合わせた歯の隙間から、呻くように言葉を紡ぐ。
「…………しぬ、もの、か…………っ」
悲鳴を上げる全身の筋肉を意志の力でねじ伏せ、
「…………俺、は……っ……」
獣の、赤く輝く目を見据え、
「ぜ……たい…………にっ………」
獣を押し返そうと、ありたけ以上の力を。
獣の喉の奥から、ごう、と唸りが漏れた。獲物の突然の抵抗に、明らかに戸惑っている様子だった。
もっとも男には、そんな獣の変化に気付かない。
真っ白になった頭の中で、折れそうな腕にさらに力を。
均衡が崩れる――。
光を見た、気がした。
きしっ、となにかが結晶するような音が耳に入ってきたのは一瞬後のことだった。
ふと加えられていた力が消える。ぐったりとなった獣の身体が、糸が切れたように横倒しになる。
外骨格のように鎧われた獣の身体のあちこちから、細い煙があがっている。
絶命しているのは明らかだった。どっと全身から力が抜けた。
気絶しそうになる意識をつなぎとめて、それでも起きあがることが出来ずに荒い呼吸を繰り返した。
「大丈夫?」
地面に寝転がったままの男に、静かに声がかけられる。まだ幼い中性的な声にもかかわらず、不相応に抑揚が乏しい。
近寄ってくる足音はすぐに止んで、ひょいと上からのぞき込まれる。
「……ハンターじゃ、ないんだね。民間人……でもないか」
白い服を着こんだ、少年だった。
おそらくは防護服なのだろうその周辺に、逆光を通してかすかに光子フレームのスペクトル反射がきらめいている。見るものによっては神秘的な光景なのかもしれないが。
「ここは危ないよ。レベルCではあるけど、掃討が完全には済んでないから」
少年の手には、光子結晶素材の巨大な大鎌が握られていた。
軍部でも滅多に見られることのない重装光子兵器――『ソウルイーター』。そして身にまとっている光子フレーム。
ぼんやりとした思考のなかで、男は認識した。
原住生物を殺したのは――自分を助けたのは、この少年だと。
「…………」
じっと自分を見下ろす少年と、目を合わせる。
いつの間にか腕と肩の痛みは消えていたが、それには男は気付かなかった。
ただ、安堵した。精神と肉体が、弛緩していくのがわかった。
ここで意識を失ってはいけない、と思いつつ、深みに呑み込まれていくそれを止めようがない。
「……しばらく、寝ていいよ。……ちょっとだけね」
まるで心を読んだかのような、少年の言葉。
反射的に、「待ってくれ」と口を開きかけたが――。
声は、出なかった。かすかな喘鳴が漏れただけだった。
「話とか言いたいこととかあるんだろうけど。……その後で、ちゃんと聞いてあげるから」
少年は、男の目を見ていた。
あまり感情を読みとれない蒼い瞳が、不思議と誰かの面影に似ている気がして。
男の目の、焦点がぼやけていく。
声は出なかった。だから仕方なく、口だけを動かした。
「済まない」と。
少年の顔が、初めてかすかに笑みを作った。
「いいよ。たぶん貴方には、それくらいの権利はあるんじゃないかな」
その言葉は、もう男には聞こえなかった。
男の意識は、眠りの中に落ちていく。
ついさっき「危険」だと言われた場所のはずだったが、それも気にならなかった。
ただ、「済まない」とは思った。
誰に対してか、自覚のないままに。
未完。