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長宗我部氏も 勢力拡大
本山氏が、勢力を拡大している頃、長宗我部国親は、天文5年より長岡郡野田方面に進出し、同16年には一条氏配下の天竺氏を倒して、長岡郡一帯を征圧した。
ついで、天文18年には、本山氏らと結んで父兼序を討った香美郡の山田氏を攻め滅ぼした。
さらに、永禄元年(1558)には、香宗我部氏に三男親秦を入れ、香美郡南部を手中にした。
こうして、長宗我部氏は、東は安芸氏と、西は本山氏と接するまでの勢力となった。
長宗我部氏と 本山氏 激突
弘治2年(1556)、国親は、本山方の秦泉寺を攻撃し、本山氏との抗争が始まる。
永禄3年になると、長宗我部氏の進軍が始まる。本山氏に加担する小豪族や本山方の諸城は、次々と長宗我部国親に征圧されていった。
その間、本山茂辰は、永禄3年(1560)、国親の輸送船を襲撃して、積荷を奪って報復した。この事件によって、長宗我部氏と本山氏の抗争は激化する。そして、長宗我部勢と本山勢は、長浜表の戸の本で激突した。
この戦いは、国親の嫡男=元親の22歳の初陣だった。元親の大活躍によって、長宗我部軍は勝利。本山勢は、浦戸城へと敗走した。
国親は、浦戸城を攻撃して本山勢を圧迫した。ところが、その陣中に、国親は、急病になって兵を引き上げ、岡豊に帰城した。まもなく、国親は病死した。
国親の跡を継いだ元親は、本山氏をを徐々に圧迫し、永禄五年、本山茂辰の拠る朝倉城に攻撃をかけた。この合戦における茂辰の嫡男=貞茂の奮戦もめざましく、互いに決定的な打撃を与えることはできなかった。
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