天の森総合サイト
History Land SP 1  歴史の国


22歳初陣の長宗我部元親 (若宮八幡宮の銅像)
戦国騒乱

土佐七守護の雄 元親



土佐を平定し 四国統一をめざした 長宗我部元親

 長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)は、天文8年(1539)、国親(くにちか)の長男として岡豊(おこう)に生まれた。

 国親は、土佐の戦国群雄が割拠する中、軍事・外交の手腕を発揮し、着実にその支配圏を広げていた。だが、永禄3年(1560)、土佐中央部の覇権をかけて本山氏と激突。その戦いの最中、突如病死した。直ちに、元親が家督を相続し、長宗我部家第21代当主となった。

 戦いを受け継いだ元親は、先代=国親の時代から争ってきた本山氏から朝倉城を奪い、本山氏を幸福させて、土佐中央部を手中に収めた。次いで、安芸氏・津野氏ら他の有力国人を相次いで滅ぼし、さらに、一條氏の領土を実質支配して、天正3年(1575)に土佐を平定した。
 その後、阿波国、讃岐国に侵出し、天正13年(1585)、遂に四国を統一した。 

長宗我部元親 / 晩年の姿

 高知市長浜の「若宮八幡宮」に、父=国親と共に、初陣した22歳の元親の銅像が建っている。
 また、第33番札所=雪渓寺に、元親と、その嫡男=信親(のぶちか)の墓がある。




土佐の 戦国前史

細川一門は、京に引き上げた

 土佐の守護は、幕府管領の細川京兆家が任ぜられ、土佐の豪族らを支配下に収めていた。

 当時、土佐で勢力をもっていたのは、安芸氏・長宗我部氏・大平氏の三家と思われる。(応仁の乱後、まもなく編纂された『見聞諸家紋』による。)
 これらの中でも、長宗我部兼序は、細川氏を後楯として、勢力を誇っていた。土佐の諸豪族は、兼序の勢力拡大に危機を募らせていた。

 やがて、細川氏内部で、内紛が起る。永正4年(1507)、幕府管領を兼ねる細川政元が、家臣によって暗殺され、これを機に、細川一門は、京に引き上げた。


土佐の 戦国騒乱が 始まる


土佐の 8強による戦国騒乱

 土佐の守護=細川氏がいなくなると、これまで細川氏の支配下にあった土豪たちが台頭し、土佐は戦国時代へと突入する。

 この頃、勢力をもっていたのは、「土佐の七守護」と称された次の七家だった(『長元物語』による)。
 このほか、上述の幡多荘の領主=一條氏の存在も見落とせない。

 土佐の「7+1強による戦国騒乱」が、ここに始まる。

 長岡郡 岡豊城主 長宗我部 氏
 安芸郡 安芸城主 安芸 氏
 香美郡 香宗城主 香宗我部 氏
 高岡郡 蓮池城主 大平 氏
 高岡郡 姫野々城主 津野 氏
 吾川郡 吉良城主 吉良 氏
 長岡郡 本山城主 本山 氏
---------------------------
 幡多郡 幡多荘領主 一條 氏
祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必滅の理をあらはす  (平家物語)  ・・・ 戦国の世は いつも哀しい ・・・



土佐中央部の雄となった 本山氏

本山氏の 勢力拡大

 長岡郡の本山養明(梅慶とする説もある)は、細川氏という後楯を失った長曽我部兼序を攻略する適機と考えて、大平・吉良の諸氏らと共に、反長宗我部連合を結成した。

 永正5年(1508)、総勢三千余の連合軍は、長宗我部氏の居城=岡豊城を攻めた。岡豊城は、大部隊の前に落城。兼序は自害して、長宗我部氏は没落する。

 一方、長宗我部兼序を討った本山氏は、土佐郡から吾川郡へと勢力を広げていった。


長宗我部氏の 復活

 岡豊城が落ちた時、兼序の遺児=千王(雄)丸は、家臣に守られて城を脱出し、幡多荘領主の一条氏を頼った。千王丸は、一条氏のもとで成長し、永正15年(1518)、一条房家の支援を得て岡豊城に復帰した。

 国親と名乗った千王丸は、本山茂宗の嫡子=茂辰に娘を嫁がせて、本山氏からの鉾先をかわしながら、その勢力挽回に努めた。やがて、長宗我部氏は、次第に国力を充実させ、侮れない存在に復活する。


本山氏の 全盛期

 本山氏は、長宗我部氏と姻戚関係になったが、それでも、本山茂宗は、大永年間(1521〜27)、新たに朝倉城を築いて本拠とし、備えを固めた。
 茂宗は、後年、梅慶(梅渓ともいう)と号した。この茂宗の代の時、本山氏は、朝倉城を拠点として、近隣の諸豪族を征圧し、土佐を南北に縦断する形で所領を拡大して全盛期を迎える。
 さらに、茂宗は、土佐湾に面した岬の浦戸に進出して、砦を築いた。

 一方、長宗我部国親も、浦戸湾を挟んだ対岸の地まで進出していて、本山氏と長宗我部氏の衝突は必至となった。



一条氏との抗争

 この頃、本山氏と結んでいた吾川郡の吉良氏が、一条氏に通じて、本山氏と対立するようになった。
 天文9年(1540)、本山茂宗は、吉良領に攻め込み、吉良駿河守宣直を討ち取り、吉良峰城に嫡男の茂辰を入れた。(以後、茂辰は、吉良氏を称したが、後に本山姓に復している。)

 天文11年、本山氏は、大高坂における一条氏との合戦を制して、高知市域の支配権を確立する。土豪らは、本山氏の支配下に続々と帰属する。

 続いて、茂宗は、一条房基の攻勢にさらされる高岡郡姫野々城主の津野基高を支援して、須崎で一条氏の軍と戦った。だが、撤兵を余儀なくされた。

 その後、津野基高は、本山氏らの支援も空しく、一条氏の軍門に下る。
 さらに、高岡郡蓮池城主の大平氏も、一条氏に配下に属した。



4強の せめぎ合い
一条氏・津野氏・大平氏・長宗我部氏

 津野氏は、藤原経高を始祖とする土佐高岡郡の豪族。
 伝えによると、津野氏は、梼原・津野山を開いて、天暦3年(949)、姫野々(ひめのの)城を築き、以後、中世を通じて、津野庄の地頭として発展した。

 戦国時代に入った天文12年(1543)、津野基高は、一条房基と戦った。翌天文13年、長岡郡の本山氏、高岡郡の大平氏の救援も及ばず降伏して、所領を安堵された。

 以後、一条氏の下で勢力の温存を図っていた。が、長宗我部氏が台頭してきたことにより、津野勝興は、長宗我部元親の三男=親忠を養子とした。

 津野氏は、支城として須崎城を築いていたが、文禄2年(1593)、親忠は、姫野々城から須崎城へ移った。
 だが、慶長4年(1599)、長宗我部元親によって香美郡岩村に幽閉され、翌5年、長宗我部盛親のために非業の死を遂げた。
 そして、姫野々城も、廃城となる。

 一条家は、大平氏に兵を向け、敗れた大平氏も一条家に降参して、その下にいた。その後、異心など起こしたために、一条家の討手に討たれて戦死。大平氏は、滅亡する(『土佐国編年事略』による)。


 こうして、一条氏は、高岡郡東部から吾川郡南部にまで進出してきた。


3強の一つとなった 本山氏

 そのような天文24年(1555)、本山梅慶が死去し、嫡男の茂辰が家督を継承した。
 弘治2年(1556)、茂辰は、吾川郡伊野に城番を置き、一条氏の進出を牽制した。翌弘治3年、一条氏配下の森山・木塚氏を配下に従え、さらに蓮池城の一条氏の守兵を追って蓮池城を占領した。

 茂辰の活躍によって、本山氏は、土佐中央部の広大な領域を支配下に納め、東の長宗我部氏、西の一条氏を圧する勢力に成長する。



長宗我部氏と本山氏 宿命の対決

長宗我部氏も 勢力拡大

 本山氏が、勢力を拡大している頃、長宗我部国親は、天文5年より長岡郡野田方面に進出し、同16年には一条氏配下の天竺氏を倒して、長岡郡一帯を征圧した。
 ついで、天文18年には、本山氏らと結んで父兼序を討った香美郡の山田氏を攻め滅ぼした。
 さらに、永禄元年(1558)には、香宗我部氏に三男親秦を入れ、香美郡南部を手中にした。

 こうして、長宗我部氏は、東は安芸氏と、西は本山氏と接するまでの勢力となった。


長宗我部氏と 本山氏 激突

 弘治2年(1556)、国親は、本山方の秦泉寺を攻撃し、本山氏との抗争が始まる。
 永禄3年になると、長宗我部氏の進軍が始まる。本山氏に加担する小豪族や本山方の諸城は、次々と長宗我部国親に征圧されていった。

 その間、本山茂辰は、永禄3年(1560)、国親の輸送船を襲撃して、積荷を奪って報復した。この事件によって、長宗我部氏と本山氏の抗争は激化する。そして、長宗我部勢と本山勢は、長浜表の戸の本で激突した。

 この戦いは、国親の嫡男=元親の22歳の初陣だった。元親の大活躍によって、長宗我部軍は勝利。本山勢は、浦戸城へと敗走した。

 国親は、浦戸城を攻撃して本山勢を圧迫した。ところが、その陣中に、国親は、急病になって兵を引き上げ、岡豊に帰城した。まもなく、国親は病死した。

 国親の跡を継いだ元親は、本山氏をを徐々に圧迫し、永禄五年、本山茂辰の拠る朝倉城に攻撃をかけた。この合戦における茂辰の嫡男=貞茂の奮戦もめざましく、互いに決定的な打撃を与えることはできなかった。



戦国の世は いつも哀しい

別格の公家大名 一條氏

一條教房の次男=房家

 1475年に一条兼良の子で関白の一条教房が、応仁の乱の混乱を避け、京都から所領であった土佐幡多荘(現在の四万十市)に下向したのに始まる。一條教房の次男=房家は、京都に戻らずに幡多荘の在地領主になって、京都さながらの街を築き上げ、官位も正二位まで昇進した。
 房家の時代に、土佐一条氏は、公家としての権威をもったまま、土佐に勢力をもつ公家大名として存在感を高めた。

一條房家の曾孫=兼定

 房家の死後、はや死にする当主が続いた。また、1549年に7歳で家を継いだ房家の曾孫=兼定は、治世の当初を除いて遊興にふけり、官位昇進も止まり、公家としての家格を著しく低下させた。

 このため、土佐土着の豪族で新興勢力の長宗我部氏が幡多に侵攻してきた時、一条氏の家臣は先を争って長宗我部元親の軍門に下った。そして、当主の兼定は、豊後国に追放された。
 これについては、豊後の戦国大名・大友氏らと組んで伊予に侵攻を繰り返すという、戦国大名化した土佐一条氏の評判が、摂関家である京一条家の権威を失墜させることに繋がったため、京一条家の当主=一条内基がこれをよしとせず、天正二年に京より下向して、兼定を隠居させ、内政に相続させたという説もある。
 1575年、兼定は、婚戚の大友宗麟の支援のもとに、土佐に復権を図って攻め込んだが、四万十川の戦いで長宗我部軍に敗れて所領を失った。この後、兼定は、伊予国宇和島の戸島に隠棲した。


昨日の敵は今日の友 主従・上下も定まらぬ戦国の世

一條兼定の子=内政

 兼定の隠居後、兼定の子=内政が家督を継いだ。
 内政は、京一条家の当主=内基により、天正3年に左近衛中将に、天正5年に左近衛中将に任官された。これによって、土佐一条家は、形式上は、長宗我部家を従えた在地公家として家格を回復して再び、昔日の権威を取り戻した。

 だが、内政は、一条家の党首就任と共に、長年拠点としていた領地の中村から切り離された上、庇護者=長宗我部家の膝元の大津に移り、長宗我部家の婿にさせられて、実質的には、元親の支配下に置かれた。
 この時から、内政は、居住地にちなんで「大津御所」といわれ、土佐の御所体制が成立した。

 天正8年、織田信長が、長宗我部家の立場を逆に利用して、四国に介入しようとした。このことから、内政は、長宗我部家の家臣=波川玄蕃の謀叛に加担したという疑惑をかけられ、天正9年、追放された。内政は、追放先の伊予で死去したという。

土佐一条家の終焉

 土佐一条家は、久礼田御所の一条政親が家督を継ぐ。戸次川合戦の後に摂津守に叙任するが、長宗我部家滅亡後の消息は不明。土佐一条家は、ここに、終焉を迎える。



本山氏と長宗我部氏 抗争終結

長宗我部氏 本山氏を吸収

 長宗我部元親は、一条氏と結んで、本山氏への攻勢を続けた。

 本山氏は、永禄7年(1565)、本山城を捨てて瓜生野に退いた。元親は、すかさず瓜生野を攻撃。本山勢は、これをよく撃退したが、その中で茂辰は死去し、貞茂が跡を継いだ。


本山氏没落の予兆 梅慶の身辺に怪異現象

 本山氏と長宗我部氏の抗争が熾烈を極めた頃、本山梅慶の身辺に怪異現象が起こるようになった。

 梅慶も気味悪くなり、永禄元年(1558)、奈良時代に行基が開基したと伝えられる円行寺で、僧侶を集めて大般若経を読み上げさせた。すると、寺院は全焼してしまった。(土佐の博物誌『皆山集』)

 「怪鼡(かいそ)忽来りて 壇上の燈油に己が尾を濡し、燈火を点して、天井に登りぬ、住持此怪異を見て 毀滅の時節到来せるなりとて、徒衆の撲滅を制止せられし故、仏閣僧坊日記文等悉く灰燼と成ぬ」

 この不吉な怪異が、本山氏の衰退につながり、永禄5年(1562)、長宗我部氏との戦いで朝倉城が落城し、長岡郡本山の地に退去していくことになったのだと伝えている。



 だが、貞茂は、長宗我部氏に敵しえないことを察して、降参を請うた。元親も、姉の子である貞茂の降伏を受け入れ、本山氏と長宗我部氏の長かった抗争は終わる。

 その後、貞茂は、元親から一字をもらって、親茂と改め、長宗我部氏一門と同様の待遇を受けた。



戦国の世に生きた7人の武士たちと1人の領主は ことごとく逝った


長宗我部氏の天国と地獄

長宗我部氏 没落への道

 本山氏を降した長宗我部元親は、吉良・安芸・津野の諸勢力を制圧し、遂に天正2年(1574)、国司=土佐一条家の所領であった幡多郡をも掌中に納めた。そして、翌天正3年(1575)年、安芸郡東部も併呑して、土佐一国を統一した。

 その後、元親は、阿波国、讃岐国に侵出し、天正13年(1585)、遂に四国を統一した。だが、豊臣秀吉の四国制圧軍に敗れて、土佐一国の藩主を安堵された。

 天正14年(1586)、秀吉の支配下に入った長宗我部氏ら四国勢は、九州の島津征伐に出陣した。
   豊後の戸次川の河原で、長宗我部元親の嫡男=信親は、討死した。信親の氏は、元親の今後を暗示していた。それは、長宗我部氏の断絶につながっていった。

本山氏も 嫡流断絶 

 豊後の戸次川の河原で、本山親茂もまた、長宗我部信親と共に、討死した。
 この親茂の死によって、本山氏の嫡流は断絶する。



長宗我部氏が7強を制して 四国の戦国騒乱は収束

 安芸郡 安芸 氏 長宗我部に責められ、国虎は自刃して滅亡。
 香美郡 香宗我部 氏 秀義は戦死。長宗我部氏と合体。
 高岡郡 大平 氏 一條氏に攻略され滅亡。
 高岡郡 津野 氏 長宗我部親忠を養子とし、これに合体。
 吾川郡 吉良 氏 本山氏に吉良城を奪取され滅亡。
 長岡郡 本山 氏 長宗我部氏傘下の親茂の死で、嫡流は断絶。
---------------------------
 幡多郡 一條 氏 長宗我部氏滅亡後、政親は消息不明で終焉。
祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必滅の理をあらはす  (平家物語)  ・・・ 戦国の世は いつも哀しい ・・・

NEXT

旅の紀行   資料篇   歴史の国   旅の宿
天駆花楽   海からの風   椿の森

利用素材; [ Fex World ]
Copyright (C) 2003-2006 Tennomori General Website All Rights Reserved.