中国

1. 在日華人黒社会 02.12

2. 04年台湾立法院選挙 05.01

3. 中華人民共和国誕生までの過程 05.03



1. 在日華人黒社会 02.12


 ピッキング盗、パチンコの細工、クレジットカード偽造、ショベルカーによるATM荒らし。日本国内での中国人による犯罪は多い。しかし、こういった目に見える犯罪は下っ端の仕業だ。在日華人黒社会(黒社会)の二大収入源は「蛇頭ビジネス」と「地下銀行の経営」だ。蛇頭ビジネスとは、中国本土から日本への密入国斡旋だが、黒社会の手数料は20〜35万元(300〜525万円)だ。密入国手段は以前のような改造漁船ではなく、黒社会の自前の船や偽造パスポートで悠々とやってくる。男性なら犯罪行為で、若い女性なら風俗産業ですぐに返済できる。

 次に、黒社会にとって最大の収入源である地下銀行とは、日本から中国に正規の送金でかかる15%の税金を、福建省などにある地下銀行と連係し、たった1%の手数料で行なっている不正銀行のことだ。日本に5万人以上の顧客を持つ黒社会地下銀行が10程度あり、合法滞在の中国人が経営する飲食店、企業が窓口となっている。地下銀行は犯罪組織や一部の日本企業の資金洗浄にも利用されている。

 このようにして、黒社会が組織化され力を持ってきたので、以前は抗争相手だった日本の暴力団が黒社会に接近している。ピッキング盗は、中国人が実行犯、暴力団組織が情報収集という役割分担で、6対4で利益を分ける。いまや黒社会の発展速度は暴力団を凌駕しそうな勢いだ。なぜなら、黒社会のほうが規律も道徳もなく、これ以上はやってはいけないという一線がないうえに、密入国中国人は足がつきにくいからだ。

   こうした黒社会の犯罪に日本の警察は全く無力だ。おとり捜査も盗聴も無しでは犯罪の証拠は掴めないし、いくら実行犯の下っ端を捕まえても、紳士的な取調べでは何も吐かせられない。黒社会のボスは日本全国に約30人、その下に蛇頭ビジネスなどを仕切る約2000人の組長クラスがいるが、警察は手出しできないのが現状だ。黒社会では日本の警察を“小児科”と言って馬鹿にしている。

 私は東京を中心とした黒社会の犯罪が高度化、組織化している現状に危機感を募らせている。暴力団対策法と並行する、『黒社会対策法』が必要ではないだろうか。



2. 04年台湾立法院選挙 05.01


 04年12月11日、台湾で立法院(議会)選挙が行われ、与党連合=緑色連合(台湾独立派が主力を占めており、民主進歩党(民進党)の党旗は「緑の島」の異名を持つ台湾島が緑色で描かれている)の民進党と台湾団結連盟(李登輝前総統の党)は議席を伸ばせず、野党連合=青色連合(国民党とそこから分裂してできた親民党と新党の連合体であるため、青色の国民党の党旗から)の国民党・親民党・新党が過半数を維持した。

 選挙前の予測では、与党の緑色連合が躍進して過半数を取るだろうと考えられていただけに、この選挙結果は民進党の陳水扁政権にとって大敗だ。台湾の人々の多くは、中国との統一には反対だが、同時に、中国とは別の国になる台湾独立の動きに対しても、中国からの武力攻撃を招きかねない危険な方向性であると考えている。民進党は台湾独立を方針として掲げていたが、95年と98年の立法院選挙で国民党に負けた後、国民に敬遠される台湾独立の方針を大きく掲げることをやめた。その表向きの理由は「台湾はもはや事実上独立しているので、改めて独立を希求する必要はない」というものだった。ところが今回、緑色連合は、台湾独立の方針を再び掲げて選挙戦にのぞんだ。選挙で勝ったら、台湾を中国とは別の存在であると定義した新憲法を作るための国民投票を実施するとか、海外にある公館や国有企業の名前に「中華」「中国」といった名称を使うことをやめて代わりに「台湾」という国号を使うと宣言した。これは、民進党がこれまでの敗北経験から学んだ「独立の方針を掲げると選挙に負ける」という教訓に反していた。その結果、政府は民進党、議会は国民党という、身動きのとれない状態が今後も続くことになった。

 では、なぜ民進党が過去の経験を無視した戦術をとったのだろうか。その理由の1つ目は台湾立法院の議席数にある。立法院はこれまで、野党3党の青色連合が過半数を占めていた。与党の緑色連合は、陳水扁が総統になって行政府を手中におさめながらも、議会の過半数を野党に握られているため、法案を作っても議会を通らず、やりたい政策がやれなかった。たとえば、陳水扁はアメリカに対して巨額の武器購入を約束し、中国の脅威に対抗するとともにアメリカの軍事産業を喜ばせ、台米関係を強固なものにすることを目指したが、武器購入決議案は、青色連合によって何回も否決され続けた。緑色連合がこの状態から抜け出すには、立法院選挙で勝って過半数を取る必要があった。したがって、今までの選挙戦術では駄目だ。そこで思い切った方向転換が必要=過去の反対=台湾独立の方針前面化になったのだ。

 2つ目の理由は、台湾人意識の見込み違いだ。台湾の人々の約80%は、16〜19世紀に福建省などから移住してきた農民の子孫、残りの約15%は国民党とともに大陸全土から台湾に移住してきた人々(外省人)で、これらの合計(人口の約98%)は漢民族であり、人種的、言語的に中国人と同じである(残りの約2%はもっと古い時代にフィリピンなどから移住してきたマレー・ポリネシア系の先住民)。だが、台湾は日清戦争で1895年に日本に割譲されて以来、1945〜49年に政権の主体が日本から国民党に切り替わった時代を経て現在に至るまで、中国大陸とは全く異なる歴史を経験している。その間に台湾人は中国人と異なる国民性を持つようになっている、という考え方が、最近の台湾人意識高揚の基盤となっている。この台湾人意識の高揚を追い風として、緑色連合に対する人気が高まり、陳水扁は強気の選挙戦略を展開した。だが、投票結果から考察すると、台湾人意識の高揚は、緑色連合に対する支持につながっていなかった。その理由はどうも、台湾の人々は台湾人意識を強めつつも、実際に台湾が中国からの独立宣言をすることには、中国による侵攻を招きかねず危険なので敬遠する、という意識があるようだ。理想的には台湾独立だが、現実的には現状維持であるという、理想と現実を区別して考える現実主義的な意識が台湾の人々の中にあり、そのため緑色連合の支持者のかなりの部分が台湾独立を声高に掲げすぎる陳水扁と李登輝のやり方を敬遠し、投票を棄権した。選挙の投票率は59%で、今年3月の総統選挙の80%という高さに比べるとかなり低い投票率となった(前回01年の立法院選挙の投票率は66%)。

 3つ目の理由は経済だ。台湾と中国の経済は、すでに分かちがたく結びついている。台湾の金持ちや中産階級の多くは、中国に進出する台湾企業などに対して投資を行っている。中国で働く台湾人も増えている。だから台湾人の多くは、中国の経済発展が続くことを願っている。

 4つ目の理由はアメリカだ。陳水扁や李登輝が台湾独立を前面に押し出さず、従来のように現状維持を掲げて選挙に臨んでいたら、緑色連合は議会の過半数を取っていたかもしれない。緑色連合がそのような戦略を採らなかったことには、アメリカの台湾政策の変化が関係していると思われる。アメリカは最近、台湾に対して独立するなと圧力をかける傾向が強くなっている。1980年代後半から強まり続けている台湾の独立傾向に対し、アメリカは従来静観の姿勢をとってきたが、昨年あたりからしだいに独立傾向を阻止するようになった。上層部に親中国派(経済重視派)と反中国派(軍事重視派)の対立を抱えるアメリカの中国台湾に対する政策は、強硬策と寛容策の間で揺れてきた。クリントン政権時代の末期には、アメリカは親中国の方に傾いたが、01年にブッシュ政権になると台湾の防衛を全力で助けるとブッシュが発言し、02年春には台湾の国防大臣が初めてアメリカを公式訪問し、180億ドルの武器をアメリカから買うことになった。米軍は01年秋のアフガン戦争を機に中国の西にある中央アジア諸国にいくつも米軍基地を新設し、同時に中国の東にあるフィリピンには、100人程度しかいないイスラム過激派アブサヤフの掃討のためと称して数千人の米軍兵士が送り込まれた。アメリカは東西から中国包囲網を強化しているように見えた。だがその後、ブッシュ政権の対中政策は、03年春のイラク侵攻の前後から、敵視政策をやめて寛容政策へと転換し始めた。北朝鮮をめぐる6カ国協議は、中国に下請けするという名目で主導権がアメリカから中国に移り、北朝鮮の問題が解決されるとしたら、その後の朝鮮半島に最も影響を持つ大国はアメリカではなく中国になる方向性が強くなった。03年6月にフランスで開かれた先進国の首脳会議(G8)では、中国から胡錦涛(コ・キントウ)国家主席が招待され、中国が先進国の仲間入りする日がいずれ来ることを思わせた。胡錦涛と会談したブッシュは、台湾の独立を許さない態度を明らかにした。ドルの下落傾向が止まらないため、中国人民元を切り上げさせようとする圧力も、欧米日から中国に対して強まったが、これも長期的に見ると、アメリカが弱くなる分、中国が強くなることを意味している。こうした流れの中で、今年11月にはパウエル国務長官が北京で「台中はいずれ統一すべきだ」「台湾は主権国家ではない」と発言し、台湾の選挙が終わった後の12月20日には、アーミテージ国務副長官が「中国が台湾を侵攻しても、アメリカは台湾に派兵する義務はない」「台湾の存在は、米中関係にとって地雷原になりつつある」と発言した。アメリカの台湾関係法では、アメリカが台湾に武器を売ることを定めているだけで、派兵については書いておらず、アーミテージ発言は従来のアメリカの立場を大きく逸脱するものではない。だが、法律的ではなく政治的には、アメリカが中国に対して寛容になり、台湾に対して厳しくなっていることを示す象徴的な発言となっている。

 アメリカ以外にも、オーストラリアやシンガポールといったアメリカの同盟国が最近、台湾を見捨てて中国に接近する態度をとっている。最近、南太平洋のバヌアツ共和国で、台湾から資金援助を約束されたボオール首相と、中国から資金援助を受けてきた他の政治家たちが対立する事件があったが、このときオーストラリアは中国側を支援してバヌアツに内政干渉した。その結果、ボオール首相は辞任し、台湾との関係は断絶され、中国から追加の資金援助が入って終わっている。今年8月に台湾を訪問したシンガポールの新首相も、中国から非難された結果、中国にすり寄って台湾を批判する言動に転じた。東南アジア諸国は全体として親中国の方向に傾いている。対米従属の国是に基づき、反中国意識が高まる日本の言論界では「アメリカは、オーストラリア、東南アジア、台湾、日本とつながる中国包囲網を強化していくだろう」という分析をよく聞くが、オーストラリアやシンガポールの態度を見ると、その見方は間違いであり、希望的観測であると感じられる。アメリカのブッシュ大統領は、01〜02年には中国を敵視して包囲網を強化するように見えたが、その後は方向を逆転し、親中国に傾いている。このようにアメリカが中国に寛容に、台湾に厳しく接するようになるとともに、中国が外交的、経済的に勃興している現状では、台湾独立を希求する陳水扁・李登輝らの緑色連合は、なるべく早く台湾を独立状態に持って行かねばならないと考えて当然だ。そのための作戦の一つが、今回の選挙戦で緑色連合が掲げた新憲法の制定だった。国民党が全中国を統治していた時代に作られた中華民国の憲法を廃止し、新たに台湾の憲法を作ることは、台湾側が法律面で「一つの中国」を葬り去ることを意味しており、新憲法が制定されれば、中国が主張する「一つの中国」は建前としても現実に合わないものになり、他の国々が中国に「台湾との統一はあきらめた方が良いですよ」と言い出す可能性が増える。08年の北京オリンピックなどを経て、15年ぐらいになると、世界における中国の大国としての地位が確立し、それだけ台湾の独立は難しくなり、欧米諸国から台湾への「独立を捨てよ」という圧力も強くなると予想される。だから、緑色連合にとっては、憲法改定を急がねばならない。「新憲法の制定」を争点にした今回に選挙で緑色連合が勝って議会の過半数を取っていたら、陳水扁や李登輝は「台湾の国民は今回の選挙を通じて新憲法の制定に賛成した」と言えることになり、台湾憲法の制定にはずみがつけられる。そう考えて、緑色連合は、無理をしても憲法問題を選挙の争点に選んだのだろう。だが、この作戦は成功しなかった。

 以上の4点(議席数・台湾人意識・経済・アメリカ)は台湾独立派にとって克服が難しい問題だろう。議席数と台湾人意識と経済は今後ますます中国の介入・存在が大きくなるだろうし、アメリカも上記に比例して中国よりになる可能性が大きいからだ。もちろん我が日本もアメリカと歩調を合わせざるを得ないだろう。非常に難しい命題だが、政治の世界は一寸先が闇だ。台湾独立派の人々の健闘をお祈りします。



3. 中華人民共和国誕生までの過程 05.03


 1894年、清の腐敗した政治に失望した孫文(ソンブン)は幼い頃から移住していたハワイで、革命団体の興中会(コウチュウカイ)を組織します。翌年、清王朝が日清戦争に敗れると、場所をハワイから広州(コウシュウ)に移して、清王朝打倒の企てを起こしました。孫文の目的は民主主義による共和制の国家建設でした。しかしこの時の孫文の企ては失敗します。そのために孫文はいったん日本に逃れました。その後、孫文は日本を出て、ハワイ、アメリカ本土、イギリスと渡り歩きました。

 1897年、ロンドンを出発した孫文は横浜へ戻ってきました。この後、孫文は日本を根拠地にして、革命運動を進めていきます。翌年、憲法を作って清王朝の政治を根本から変革しようとす運動、戊戌(ぼじゅつ)の政変が清王朝で起こました。しかしこの運動は失敗し、首謀者である康有為(コウユウイ)たちは日本に亡命します。しかし孫文と康は革命の手段の相違により協力しませんでした。

 このころ義和団の平定のために中国に兵を送り込んだロシアは、義和団平定後も兵を中国東北地方に留め、朝鮮半島を狙っていました。この中国東北地方とは、日本が日清戦争勝利で得た地でしたが、ロシアが主導する三国干渉により、日本が清に返還した地です。中国東北地方だけでなく朝鮮半島も狙うロシアと、朝鮮半島は譲れない日本は戦争になります。この戦争に日本が勝利すると、世界中の人たちが驚きました。特に驚いたのは中国人でした。そのために、日本を見習おうとする中国人がこぞって日本に留学しました。

 そして東京に集まった中国の革命家は団結しました。孫文の興中会を中心に、中国革命同盟会を結成しました。同盟会の総理には孫文が就任しました。このとき孫文が唱えた三民主義(民族、民権、民主)は、孫文の革命運動の柱となりました。

 一方、日本の勝利に驚いた清王朝の西太后(セイタイゴウ)は、立憲政治によって富国強兵を成功させた日本を真似て、1908年に憲法大綱を発表して9年後に国会を開くことを国民に約束しました。しかし、その直後に光猪帝(コウチョテイ)と西太后があいついで死にました。そのため光猪帝の弟の醇親王(ジュンシンノウ)の子、溥儀(フギ)が即位しました。これが、清王朝最後の皇帝、宣統帝(セントウテイ)です。このとき醇親王は2歳の皇帝にかわって政治を行いました。

 圧制に不満が募っていた中国では、西太后の死を機会に革命勢力の力が強まります。1911年10月10日、四川(シセン)の武昌(ブショウ)で起こった革命を機に、たちまち全国に広がりました。二ヶ月の間に、全国22省のうちの14省が清王朝からの独立を宣言しました。これを辛亥(シンガイ)革命(第一革命)といいます。怒った清王朝は、最大の軍事力を誇る北洋新軍(長江北方の新軍)の袁世凱(エンセイガイ)を総理大臣に任命し、革命軍討伐を要請しました。

 袁世凱の攻勢により革命軍は苦戦します。そこで革命軍は自軍の士気を上げるために、革命軍の指導者である孫文を呼び戻しました。この時、孫文は資金獲得のためにアメリカにいました。革命軍は南京に臨時政府を置き、孫文を臨時大総統に選びます。そして翌年、1912年1月1日、革命政府は国名を中華民国とし、アジア史上最初の共和政権を打ち立てました。

 しかし、ずる賢い袁世凱は孫文に電報を送ります。宣統帝を退位させるから、自分が孫文に代わって中華民国臨時大総統になると提案しました。孫文は共和制の実現を袁世凱に約束させて、臨時大総統の座を袁世凱に譲りました。袁世凱は宣統帝に圧力をかけ、2月12日に退位させました。しかし袁世凱は共和制を実現させる約束を破り、自分の勢力の強い北京に留まって、共和制を無視する政治を行いました。

 これに危機を感じた孫文は、中国革命同盟会をはじめとする革命組織をまとめて、国民党を結成しました。しかし袁世凱は国会を無視して、独裁政治を行い、国民党を弾圧しました。これに対して国民党員たちは、1913年7月、袁世凱討伐軍を起こしました。これを第二革命といいます。しかし袁世凱は、圧倒的な武力で国民党軍を蹴散らします。このため孫文は再び日本に亡命しました。そして10月、袁世凱は正式な大総統となりました。

 1914年、第一次世界大戦が勃発します。この戦争に連合国側として日本も参加し、山東省(サントウショウ)の青島(チンタオ)にあったドイツ軍の基地を攻撃し、膠州湾(コウシュウワン)を占領しました。さらに日本は欧州の混乱に乗じて、1915年1月、袁世凱に二十一か条の要求をつきつけます。袁世凱は4ヶ月拒否しましたが、ついに5月9日、これを認めました。袁世凱はある策略を考えていました。それは中国が弱い国だということを国民に知らしめ、強くするためには強い皇帝がいる。その皇帝に自分がなるというものでした。その年の12月、袁世凱は皇帝の位につきました。しかし、人々は即位に大反対し、雲南省(ウンナンショウ)や貴州省(キシュウショウ)などが次々に独立を宣言します。これを第三革命といいます。このため袁世凱は即位から80日あまりで皇帝の座を退きました。1916年6月、袁世凱は失望のあまりに倒れ、そのまま死にました。

 袁世凱が死んだあとも、軍閥たちが政権を握ろうと対立したので、中国の混乱は変わりませんでした。1918年、第一次世界大戦が終わり、パリのベルサイユ宮殿で講和会議が開かれました。この会議で、中国は日本の二十一か条の要求の取り消しや、山東省の返還を求めましたが、アメリカもフランスも中国の要求を認めませんでした。1919年5月4日、北京の天安門広場に北京大学の学生を中心とする三千人の学生が集まりました。学生たちは、二十一か条の要求廃棄を求め、国を滅ぼす軍閥打倒を叫びました。この運動は全国に広がりました。これを五・四運動(ゴシウンドウ)といいます。五・四運動の高まりに驚いた政府は、ベルサイユ条約を受け入れないと発表します。

 辛亥革命に失敗して1913年に日本に亡命した孫文は、翌年、東京で中華革命党を結成します。五・四運動の頃は上海で中華革命党を中国国民党と改め、革命運動に邁進していました。そのような情勢のなか、1921年7月、抗州(コウシュウ)の湖に浮かぶ小船の中で、新しい革命政党が誕生しました。これが中国共産党です。この中には、後に中華人民共和国の初代主席となった、若き日の毛沢東がいました。

 ロシア革命の成功によって1917年に成立したソビエト政権は、世界の革命運動を援助するために、コミンテルンという組織をモスクワで結成しました。中国共産党もコミンテルンの指導のもとで誕生しました。1924年1月、中国共産党は革命を成功させるため、コミンテルンの指導者マーリンの策略もあり、中国国民党と団結します。これを第一次国共合作といいます。しかし翌年、3月12日、中国革命の父、孫文が肝臓がんのために死にました。孫文は、まさか未来の中国が共産主義国家になるとは思いもよらなかったでしょう。

 孫文の意思を継いだ中国国民党の蒋介石は、1926年7月、広州を出発し、北伐を開始します。蒋介石率いる北伐軍の進撃は凄まじく、10月には武漢(ブカン)を占領し、広州にあった中国国民党政府をここに移し、国共合作による国民政府を成立させました。しかし資本家は共産党の考えを恐れていました。共産主義では資本=財産を持てないからです。そこで最大の支持者である資本家の意向を受けて、1927年4月12日、蒋介石は共産党員や労働者300人以上を殺しました。この事件を四・一ニ事件(ヨンイチニジケン、上海クーデター)といいます。

 蒋介石は南京に新政府を打ち立てて、共産党との分裂を宣言し、共産党に対する弾圧を強めます。劣勢だった共産党の毛沢東は、1927年10月、千人の同士を引き連れて、まだ国民党の力が及んでいない井崗山(セイコウザン)に入ります。井崗山を革命の本拠地とした毛沢東は、やがて周辺の農地で地主たちから土地を取り上げ、農民たちに分配していきました。このような地域を解放区といいます。翌年4月、共産党軍の朱徳(シュトク)将軍が一万人の兵を引き連れて井崗山で毛沢東と合流しました。

 そのころ蒋介石は北伐を再開し、6月には日本が支援していた中国東北地方の大軍閥、張作霖(チョウサクリン)を破って北京に入りました。この後、蒋介石は何度も井崗山を攻撃しますが、毛沢東と朱徳の率いる紅軍は国民党を退けるだけでなく、勢力を強めながら、広い地域を支配するようになりました。そして1931年11月、中国共産党は江西省瑞金(コウセイショウズイキン)で、中華ソビエト共和国臨時政府を樹立し、毛沢東が主席に選ばれました。

 中国が内戦を繰り返している頃、日本は本格的な中国侵略に乗り出し、1927年と1928年の二度にわたって山東(サントウ)半島に出兵しました。また、1928年には、関東州(遼東(リョウトウ)半島の一部)にとどまっていた日本陸軍の関東軍が、北伐軍のために北京を追い出された張作霖を爆殺し、これを北伐軍の仕業にみせかけて、北伐軍の反対勢力を見方につけようとしましたが、かえって反日感情を高める結果となりました。さらに1931年9月、関東軍は、柳条湖(リュウジョウコ)で、日本が経営していた南満州鉄道の線路を爆破し、それを中国軍の仕業として軍事行動を起こし、たちまち中国東北部(満州)全土を占領しました。これを満州事変といいます。しかし、満州事変が起こると、中国だけでなく、世界各国が日本を非難しました。そこで日本は、満州から世界の注目をそらし、さらに中国人の反日運動を押さえるために、1932年1月、上海でも軍事行動を起こしました。これを上海事変といいます。そして3月、日本は清王朝最後の皇帝だった溥儀を押し立てて、満州国を建国しました。しかし、国際連盟はこれを日本の中国侵略だとして非難し、日本に対して中国から手を引くように要求したため、1933年、日本は国際連盟から脱退しました。こうして中国と日本の対立はますます深まっていきました。

 1933年10月、蒋介石は100万の大軍を率いて、紅軍討伐に乗り出し、瑞金の紅軍を取り囲みました。しかし翌年10月、紅軍は包囲線を突破し、脱出しました。紅軍は新たに革命根拠地を延安(エンアン)に移しました。1935年8月1日、共産党は内戦をやめて団結し、国を救うために日本と戦おうと国民党に呼びかけます。この呼びかけを八・一宣言(ハチイチセンゲン)といいます。1936年12月、南京にいた蒋介石は延安の紅軍討伐を命じていた張学良(チョウガクリョウ)を西安(セイアン)に訪れましたが、張学良の軍に訪れた家を包囲されます。張学良は八・一宣言を支持し、共産党の周恩来(シュウオンライ)も交えて、蒋介石を説得します。結局、蒋介石は折れました。これを西安事件(セイアンジケン)といいます。

 翌1937年7月7日、北京の西南の盧溝橋(ロコウキョウ)で、日本軍と中国軍がぶつかり、日中戦争が始まりました。これを盧溝橋事件といいます。この二ヶ月後、国民党と共産党は第二次国共合作を成立させ、日本軍に立ち向かいました。12月、日本軍は南京を占領し、翌年10月には武漢を攻め落としました。このため国民党政府は重慶に首都をうつして抗戦を続け、共産党軍は広大な農村地帯を中心に、抵抗運動を続けながら、解放区を広げていきました。その後も日本軍は進撃を続けましたが、1941年12月の日米開戦を期に、しだいに力を弱めていきました。

 1945年8月、日本が米国に負けたと同時に、中国での日本軍の行動も終わりました。すると中国ではまたも内戦が始まりました。1946年7月、蒋介石は共産党の解放区に攻撃を開始しました。蒋介石はアメリカの援助のもとで、1947年3月、共産党の根拠地延安を占領し、翌年4月には中華民国総統に就任しました。しかし中国民衆の支持を受ける共産党軍はしだいに盛り返し、まず中国の東北地方で大勝利を収め、国民党軍を追い詰めていきました。そして、1947年から人民解放軍と呼ばれるようになった共産党軍は、1949年4月、長江(チョウコウ)を渡って南京を占領し、5月には上海を占領しました。この時、蒋介石は台湾に逃れました。10月1日、天安門広場で毛沢東が「今ここに中華人民共和国の成立を宣言する」と発表しました。翌年、中ソ友好同盟相互援助条約が結ばれ、ますますソ連と、軍事・経済・文化などの面で深いつながりを結ぶことになります。蒋介石は1975年に台湾で死にました。周恩来は1976年1月に死にます。そして同年9月、毛沢東が死にました。