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1. 日本国憲法改正議論 02.11 日本国憲法はGHQにより「押しつけられた」と言う人がいる。しかし、これは情緒的で、非法律的発想だ。「押しつけられた」が、なぜ「改正しなければいけない」という結論になるのか。その論理的筋道がはっきりしない。あくまでも情緒論の話だ。 例えば、企業間の取引で、契約書にサインし、契約施行してから、「この契約は押しつけられたものだから、契約は無効だ」と主張することができるだろうか。もちろん、“強制”なら法に触れるが、“双方の力関係による同意”なら、無効などと主張できるわけがない。ましてや、成立に瑕疵(かし)のある契約でさえ、時効により契約内容が保護されるという法理論があるのに、日本国憲法は成立に瑕疵が無いのだから、なおさら無効論は意味が無い。 そこで、昭和二十一年十一月三日の公布までの過程は、“強制”なのか“双方の同意”なのかが焦点になる。当時の日本政府は、占領下であっても内閣・国会は機能しており、GHQ憲法草案を拒否する権利を持っていた。また、気に入らなければ、成立を阻止するやり方はいくらでもあった。しかし、当時の内閣や国会は、抵抗することなく、帝国憲法を修正までして、国会で正式に審議したうえで成立させた。しかも、GHQの占領が終わったサンフランシスコ条約後に、日本政府は憲法を改正することができたし、朝鮮戦争時に米国からの改憲要求があったのに、憲法改正をしなかった。そして半世紀以上に渡って継承されてきた。そういう流れの中に、今の日本国憲法がある。だから“強制”されたという論理は成り立たない。ようするに、日本国憲法はGHQが作成した憲法だが、決して“強制”された憲法ではない。 それに、「押しつけられた」論は、論理的に考えると、改憲の障害になる。なぜなら、日本国憲法が「押しつけられた」ことにより、合法的に成立していないとするなら、憲法廃棄はあっても、改正は成り立たない。改正とは、改正されるべき法律を前提にして、初めて成り立つからだ。だから、「押しつけられた」を言えば言うほど、憲法改正はできなくなる。「押しつけられた」を主張する人の大半は憲法改正論者であるはずなのに、それを言えば言うほど憲法改正が遠のくのが判らないのだろうか。こういう人がいくら討論しても、論理的な討論は成り立たない。 今、日本に必要なのは、日本国憲法の『廃棄』ではなく、『改正』だ。この方向性を明確にすることが肝要だ。それに、日本国憲法の正統性を認めることは、実は明治憲法の正統性を認めることにもなる。日本国憲法の条文は、明治憲法と異なるが、明治憲法体制そのものは日本国憲法においても踏襲されている。日本国憲法が明治憲法の改正として成立したのだから。 以上の点から、情緒的な「押しつけられた」論をやめ、日本国憲法の正当性を認めたうえで、早期に憲法の時代錯誤的な部分を改正することを望む。そして、この時代錯誤的な部分をどう改正するのかを議論するのが、本来の『憲法改正議論』だと考える。さらに、その議論の集大成で、どのようにして、国会の三分の二の賛意を得るか、どのようにして、国民の過半数の賛意を得るか、この戦略・戦術を議論するのも、本来の『憲法改正議論』だと考える。 ※日本国憲法 |
2. 人権擁護法案 05.10 1996年、国連の自由権規約委員会に提出された政府の報告書は、同和問題について、「物的な側面では改善が見られるものの、国民の差別意識は結婚問題を中心に依然として根深く存在している」と述べた。実際、結婚直前に部落の出身であることが解り、破談となって自殺寸前まで追いつめられたというのは過去の話ではない。平成の元号の考案者、安岡正篤(まさひろ)は、関東大震災の際の朝鮮人に対する迫害を嘆いて、国民全員の真の「人格的涵養(かんよう)」が必要であると説いたこともあった。 人権擁護法案の趣旨・目的は、差別や虐待に苦しむ人々を迅速に救済しようとするものだから、これには賛成する。しかし同法案の指す「人権」とは具体的に何なのか、また、「人権侵害の定義」とは何なのか、同法案は最も肝要なこの二点が非常に曖昧だ。そもそも憲法第十三条に記されている基本的人権の定義である、「生命、自由及び幸福の追求」との整合性には全く言及していないのだ。法務省は「人権とは、憲法により保障された権利・自由がその中核になる」と説明している。しかし同法案には憲法の限定がない。そのために憲法にはない、多種多様な「新しい人権」が発生する危惧がある。例えば今春、公立中学校の校長が卒業式の国家斉唱を「強制しない」と生徒に事前説明をしなかったことは、生徒への人権侵害であると大阪弁護士会が勧告した。この事例は憲法の限定があったといえるのだろうか。 また同法案では、「嫌がらせその他の不当な差別的発言」(第三条一項)をしてはならないとか、「不当な差別的取り扱いをすることを助長し、又は勧誘することの目的で文章の流布、掲示」(第三条二項)をしてはならないとある。そしてこの不明確で曖昧な表現を基準に、人権委員会に対し関係者への出頭要請、質問、文章提出要求、現場への立ち入り検査権まで認めている。これは「集会、結社及び表現の自由と通信秘密の保護(憲法第二十一条)」違反であるといえるのではないだろうか。さらに同法案では、差別的言動を含む人権侵害の予防のため必要な調査を行い、人権侵害を行うおそれのある者に対して、説示その他の指導を行うことがでるとしている。しかし最高裁は、表現の自由の事前規制を認めず、名誉毀損のケースで「重大にして著しく回復困難な損害」が予見される場合に限り、裁判所による発行の事前差止めを承認している(北方ジャーナル事件)。したがって、たとえ差別的言動であっても、公表に先立って公権力がこれを一方的に規制するのは、「事前抑制の禁止」に反し憲法違反である。 上記内容を具体例でいうと、僕は当論壇で「北朝鮮は犯罪者集団である(論壇・朝鮮1)」と断定している。それを見た北朝鮮系の人たちが「人権侵害だ」と人権委員会(同法案第二十二条により国籍規定がないので北朝鮮国籍の人が委員になれる)に訴えれば、人権委員会は同法案第五条に基づき調査を開始する。その際、同法案第四十四条によって僕の出頭を求め、裁判所の令状なしで僕の自宅に立ち入り検査をして、文書・その他の物件を押収し、同法案第八十八条により僕は処罰される。もちろんこれは「逆」にも使える。同じ論理で北朝鮮系の人たちを封じ込めることも可能になる。しかしこれでは自由主義社会の自由の原則や憲法に違反し、人権絶対主義のおかしな現象を生み出すことになる。他民族への侮蔑を禁じることは理解できるが、侮蔑と批判の明確な区別基準を、外国人が就く可能性のある人権委員会が担うことには大反対だ。そんなことを許したら、政治利用されることは目に見えている。靖国参拝は全て人権侵害となってしまうかもしれない。 17世紀、人権概念の発明者であるイギリスのトマス・ホッブズは著書「リヴァイアサン」のなかで、「自然権とは各人が、彼自身の自然すなわち自らの生命を維持するために、彼自身の浴するままに自らの力を用いる自由」と定義した。言いかえれば、自分が生き延びるためにはそれが必要だと思ったら他人を殺してもよい、という概念だ。しかし、もし各人がこの権利を行使すれば大変なことになる。ホブッス自身、「この自然権が存続するかぎり、戦争状態になる」と明記している。そこでホッブスは、「人間が人間らしい生活を営んでいくには、各人が、まさにこうした野放図的な自然権主張を止めて、国家主権に自らの生命・自由・幸福の追求の権利をゆだねることが不可欠である」と結論づけている。ホッブスの発明から半世紀のちに同じイギリスで登場したロックは、キリスト教的な法思想である「天賦(てんぷ)人権説」を主張した。彼は人権を神に与えられたありがたい権利であるとしながら、そこに当然伴うべき神への義務の方は無視してしまった。この「ロック版人権概念」は、一方では各人の意志と欲望をそのままに認めながら、そのことの持つ危険性は一切考えていない。それなのに、アメリカ独立宣言やフランスの人権宣言に採用されたのは、この「ロック版人権概念」だ。そしてそれが世界中に広まり、日本国憲法にも採用されている。 個人の欲求のいかなる根拠・制限を必要としない同法案の基本的構造も、この「ロック版」に基づいている。そのため同法案の最大の問題点である「人権侵害の定義の曖昧さ」が生じているのだ。この問題について法務省は「人権の定義は人間に備わった権利として一定であり明らかである」と答弁している。しかしこれは見当違いも甚だしい。そもそも人権の概念が根拠を必要としない権利として誕生して以来、それは一定だったことなど一度もない。歴史を紐解けば一目瞭然だ。小泉純一郎首相は先月29日参院本会議で、同法案について来年の通常国会への提出に意欲を示した。法案賛成派の与党人権問題懇話会(座長・古賀誠元幹事長)は、来月中にも活動再開を予定。逆に反対派の多くは郵政民営化関連法案の反対派でもあり、除名を含めた処分待ちの状況だ。衆院選・自民党圧勝の余勢を駆って、法案成立に向けた動きが一気に強まる可能性も出てきた。僕は人権擁護法案の趣旨・目的は賛成だが、ぜひ「人権の定義」を明確にしてもらいたい。そして上述した疑問点を国会でしっかりと議論してもらいたい。 これはあくまでも僕の私案だが、「人権」の概念を一括りにまとめて、差別や虐待に苦しむ人々を迅速に救済しようとするのではなく、各個別のケースを想定した具体的な概念を構築したほうがいいと思う。例えば同和問題のAという問題についてはBという対処法を構築するといった具合だ。スピードは落ちるが、本当に差別の問題を解決するためには、このほうがいいのではないだろうか。もし同和問題や女性差別などを利用して、「異なる意図」を狙っている勢力が同法案の背後にいるのなら、これは非常に危惧すべき事態だ。 ※基本的人権保障の思想 ※人権擁護法案 |
