第1話『聖女、闇の悪魔と銀の姫君に出会う』
序.
牧歌的な風土を持つ国、リアトリス。
そんなリアトリスの名産と言えばパンである。小麦である。
豊かな黒土に恵まれた人々は、小麦畑や酪農地をおだやかに営み日々生計を立てていた。
丘をそよぐ風に回る風車、清らかなせせらぎに回る水車。
これも牧歌的なリアトリスを語る上で忘れてはならない風物である。
小麦を挽くためのそれは、国と言わず村々のいたる場所で見受けられる。
パンと小麦と風車に水車。
ここまで揃えばあとは最後にもう一つ。
これこそリアトリスを他国に鳴り響かせる上で、最も重要なものだった。
王都の名ともなっているが正しくは神の名、その名を『ゼート』。その花嫁。
リアトリスを他国にまで鳴り響かせる由縁は、一重に大陸において支持されるゼナ教が最高神ゼートに見初められた聖女の出生地であるからこそある。
パンと小麦と風車に水車の国、リアトリス。
聖女の加護ある、リアトリス。
聖典は物語る―――。
一.
レシア=フォーテットは腕に画材を抱えたまま、にこにこと吟遊詩人の歌声に聞き入っていた。
たった今、彼が歌ったのは、この国の人間でなくとも知っているというほど有名な『聖地リアトリス』の冒頭である。それこそリアトリスの人間ならば知らないものはない。
だからレシアが聞き入っていたのは話の内容ではなく、一重に吟遊詩人の歌声にあった。なめらかで伸びやかで、それは見事だと思ったのだ。
切りがいいと思った所で拍手と称賛の言葉を贈る。
「おにーさんの詩、とっても素敵なんねー。あたし、こげんうまか詩人さん初めてだでー」
見慣れない異国風の出で立ちをした男は、さらりと居住まいを正して一礼した。にこやかに微笑む姿は吟遊詩人特有のものだ。
「ありがとう嬉しいよ。この国の詩だからね、緊張していたんだ。ご覧のとおり国外の詩人だから。―――お嬢さんは買い物の帰りかな?」
男はレシアの両手で抱える大荷物を見て言った。
「ああこれねー? 半分はそうけー。久々の王都やけぇ、ようさん買うて来よったんよ。もう半分はあたしの趣味実用道具じゃねー」
異国の吟遊詩人が舞台としているのは王都ゼートの広場であった。本日は自由市の日とあいまって、華々しい賑わいを見せている。
レシアは視線をめぐらせる。
吟遊詩人はこの異国の男のほかにも数人、その他特に観客の前で大道芸人がナイフ投げを披露しているさまは目を引いた。
よし、と気合を入れる。
「おにいさん、隣で商売ば始めてもいいけー?」
問えば男は目を丸くした。どう見ても娘には売るものなど何も持っていないように思われた。
「君が? もちろんかまわないけど、商売ってなんのだい?」
「あたし趣味で画人やっとーけー。父さんとの約束の、教会の鐘が鳴るまでここで絵を描きたいんよ。売れればよし、あかんかったらただの写生になるけどなー」
娘は笑う。
王都の広場で画材を広げて描けば、売れなくとも時折誰かが自分の描いたものを覗いていってくれる。そのことが嬉しく、いつもなら野菜の露店の店番と同時にやっていることを、本日は絵を描くことのみに集中できるのも嬉しかった。
「へえ、絵をねえ」
異国の詩人の興味深げな感嘆に手ごたえを感じて、レシアはこう問いかけた。
「そんでなぁ、もしよかったら、その―――おにいさんの絵を描いてもいいけー? 迷惑はかけんねー」
「私のかい?」
レシアは頷き、驚いた様子の男をうかがい見る。
「あかんならあかんゆーてちょー。無理にとはもちろん言わんけー」
吟遊詩人は苦笑する。
「いや、光栄だよ。私はジーク。お嬢さんは?」
「ありがとう、おにいさん! レシア=フォーテットばゆーね。じゃあ隣ば失礼するけー」
レシアはこうして青空の下、吟遊詩人の詩を聞きながらその隣で、歌うジークを紙に写し取り始めた。
二.
あまり真横にいるというものぶしつけな気がして、少し離れた場所でレシアは木炭を紙の上で滑らしていた。クリップで紙をはさんだ画板を掲げる。
もうちょっと、ジークさんば鼻高いけーね。描き直さんと。
伸ばしっぱなしのアッシュブロンドに精悍な顔つきをした吟遊詩人は、真実被写体として十二分だった。同じ人種とはいえ、微妙に異なる異国の雰囲気も彼のよさだと思う。
記憶の中だけでは頼りなく、実物を見ようとそちらの方向に視線をやるものの、敷物だけを残して男の姿は消えていた。
「あれ……? おらんねー?」
ぐるりと首を巡らせれば、真正面の位置――逆光をあびたジークが演奏器片手にかがみこんでいた。思わずのけぞる。
「わっ! ジークさんば何ねー!? どないしよった?」
「いや、どんな風に描かれてるのか気になって見に来たんだけど、あまり真剣に描いてるから話しかけずらくてね」
ジークは演奏器を傍らに置いて、照れるように側頭部を撫でた。それからまじまじと画板の上を覗き込む。
―――自分を描くと言うから、てっきりピンだと思ったが。
紙の上にはジークだけではなく、広場の賑わいが写しだされていた。吟遊詩人を中央に配し、周囲を喧騒で囲んだ絵。木炭で描かれたそれからは、生き生きとした活気が感じられる。
「へえ、レシアさん良い絵を描くね。職業柄こういう絵とかにも興味あるけど、うん。動きと音のある良い絵だ思うよ」
感心した様子のジークの言葉に、レシアの表情がほころんだ。
「嬉しかこと言うねー! 照れるちょー!!」
べしべしとジークの肩を叩く。と、教会の鐘の音が広場に轟いた。
王都の教会は日に三度、鐘を鳴らす。朝に、昼に、夕暮れに。これは昼の鐘だった。
叩く手を止め、レシアは立ち上がる。
「あ! あたしそろそろ行かんと。お父さんば、待っとーね」
「帰るのかい?」
それに合わせて楽器を持ちジークも腰を上げる。レシアは手馴れた様子でたったか画材を片付け、買出しの大荷物も抱えると頭を下げた。
今日のように岩絵の具を使わないなら片付けはあっと言う間だ。与えられた時間を、少しでも絵を描くために使えるよう培われた技だった。
「ほったら、ジークさん。今日はありがとうございました。また、縁があれば会いましょーねー」
言ってはみるがそういうことは多分、起こらないだろうと思う。
今は昼。レシアの住む村はこれから荷馬車で走って、到着するに夕刻を過ぎる場所にあるのだ。そうそう来ることはできない。
そう考えれば、ほんの数時間時間を共有しただけの関係であっても何やら名残おしかった。
頷き返すジークはぽんと手を打ち、懐をさぐった。何かを握った拳を取り出す。彼は小さく笑んでレシアの脇に挟んだ画板を指差す。
「よければさっきの絵、これで売ってくれないかな?」
ジークが開いた手の平には、古ぼけ黒ずみをおびる銀の指輪があった。こまやかな細工が施された品だが、どうにも古い印象を受ける。
貴金属にほとんど縁のないレシアは、目をしぱたかせる。
……自分の絵が、この指輪と等価?
「昔、お客さんがお代のがわりに置いて言ったんだ。男の私より君のような女性に持ってもらった方が指輪もいいだろう? 古いものだけど手入れをすれば、それなりになるんじゃないかなと思うんだけど」
どうだろう? とジークは言う。レシアは血相を変えてぶんぶんと首を振った。
「とんでもないちょー! それって銀じゃろ!? ジークさんば、もったいないなさすぎじゃー!! タダでええけー」
まだ色も置いていない木炭画である。そんな価値はないと思う。
ジークは苦笑した。
「じゃあ、私があげたいということにするよ。吟遊詩人の感だけどね、君の絵はその内絶対価値が出る。その先行投資だ」
「……けど」
有無を言わさない物言いにレシアはひるんだ。男は微笑する。
「いいから、貰っておきなさい。どうせ元手はタダだよ? 気に病む必要なんかないさ」
「―――……そうけー?」
「そうそう」
ためつすがめつしてレシアは荷物を足元に置き、画板から絵を取り出した。
はい、と手渡す。
レシアには絵を受け取るジークが嬉しそうに見えた。
「ありがとう。―――っと、ああ。もう日付と名は入ってるね」
絵を見てから裏を見て、ジークは眉を上げる。
「うん。いつも描き始める前に裏に書くけーね。描き終わったら表に日付を入れるんよ」
「そうなんだ」
ふんふんと頷いて、ジークは指輪を差し出した。
「じゃあこれは代金だ。―――ありがとう、大切にするよ」
「ええと。こったらこそ、ありがとうございます!! あたしこそ、これ大切にしますけー」
両手で受け取った指輪を見つめる。
すごいー。あたしの絵が銀の指輪に変わったちょー。
ジークがやはり笑って頷いたところで、レシアは肩を飛び上がらせた。
「ああ! 急がんと置いて行かれる!! じゃあジークさん、こげん最後で申し訳なかです」
「気にしないで。さようなら」
「はいー、さようなら」
ぺこりと会釈したレシアは、荷物を抱え上げて広場から市の建ち並ぶ通りに向かって駆け出していく。それを見たジークはくつくつと笑って、やがて自身の仕事場へ戻っていった。
三.
―――ゼナ教聖典は語る。
その昔、国に黒土をもたらした大地の神であり全知全能の神でもあるゼート神は、一人の娘を見初めた。
そうして聖女となった娘はしかし―――人として一生を送ることを望み、決して神国には上がらなかった。聖女となって以後は王室によく招かれ、人々に心を砕き、慈悲を与えたることに時間を費やしたと言う。
ところが人の生とはかくも短い。あっと言う間に儚くなった聖女を悼んだゼート神は、再び現世に生まれてくる聖女にそれとわかる証を刻んだ。輪廻転生。生まれてくれば、すぐにそれとわかるように。
汝こそ花嫁であれ。
死してなお花嫁であれ。
生まれし汝に祝福を。
聖典へ『聖女』の項が追記されておよそ千五百年。今だ神の花嫁は現世に現れていない。
時代の流れにあっていつからか人々は慈悲深い聖女のこと、国の大事になるとゼート神に使わされ王の元に下されるのだと語り始めた。
もしも国に何かがあれば、その時は。
現れない内は平定の世なのだ、と。
そういう訳で、今日も今日とて聖女の現れないリアトリス国民はいたって平定なる生活を送っているのだが、いかんせん、王宮はそうもいかないらしい。
そう、国民にそれと悟られないではいるものの、王宮内は今、大わらわなのだ。
王の一女が銀の姫、シュレイナ=アリセディリティーテ=フォン=リアトリスが謎の病に伏して早半年。『掌中の珠』やら『銀の姫』やらと称するほどに慈しむ、美しき姫が病に倒れた王は、それこそ身も削る思いで姫の身を案じ、半狂乱で国内指折りと評判の医師や薬師を招聘していた。
しかしそのことごとく――誰ひとりとして、姫の治癒はおろか、病の原因さえも突き止められぬまま匙を投げてしまう。
日に日に病み衰えていく姫を見舞う王も同じくやつれ、しまいには怪しげな呪術師までをも王宮に招くしまつ。今日において、王の政はほとんど成り立たなくなったと言ってもいい。
臣下の中には「王の気が狂れた」とまことしやかに噂する者がある。現在の国政は優秀な宰相と、各大臣たちによって行なわれていると言っても過言ではないのだから。
基本的にそうであるが、特に今、厳重な緘口令を敷かれた宮中は、切に姫の病を治癒できる人物を欲していた。
このままでは政治がおぼつかないだけでなく、隣国にリアトリスの威信をなめられてしまいかねない。王にはふたりの王子があるが、そのどちらとも即位するには若すぎた。
誰かが現王退位を推し進め、政権を牛耳るための幼君を擁立し、王位継承の内乱に発展する前に、なんとしても王の正気を取り戻さなくてはならない。
残念ながらそういった奸臣の心当たりなら、優秀な宰相を初め重臣たちにはいくらでもあった。
彼らは考える。
しかし、どうやって?
王を頼ることのできない彼らは、今日も目の前の政で手一杯である。他に手を裂いている時間も手間もない。
このままではいけないということだけが明白だった。
―――しかし、どうやって?
リアトリス宰相、シュトラウス=ヴァン=カインドネスは頭が痛かった。
金箔の細工ある羊皮紙に絶えず走らせていた羽ペンを、この時ばかりはペン立てに戻し、親指と人差し指で目頭をもみほぐす。
たった今、従者が耳打ちに来た内容に、思わず頭痛と眩暈に襲われたのだ。重要な国家書類にしみを付けるわけにはいかない。
「宰相、大丈夫でございますか?」
気づかわしげな言葉に、シュトラウスは手を上げて応えた。
「―――大事ない。……悪いがもう一度言ってくれないか。王は何と?」
『面倒くさい』などただの少しも思うこともなく、従者はよどみなく繰り返した。
「は。北の賢者だとか言うローゼンハイムなる人物を王宮に招くよう手配せよ、と。―――いかがなされますか?」
いつものことであるがどうしてこう、賢者だの術師だのと呼ばれる人物を呼ぼうとするのか。こっちの苦労も考えて欲しいと、最近ろくに眠ることもできていない宰相は思う。
そういった人物は概して、偏屈で変わり者で世捨て人よろしくな人柄であることが多いのだ。まず、話を聞いてもらえるようになるまで普通以上に時間と手間がかかり、説得するのにその倍、実際に来て貰うにはそのさらに倍を要したりする。
その上多額の金品、そうでなくとも国宝なみの珍しい何かを要求されることも少なくなく、宰相にとってもうほんと勘弁して欲しいと思う仕事、ぶっちぎりナンバー1であった。
「ローゼンハイムとかいう人物の人となりは……?」
自分に報告が上がってくるくらいだ。それくらい下調べは終っているものとしてシュトラウスは訊ねた。
従者、セトアリアは苦く笑う。
「は。これまでで最強の敵かと思われます。手間に換算すれば『花祭り』の時期に、他国の王侯貴族を正式な賓客としてお招きする、というほどでしょうか」
『花祭り』とは春の収穫祭のことである。一週間夜通しで行なわれるそれは国家行事と言ってもいいだろう。また国民にとっては羽を伸ばすための一週間は、宮中の人物にとっては地獄の一週間でもあった。
浮かれた犯罪者が増えるため街頭警備を強化しなくてはならないし、観光客も多くなるので環境整備もこの時期行なわれる。毎年例外なくてんてこまいになるそこに、国事として他国の貴人を呼ぶともなれば、まさに公庫が悲鳴を上げなくてはならないのは必至である。
なるほど、かぎりなく不可能に近いということか。
シュトラウスは溜息をついた。
「まったく王は何を考えておられるのか……。わかった、私の名で書状を書けばいいのだな。苦労をかける」
とんでもないと首を振るセトアリアは、言いにくそうに目線をそらした。
いつもならそれで用件は済むのだが、今回ばかりはそういうわけにもいかない。報告するべきことがまだあるのだ。
「宰相、実を言えばローゼンハイムはただの賢者を名乗る人物と言うだけではないようなのです……。周辺住民によると、なんでも魔術師なのだとか」
「魔術師……」
別名、絶滅瀕死保護したくない種。
世界にごくごく僅かに存在する『魔術』と呼ばれる得体の知れないものを使う、得体の知れない輩のことである。
語りも多いが、その存在は決して嘘ではない。きちんと実在する。数年に一度、彼らの代表と会席を持つこともあるシュトラウスはその存在を認めていた。
しかし、
「魔術師を王宮に呼べというか」
できるものか。
これで勅命を果たすことは不可能に近いから、不可能となった。
『魔術師に言うことを聞かせる』というのは豚にお手を教えたり、金屏風に描かれた虎を捕まえてみせろと言うのと同義である。
浮世離れと言うよりも、独自の世界観を持つ彼らは何者にも屈したりしない。常に自身の判断で動き―――数年に一度の会席だって、向こうが望んできた場合執り行われるものだ。
国にそうさせるだけの力を持っているのだ、魔術師という者たちは。
さらに一説に寄れば魔導師なる輩もいるそうなのだが、これはカインドネスもお目にかかったことはなかった。魔術師の話によると、何でも新しい魔術を作り出せるものを魔導師と言うらしく、レベルがまったく異なるらしい。
しかしまあ、得体の知れないという点で、『魔術師』も『魔導師』もシュトラウスらにすればどちらも似たようなものである。
こちらはできるだけ関わりあいになりたくないし、あちらサイドもめったなことがなければコンタクトを取りに来たりはしないので、実質その生態系は霧の中状態なのだ。
「宰相、どうなされますか……?」
セトアリアは口ごもるように言った。
この国は王制である。王が権力の中心にあり、政権全てを握っている。ちょっと困った王だからといって―――いやだからこそ、その勅命にそむくというのは、棺おけに足を突っ込みにいくようなものだった。
セトアリア=クレス=リーセントはうつむき、やおら顔を上げる。表情には決意があった。
「カインドネス様。貴方様が王太子を擁立なさるのならば、私そしてリーセント家は助力をいといません」
シュトラウスは怒るでもなく、眉を下げる。
「セトアリア、ならんよ」
「しかし……!」
老齢に差し掛かろうとしている宰相は、穏やかに苦笑した。
「今、私が王を見捨て幼帝を擁立することは容易い。幸い宮中の最大派閥だ。しかし、私がその動きを見せれば他派閥も同じく動き始める。そうなれば確実にリアトリス国土は乱れるだろう?」
「僭越ながら意見すれば、このまま王を放置しておいても同じことです。ならば何を迷うことがありましょうか?」
セトアリアは思う。
このままこんなくだらない勅命でこの宰相を失うくらいなら、王など討ち取ってしまえばいい。王子が幼いと言うのなら、カインドネスが政務を取ればいいのだ。今だって事実上そうしている。カインドネスにとって良くなりこそすれ、悪くなることは何もないはずだ。
なおかつ、奸臣と呼ばれる大臣は数あるものの、この方の力の前には誰も及ばないことをセトアリアは知っている。
戦えば勝てる。これは勝ち戦だ。
「内乱になったとしても、戦えば勝てます。必ずや。ですから」
「セトアリア」
シュトラウスは低く口を開いた。
その声に、「は」とセトアリアは身を固くする。
「擁立するということは、両殿下のどちらかをお飾りとして置き、権力を奪い合うということだ。最後には、どちらかに死んで頂かなくてはならないかもしれない。―――お前は幼い王子ふたりに殺しあえと言うのか?」
宰相は執務用の黒漆の机から離れ、従者の肩を軽く叩く。
目のあったシュトラウスは小さく笑んだ。
「私はリアトリスの牧歌的な風土が好きなのだよ、セトアリア。緑の丘に回る風車、せせらぎに回る水車。春になれば黄金色に小麦が輝く。―――すばらしいとは思わんかね? 何よりここは聖女の土地だ、争い事は避けて通りたい」
「聖女など……」
宗教などしょせん政治の世界では手段にすぎない。国民をよりうまく統治するための道具であると、政治に関わる重臣となるべくされた教育でセトアリアは教え込まれている。
もし、いるのなら今すぐに現れて欲しかった。
聖女は国の大事に現れるという。しかし大事になってから現れるなら、大事になる前に現れてくれてもよさそうなものだ。
今はまさにリアトリスは嵐の前の静けさにある。
嵐が来たあとの片付けよりも、嵐を遠ざけてくれた方がよほど国民のためになるではないか。と、セトアリアなどは思う。
シュトラウスは踵を返して窓の前に立つ。
「私の身は案ずるな。……どちらにせよ今はまだ、時期ではない」
従者は顔を上げた。
カインドネスの顔は、先ほどまでの穏やかに老成したものではなく、果敢な宰相のそれであった。
シュトラウスは振り返る。
「国民は王が病んでいることを知らない。それで今、我々が立ち上がっても天下の逆賊として忌み嫌われるだけであろう。王権を改めるにあって国民の支持なしではうまくいったためしはない」
身が引き締まるとはこのことだった。
政治家としての手腕、人柄。セトアリアはこれだからこの宰相のことを敬愛しているのである。シュトラウス=ヴァン=カインドネスはただの怖気づいた平和ボケの老人ではないのだ。
「かといって情報操作するには、現在の状況ではインパクトにかける。内乱などという他国にも足をすくわれかねないものを早急に終らせるには、もう少し期を熟させねばならんのだよ。……時期は私が指示をする。軍備を整えておくにしても下手に他派閥に悟られたくはない、今はまだ動くな」
「かしこまりました」
恭しく彼は頭を下げる。
「仰せの通りに」
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