第1話『聖女、闇の悪魔と銀の姫君に出会う』
九.
半ば放心状態で、村の入り口で見た例の馬車に揺られていた。
あれから―――ローゼンハイムが屋内に呼びかけ後の話である。あれから、家の奥から血相を変えた家族が駆け出てきた。一人の貴人に伴われて。
母親には何やらたくさん話し掛けられたし、こちらとしても言いたいことは一杯あったのだがいかんせん、口が動かなかった。何とはなしに聞いていた分を思い出してみる。
『あんたはのんびりした子やけー、母さん心配じゃー。王宮に呼ばれるなんてそったら大役、おまえに勤まるんかねー。ほん、この子は――――』
お母さんば、なんでこげん事態をナチュラルに受け止めとーね?
レシアが心の中で母の言葉にツッコミを入れたことをここに記しておく。
―――現れた青年貴族は、そんな母に父に、気品たっぷりに笑んでこう言った。
「フォーテット夫人、ご心配なされませんよう。大丈夫です、レシア殿はこの国に必要なお方。彼女はこちらで私が責任もってお世話させていただきますゆえ、一身上のどんなことにもご心配にはおよびません」
朗々とした見事な発音の言葉は、奇妙な説得力を秘めていた――らしい。
レシアの両親はそれで口をつぐんだ。長老である祖父も何やら厳しい表情で頷き了承する。
貴人はレシアに向き直ると、うやうやしく膝をついた。
「お初お目にかかります、レシア=フォーテット嬢。私はリーセント家領主、セトアリア=クレス=リーセントと申します。―――王が、ひいては国が貴女を今、必要としています。ご同行くださいましょうか?」
希望を聞いているように聴こえるが、実際の所これはまったく確認に過ぎなかった。
レシアが「はあ」だの「あの」だの「あわわわ」だのと言っている内に、本人抜きで話はどんどん進みいつの間にか話がまとまっていたのだから。
肝心の内容がまるで見えてこないまま、ローゼンハイムは笑んで、掴んだまま離さないレシアの左腕を引く。小さな子供になったような気がした。
「行こうか。レシア殿」
希望を聞いているように聴こえるが、実際の所これはまったく確認に過ぎなかった。
このあたりで、この質問形式に慣れ始める。人間慣れが肝心なのである。
……いや、そんなことばどうでもいいけーのー。
脳みそが理解をこばんでいる間にあれよあれよと馬車に詰め込れ、そして現在に至る。―――な、この状況はやっぱり問題じゃー思うんよ。
どうして王宮なんて場所に自分のような庶民が呼ばれるのか、『セイジョ』とレシアに向かって呼びかけたのはなぜなのか。レシアはレシア以外の何者でもない。レシア=フォーテットである。
車輪が小石にぶつかったのか、ガタと馬車が跳ねた所でレシアは正気に戻った。あさっての方向を見ていた瞳に光りが戻る。
「そうじゃそうじゃ、ダルセイトさん! 一体何がどーなっとーね!? これはなんねー!? ほんでもって、腕! 腕つかんどるのを離してくれんかー!」
隣に座るローゼンハイムに噛み付く勢いで一気にまくし立てる。
「おっと悪い。やっと現実世界に返ってきたか、そりゃよかった」
左腕の拘束を離しくつくつと笑う。
「そうだよなァ。呆けてたもんな、レシア殿」
「『殿』なんていらんちょー。レシアでいいけー」
人攫いのような真似を受ける理由は分からずとも、自分がこんな馬車(なんと村の前に停まっていた例の馬車に彼女も同乗させられたのである)に乗るような貴人に、敬称を付けられるような人物でないことくらいは分かっている。
笑んだまま男は鷹揚に頷く。
「ではレシア。―――しかし困ったな、何から話せばいいか。お前は聖典『聖女の項』を知っているか?」
「……リアトリスは神様の花嫁――聖女様の出生の地というやつけー? もちろん知っとーよ」
子供の頃から寝物語として――機会あるごとに聞いてきた。これは国内の子供ならば人間ならば、大差ないだろう。知らないはずがないと言ってもいい。
「そうかそうか。なら少し話が早くなるな――あれね、お前のことだ」
「は?」
また意味が分からない。
左手を尊く支え、逆の手で包むよう薬指に触れる。
「『汝こそ花嫁であれ。死してなお花嫁であれ。生まれし汝に祝福を』あっと言う間に儚くなった聖女を悼んだゼート神は、再び現世に生まれてくる聖女にそれとわかる証を刻んだ。生まれてくれば、すぐにそれとわかるように」
何かを諳んじるように言い、心の奥まで見通してしまうような蒼の目がじっとこちらを見つめる。
「これがその証。お前は聖女として生まれてきた」
どれがその証だというのだろう。
呆然と見下ろした先には、左薬指を覆う『あざ』があった。
―――これが? この珍妙なアザが?
「レシア、お前は神の花嫁だ」
言われて「はい、そうですか」と頷ける人間が居たら、それはとんでもない柔軟な思考の持ち主――馬鹿であるとしか言いようがない。
「はあ、そうですか……」
幸か不幸かレシアはその『頷ける』人種だった。もちろん自身がそうなのだと意識しているわけではなく、他人の言葉を基本的に疑わない気質であることに起因する。今回に限っては、己のキャパシーを超えた話に呆然としているがゆえの生返事である。
「魔導師殿……」
呆れた声はセトアリアのもの。車中、対面する二人のうち娘の方へ彼は同情の視線を投げた。
「フォーテット嬢が再び放心されています」
「みたいだな」
馬車は進む。一路王都を目指して。
十.
現実逃避したままレシア=フォーテットは、次々と広がる優美きわまりない光景を目の当たりにし、さらに絶句する。いよいよ顔色が悪りそうだとさえ思う。王の地を目指し、馬車は止まることを知らず前へ前へと――王都深部へと進む。もちろんのことレシアはこんなにも奥深く立ち入ったことなどあるはずがない。
こんな、騎士があちらこちらに徘徊し、整然とした石畳が敷かれ、貴族の屋敷が立ち並ぶ区域に!
さらに前方を見やれば、警備隊が駐留する関所――これより奥は選ばれた上級貴族のみが住まうことのできる区間に入るため、素性確認の場所があるのだ――へとさしかかろうとしていた。
あそこを越えたら二度と出てくることができなくなりそうな、そんな錯覚を覚える。本来、レシアのような一般庶民が、一民が、一生関わることない場所であるからにして。
「だ、だるせいとさん」
「どうした?」
悠然と景色を眺めていた魔導師は、ちらりと視線をよこした。
「……か、か帰りたい」
「駄目だ。っというかだな、もっとシャキッとできないか。正々堂々胸張ってりゃいいんだレシアは」
「……無理。ぜったい無理じゃー」
王都ゼートの中心に位置するリアトリス王が居城、その名もウォーディリアティス城。別名、水と白亜の城。
美しい城であることは知っている。スケッチしたことも幾度となくある。
いつも遠目に眺めていたそれが、眼前、10メートルの位置に広がっていた。
馬車の扉がうやうやしく開かれる。その先に、高貴な出で立ちをした壮年の男が、幾人の従者を連れて立っていた。まるで彼女らの到着を待っていたかのように彼らは立っていた。
御者の男はすみやかに踏み台を置くと、片手を差し伸べる。レシアはうろたえた。
生まれてこのかたこのような対応をされたこともなければ、この先されるようなことがあるとも思っていない。
どうすればいいのか。つかまっていいのだろうか。スカッとやられないだろうか。ないな。
「ほら、いいからとりあえず出ろよ。レシア」
後ろからローゼンハイムの催促の声がかかったことであるし、とにもかくにも馬車から降りることにする。優美に差し出された手につかまってフカフカの車中から滑り降りた。
「お足元、お気をつけ下さい」
「うあ、あ……は、はい。ありがとう、ございます」
極力言葉づかいに気をつけた、自身でもそれと分かる妙に力の入った応えである。御者は微笑ましいものを見る目つきをしたが、すぐに色のないものへと変化させた。自国の宰相がわざわざ出迎えるほどの貴人に、おさおさ失礼はできない。
まず申し訳なくも自分の履く革靴で高級そうな踏み台を汚し、そうしてからつややかな大理石の大地に両足をつけた。―――気分としてはまったく地に足などついてない。
出迎えるように控えている一団と目が合ったレシアは、ひえっと硬直した。背後で二人の貴人が馬車から降りたような気配。
きわだって威厳あるように見受けられる壮年の男が腰を折る。落ち着かない、まったくもって落ち着かない。及び腰でそわそわと再び視線を合わせれば、温かな笑顔が返ってくる。
「ウォーディリアティス城へようこそおいで下さいました、レシア=フォーテット嬢。私はリアトリス宰相の地位を預かっております、シュトラウス=ヴァン=カインドネスと申します。以後お見知りおきを下さい。―――長旅お疲れでしょう。お部屋を用意しておりますゆえ、本日のところはおくつろぎいただきますよう」
……おくつろぎ。くつろげるはずがない。
何度もそうだったように、レシアはこの場から走り去りたい衝動に駆られた。できれば今すぐに。
背後からぽすと肩を叩かれ、身が飛び跳ねる。
「宰相、彼女はできれば今すぐにでも帰りたい様子。長々とした逗留よりも、さっさと用事を済ませたいだろう」
「しかし」
「長旅とは言えたかが数刻。レシア殿はこの窮屈な場所にいる方がよほど疲れるそうだ。元より非公式の場、あまりおおやけにしたくない」
なんだろう、この状況。
レシアは首をひねる。ローゼンハイムがぼそりと耳打ちした。
「話をつけるから、ちょっとおとなしくしてな」
威厳ある壮年の男性――宰相という役職についているらしい、は少し困ったような顔をした。
「さて、困りましたな。王へはいかように?」
「好きなように。ならば俺も好きなようにさせてもらう。王女を助ければそれでいいんだろう?」
「……魔導師殿」
咎めの響きを伴って、青年貴族セトアリアはローゼンハイムに呼びかける。
うん? まどうし殿と言わなかったか、今。
まどうし、惑うし、窓牛――レシアはわざわざ遠回りの末『魔導師』の変換へたどり着いた。
魔導師!
うら若き乙女や子供を生贄にし凶悪な魔物を呼び寄せたり、夜な夜な妖しげな鉄鍋の中身をかき混ぜたりするあれか。幼いころは「早く寝ないと魔術師がおまえを攫いに来るんよ」などと、まことしやかに母親に脅かされたものである。
―――その魔術師いや魔導師が、ダルセイトさん。
拉致、孤立無援。さあっと血の気が引く。
「……いけに、生贄に、され、」
知らず呟きとして漏れ出ていたのだろう。静かなる言い争いを続けていた彼らの注目を浴びた。無数の視線の中、海のような蒼眸にびくりと肩を震わせる。
「だいたい何を考えてるのか分かるが……。何だって?」
「魔導師って、ダルセイトさんのことじゃね……? あたしのこと、生贄―――に……したり」
「するか。……想像力豊かだなレシア。確かに俺は魔導師だが、お前のことを取って食ったり血祭りに上げたりは絶対にしない。というより誤解を解いておくと、魔導師にそんなことするやつはいない。お前さんにはちょっと神の花嫁として仕事を手伝ってもらうだけだ」
「花嫁」
その呼びかけも少し嫌な――というより微妙な気持ちがする。恋人さえいないのに、通り越して花嫁である。ああ、それよりももっと根本的に、自分がリアトリスの聖女だとは思えない。そこが重要だ。そうなのだ。
「なあ、ダルセイトさん」
「うんまあ納得してないんだよなぁレシアは。道すがら説明するから。――では宰相、邪魔したな」
「魔導師殿!」
「ローゼンハイム殿……いや、セトアリアいい。相手はお前の言う通り魔導師なんだよ」
怒りの声、諦めの声。肩を押しやられ、強制的に歩みを進めさせられる。
戸惑いの視線で男を見上げた。
「気にするな。レシア、さっさと帰りたいんだろう?」
「さっさとと言うかなん言うか、かん言うか……」
しりつぼみになってしまうのは致し方ない。
「一生分の緊張を使ってしまいそうじゃー………」
それなのだ。
―――ここがいつも遠目で見ていた王城かー。
物見遊山だとどうにか割り切ってしまえば、目を養ういい機会だと思う。無理にでもそのように考えておかなければ、気がどうにかなってしまいそうだった。小心者だと言うなかれ、微動だにしない騎士たちと幾度もすれ違ってここまでやって来たのだ。
現在、レシアはローゼンハイムに導かれ壮麗な王城を散策している。ローゼンハイムは迷いなくどこかへ向かっているようだが、レシアに分かるはずもない。こちらへと軽く腕を引かれ、左へ曲がる。
「ジークとかいう吟遊詩人に最近会っただろう? ほら、アッシュブロンドの」
「ダルセイトさん、ジークさんば知っとーね……!?」
脈絡なく現れた知人の名。異国の詩人の顔を思い出す。絵の代金だと銀の指輪をくれた人だ、忘れるはずがない。
「知ってる、あいつの詩はうまいな。数年前にこの国ではない場所で会ったことがあってな―――」
親指でピンと弾かれたものが空中で煌く。指輪だ。抜き取られたままになっていた指輪。
「これを代金として渡した、今日のために。そうして三日前の夜に再会した」
「今日の、ため?」
「ああ、お前に会うためだレシア。詩人に会ったのは野暮用というか別件だが。―――この指輪はな、魔導師の間では『聖銀の指輪』って呼ばれるものなんだ。人の手から手へと渡って、最後には必ず神の花嫁の元へ届くからだ。起源については、学説によれば初代聖女の持ち物だとか、神が魔導師を駒として扱いやすくするために、分かりやすい聖女の目印として造ったものだとか言われてるんだが」
ローゼンハイムは目を細める。
「魔法的な力が働いているのは明らかなんだけどな、実の所、俺ですら『式』がよく分からん。帰納の術を使ってるんだろうが……――無くしたくない物に、もし無くしても返ってくるようにかける魔術がある。……しかし普通、解析できたら書き換えが可能になるからな。できないってことは、つまり解析しきれていないということなんだろう――分からん。故に諸説明らかじゃない。まあ魔導師も垂涎の一品ということで。お前のものだ、返しておこう」
半分も理解できなかったが、理解できた箇所もある。つまりこの銀の指輪は聖女が持つものだということ。それゆえに自分が聖女だと呼ばれているということ。
「あたし、それ」
「いらないとは言わせないぞ。いい加減認めないか、お前は聖女。例え指輪がなくてもそのあざ。それが雄弁に物語っている」
「でも……!」
反駁の言葉がみつからない。しかしどうあっても自分がそうだとは思えない。視線と思考をさ迷わせ、ようやく探し出した反論を振りかざす。
「ででもあたし、聖女様らしい力なんて持っちょらんねー!!」
返答は溜息だった。
「なに、レシアは魔導師たる俺の言葉が信用できんのか……?」
「だダルセイトさんが信じられんのじゃなくて、そのええと、ええとあたしがあたしを信じられんから反論するのであって……その」
「レシア」
さながらその呼びかけは、祖父のそれのようであった。お説教が始まる前の。
「はいぃっ」
「―――ここに塩と砂糖がある。お前は朝食にパンケーキを作ろうとして、何をトチ狂ったのか、砂糖と信じて塩を投入した。さて、パンケーキの味は?」
「しょ、しょっぱい」
「そうだ、よろしい。お前が信じなくとも『塩』であるという――聖女であるという事実は変わらない。そういうことだ、食えば嫌でも塩だった気づく」
ローゼンハイムはポスとレシアの頭に手の平を乗せる。
「まあ、そう気負うな。大したことじゃないんだよ聖女なんてもん。ただちょっと常人には見えないものが見えたりするだけだ。な、害ないだろ」
「なにが見えるんじゃ……」
「だから常人――俺にも見えないものが見えるんだよレシアは」
「なにが……」
常識が遠ざかっていく音がする。思わず頭を抱えてしまいそうになったレシアは、その異様な雰囲気に勢い顔を上げた。
「……ダルセイトさん、なんじゃあたし怖い」
「お、気づいたか。さすがさすが」
身体を竦め、眉根を寄せる。理由も分からぬまま、怖い、と思う。
「俺たちが向かっている場所は、ウォーディリアティス城の離宮。そこにこの国の王女がいる」
「王女様」
「悪魔に憑かれた女がいる場所だ。お前が嫌な気配を感じ取っても無理はない」
「今、なん言うたダルセイトさん。悪魔とか聞こえた気がするんはあたしの耳がおかしいけーの? そしてあたしをそこへ連れて行こうとしてるとか冗談じゃねー……?」
「なかなか愉快な冗談だな。悪魔と対面できる機会なんてそうはない。喜べ」
最後まで聞き終わらないうちに身を翻す。
駄目だ、絶対。これ以上この場所にいれば自分は不幸になる。これは自分の領域の話ではない。予感でもなく予知でもなく、もはや感知である。レシア=フォーテットはロディアス村の娘。絵を嗜む娘。それ以上でも以下でもない。
大げさに言えば、それは本能が感じたままの逃避であった。全身の毛穴が逆立つような感覚を覚える。
「こら、レシア―――」
レシアは息を弾ませ、緑の木々を縫って視線を走らせる。瞠目。栗色の、柔らかそうな毛質の男の子――レシアよりも六つか七つは年下であろう――が、こちらを凝視するようにスカイブルーの目を見開いて立っていた。一つ首を振ると、もうそこに驚愕の表情はどこにもない。
「こちらへ」
彼がすっと背筋を伸ばすと同時に降って湧いたのは、音楽的な要素を持ったひどく耳障りの良い声であった。
「こちらに来て下さい」
少年の視線がレシアの背後――何事か唱えたローゼンハイムを射る。そんな表現がぴたりと当てはまるほどに、老成した視線を持つ少年だった。魔導師はレシアにそうと解るほどにたじろいでみせる。
「な……」
「魔導師ローゼンハイム=ダルセイト、彼女はぼくが預かります。レシアさん、こちらへ来て下さい」
知り合いなのか?
確認の意味を込めて振り返ったところ、ローゼンハイムは取り繕うように「いや〜まいったね」と言わんばかりに後頭部を撫でている。非常にのん気な態度に見える。ということは今現在のん気な状況と判断していいのだろうか。
「魔術の無効化を一瞬でやってのけるか……凄いなお前。初対面なのにフルネームまで呼ばれちゃってさ。俺も有名になったもんだなァ」
「どうも」
「――で、誰だ? 額面どおりただのガキ――リアトリスの王子様じゃないだろ」
ななななな何を。王子って言った。今、王子って。
「ご明察。まあ、神の花嫁である彼女のご意見番みたいなものだと思ってくれればいい。あなたが彼女に無理を強いるから、具合のいい場所にいたイディヒリッヒ=ローティアス=グレタ=セディオウス=リアトリスの身体を借りただけのこと。公然たる善意だよ」
……長い名前である。
「言う気はない、と。姿も見せない正体不明か。まったく、なんでこんな場所に一国の王子様が一人歩きなんぞしてるんだ。側近も近衛もたるみすぎだろう。大方ねーさんが心配で抜け出して来たってところだろうな」
「そうだね。さて、話がまとまったところでいいかな。無駄話をしている程ぼくも『彼』も彼女も暇じゃない。―――レシアさん、どうしますか?」
まさしく他人事でいたレシアは引っ張り込まれた会話にふと正気に戻る。あまりにも訳が解らなさすぎて、中庭をまじまじと観察するに至っていたのだ。
「このまま彼についてシュレイナ姫救出に携わるか、ご実家にお戻りになるか、どのようなことでも構いません。どうされますか」
そしてなぜ敬語になる。
そっと目を伏せた。青い柴が目に映る。
「……きみも、あたしが聖女と思っとーか?」
「はい。思っています」
「なら、あたしに何ができんねー……? ダルセイトさんとは違う、普通の、ただの小娘じゃー」
「ダルセイトはどうでもいいですが、あなたは少なくとも普通の小娘ではありませんよ。第一比較するものではありません。魔導師と神の花嫁。次元が全く異なるものです」
レシアは黙る。このまま帰ってしまうのは余りにも後味が悪そうで、しかし自分の力を信じることはできず、悪魔は怖い。
「レシア」
声の主はローゼンハイムだった。
「お前の力というのはな、死に関わる者を見ることのできることだ。死人、死霊、悪魔、天人。少しイレギュラーで子鬼、妖精。ちょっと(脅してやりたくて)言葉が足りなかったな。お前は戦闘要員じゃない。人間の魂を食う悪魔なんぞ絶対見えない俺の目になってもらうための要員だ」
「そ、そんなもんが見えるんかー……!」
衝撃である。
「見える。歴代の聖女はそういう女たちだった。ただ見えるだけだ。法術が使えるとか、神託を聞けるとかじゃない。聖女とは例外なく見る力を持つ女のこと。だから俺は、神の花嫁転生説は否定派なんだよ」
世界に力を用いる人間は大別するなら二通りある。
魔術を使う魔術師・魔導師と、法術を使う僧侶・聖人。
法術とは魔術と対極に位置する力である。式と理に支配され、世界の真理を読み取ることによって現象を起こすのが魔術、法術とは――僧侶に言わせれば――神の力を転用し、主に『癒し』を司るものだった。
ただし五十名ほどいる大抵の僧侶は神託を聞くのが関の山で、まともに法術を扱える僧侶は世界に五名とない。魔術師や魔導師などよりもある意味存在価値は高いと言えるだろう。
もっとも魔導師と呼ばれる存在も世界に十指を満たないわけで。魔術師はその十倍ほど。どちらにせよ少ないことは事実である。
また、彼らは魔導師や魔術師と比較してさらに浮世離れた人柄の持ち主であることが多く、魔術を用いる者のように好き勝手を行なうこととは対照的に、俗世から身を切り離し簡単に人が尋ねていけない場所で終生を過ごす。まったくもってご苦労なことだとしか言いようがないような集団なのである。便利な能力を持っているのには違いないが、肝心の僧侶が現場にいないのだからどうしようもない。なにせ彼らは『スウコウ』なのだ。それを"自負"しきっている。
そしてその中五指に満たない中のさらに一つまみに、たまに現れる。『聖女のよう』に死人、死霊、悪魔、天人を見ることのできる僧侶が。
魔導にも魔術にもただの人間にもできぬこと。その域に達した僧侶は聖人と呼ばれる。それ故に女たちは『聖女』と呼ばれた。
つまりは後付なのだとローゼンハイムなどは思う。聖人にできたことができる女だから聖女。
もちろん『僧侶』や『聖人』はゼナ教などの宗教家とはまったく異なる。
―――見るだけ。
「そう……そうけー。う……ん、それなら」
できる、かもしれない。
「やってくれるか?」
できるかもしれない。
「なあダルセイトさん。王女様は、あたしが手伝わんとやっぱり」
「死ぬな。かなり頑張ってあと一週間というところだろう」
「別に死んでもあなたは困ることはない。彼の手伝いには危険が伴うかもしれない。それでもやるというのであれば、最大限助力します。どうしますか」
ローゼンハイムは盛大に顔をしかめ、溜息をつく。レシアはびくりをのけぞった。男がこんな態度を示したのは初めてであったので。
イライラとした調子で魔導師は言う。
「あのなァ、いい加減にしろよ。どこの魔導師か知らんが突然降って湧いて何様のつもりだ。耳障りだ。興味がないなら魔導師らしく見てみぬふりでもしてろ。ああそうだ、同業者として言っておくが、今までさっぱり無視してきたんだろう<魔灯の会>にも出頭しろ。師はどこの誰だ。この世にまだ魔導師いるなんて知ったらあいつらすっ転ぶぞ」
「嫌だよ、あんな偏屈のばかり集まる会合。だいたいなんでぼくが。それからね、間違いなくこの国の王女に興味はないが、ぼくにはレシアさんに付き添っておく必要がある。あなたこそどうしてゆかりもない王女にそこまで肩入れを?」
「―――ゆかりがないわけでもない。気まぐれだ」
まとうの会? この男の子(身体は王子様で中身は別物のようであるが)がなぜ自分に付き添っておく必要があるのか? 一国の王女様とゆかりがあるとはどうしうことなのか?
疑問は尽きないが、それらすべてを流すことにした。身に降りかかっている出来事はもはや自分の常識を超えているのだ。今さらそれで計っても仕方がない。人間、諦めと開き直りが肝心である。
豪奢な馬車に揺られたこと、王宮にいること、貴族の人間に頭を下げられたこと、恐怖の対象として寝物語に聞かされた『魔導師』が目前にいること、自分が聖女だと言い張る人間が二人もいること。
思い返せば「ああつくづく非常識だなぁ」と思うわけである。
剣呑な雰囲気を漂わせる大小の男を見やり、レシアは一人静かに覚悟を決める。できることがあるなら、怖いけど、それで人一人の命が救えるならば。
たまには胸を張って自慢できることをしてみるのもいいはずだ。
「うん、わかったちょー。あたしにできることやるけー、ダルセイトさん、何すればいいんね?」
ローゼンハイムは自身がそうだと分かるほど微かに瞠目し、わずかに目元を和らげる。
「そうか」
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