第1話『聖女、闇の悪魔と銀の姫君に出会う』

十一.


 果たして謎の魔導師(仮)をも同伴でやって来た場所は、ウォーディリアティス城離宮である。シュレイナ姫が静養のために身を置く場所は、まさしく陰の気で満ちに満ちていた。これが一般人には見えないと言うのだから世の中は不思議というもの。
 レシアは及び腰にローゼンハイムの背後に隠れ、そっと顔を覗かせる。
「ほんまにここへ入るんかー、ほんまに入るんかー……」
「しっかりしろー。いいか、入ったらまず周囲を確認。動くものがあれば俺に方向を知らせる。どうしても無理だと判断するなら無理はしない」
 おびえ混じりに何度も頷き、食い入るように白い建造物を見つめた。否、本来白いはずの建物は彼女の瞳越しにはすでに灰色を帯びているように見える。
「では行きましょうか。レシアさん、ぼくの傍から離れないように」
「今は忙しいから見逃しておくが………日を改めて絶対どうにかしてやるからな、お前。もとよりその身体はこの国の世継ぎのものだということを覚えておけよ」
「行きましょう」
 淡々と事は進む。あっけないほどに。

 近衛の男たちは怪訝に一行を見、顔を見合わせ身構えた。
「どなたですか。これより先は立ち入ることまかりません」
「お引き返し下さい」
 口々に言う彼らの言葉をローゼンハイムは黙殺する。レシアらを手の平で制し、彼は剣の前に立った。
「どけ」
 たった二文字の言葉と言うものおこがましい音は、ひどく重圧感を秘めているように思えた。少なくともレシアには。
「俺の言うことが、聞けるな? 王女を助けに来た人間を追い返すような真似はしないな?」
 疑問形を帯びた断定。空間ごと男たちを握りしめるような言葉は、びりびりと肌を刺激する。
 そしてついに無言の近衛らは何事もないように剣を降ろし、守るべき道を開けたのだった。
「ご苦労。これより先何が起ころうとも騒ぎ立てるな。宰相の使者および、本人が来たなら取り次いでくれ」
「かしこまりました」
「仰せの通りに」
 頷き、彼女に向き直る。
「はい解決。行くぞー」
 レシアは軽く身震いする。今の瞬間までこの魔導師を、どことなく信じきっていなかったのかもしれない。理屈はさっぱり分らないが、この人は――魔導師は、大の騎士の意思を捻じ曲げてしまったのだ!
 まんじりとローゼンハイムを見上げ、レシアはかぶりを振った。それに声をかけたのは少年だった。
「少々よろしいですか、レシアさん」
「え。ああ、どうしたちょー……?」
 この男の子も、そんなことができるのだろうか。
 ローゼンハイムは魔導師だと言っていた。
「まずお詫びをしなくてはなりませんね。初見がこんな形で本当に失礼します。僕はイリス、貴女の守護です」
「はぁ」
「貴女のことはこの身に代えても守ります。――って、あぁ『この身』に代えては少しまずいんでしたね、貴女を守りつつこの身を守りますから。どうぞご心配召されず」
「なあ、イリスくん。きみは一体、誰じゃー? どこの誰で、なんで今現れて、どうしてあたしのこと守るとか言うんねー?」
 イリスは小さく笑う。
「変わりませんね。――まあ、いいじゃないですか。深く気にしないで下さい。それよりほら、彼が扉を開くようですよ。気をつけて下さい」
 少年が言ったように、厳しい顔をしたローゼンハイムが金の仰々しい取っ手に手をかけていた。視線だけをこちらに寄越し「開けるからな」と訴える。

 ――扉を開く。
 古今東西、大昔から物事の始まりを意味する言葉である。
 扉が、開く。


十二.


 その瞬間の感覚を、なんと表現すればいいだろう。絶望的に息を呑んだレシアはひるむ。
 そうだ。と脳裏を過ぎるものは――何年も放置された納屋の掃除を手伝わされた時のことであった。扉を開いた瞬間、どうして開いたのだろうと思うほどの大量の砂埃に見舞われたのは今春のこと。
 そして今、彼女を襲いかかっているものは余りに濃い、禍々しい気配である。空気が固く、粘質を帯び、凝っている。黒い。一息吸うごとに肺が埋もれていきそうになる。

 ――苦しい。
 一歩後ずさって足がもつれる。
「大丈夫ですか」
 ――苦しい。
 更に下がって意識が朦朧とする。
「落ち着いてください。大丈夫ですから」
 ――くるしい……!
「落ち着いて!」
 ほとんど涙目になりながらレシアは固く閉じていた瞼を開いた。「もう無理だ」と伝えようと顔を上げ、そして絶句する。
「な、……に。これ」
 広い空間、白い大理石の上を蠢くもの。地を這い、のたうち、ぞろぞろと這いまわるもの。
 犬のような獣があり、虫のような生き物があり、幼虫のようなそれがある。そのどれもが巨大で、あまりに巨大で、顔が裂けるほどに真っ赤な口を開いた犬は穿った瞳でこちらを見る。
 否、黒いものたちは今や全てがレシアを注視していた。濁ったそれがこちらに押し寄せてくる。
 まるで悪夢のような。
 ふと見れば、ローゼンハイムの足元に蟲が小刻みに震えながら鎌首をもたげている。絡みつくように。
「ダルセイト、さん………っ!」
 叫びのような忠告。
 歯の根が鳴ってしまうのはもはや当然だった。
 なんだこれは。悪夢を具現化したような、濁った赤褐色の空気と黒い存在。朝目覚めればぐっしょりと寝汗をかいてしまえる夢。
 それが目の前にある。広がっている。
「だめ……、駄目。下がって、早く………!!」
「……なるほどな。了解」
 平たい声にレシアは頼もしさよりも苛立ちを覚える。
「ダルセイトさん……っ!」
「仕方なかろう。俺には見えないんだから。なんだ、何が見える?」
 面食らい、そうして肩を包むように温かな両腕があることに気がついて、レシアは助けを求めるようにイリスを見上げた。自分より幼い彼を。冷や汗をぬぐってくれる。
「大丈夫ですか? ――ダルセイト、指輪を」
 投げて寄越されるは銀の輝き。片手で受け取り、イリスはレシアの手を取った。
「これを付けてください。少しは見えるものが減るはず」
「大丈夫か……?」
 劇的に何かが変わったわけではない。けれども何か薄い膜のようなもので守られているような感覚が彼女の尖った神経を慰める。閉じて、そうして開いた視界は澄んでいた。
「あ………」
 そこが広い室内であることに気がつく。大理石を貴重とした室内はレシアの家が三つ四つほどすっぽりと納まりそうに広い。四隅に巨大な支柱。そして一段高くなった奥には、紗のかかった天蓋付きのベッドが横たわっていた。
 心臓が鳴る。
「見えますか?」

 ベッドの傍らには椅子があった。金の飾りが施された、赤いビロードの長椅子。そこに、誰かが腰かけている。床に落ちる影がない。重さがない。
 大仰に背もたれにもたれかかり足を組む。またそれが板につく長身で、黒い衣装に身を包んだ男は鼻面を膝に擦り寄せてくる大きな化け犬の頭を撫でていた。くだらないものを見る調子で赤い瞳をこちらに向ける。
 一目見て分った。
 彼だ。彼がこの状況を作り出した張本人だ。
「……どこだ」
 ローゼンハイムの声にレシアは顔で奥を示す。犬は体勢を下げ、低く唸り声を上げ始めた。
「分かった。下がっていろ」
「でも」
 言い募るレシアの腕をイリスが無理にでも引く。
 けれども恐らくは魔導師はろくにこの光景が見えていないのだろう。あの巨大な犬のことも、未だ周囲をうろつく黒い霧のようなものも。
 するとどうしたことだろう、化け物はローゼンハイムから興味を失ったように身を翻したのだった。レシアは目をしぱたかせる。
「魔導師が一人に、女が一人。そして―――」
 口を開いたのは紅蓮の瞳を持った男で、ふと思い出したように口元を歪めながらレシアを見やる。
「ああ。と言うことは、女はリステッセか……。ならば()れの声が聞こえるか? 女、名は」
 気圧される声。
 それしか見えぬように視点が一つに搾り取られ、体の芯から心が震える。
「名は」
 突き詰められるように、追い込まれるように。
 息が詰まる。
「言ってはいけません」
 隣に立つ小さくて大きな存在――イリスだった。
「名を取られてはいけない。ダルセイト、黙認していたがやはりお前は足手まといだ。消えろ」
「何……」
「ぼくは彼女の守護でお前の守護ではない、よってあの悪魔を相手にお前を守ることはできない。それがゼート様より頂いた力の制約であり誓約。理解しろ。……知識を求める者として消えたくないのなら、隅の方でおとなしくしているんだな」
 ローゼンハイムは呆然と場を忘れた。そもそも彼は室内に三者よりの他の姿を見つけられていない。危惧すべきは濃厚な瘴気以外にないのである。
 もちろん何かがいるということは、分かっているつもりであるが。
「ちょ、ちょっと待て。ゼートだと? あの?」
「そうだ、無駄口を叩いている暇はない。説明は後。レシアさん申し訳ありませんが、呆けてないで立ってください」
 ぎこちない動きで数度頷きレシアは言われた通りにした。腰を抜かしていたのだ。
 信じられない。神話――聖典が目の前で動いていると言う。
 もう一度思う。

 ―――信じられんねー!!

 唖然と詰めていた息を、肩の強張りと共に解いたのはローゼンハイムだった。
「――道理でおかしいと、思った。お前ほどの魔導師がいれば、俺に分からないはずがない」
 魔導師はどうやら信じたのだろう。ぶつぶつと独り言を吐き、考え込む風情である。
 なんでじゃあと細く呟きながら、一人取り残された彼女は遠い目をした。
 しかし現状はそれを許さない。刻々と状況は進んでいく。
「あれは、闇の悪魔です」
 イリスの声にピクリと眉を動かしたのは、相対する――なるほど闇を切り取ったような――悪魔である。
「ゼランカルフォル?」
 ローゼンハイムの問いが、レシアには何を意味するのか分からなかった。
 イリスから是の返答は返ってこない。
「シディアリーズフル……?」
 是の返答は返ってこない。
「………イドゥルリディアス。……まさか」
「正解」
 言われた魔導師は目に見えて血相を変える。
「おいおいおいおい。筆頭じゃないか。――……分かった、それなら仕方がない。苦々しい限りだが、そちらの通り、おとなしくしておく」

 人には見えぬ泰然と動かない存在を『闇の悪魔、イドゥルリディアス』と言う。
 闇に属する悪魔と一口に言っても、馬車に乗った者に纏わりつき視界を奪う程度の屑属性から魔力甚大にして一国を沈めると言われる最高位まで大勢の者たちがいる。いるとされている――少なくとも人の間では。
 イドゥルリディアスはそれであった。
 確かにこれほどの陰の気をもたらすことのできる悪魔といえば最高位以外にありえない。が、よりにもよってイドゥルリディアス。
「確かにそれを己れを意味する言葉の一つだ。それで?」
「お前ほどの悪魔がいて、目に入って、どういう目的あっての国に留まるのか知らずに放置はできないということだ」
「貴様の疑問に対し、親切丁寧に答えてやるとでも思うのか」
 笑含みに言った彼は立ち上がる。
「下らぬことで己れの時を邪魔立てするな。立ち去れい、人間」
「――ぼくは人間じゃないのだけどね。まあいい、全てはリステッセの意志のままに」
 イリスはレシアに向き直る。
「どうしますか? 貴女が望むならばこの者を(ほふ)ることもできます。ご決断を」
 すっかり置いてけぼりを食らっていたレシアは突如振られた言葉にまごついた。とても意味が分からないとは言えない雰囲気である。つつつと隅の方でおとなしくしているローゼンハイムの傍に寄り、肘でつつく。
「なあ、ダルセイトさん。なんじゃあよう分からんのやけー……」
「……のん気なヤツだなお前も。――いいか、リステッセっていうのはつまりお前のこと。聖女を指す言葉だ。そしてあのオウジサマを着た中身はどうやら天人だな――俺も初めて見た。あれはお前の守護だと言っている。主人であるお前に、この室内にいる悪魔を殺すか逃がすか聞いているんだよ」
 レシアはぎょっと目を見開いた。
 殺すか生かすか。まさしくデットオアライフ。
「どうする? 天人はその性質ゆえに自身の理由で殺生はできないことになっている。お前が決めるんだ」
 また、天人とは嘘をつけないという性質を合わせ持つと聞く。他人の身体を乗っ取るなどということも、魔導師ならば大した術だが天人ならばそう大それたことではない。それは悪魔や天人の生き物に触れられぬ存在が、そうするための技なのだ。ただし、触れられぬ条件は同じであってもそれは天人にのみ行使できる。

「あたしが、決める……」
 食料の糧として家畜をしめる時ですら役立つことあたわなかった人間に、殺すか殺さぬか決めろという。
 レシアは悪魔にブラウンの瞳を向けた。
 ローゼンハイムの反応から考えて、きっともの凄く凶悪な悪魔なのに違いない。人の魂を食い、殺戮を好み、血を求める。
 そんな典型的な悪魔像を記憶に昇らせた彼女はぶるりと身じろぎした。
 そうしてふと思う。
 ―――やったらば、どうして襲ってこないんじゃー?
 十分時間はあったはずである。離宮に立ち入った瞬間レシアは呆けていたのだ。その余りに濃い陰の気に。
 そして今、こうして話していられる時間がある。少なくとも悪魔は積極的にレシアらをどうにかしたいようではなさそうだった。
 ならば。
「あの、ちょっといいけーの? イリス君」
「イリスで結構ですよレシアさん。どうしました」
 戸惑い戸惑いイドゥルリディアスの方角を(とても本人を直接見てみようという気にはなれない)ちらりと見やり、ひッと視線を外す。
「あのイドゥええと、なんとかアス言う悪魔は、どうして王女様に取り憑いてるじゃー……? あたしたちを殺そうとしないのは?」
 イリスは微笑する。
「そうですね、聞いてみましょうか」
 間違ってもレシアはそういうつもりで彼に訊ねたのではない。
「え、あの……―――」
「王女、シュレイナ=アリセディリティーテ=フォン=リアトリスを何ゆえあって病に至らしめるか? イドゥルリディアス、答えよ」
 ああ、訊いてしまった。
 あわわと唸り声を上げながらレシアはその方角を流し見る。(やはり直視しようと言う気にはなれない)
 悪魔はただ笑みをその気配ににじませる。
「答えて欲しいか?」
「答えよ。そうでなければ、こちらにも相応の考えがある」
「ほお、それはそれは……」
 歩みを進めたのは天蓋つきの豪奢なベッドで、彼は絹の帳を開く。レシアは現れた『もの』を、名人形師が丹精込めて一生の時をかけ造り上げた銀のそれだと思った。
 流れ落ち、寝台で渦巻く頭髪は削りだしたばかりの銀の断面。その色――もっとも銀が美しい状態である。小さな面はただ白く、完璧な造りの鼻筋があり、唇がある。閉じられている瞳を開ければ、印象に呑まれることだろうと確信する。何もかもが端正かつ緻密な目もくらむような美女だった。
 しかしともすればその顔色が白すぎることに気づく。
 細すぎる手首に足首、影が差すような面立ち。
 ああ、とレシアは唸る。この方が、王女様なのだ。

 イドゥルリディアスは枕辺に腰掛け、世にも愛しげにそっとその頬に手を触れる。頬に影は落ちない。
「己れはこの女が欲しい。それだけだ。それ故に国に留まり、この場所に身を置く」
 その気になれば一国を沈めることも可能な悪魔が語りだしたのは恋のもので、ローゼンハイムを除いた二人は呆気に取られた。
「――どうしたんだ?」
 悪魔の声など聞こえないのだ魔導師は。
「ええと、そちらのイドゥなんとかアスが王女様を好きだと言っとーよ。……己れはこの女が欲しいって」
 レシアは思わず頬を赤らめたが、一方ローゼンハイムは眉を寄せる。
「それで、殺すか……」
「――え」
「言っただろう。あれが憑いている限り、王女は長くは生きられない。長くないどころか後一週間と持たないだろうよ」
 そのしたたかな衝撃。レシアは立ち尽くす。
 ――死ぬ。
 直裁的な言葉だった。
 好きな人を殺す。理解できない。
「ひどい」
「ああ、ひどいな。それでどうする?」
 決断しろと言う。
「――いやじゃ………」
「ん?」
「嫌じゃ。死ぬとか死なんとか、そんなもん――あたしみたいな学のないもんが決めていいはずがないねー! なあ何でじゃ、なんで好きな人殺すとか言うんね? そんなひどいこと、なんで……?」
 見つめようと思うことは多大な努力が必要だった。実際見つめてみるのはさらに力が必要だった。それでもレシアは悪魔を見る。見なければならないと思った。
 初めて真正面から見やった彼は、人間にはない見栄えを持った男の姿で。美醜の問題などはるかに超越した存在。新月の夜――まさに闇の色を纏ったその色の支配者であった。
 冷や汗がにじむ。身体が震え、噛みしめていないと歯の根が鳴る。地に立つ両足が戦慄き始めたころ、イドゥルリディアスは表情を見せた。眉を開いたのだ。
「中々豪胆だな女。しかし貴様のような人間にまじまじと見てもらっても全く嬉しくはない。女、貴様には己れの姿が見えるだろう。けれどもこの女には見えんのよ。分かるか。そこの魔導師と同じだ」
 普通の人間に彼らの姿を見ることはできない。
 銀の姫――シュレイナ王女はどれだけ異質な姿形をしていても普通の人間で。
「己れがどれだけシュレイナに言葉を語っても聞こえはしない。身振り手振りも意味がない。つまりはこの女にとって己れは無と同じことだ。虚しいことよな。しかしそれも―――」
「しかしそれも彼女が死ねばそうでなくなる、かな? 確かにね、人は今際(いまわ)になれば全てを見ることができる」
 けれども、と腕を組むイリスは今や少年の顔ではなかった。何十年と生き抜いてきた老人のそれをした彼はひたと闇の悪魔を見つめている。
「イドゥルリディアス、人間の女が例え死後であっても悪魔であるお前を受け入れるとでも思うのか? 楽観的過ぎる。前代未聞だぞ」
「愚かなことを。その点ぬかりはない。己れの力と、この姿があればできぬことではない。しかし今、この状況では確実に想い伝わらぬ」

 可能性にかけるのだと言う。  そうりゃなぁ、とレシアは思う。シュレイナ姫の綺麗さと言えば人間の領域ではないし、こんな――もはや美しいと言うよりは一つの衝撃として目に飛び込んでくるような麗人を、今後お目にかかることもないだろうと軽く予想がつく。
 王様が溺愛するはずである。『銀の姫』の二つ名も理解できる。
 悪魔がみそめるほどの美しさ。それは確かに生きとし生けるものならば、憧れを抱かずには居れないだろう。

 しかし、どう考えてもイドゥルリディアスの言い分(それ)は一方的。自身を見てもらうために殺す。そんなもの、絶対駄目だ。
 しかし、どう考えても説得するにはこちらの能力がつり合っても居らず、嫌だと言われてしまえばどうしようもない。
 レシアにできることと言えば、糸紡ぎに針作業に料理に洗濯に――とにかく家事全般と、そして絵を描くことだけなのだから。

 ――絵。

 ああ、そうか。
 レシアは納得した。神様がいるのだとして、どうして自分が選ばれたのか分かった気がした。悪魔を見ることができる、その理由。魔導師でもなく魔術師でもなく田舎娘のレシアが。
「あ、あのな……」
 およそ自分より高位のものに意見すること。
 静かで、言葉が空間に反響する、それが怖い。
「その、絵を描くとかどうなんね……? あなたの絵を描いて、王女様に見せる。そうすればあなたの姿が王女様に伝わるじゃろー………? あたしが絵を描いて、あなたの言葉を通訳する」

 死ぬとか殺すとか追い払うとか、異端を排除した時酷く悲しくなるのはなぜだろう。異端とはなんだ。異なるとは何が異なるのだ。知ろうとしないだけではないのか。
 レシアには答えが出ない。出すことができない。弱いからだ。霧に包まれた強いものが怖い。

「精一杯、あたしにできる限りのことをやるけー」
 だから。
「だから好きな人を殺すなんて悲しいこと、言わんで、―――――」


「貴様が?」
 グッと凝るようにイドゥルリディアスを中心として空気が集束する。黒い霧が渦を巻く。全ての影が同心円状に鳴動して。
()れの手助けを?」
「……します」
 呂律さえ怪しい言葉で頷き返したところで、それらが、霧散した。
 瞠目する。

「それはいいな……! おかしな女、異な女よ!! 愚かすぎて殺してみたい」
「な、」
「爪の先ほども力持たぬ者に何ができるか。手伝う? なるものか。手伝われる? まこと滑稽。己より軽き者に持ち上げられる。三文劇だ。貴様が真に守護するものは何だ? 己の命か? 他人の命か? 金か? 生活か?」
 言葉と共に空気が突き刺さる。多大なる圧迫感となってそれはレシアを押しつぶそうと駆けて来る。突き刺さる。
「――愚かだな」

 後へ腕を引かれ、目前に光が立った。イリス。
 情けなくて目頭が熱い。こんなにも自分は守られている。無力だ。
 神々しいそれに冥土へ引きずり込む触手のように伸び来る影が消え失せる。
 そのさらに奥で闇が動いた。
 変動する事態に思考はついていかず、純然たる畏怖が訪れる。

 重圧が止む。ローゼンハイムの腕の中で守られながら、何もかもが一点に吸い込まれていく様に目を奪われる。
「しかし、それもまた一興。――よかろう。女、手伝ってくれ。その話乗った」

 残された一点――影なきイドゥルリディアスは超然と笑った。


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