第1話『聖女、闇の悪魔と銀の姫君に出会う』
十三.
初めに言があった。言は神と共にあった。
言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。
成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
光は闇の中で輝いている。闇は光を理解しなかった。
イドゥルリディアスは知っている。闇は光を理解しなかったのではない。捕まえられなかったのだ。決して、勝てなかったのだ。
阻止できなかったのだ。この世は言に支配されている。
イドゥルリディアスは理解している。
だからこそ彼は彼女を無視し得なかった。
眩しく、無垢で、透明で、何より美しい白い細工もののような生き物。歩く人もわらう悪魔も唄う小鳥もおどる天人もすべてが等しく無条件に目を奪われ、心震わされ、表情を強張らせ綻ばさせられる。それは神に限りなく近い造形であり、祝福であった。
どうして闇がそれを無視できようか。
何も知らぬ顔をして、すべてが幸せである顔をして、微笑んで、ふとうつむいて、美しい物に取り囲まれて暮らす美しすぎる娘に、触れてみたいと思わずにいられただろう。
この世の物者が、惹かれずにいられるほど神とはたやすいものではない。
数多なる粗雑なものゆえに。
見捨てられたものはさらに。
遠く隔てられたものだからこそ。
背中合わせゆえに限りなく近く、背中合わせゆえに差し伸べた指先は絶望的に遠い。
自体は速やかに集束していく。
第一に魔導師ローゼンハイムはイリスへ、自身の身体の使用許可と引き換えにイディヒリッヒ王子の身体の返還を要求した。それが叶うと第二に宰相とセトアリアを呼びつけ、ただちにシュレイナ姫を保護させる。「ここはどこなんだ」混乱気味の王子の返却もする。
そうして驚くほどの手際のよさで軽食の用意を整えた彼は、絵画道具の一式をレシアに用意してみせた。もちろん実際に用意したのは城の者である。
「レシア=フォーテット、迷惑をかけて済まない。あの娘を助けてやってくれ」と真摯な言葉を残した彼は、ここで一度自身の内へと姿を消すことになる。
「シュレイナ!」
「姉上ご無事ですか!? カヅツィール、姉上に大事ないのか!?」
「僭越ながら陛下、殿下、我々にお任せを。今はシュレイナ様の御養生が先にございます」
などと、悲嘆入り混じりやかましい扉外を背景に、闇の住人は人間の――聖女であるところの娘を見やった。深く瞬き、まじまじと見つめる。
それは雑多な生き物であった。どこにでもある、産み落とされた者であった。稚拙で、無知で、まだそれに気づいていない者。
魔導師の身体を着た天人がじろりとこちらを睨み据えたので、彼は口元を歪め――笑み返して口を閉ざした。彼が話す必要はないと思われたので。
木炭を持ち、カンバスに向かう。昔も今も、レシアにとって絵を描くことは即ち手段だった。
知ること。伝えること。世界を見ること。
どのように形成され、あり、横たわっているものなのか。描き取ることこそが知る術であり、見る術であった。
何を思い、想い、考え、生き、育ち、知り、学び、感じたのか、有耶無耶のそれらをきれいに洗い出すための手段。世界を知るために彼女は絵を知った。
もはや理解など関係なく動く指先。イドゥルリディアスという存在を描くのだという意志のもと、彼女は指と腕を奮う。形作っていく。カンバスに木炭が踊る。くるくると表情をうつし出していた瞳が闇のみを捉える。
黙々と綿々と時は流れ、陽が死に、ますます存在感を深くした――あるいは同化し、一見薄れた――イドゥルリディアスが静かな空隙に降って湧くように言葉を発したのは突然のことだった。
「無知というものを素晴らしいとは思わぬか?」
ローゼンハイム――間近に控えるイリスの肩が浮く。
真白かったレシアの面に苦い表情が昇り、「――……思わんね………」緩く頭を振った彼女はじっとカンバスを見つめた。
ここには世界がある。確かに切り取られた世界が。
―――世界というものは、どうして目に写せばたちまちにこぼれ落ちてしまうのだろう。留めておくことができず、抱えておくことはもっとできないのはなぜなのだろう。
昔思ったことを今思い出す。
「しかし神とは無知なものだ」
悪魔と呼ばれる存在が、なにやら神を語りだした。途惑うレシアに言葉は続けられる。
「神はかつて地上の全てを創造したという。新たに造るということは、知らぬものを造るということだ。神は、無知なくしてありえない」
ひどくうろたえた。眇められた対の真紅に見据えられ、すくんだ肩にイリスはそっと手の平を置く。
「戯言に耳を貸さぬよう、惑わされぬよう。貴女は貴女の信じることを信じればよいのです。――無知の残酷さを、貴女はご存知なのでしょう?」
浮かべる笑みは柔らかい。脳裏に何か甦りかけた気はしたものの、それは形になる前に霧散する。嘆息したイドゥルリディアスはすっかり興が削げたように明後日を向いた。それが彼の定位置なのである。
それきり口を開くことは無かった。
十四.
「―――できた………」
深く、深く息を吸い込めば絵具の匂いと朝の香りが胸に広がる。詰め込んでいたものを吐き出すべく呼気する。まぶたの裏に朝がちらついた。
できた、とレシアは繰り返した。
できたのである。一晩かけて色を落としていった絵が。
月のない夜。果てのない空間。屠殺の赤。匂い立つ薔薇の赤。
鬼気迫る調和した色合いに満足して頷くとレシアはそれを公開する。蠢く狗が立ち、平らに眺めるイドゥルリディアスが立ち上がった。思わず腰が引ける。これはもう条件反射であるので仕方が無い。
イドゥリディアスを初めに、昨晩は誰ひとりとしてまんじりともしなかったのだが闇はそもそも眠りを知らないのかもしれない。実に平常を思わせる出で立ちである。
「―――伝えてくれるか?」
「は、はははいっ」
わたわたと椅子を立つ。
影なき闇の住人は朝日に透けて見えるような気がした。白い細かな粒子が降り注いで、黒衣を白く染め上げている。
「初めて目にした瞬間、こんなものが世にあるのだと驚いた。己れが見てきた何者よりも真に迫った存在だった。己れが持たぬものを貴様はすべて持っていた。焦がれていた。貴様の存在は胸を刺し、絡め取る……」
己に向けられているものではない静か過ぎる熱烈な言葉に、レシアの頬がゆるゆると染まった。
「手を取り、抱きしめられればそれだけでいい。幸福というものがあるとすれば、それはそのことだろう。笑うならば、その原因となるものを一つ残さず全てその手に差し上げよう。笑みを陰らせ苦しめるものがあれば、その原因となるもの一つ残らず灰塵に。―――月を望むのならば、貴女のために闇を取り払い、闇を差し上げよう。言葉はいらぬ、ただ傍に。可能ならばこれを直接に伝えたい。貴女を愛してる――――」
闇の悪魔は最後に『それ』を口にした。レシアは『それ』を聞いた。
前方に銀の甲冑を見に纏った男が二人、脇には医術に携わる老爺が一人、背後には前方と同じだけの威圧感が。痛みを感じるほどの緊張感の中粛々と向かった先は、生きていることが疑わしい絶世の美姫の寝室である。物々しい守護の先、その清廉な美貌の持ち主は今レシアの言葉に耳を傾けていた。
「……まあ」
ありのまま伝えたところで、レシアが目を回すほど豪奢な褥に横たえたままシュレイナ姫は感嘆した。
「わたしに、そのようなことを仰る方がいるのね?」
「それで、その……」
痛々しいほど白くか細い――幻のような王女に付き添う侍女の目線は鋭い。静養中の主に小娘が何用だと視線で訴える。レシアは控えめにカンバスを取り出し「これを」と示した。
ぎょっと息を呑むや押し殺した悲鳴が侍女から上がる。
「何ということをっ! 姫様、ご覧になさいませんよう。せっかく取り戻されたお体に触ります。―――場所をわきまえなさい、娘。ここをどこだと思って―――」
「――ジュリア、失礼ですよ」
困ったよう諌める声に侍女は反駁する。
「姫様! 貴女様はいまだ病に犯されているのですよ。静養中の姫様にご面会する特例を与えられたことだけでも僥倖だというのに、このような毒々しい肖像を見せられる謂れはございますまい。宰相のご命令でなければ私は、絶対に、受け入れられませんでした」
「ジュリア……」
嘆息した彼女はすっかり肩をすくめて小さくなったレシアに、弱く微笑みかけた。失礼千万な胡散臭い娘に侍女はムッと押し黙り控えた。このような庶民の小娘が、高貴な主に対して何をできるとも思えないので。
「離宮で、あなたの声を聞いたわ。わたしを助けてくれようとしたのでしょう? 助けてくれたのでしょう? ありがとう―――……見せて下さい」
「あっ、わ。はい」
細い指がカンバスをなぞる。思い詰めたように見つめ、彼女は一つ瞬いた。
「―――わたし、この方、知ってる。知ってるわ―――見ていました」
「見ていた、んですか?」
「……知り合い、です。夜毎に様々なお話をしてくれました。外の話、童話、神話。ほんとうにたくさん。わたし、お城の外へ出たことないから、それが楽しくて。生まれてから一番楽しいと思えた時間でした」
「シュレイナ様」
愕然とした声の持ち主は侍女。
いつのころからだろう。枕もとにそれが現れるようになったのは。
声もなければ影もない。姿なき存在。けれどもどうして、そこに『ある』のだと鬱蒼とした存在感ばかりが残る。まるで近づくことを途惑うように、それは留まり続ける。
ある夜、彼女は言った。
「あなたに会いたい―――」
小さな頃から一人だった。独りきりだった。国王である父は彼女を溺愛し、どんな穢れも煩いも近づくことあたわず、近づいて来なかった。
―――社交の場? お前はそんなことを気にしなくていいんだよ。あのようなくだらぬ場所に行く必要などない。
―――友? 友達が欲しいのか。ああ構ってやれない私を許しておくれ、シュレイナ。まったく……侍女は何をしているんだ。
そうじゃないわ、アリスはとっても優しいわ。
王は鷹揚に笑い、
―――お前はなんて優しい、良い子なのだろう。お前のような子供を持てたことを誇りに思うよ。愛しい子よ。
白く一点の曇りもないように。
それが彼女に望まれたすべての事だった。何をしなくてもいい、何も知らなくていい。知は穢れをどうしても伴うものだから。穏やかに笑って暮らしていればそれでいい。華やいだように。
全てから切り離された彼女に、初めて己が意志で近づいてきた者がいる。どれほど心躍ったかわからない。消えていなくなってしまう前にこちらから手を伸ばしたことが間違っていたとは思わない。思えない。「会いたい」口をついたものは本心。
「初めは夢の中でした。起きている時には聞こえない声が聞けたわ。そこでたくさんお話をした」
とても一方的なものだったけども。
今夜の月は綺麗だった。花園にバラにつぼみがついた。侍女と飲んだお茶がおいしかった。
姿を垣間見ることはできず、けれども不思議な高揚感と静寂感と共に眠りは長くなっていく。身体を動かすことが億劫になる。目をあけることが、息をすることが。
億劫になっていく。
銀の姫は穏やかに笑いレシアの絵を眺めた。
「昨日……初めて姿を見ることができたのよ。薄ぼんやりとだけれど。とうとう幻を見てるんじゃないと思ったのだけど。――違ったのですね。わたし、彼を知っているわ」
色素の薄い、ごくごく淡い蒼の目で笑う。見とれるレシアはふとその色が濃くなったように思えた。
「しって、るの。けれど、違うのですね………」
「姫様!」
銀のまつげを濡らし、陶器の頬を滑り落ちる涙はぽろぽろと止めどなく。血相を変えて傍らに膝を付いた侍女に首を振る。
「大丈夫でございますか? お疲れになったのですか? どうぞお休みくださいませ」
「ジュリア、もう少しだけ。――ねえレシアさん、わたし」
「………シュレイナ王女様。イドゥルリディアス……――」
少し迷ってレシアは「さんは」と続けた。誰の名であるのか侍女は分からないようだ。
「『だからこそ、己れの存在を、決して忘れないで欲しい』と言っていました。『何があっても決して』」
愛していると紡いだ口が続けた言葉は事実上別れの言葉で。
呆然とするレシアに闇は小さく言ったのだ。『相容れないことは初めから解っていた』
「それだけで、ここに留まった意味があるって」
銀細工の頭部から嗚咽が漏れ出た。瞠目した姫は喘ぐ。
「ごめんなさい、ごめ……なさいっ!」
侍女と娘は沈思する。黙る。
喘ぎ、喘ぎ、虚空を見据えるシュレイナ姫は返答を囁いた。
―――だって、彼は違うのだ。
「……さようならイドゥリディアス。あなたがすきだったわ」
近衛に睨まれながら、空を睨んでいたローゼンハイム=ダルセイトは踵を返す。
当初はレシアに同伴して一の姫の元へ訪れた彼であったが、「女性の寝室に男性であるあなたが? 何と無礼な、出て行ってください」と鋼鉄の侍女ジュリアにつまみ出されたのだ。それでおとなしく入口にて盗み聞きをしていたわけであるが―――ローゼンハイムは巨大な渡り廊下に見知った小さな人影を発見する。
「相も変わらずいい趣味だな、オウジサマ」
「一度受け口ができた身体の方が都合良い。お前もその一人だがな―――会わないのか?」
性懲りもなく王子の身体を着たイリスに、魔導師は口元を歪めてみせた。息を吐き出す。
「……不幸せそうだったよ、あいつ。凄まじいまでに不幸せそうだった」
「まあ一概に言い切れはしないが、あれを『幸福そう』という人間はそうは独特の感性の持ち主だろう。言葉とは厄介なものだなダルセイト」
「『初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った』」
聖典のいの一番に記されるそれ。
「『成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった』―――……本当にな」
据わった眼差しのまま魔導師はローブを翻し天人を横切って行く。
◇ ◇ ◇
「これは魔導師殿! いかがなされました? この度の件、感謝の言葉も御座いません。我々一同、伏して―――」
「王はどこだ」
余裕のない遮る言葉にセトアリア=クレス=リーセントは内心で首を傾げた。
「王は私室にいらっしゃいますが―――お話がおありなのですか? それならば御礼を兼ねてこれから席を設けますゆえ。宰相もぜひに、と」
「いらん」
提案を一蹴し闊歩するローゼンハイム。圧倒されつつセトアリアは背中を追う。そうしてぎょっとすることに、魔導師は我が物顔で何人たりとも許しなくば立ち入ること許されない一角へ踏み込んだ。王を守るべく銀尽くめの騎士が立ちふさがったことに安堵を覚え、けれどもそれは一瞬にして終った。
「ここの家人は恩人に対する礼儀がなってないな。どけ」
たった一言で。
近衛の中でも精鋭である彼らは恐怖を見たように場所を譲る。
「魔導師殿、どうなされたのです! あなたほどの功労者ならばこのような真似をなさらずとも会うこと叶います。止めてください」
自身の功績に泥を塗ろうというのか。
訳が分からず、とにもかくにもセトアリアは叫んだ。「宰相! カインドネス様!!」最後の頼みの綱である。おりしもカインドネス宰相が姫の様態の報告に王の元へ参上しているのだ。使わぬ手はない。
重厚な扉が開き、中の人間が吐き出される。直立の騎士、眉をしかめた宰相、その奥に王が見える。何やらひやりとしたものがセトアリアの背中に流れた。
「―――おや、ローゼンハイム殿ではありませぬか、どうなされました。いやはや丁度良い所に参られましたな、王がお会いになりたいと申しておりますぞ」
宰相の背後で嬉々として促す王の言葉が聞こえる。わんわんと警鐘が鳴っていた。これから良くないことが起こるに違いないと、セトアリアは理解していた。
そうして痛いほどの沈黙を抱え入室したローゼンハイムは、腕を組み斜めに構え、ウォーディリアス城へ訪れてから初めての怒気を含んだ声音を轟かせた。
「お前にごちゃごちゃと感謝されるいわれはない。気にするな。……あいつはな、見た目良い飾り物でも人形でもなく、血の通った、考え、悩む、今を生きる人間だ。それを分かっているのか。これだから貴族は当てにならんのだ。人を人とも思わぬか。これが解らぬ限り、お前は何度でも同じことを繰り返すだろうよ」
あいつとは誰を示すのか、お前とは誰なのか。
セトアリアの背筋が凍る。国の支配者の感謝に緩んだ表情が凍りついていく。
「魔導師殿、何を」
「お前にとって幸福とはいかなる形をしている? 何も知らず、知らせず、会わず、隔てられて生きることが答えだというのなら―――世界一の大馬鹿だ。愚か者。それが何も得られないと同義だとなぜ分からなかった。辛さや苦味がないということは、幸福もまたないということがどうして分からなかったんだ」
唖然とした空隙の後にゆるゆると湧き出てくるのは、怒りか憎しみか驚愕か。
「そのような目を向けられる云われもないな、ルーアン。自分が是であるから相手も是とであると思い込むのは、相手のことを何も考えていないということだ。愛しているのは結構、子供だものな。けれども愛しているのならばどうして、強くなる手助けをしなかった。人は成長できるんだ。お前が思う以上にずっと、強くてしぶとい。人間は砂糖菓子や銀細工ではいられないんだ」
「しかしっ……」
「貴族、王族の世界は醜いか? 目も当てられぬほど? 真実の偽りをぬかすな。あれを他に奪われたくなかっただけだろう、目に触れさせたくなかっただけだろう、違うか。人とは思えぬ美しさだものナァ」
魔導師の言葉は容赦なく降り注いでいく。冷徹な瞳が射るのはルーアン王その人で、ふと回想を彩った。挑発的に三者を見やる。
「お前も、そこにいるお前らも、俺よりずっと若い。目先のものに惑わされる気持ちは分かる。囲っておきたくなる美しさであることも。けれども俺は承知できない。理解しない。生かしてやってくれよ、あの女を。殺すな」
「ローゼンハイム殿……」
宰相がうめく。それに冷笑で応え、
「何度も言うが礼や謝罪は必要ない。闇は消えた。姫も快癒するだろう。あのお嬢さんの用がすみ次第、ここを出て行かせてもらおう」
魔導師は姿勢を正し作法どおりの礼を取る。突き放すように。静けさを伴って退出すれば、取り残されたのは主従と沈黙。「……賢者殿! ローゼンハイム殿!! お待ちください!」いち早く解凍されたカインドネス宰相が追いかけた。遠ざかる声。
巨大な部屋に降る、切り取られた沈黙がセトアリアの耳にひどく痛かった。
十五.
「ねぇロズ。これはただの疑問なんだけど、わたしが死んで生まれ変わっても、あなたまだ生きてるかしら」
「分からないの? でも、魔導なんて使っちゃういかがわしい人間だから生きてるわね、きっと」
「―――たくさんの時代が見れるわよー。時と人を重ねて。わたしみたいな歴史学者としてはうらやましい限りね。……ずるいわよ魔導師!」
「あーうん、それはそうなんだけど、最近あなたが好きな物はわたしも好きなことに気が付いたのよ。魔導もこの髪も白いアスパラガスも、ずっと嫌いだったけど今は大好きよ。―――不可解極まりないわ」
―――あなた偏屈だし、魔導師だし、変人だし、魔導師だし、魔導師だし、きっと敬遠されて淋しい老後を送ってるだろうから、またわたしが面倒見てあげるわ。捜して会いに行くわ。
あら。だってあなた、わたしのこと好きなんでしょう?
◇ ◇ ◇
再び訪れた場所に、イディヒリッヒ=ローティアス=グレタ=セディオウス=リアトリスの姿はなかった。片眉を上げる。近衛に取り次ぎの要請を行なえば、侍女――ジュリアの手で簡単に開かれた。自然、視線がさ迷い心中苦笑する。
「何でしょう」
「レシアそろそろいいか」
「あ、はい! ダルセイトさん、ちょっと待って」
室内から別れを惜しむ会話が聞こえる。
―――この絵はどうしましょうか。
―――なんだか淋しいわ。
―――さようならシュレイナ王女様。
―――ありがとう、レシアさん。
めまいがする。
光り輝くは白金よ
月の灯りは艶やかに、陽の灯りは清廉に
汝を包むもろもろは、一筋の乱れなく
光り輝くは純白よ
艶やかなる純白よ
白銀にたなびかん
汝の軌跡は光の奇跡に満ち
雪よりの色よりなお白い顔よ
全てに祝福されし銀の姫
何ものも侵しがたい銀の姫
現存する『銀の姫』はここまでの短い詩。しかし、他ならぬ彼はこの続きを知っている。
私の記憶、私の感情 すべて
ここに記そう
生ある世界で倶会一処を
捜し、求め
いつまでも待っている
アリシア=ルガレ 銀の姫
魔導師というものほど厄介な存在もないと思う。彼らが吐く言葉はおおよそ絶対を意味し、意思を込めて呟いた言葉は、力を帯び、知らず知らずの内に言に絡め取られ形作ってしまうのだから。
逆を言えば、意志を持って宣言すればそれは必ず形になるということ。ローゼンハイムは魔導師の強みを深く理解していた。
「ダルセイトさん、お待たせしましたー」
急ぎ駆け出してくるレシアに相槌を打つ。
「ああ、疲れただろう。帰るか」
「ダルセイトさんばお話せんでいいんかー? あたしよりもむしろ、なぁ」
「大丈夫だ。細かいことは全て片付けておいた。お前さんに今後、迷惑をかけることもないと約束する。本当に、すまなかった。ありがとうレシア」
貴族連中というものはまったく浅ましいもので、使えると判断された場合にこそ面倒を被るものだ。今度のように切り捨てておく方がいい。
硬直するレシアをさておいた彼は、室内に向き直り会釈する。
「それではこれで失礼するが、しっかりと養生していただきたいシュレイナ姫。では」
「まあ……、ありがとうございます。―――ダルセイトさん」
にこやかな笑顔だった。
「フォーテット嬢! 待ってください」
ローゼンハイムに小突かれ、レシアはようやくその呼びかけが自分に向けられたものだと気が付いた。
「へ? あ、わわわわ。はい! フォーテットです」
間抜けな返答をして振り返ると青年貴族――レシアの記憶が正しければリーセントとかいったはずだ――が栗毛の馬を駆り、こちら――城門へと駆けて来る。一瞬ローゼンハイムを伺ったセトアリアであったが、すぐに馬を降り紫綬勲章を差し出した。
「な、なんななんね……これ」
「魔導師殿におかれましては、礼は必要ないと仰られましたが、やはり貴女にはそうだと思えなくて。聖女殿、どうぞこれをお持ちください。私の名と階級、王の御名が入っています」
「……どういうつもりだ」
魔導師は問う。
「私が以前いただいたものの一つです。国家としてお礼申し上げることができなくても、貴女のして下さったことは掛け替えもないこと。何かお困りなった時には、必ずこれを持ってお出で下さい。リーセント家の名に誓ってご助力することをお約束します」
はあ、と相槌打ちながら押されるようにそれを受け取る。
「本来ならばお迎えに参上した時のよう、ご自宅までお送りすることが道理と思いますが―――」
「いらん」
「―――ということですので。乗馬はできますか? 売ってしまっても構いません。この馬をお連れ下さいますよう」
レシアに乗馬などできるはずがない。売れといわれてもまた困る。あわあわあわと魔導師に助けを求めた。
「……随分殊勝な態度で大変結構だが、余計な気をまわさんでも俺が送り届ける。馬を貰ってもこいつが困るだけだ。銀貨を持ってるか? セトアリア殿」
袋で差し出そうとする貴族馬鹿を押し留め、五枚だけ失敬する。
「レシア、絵の代金だそうだ。受け取っておけ」
レシアは目を剥く。極めつけとばかりにセトアリアから立派な羊皮紙を差し出されると、いよいよ彼女は茫然自失した。
「不届き者がおりますれば、この通行手形をお使いください。お役に立つことでしょう」
セトアリアは深く頭を垂れた。
「正直申し上げていまだに聖女という存在を信じることはできません。しかし――いいえ、これ以上無粋なことは申し上げますまい。我々の無礼をお許しください。ご足労ありがとうございました。この御恩、忘れる恥知らずにだけはならないでしょう」
十六.
空が白くけぶる花曇の日。
御者も、馬車番も、護衛も場にいる全ての者がその人物に目を奪われていた。視線の中心にいるのは、控えめな淡黄色のドレスにレースのショールをはおり、花をあしらった白いつばの帽子を深くかぶった淑女である。ハッとするほど白い娘であった。風になびく銀髪をレースの手袋に包まれた指に絡める。
恍惚とした表情で差し出す御者の手を借り、眩しげに空を見上げる彼女は三頭立ての馬車に乗り込んでいく。壮年の侍女が続く。
時を置いて馬車はつつがなくウォーディリアス城を出発した。
残された男たちは一様に最敬礼でそれを見送る。
空が白くけぶる花曇の日。
レシア=フォーテットは広場を右往左往していた。
「おとーさーん、おとーさーん。あたしどないしょーかー。緊張して仕方がないけー!!」
「そったらこと言うてもしょうがないじゃろう。なるようにしかならん」
「は、薄情じゃー。っちょ! なんちさりげなく去っていこうとしとーねー!」
はっはっは。父は笑う。
「いやー父さんは邪魔じゃ思うてなぁ。娘の交友関係に口を出すのもいかがなものかと思うけーのぉ。―――おっと」
わざとらしく手を打つやいなや手綱を引く。ぶるるとクデルが鼻を鳴らした。
「そうじゃそうじゃ、そういえば父さんにはお義父さんに頼まれた重要かつ大切な用事があったんじゃ! お義父さんには逆らえんのよ。ほら、父さん婿養子じゃけーなー。マスオさんじゃー。レシアば往生際良く、ここにおりんさい」
「重要と大切っちゃ意味一緒じゃー!!! マスオさんってなんねー!」
鮮やかに無視される。
「知らん人についていったらあかんけーのー!」言葉を置き土産に、フォーテット家愛馬――クデルの手綱を引いて父は去っていった。無情である。
かくしてレシアは王都広場をうろうろと蛇行していた。
曲芸を見、親子連れを見、露店を覗き。やがて視線はやけに人を集める吟遊詩人へと突き当たる。どこかで見たような顔……。
「ああぁあ!」
思わず声を上げてしまう。
伸ばしっぱなしのアッシュブロンド。精悍な顔つきをした異国の男。まぎれもなく吟遊詩人、ジークである。
「久しぶりだね、レシアさん。今日は絵を描かないのかな?」
一通りの演奏を終え、客から拍手を浴びた彼は一礼してからレシアを手招いた。盛況ぶりに驚くものの、一拍置いて当然かと納得する。ジークの詩は素晴らしいのだ。
「どーしたんじゃージークさん! てっきりもう次の場所へ行ったかと思っとったけー」
「そうするつもりだったんだけどね、どうにも君のことが気になったから。――随分前のことだけど酒場で魔術師に君のことを聞かれて。とび色の髪の―――会ったかい?」
「あー知っとーよ! ダルセイトさんじゃー」
「やっぱり、何かあったのかい?」
さて困った。レシアは眉尻を下げる。
「なあジークさん、信じられんかもしらんけどなぁ」
ゆっくりと、語り始めた。
大筋を話聞かせたところで広場がざわと揺れた。
ジークはひょいと首をめぐらせレシアの肩越しに確認する。
「ああ、貴族の馬車だね……。それも相当に高位の」
肩が、跳ねる。
「レシアさん?」呼ばわり、ジークは目を見開いた。「信じられない……銀の姫だ」
その瞬間、曲芸人も親子連れも露店商人も吟遊詩人も、全ての人々が息を呑んだ。護衛の男と日傘持ちの侍女を傍らに従え馬車の中から現れた貴族の娘。結い上げ、それでも余った銀の髪をなびかせる。
まるで詩物語の中から抜け出てきたような白さだった。純白の光。
控えめな淡黄色のドレスにレースのショールをはおり、花をあしらった白いつばの帽子を深くかぶった淑女は、何かを探すように首をめぐらせていたが、こちらを見た次瞬ぱっと華やいだ笑顔を浮かべた。
「レシアさん!」
レースの手袋に包まれた手を上げる。
「はいぃいっ!!!」
一方、壊れた金管楽器の様を呈した声をレシアは上げた。
「れ、レシアさん?」
あれはどういうことだ。ジークを目指して――否、レシアと呼ぶのだから銀の姫はレシアを目指しているのだろう―――駆けて来る。白い陽の元、白い頬を上気させた娘。その美しい衝撃。
「レシアさん、お久しぶりですっ。お待たせしてしまいましたか?」
「そんな、そそんなことないですよ! いいいらっしゃいませ!!」
「……あら、もしかしてそちらの方とお話の途中でしたか? 失礼致しました。お初お目にかかります、シュレイナと申します」
吟遊詩人の意志と腰が砕けた。侍女が静かに告げる。
「……ここでは目立ちます。さあ、行きましょう」
「ええ、行きましょう! へい――……お父様がお許しを下さってから、わたし今日がもう楽しみで楽しみで」
微笑の爆弾である。カクカクと頷き、レシアはジークに向き直った。
「ええと、あああ〜、そ、それじゃあなぁジークさんっ」
頷く。頷く。
現れた時と同じく嵐のように去って行く銀の姫と、それに翻弄され巻き込まれる娘を見送りながら――ようやく金縛りから開放されたジークは(これでも周囲の人間の中では最も早い復活である)異国から持ち込んだ演奏器を手に取った。しばし思考をめぐらせていた彼であったが、弦を爪弾き、やがて音を紡ぎ始める。
今は昔で始めるは、物語の常套句。
やあやあ皆々様方どうぞお手を休め、このわたくしにその忙しい耳を傾けていただけはしませんか。
さあ、お聞かせするは聖女のはなし。リアトリスの聖女のはなし。
聖女と姫君、悪魔のお話で御座います。
―――――『聖女、闇の悪魔と銀の姫君に出会う』END
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