「続・魔境における、こんな愛情表現 〜風鳶の行方〜」

―宴【うたげ】をめぐる攻防―



四.



 今日も今日とて訪れた花街。
 別に女に飢えているわけでも、溜まっているわけでもない。
 それでもいそいそと足を運ぶは瑠楼殿(るろうでん)

 なにせ彼には崇高なる目的があるのである。


 足音など到底あるはずがなく、気配――いや、殺気は、突如として彼の背後に降ってわいた。
 空間を裂くがごとく、渾身の力を持ってして振り下ろされる白刃。

「って、うおっ!!! ―――死ぬ! それ死ぬって!! ちょっ袈裟切りは嫌だ!!」
「やかましい。くそ、ちょろちょろと避けやがって。……たいした力はないくせに、動きの量だけは多いヤツだな」
 現れた黒衣の廻り役とじりじり距離を取りながら、雷吼はポと朱に頬を染める。
「やった、褒められた……」
「キモイ! 頬を染めて恥らうな喜ぶな阿呆。っつーか褒めてない。これは苦々しい苦言だ」
「そっかー、オレってばお前より勝るところがあるんだ。いやいやいや、分かってるよ。何だかんだでお前強いしー、オレに対して手加減してること。でもそこに愛を感じるというか――はいゴメンなさいだからこれ見よがしに刀を突きつけるのやめて」
 覆面から唯一露出する双眸が細い。突き刺さる突き刺さる。冗談はお嫌いですかそうですか。
 雷吼(らいこう)は心中で腐った。

 まったくこれで女だと言うのだから、世の中なかなかに反則じみていると思う。誤解なきよう断わっておくが『女だから弱い』というのではなく、やはり女の性を持つ生き物と男の性を持つ生き物―――比較すれば腕力に差が出るものなのだ。否応なしに。
 ……反則的だと思う点はそれだけではないが。

 もはや何度目の挑戦になるのか、彼の記憶に定かではなかった。
 覚えておく必要があるのは、一度だってこの(まわ)り役を出し抜けていないこと。それだけで十分ある。成功かあるいは失敗か。もちろん、記憶は失敗で塗りつぶされているわけだが。

 言い聞かせるよう鼻先につきつけられるのは、指ですらなく――研ぎ澄まされた刀であった。

「では消えていただけますか雷吼殿。はい、さようならごきげんよう! いい加減わたしも仲間うちから『おい、指名だぞ』なんてことを言われるのは飽き飽きしてるんですけどね。用心棒に指名ってなんだそれ、って感じなんですけどね」
「オレもいい加減、目的と手段を履き違えそうになってるけどな。貯金だってちょっと淋しい感じに……。―――ちょっと、ほんのちょっと見るだけだぜ? いいじゃん! ケチ!」
 何度繰り返しただろう、この言葉この応酬。この後に必ず来る、彼の提案を一蹴の言葉もそらんじれる。
 ―――黙れ阿呆。
「黙れ阿呆。しつこいんだようざいんだよ、夜道には気をつけろよ」
 あ、本日は何か付属した。


 果たしていつものことである。
 ここ最近の、妓楼内名物光景であった。前庭で繰り広げられる彼らの対峙に、何だ何だと目を丸くする者もいれば、いいぞいいぞとはやし立てる者がある。
 時刻はいつも通り妓楼が本格的に忙しくなる少し前、黄昏時を過ぎた頃。
 白金の髪の魔物は予告どおり、時間と金銭の許す限り瑠楼殿(るろうでん)を訪れていた。目的はもちろん、緋色の遊女亜夜(あや)の姿をタダで拝むことである。

 そのための対峙。行動しようとする者とそれを防ごうとする者の対峙。
 黒衣の女廻り役の、緋色の太夫への執着は知るひとぞ知るところの事実であったが、ここ最近でそれはさらに周囲へ浸透していた。無理もない。
 男の二度目の訪問は、まだよかった。客と店員(?)。その対峙であった。
 三度目あたりであやしくなり、とうとうその関係が崩壊したのが四度目。夜那は開口一番、「うぜぇんだよ」と、周囲の魔物たちを震撼させる声音でぼそりと吐いたのである。

 まさしく接客として最低の見本。妓楼の主人から小言を貰い、どういう事と次第だと客から注目を浴びたのは当然の成り行きである。

 ―――が、何度目の対峙か数え切れぬ今となっては、もはや小言も接客など忘却の彼方であった。それが当たり前というもの。少なくとも彼女にとっては。
 まっすぐに、覆面が雷吼を見やる。
「太夫のこと見たいなら金持って来いや。そうしたらわたしも止めない」
「嫌だね。オレは、倹約家なんだ」
 ぴしり、と空気に亀裂が走る。
「……何度でも言う。わたしは太夫の価値を下げようとする者を許さない」
「はん、マザコンが」
「………」

 空気が硬化し、見えぬ切片として剥落していくようであった。
 見物人はわくわくと対決の行方を見守る。

 いっそう紫紺の双眸が細まれば、程度低く――ある意味で凄惨な、罵倒を伴った殴り合いは開催される。―――いつものことである。
 ただし、この瞬間までは。
 いつもと違うことは、この後に起こった。

  ◇ ◇ ◇

「客に足を上げる奴があるかこの馬鹿者!」

 瑠楼殿でひときわ高く目立つ主楼閣。赤地に金の細工が施されたそこから、男の盛大な大喝が鳴り響く。
 漆黒の髪に緑の瞳。彼こそが瑠楼殿が六代目――煉斉(れんせい)である。足元、毛足の長い絨毯の上で正座をさせた夜色の魔物に視線を投げれば、ふてくされた顔が目に入った。やれやれと首を振り、高圧的に腕を組む。

「ボッコボコにしやがって。あれは仮にも客やぞ? お前ともあろうもんが、なんでそんな短慮に走った」
 六代目の前、覆面はない。夜那(やな)は100%悪気のない顔で、彼を見上げた。
「話せば長くなるんですが―――要約すれば、ムカついたからでしょうか……」
「っつーかそれが全てやろ」
 あーもーと唸りながら、煉斉はビロード仕立てのソファに身を落とした。緋色の内掛けが跳ねる。こめかみに指先を当て、
「なーんで客前でやるんじゃ。……やるなら闇討ちとかにしろよ」
 物騒なことをつぶやく。部下の失態ということで傍に控えていた、相も変わらず覆面の偉丈夫――京石(きょうごく)がそれを静かに咎める。
「―――六代目」
「はいはいはい、でもお前もそう思わんか。―――俺もあの程度の金払いの客が惜しいわけやないんじゃ。おってもおらんくってもどっちゃでもいい。ただ、なあ。あそこまで殴り倒されると『え、ここの妓楼の廻り役なんか怖くない?』とかって他の得意客にも思われるやろう?」
「否定はしませんが……客受けがいい、と今まで放置していたのはどなたでしたか?」

『夜那と白金の髪の客が亜夜がらみでやりあっととる? いつものことじゃ、ほっとけほっとけ。うちの太夫の希少価値が上がる。知名度も上がる』
 そう言って、放置したのは間違いなくこの魔物である。商売のためならば、多少のムチャなら目をつぶってしまうのは六代目の悪い癖だ。
 煉斉はワザとらしく咳払いをすると、夜那へ目を向けた。
「さて、と。―――で本当のところ、どうなんや? お前がむやみやたらにキレるはずがないやろう」
「はあ、買いかぶってもらってますけどね。あの馬鹿と一度相対してみて下さい。ほんと救いようのない馬鹿です。体の芯まで阿呆です。いっぺんくらい痛い目にあわせとかなきゃ、諦めないんじゃないかと思いまして……」
「で、小さくたたんで捨てた、と。―――ほんまか?」
 緑の目が細まる。
「……本当ですよ」
「あーなんでそこで目が泳ぐんかなあ、夜那ちゃん」
「す、水泳は得意です」
 勢い漆黒の髪の魔物はソファから立ち上がった。不機嫌に眉を寄せ、怒鳴る。「じゃかあしいわ!」夜色の魔物は本日の夜食をうどんにしようかと考える思考を慌てて切り、ダレ始めていた背筋を伸ばした。
「ええか夜那、次はない思えよ。説教も聞かんとぼーっとしやがって。―――お客様は!!」
「神サマです」
「地獄の沙汰も!!」
「金次第」
 瑠楼殿における、基本心得である。
 よしと不機嫌なまま頷き、彼は顎をしゃくった。
「もうええぞ。仕事に戻れ」

  「はい、失礼しました」
 ―――夜食は卵うどんを食べることにしよう。
 言って出て行った弟子の姿を目で追い、京石は煉斉の言葉を待った。
 ソファの背もたれ部分に腰をかけた煉斉は肩を震わせ、押し殺すように―――笑っていた。

「なあ、京石。あいつ、ほんまオモロイよなあ。見てて飽きん」
 のけぞって背後の覆面の魔物を見、言う。
「そうですか? マザコンも過ぎると思いますがね」
「まったくやの、俺らが気づかんはずがなかろうて。―――大方、亜夜(あや)の興味があの金髪にでも向いたんやろうなー。あんだけ派手にやっとったら、そら亜夜も気にするやろうに」
 簡単に言うなら、焼きもち。分かりやすぎて涙が出る。
 京石は重く溜息をついた。
「六代目、それが分かっているのなら余りあれをいじめないで頂きたい。今からでも遅くありません。とっととその魔物を、出入り禁止でもしてくれればよろしい」
 煉斉は呆れたように偉丈夫を見上げる。
「お前もたいがいあいつに甘いな。いじめられるたまやと思うか?」
「―――私のしごきに唯一ついてこれた、無二の弟子ですので」

 平らに覆面の魔物が言い切ると、漆黒の魔物は笑みを浮かべたまま肩をすくめた。



五.



 最悪だ。やはりあの女、見込みどおり強かった。
 折られかけた腕が熱を帯び、うずく。ヒビでも入ってるのかもしれない。
 視界が黒かった。
 うめきながら雷吼は、自分が目を閉じていることに気づく。


 跳ね起きた。布団を払い除け、スプリングの軋むベッドの上で膝を立てる。
「イッテぇ……」
 見渡した場所は、いかにも医務室といった室内であった。ほの暗く、カーテンで仕切られた場所。身体からは汚れが払われ、腕は治療されていた。……自分に回復の術の利きが悪いことは知っている。
「どーなってんだ、これ」
 腕をさすりながらベッドから降りる。白布をどけ区切りから出た。薄まってはいるもの、立ち込める匂いから、ここが妓楼だということが分かる。キョロキョロと見渡しているとドアが開く。

 現れたのは、藤色の髪をした包帯男であった。およそ全ての魔物が彼と出会うとそうするように、雷吼もまた異様な風貌にぎょっと目を見張る。

「よっしゃ、目え覚めたな。京石のおかげで腕拾いしたな坊主。さあ、殺される前に帰れや」
「……誰が殺されるか」
 そんなこと、起こらない。起こってたまるか。
 包帯男は斜めに構える。
「わからんぞ。―――あれはお前には容赦ないみたいやからな」
「そうらしいな。あのデカいのが来なかったら、腕、折らてただろうし。―――畜生。これじゃ、いつまで経ってもあいつを出し抜けねーじゃん」
 場が、呆気に取られた。
 普通、もっと別のことを思わないか。
 包帯男――獅己(しき)はそのような思いを込めて魔物を見る。
 そんな考えが伝わったのか、雷吼はのどの奥で軽く笑った。
「アレくらいでびびるかよ。あんな直裁的なもんで。―――ああ。あんたさあ、女に睨み殺されそうになったことあるか?」
「は?」
 問いの形はしていたものの、返答は必要ないらしい。白金の髪の魔物は獅己にはかまわず続けた。
「オレ、初めてあいつと出会った時、思ったね。オレの妓楼死亡調書には、睨み殺され死って書かれんだろうなってなぁってさ」

 ―――月夜の中、凍える紫紺は鮮烈で痛烈で、情緒的で、息が止まった。

「それで何が怖いかって、睨まれる中『それでもいいか』って思ったことだよ。この死に方悪くないかも。このまま死ねたらオレ、スゲェ幸せに死ねそうってな」
 あの眼光を、刀の鋭さに例えることなどできない。刀の煌きなど、あの鋭利さには絶対に勝てない。まっすぐに光りを反射するだけの刃物などでは。どこか鬱屈する、目。雰囲気。
 それでいて寒いのだ。

 苑笠(えんりゅう)とはまた別の、畏怖を抱いた。
 自分を認めさせたいという思い。
 ただ痛烈に向かって来るのではなく、まるで熱された砂丘にあって逃げ水のような存在。
 押さえつけてみたいと思う。

 それができた時、一体どんな気分がするのだろう。

 純然たる征服衝動。

 それは()の魔物が女だと聞いてますますつのった。ほんと反則。怖いくらい、今、あの女に興味がある。名も、顔も知らない彼女。
 そしてそんな存在が大切にするものとはいかなるものか。見てみたいと思った。

「睨み殺され死って、どんな死に方だ……」
 医者としてそこはツッコんでおかなければなるまい。だいたい、そんな死に方をされた場合どんな書類を作ればいいのだ。非常に迷惑である。獅己は診療机におかれる革張りの椅子に腰掛け、仕事を引き寄せた。
 延々と続くスピーチが終った後、獅己の感想は一つだった。いやはや若いね。
「ま、ええか。好きにせえよ。―――ああ治療代は必要ない。もう一眠りするのでも、出て行くのでも好きにすればいい」
「……なあ、あいつって何か弱点とかないの? ちょっと強すぎだわ、ありゃ。今のままじゃ絶対勝てねえもんオレ」
 獅己は口元に笑みを刻む。
 書類に走らせるペンはそのままに、答えてやった。

「さあ、オレよりもお前の方が知ってるんじゃないか」
 夜那は、むやみやたらに、刃物を振り回すタイプではない。決して、ない。

  ◇ ◇ ◇

 ふたりの男が駐在する医務室に、ひとりの女が訪れて来たのは、そのような会話が成されていた時であった。

「こんばんは」
 開かれた医務室の扉から現れた女の髪は、緋色。
 雷吼は息を呑む。

 けぶるような睫毛にふちどられた瞳は紫紺に濡れ、とろけそうに紅い唇。朱にそまる目元。
 誘うように開かれた胸元はどこまでも白く、吐息まで甘い。匂いたつ色香。
 はっきり言おう。目の毒である。

 ぱくぱくと口を閉口させながら、男は見事な着物に身を包んだ女を見据えた。
 もしもこの女と一晩過ごすことができたとしても、指一本触れてはならぬ気がする。よほどの男でなくては、彼女の前では奴隷に成り果ててしまいそうだった。その指先で頬を慰撫されれば、どんな願いでも叶えてしまいたくなる。―――と、思う。

「……太夫(たゆう)?」
 怪訝な声がどこかしらから聞こえた。一拍を置いて、つい、と妖艶の紫紺の目が彼に向けられる。半歩後ずさった。
「そう……。お前さんが雷吼だね?」
 頷く。声が出ない。名を呼ばれた。
 本当に、本当に声が出ない。この魔物が。
「話にはよく聞いていたよ。あたしに会いたかったんだって? ……夜那が大したことをしたそうで、一応お詫びにね。―――身体は?」
 首振り人形のように、頷いた。大丈夫。あの程度全然大丈夫。むしろ今心臓がやばい。

 彼女は紅唇に笑みをそえる。
 夜の名を持つ魔物。

 喉が鳴った。意志を総動員して口を開く。
「あんた―――……」
 お前。
 かすれた声。

 だって信じられない。

 女は緩く笑みを浮かべる。
「ああ、あたしはご存知のとおり―――」
「お前、あの廻り役だろ……?」

 紫紺の目は丸く見開かれ、雷吼はそれを凝視する。
 医務室の室内は凍りついていた。
 その凍結を打ち破ったものは、こらえきれないとばかりに吐き出された笑い声。

 目をやれば、口元をきつく押さえて肩を震わせる包帯男がいる。
「―――ック。いや、悪い。悪いけど。スマン駄目だツボった。腹が、イタイ……」
 いよいよ、耐え切れないのか、男は低く爆笑し始めた。涙目で言う。
「―――ああお前、それの名を呼んでやれ。化けの皮をはいでみろ」

 くるりと体ごと向き直り、立ちすくむ緋色の魔物と対峙した。
 そう、対峙だ。

"……夜那が大したことをしたそうで、一応お詫びにね"

 記憶の中で甦るこの魔物の名。
 喉に力を込め、呼ぶ。幻術にはそれがもっとも有効であるのだ。

「夜那……、か?」

 緋色が、ずるりと夜に染まった。光沢を帯びた薄い布が取り払われるように、眼前の光景が改められる。
 匂い立つような色香が消える。甘い空気が消失する。
 むしろ身にまとう雰囲気は強張り――――、
 夜と白の鮮烈な対比の映える、女がそこに立っていた。

「あーあ。やっぱりわたしごときでは、亜夜の姿は再現できないか……。せっかく抹茶(まっちゃ)に頼んでやってもらったのに勿体ない」
 ぶつぶつと文句を言いながら、(かんざし)を引っこ抜いてくその魔物。拘束を失って、流れ落ちる青みを帯びた黒髪。
 明るみに出た立ち姿。

 ああ、なんてこった。

 チャラチャラと高価そうな装飾品を手の平で弄びながら、そういえば、そんな雰囲気をともなって夜那がこちらを睥睨する。
 ……なんか、流し目に見える。やばい、やばいぞ。
 何か言わねばと思いつつ言いよどんでいると、つかつかとそれは歩み寄ってくる。なんだ!
 女――夜那の瞳はやはり紫紺であった。これがあったから、自分はその正体を理解することができたのかもしれない。――と思う。
 身長差分見下ろした先、夜那はふと笑った。
「なあ。わたしの半名(はんな)を、教えてやろうか?」
 硬直。固まる。本日何度目だろうと、麻痺した思考の中で考えるのは雷吼である。


 魔物は、生まれてくる時すでに自身の名を持っている。
 己を形成し戒めるもの、それが名。真名(しんな)
 雷吼だの夜那だの、彼らが名乗るものはあだ名のようなものである。呼び名、別称。真名を知るのは自分ただひとりでいいのだ。真名を教えるということは、その首を相手に差し出すことと同義であるからにして。

 そしてこの半名というものであるが―――、単純に言えば真名の半分という意である。
『半名を教える』その意は。

「教えてやろうか?」
「オレ、お前にどれだけ嫌われてるんだよ」
 ちょっとへこむ。

 あなたのこと好きだから、半分だけ教えちゃうわ。などといったような浮かれたものではない。その意は、『お前を殺す』である。
 与えた名を必ず取り返す。決して外に漏れぬようにする手段――つまり死人に口なしといった、あれである。魔物の間で、憎くて仕方がない相手に『絶対お前のこと殺してやる』と宣言する時に使う定台詞なのだ。
 『私の半名は――――だ』と先に語ってしまうのが一般的であるが。

 雷吼は首を傾ける。
「殺したいなら殺せばいいだろ。お前ならオレなんて簡単に殺れるしな! なんでわざわざ半名まで名のられて、暗殺宣言されなきゃならないんだよ……」
「別に」
 ふいと視線をそらされる。
 と、そこへ獅己の腕が夜那へ伸びた。気持ちいい音をたてその手に握られた黒のバインダーで、夜那の頭が(はた)かれる。

「しょうもないこと言ってんじゃねえよ馬鹿! 何が半名だ。カッコイイから使ってみたかっただけだろ。昔言ってたもんなお前。無用の喧嘩売ってんじゃねえ! そいつに謝れ」
「今、さりげなく角使った……!」
 痛む患部を押さえながら、涙混じりに夜色の魔物は批難の声を上げる。

 もの凄く、珍しいものを見た気になった。

「だいたいお前仕事はどうしたんじゃ! サボってんじゃないのか? とっとと行かんと煉斉(れんせい)がキレるぞ」
「それなら京石(きょうごく)に悲壮な顔して『あの男に、謝ってきます』って言って抜けてきたからだいじょう―――」
 げし。
 それ以上言わせず、こめかみに血管の浮かぶ獅己は足技を繰り出す。
 そのまま戸口の外へ夜那を蹴り出し、医師は扉を引きつかんで滑らせた。けたたましく扉が閉まる。
「出てけ給料泥棒!! 二度と来るんじゃねえ!!」
 怒鳴り散らし、荒く息をついた彼は苦く笑いながら雷吼を振り返った。戸口の外からは「鬼畜医師! 妖怪包帯男!」とわめく声が聞こえていたが、やがてそれも静まった。

「見苦しい所を、スマンな」
「本気で見苦しかったぞ」

 ほんとにな。

 獅己は笑う。
「な、分かったやろう。あいつ俺らに対してあんな感じなんじゃ。馬鹿丸出し」
 嫌味だろうか。どうせオレは『死んでみるか』と言われた男だよ。
「腐るな若造。―――お前な、誰にでも優しいやつのそれを『優しさ』と言うと思うか?」
「なんだその少年漫画に出てきそうな"優柔不断で、でもやたらモテる男"みたいな設定」
 よくある話だ。
 ちなみに『そんな優しさは優しさじゃない』が定説である。
「誰にでも愉快な馬鹿を演じる。誰にでも愛想をふりまく。そんなもんに価値はないんじゃ。それよりも―――」
「いや、あるだろ」
 心底不思議そうに雷吼は言う。
「しない善よりする偽善ってな。誰にでもつんけんして一部に笑いかけるヤツより、よっぽどだと思うが」
「そう思うか?」
 問われ迷いなく頷く。
「オレは、な」

 獅己は軽く笑み、仕事にもどるべく踵を返した。
 その謎の笑みに小首を傾げた雷吼であったが、すぐに気を取り直し、帰宅しようと決心する。今夜のところはこれで潮時であろう。
「じゃあオレ帰るし」
 医務室を後にした。


 ひとり残された獅己は静かなる空間に言葉を落とす。
「それでも俺は、あいつに変わって欲しいと思うんだがな……」
 誰にだって苛立ちこそすれ、ポーズのみで真に怒ることのない魔物。
 誰にだって愛想をふりまき、道化と化す。

 彼にすれば酷く虚しいことのように思われた。

「もっと感情っつーもんを、大事にしてもらいたいもんじゃ」
 医師は書類にペンを走らせながら、思い出し笑いをこぼす。
 さっきの幻術がばれた時の、あの夜那の顔! まさしく素。素の表情である。

 ―――自分にはできなかったが。
「あの男相手に、ちょっとは変わるかな」

 かつての恋人に思いを馳せる獅己であった。




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