「続・魔境における、こんな愛情表現 〜風鳶の行方〜」

―宴【うたげ】をめぐる攻防―



六.


太夫(たゆう)、どちらに」
 梓劉(しりゅう)は護衛すべき魔物に尋ねた。同僚――夜那(やな)から一時、野望用だとかで仕事を請負ったのだ。
 良いものを間近でおがめると安請け合いしてしまったが、数刻経って……彼女に何かあったら殺されるということに気がついた。しかも普通の死に方はできないと思う。口には出せない死因……、嫌すぎる。

 そう確信すれば、否応にも力が入るというものだ。各方面に。いろいろと。

「どちらって、どこでもいいじゃないの。―――ちょっと、ね」
 不機嫌に眉を寄せる様まで美しい緋色の太夫は、さらに歩みを進める。
 親子そろってこれだから困る。と、梓劉はごく小さく溜息を吐いた。
 勝手気まま。天衣無縫。荒唐無稽……これはちょっと違うか。
 そう、そもそもあの子供の親なのだ彼女は。そこを忘れてはいけない。いけないったらいけない。
 覆面の下、彼は眉をひそめる。
「しかしお勤めはどーするんです」
「お勤め?」
 追いかけ、覗きこんだ亜夜(あや)の表情には『不敵』の言葉が張り付いている。眼差しの一筋にまで、自信と自負は漲っていた。
 瑠楼殿(るろうでん)一の遊女。その身一つで一夜に軽く百万は稼ぎ出す女。彼女の視界に入るため、男たちは先を争って金品を献上する。それが亜夜だ。
 ふたりの魔物の歩みはなおも続き、渡り廊下の角を折れる。すれちがい頭を下げる妹遊女に、亜夜は微笑むことで挨拶する。
「知ってるかい? わたしには仕事を選ぶ権利があるんだよ。煉斉(れんせい)との雇用契約書にもそう書いてある。ほら、問題ないだろう。心置きなくわたしのことは放っておきな」
「ドタキャンするつもりですか」
「あら、ひと聞きの悪いことを言う。―――今夜の亜夜さんは、突然の疾患だと言いな」
「ありがちな……。知ってますか、それって仮病って言うんですよ」
 立ち止まる。
「……梓劉」
 顔に刻まれるは、世にも悲しげな表情。寄せられる繊細な柳眉がふるえ、眦は下がる。
「信じてくれないの? わたし、悲しい……」
「や、やめてくださいよう。やめて……! ホント勘弁ですって! 芝居と分かってても動揺する俺! しなだれかかるの禁止ですよ!」
「ねえ梓劉、許してくれる? わたしのこと守ってくれる?」
 男を見上げる紫紺の目が、角度によってか細く揺れる。細く白い指先で甘く頬を愛撫される。覆面の下、黒衣の男はどこまでも男であった。
 ぐらりと大きく揺れ、陥落。
 溜息をついて一言。
「はいはいはいどーせ俺は男ですよ。弱いったらねえ。……わかりましたよいいですよ。何するのか知りませんがね、お供しましょう。頑張りますから俺。けど仕事には、なるべく早く戻りましょうね」

 この魔物に『お願い』されて断われる男がいるなら、是非ともお会いしたいものである。――と梓劉は思う。秘訣をご教授して欲しい。
 無理無理。並大抵の意志や決意では。無理無理! だって男の子だもん。
 腹を括る。自分とて、そう弱くはない。だから大丈夫。
 ありがとう、とパッと表情を明るくする太夫に彼は肩を落とした。むろん正面を向く亜夜の表情は微塵の揺るぎもない。

 これだから、男はちょろいのだ。亜夜の持論である。

  ◇ ◇ ◇

 どうしよう、ほんと参った。困った。
 雷吼は唸るように歩く。知らず口元を手の平で隠すように押さえ、まっすぐに出口を目指していた。

 『眼鏡を外したら、実は美少女でした』……いつの時代の少女漫画だ。
 『ちょっとお茶目な老人は、実は水戸のご隠居さまでした』……印籠は出てこねえな。
 『遊び人のお侍さんは、桜吹雪の紋所の人でした』……あー。
 『仮面の男は赤い彗星』………。

 とにかく"それ"は彼にとって凄まじい衝撃であった。
 『あの眼』の持ち主が女だっただけでも衝撃的であったのに、それが、あんな。
「最悪、反則。ほんと反則だろ。……オレを試してるのか畜生」
 金の目がぐるりと泳ぐように動き、妓楼の艶やかな内装を写し撮っていく。彼は困っていた。どう反応を返せばいいのか分からないのだ。

 だって、あんな女だとは露ほどにも思っていなかったのだ。あんな―――、いや褒め言葉を口にするのは癪である。言わないでおく。
 それではまるで、自分が惚れているようではないか。だから言わない。

 思考の中で墓穴を掘っていることにまるで気づかず、何気ない動作で雷吼はその方向を見た。女がいた。
 緋色の髪をした、紫紺の眼の、絶世の美女が。
 黒衣の魔物を背後に伴い、女は艶然と微笑んで、いる。

「……………」
 口元が盛大に引きつる。激しく見覚えのある姿である。ついさっき幻として見た魔物。寸分の狂いものない。
 こんなにもあっけなく、現れていいものだろうか。
「もうお帰りでかい、雷吼さん。いやだ……淋しいわ」
 美女――亜夜は言う。
「わたしに少し、お話する時間をいただけるかい。一度ゆっくりお会いしたかったんだよお前さんとは。そう、是非ともね」
「―――それはどうも、光栄ですよ太夫」

 雷吼は引きつった口元に笑みを浮かべる。
 噂に聞くとおり、幻で見たとおり。むしろそれを上回る勢いで、彼女は期待を裏切らない姿をしていた。一晩で百万円から―――……納得である。マザコン?

 納得である。


七.


 いったい何がそんなにイラつくのか。
 分からないほど愚かでないつもりだ。自己分析した結果、理由は出ている。
 要は気に入らないのだ。
 思い出せば虫唾が走る。先ほどまで身につけていた翡翠の耳飾りを、何とはなしにぴしっと弾いた。大粒の(ぎょく)が掲げる目の前で激しく揺れる。
「傷がつくぞ。やめろ勿体ない」
 男は夜那からそれをひったくると、軽く撫でてから傷がついていないか確かめる。
 セコいと言ってはいけない。これ一組だけで彼の一月分の給料くらいは出る代物なのだ。翡翠を金座にあしらい、小ぶりであるが質のいいダイヤを散らせたこの耳飾りは。かの遊女が持つに相応しい品である。
 平らな物言いの男――瑠楼殿お抱えの髪結師は思う。
 夜那はその見事な抹茶色の頭髪を凝視し、愚痴を続けた。医務室を追い出され、その足で駆け込んだのがこの抹茶の隣である。化粧落としや借りた着物、装飾品を返却するむねもあったが、それよりなにより仕事をする気にはなれないのだ。
 名実共に給料泥棒である。
「なあ信じられるか。わたしだってな、ちょっと認めてもいいかもって思ってたんだ。しつこいとも思ってたけど――今も思ってるけど、そこまで会いたいくらい亜夜のこと好きなんだろうなあってさ」
 ムッと、彼女は眉根を寄せる。
 思い出すは自分を見る、あの金の眼。
「なのにあの阿呆は、女なら誰でもいいらしいな。気に入らない。ちょっと認めてもいいかなと思ってた自分も気に入らない」
「そうかいそうかい」
 ひいふうみいと、髪結師抹茶(まっちゃ)は夜那に貸し出していた物品を数える。具合を確かめる。
「久しぶりに骨のあるヤツと会ったと思ったんだけどね……。拍子抜けもいいところだ」
「……ふーん」
「しかも小賢しいことに、わたしの幻術見破りやがって」
 拍子抜けしたら、お前は相手をボッコボコにするのか。と、心中でごちていた髪結師は顔を上げる。
「お前の幻術見破ったのか? 凄いじゃないか。もっと褒めてやれ」
「凄かろうがなんだろうが――こっちが満を持して挑んだものを、ああも簡単に見破られちゃ面白いハズがないだろう」
 そう、それもある。気に入らない原因。そしてない。
 この程度のことで『怒る』ことなど起こってはならないのだ。簡単に感情を現してはならない。読まれてはいけない。
 ―――自分で制御できない感情など、自分にあっては困る。
 夜那はぶつぶつと文句を言って"みせる"。
「せっかくの親切心だっつーのに。見たいっつーから見せてやったのに」
「―――本物でなければ、意味もなかろう。偽物のブランド財布に喜ぶような小市民ではなかったのだから良しとしてやれ」
「確かに―――。いや、バレなきゃいいんだよ。バレなきゃ。そしたらあの馬鹿もう来る必要もなくなるだろ」

 簡単なことだった。
 怪我をさせ医務室に押し込んだ所で、亜夜に化けて訪れる。亜夜みたいな超絶美人に心配されて「もう来ないほうがいいわ。あんたが心配だもの」とでも言われれば、それで万事オーケーだと思っていたのに!
 バレた。
 まったくもって小賢しい。
 憧れの太夫に会えたんだから、舞い上がることの一つでもしろ! と言いたい。小一時間ほど言ってやりたい。面倒だから言わないけど。

「あーあ。何なんだろうな、あの男。正直理解に苦しむ」
「俺にしてみればお前も十分な」
「今日ほどでなくても、普段もそれなりに心身共に苦痛を与えてたはずなんだけどな。それでもヘタレないから、中々やるヤツだって評価してたんだ。わたし」
「……どこの批評家だお前は」
「それなのに、だ。女だと見る目変えやがって。なんだ、お前が好きなのは亜夜じゃないのか! 女ならどんなでもいいのか!」
「見たこともない女に惚れるより、チラッとでも見たことのある女相手にどうにか思う方がまだ健全だと思うが」

 打てば響くように返ってくる、ボソりとした合いの手。
 夜那は無言のまま抹茶を見やると、ニヤと笑う。彼が止める間もあらば、指先を翻す。廻り役はその姿を変えていた。―――遊女、亜夜の姿に。
「……! 夜那、卑怯だぞ!!」
「卑怯って。―――抹茶、さっきから随分な物言いだね。ひどいじゃないか。わたしのこと嫌いなの?」
「す好きも嫌いもない。俺はただ、事実を言っているだけだろう!」
 言われ、詰まった魔物の紫紺の瞳が悲しげに揺れる。
 抹茶はたじろいた。亜夜本人の性格がそうでないことを知っていても、この顔でこういうことをされるのは辛い。根性なしとか言うな。
「分かったから、ホント分かったから止めてくれ。なんだ、何が望みなんだ。言え」
「……望みなど………。ねえ、抹茶。どうしてそんなに離れていくんだい?」
「察してくれ! 知ってるだろう夜那」

 もちろん知ってる。この髪結師が亜夜に惚れていることは。
 ふむ、と口元に親指を当てる。口調を戻す。

「しなだれかかってやろうか? 抹茶」
「……一体、何の恨みがあっての所業だ。するな、来るな、上目使いを直ちにやめろ」
「―――なんでそんなにテンパってるんだ抹茶」
 それはもちろん、好きな女の姿をしているからである。絶世の美女の姿をしているからである。
 パチン。指を鳴らして幻術を解く。
 これでますます()せなくなった。自分の幻術が甘いのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
 初めから偽者だと分かっている抹茶の、あれ程のうろたえっぷり。まあ、この男に関してはある意味で論外という気もしなくてもないが。
 隣で何やら騒ぐ男の言葉をまるで聞き流し、夜那は呟いた。
「分からんな……」
 気に入らない理由の筆頭は、あの馬鹿の真意がつかめていないことにある。分からないということは多かれ少なかれ不安を覚えるのだ。

 現在進行形でその雷吼(バカ)と亜夜が共に居ることなど、仕事をさぼる夜那には知る由もなかった。自業自得である。


八.


 雷吼が導かれるままにやって来た場所は、なんと亜夜の自室であった。
 外から通いで働きにやって来る遊女もいないこともないが、彼女らの多くが住み込みである。仕事部屋と、自室と。ここ瑠楼殿では望めば当然のように与えられた。

 妓楼内の華美な装飾とは異なる、簡素だが内装一つ一つに贅をこらしてあることがよく分かる室内。なまじ派手な装飾よりも、こういった普通の物に金をかける方がよほど値がつくことを彼は知っている。恐らくは彼女の『身分』に由来する部屋なのだろう。
 雷吼は戸惑いのまま彼女を見やる。
「で、話って?」
 女は微笑を浮かべたまま話さない。助けを求めるように黒衣の護衛に視線をやったが、それは当然のように反応を返さなかった。使えねえ。

 肘掛に腰を落ち着けた亜夜は、ちょいちょいと白金の髪の魔物を手招きする。
「まあそんな焦りなさんな。―――ここに座りな。何か飲むかい?」
「じゃあ熱燗を……って、いいよいいよ。いりませんよ。茶でも出してくれればそれで」
 遊女はふと笑った。
「じゃあお茶を用意しよう。梓劉、玉露持って来て」
「断わります」
 黒衣の覆面男は微動だにせずそう答えた。
「俺の仕事は貴女の護衛。傍を離れるわけにはいきません、ご理解を」
「何さ、夜那が怖いだけの癖して。やんなるね。じゃあわたしが淹れよう、お前さんちょっと待ってて頂戴よ」
 立ち上がった亜夜の後を追って廻り役も動く。もちろん子供のように後をついて回るわけではなく、より護衛しやすい体勢を整えたのだ。
 一方、雷吼は『夜那』の言葉に如実に反応を示した。
 その名が異様に恥ずかしい。何なんだろう、とにかく恥ずかしい。恥ずかしい要素はどこにあるのか分からないまま、ただ彼はあさっての方向を向いた。
 亜夜は横目でそんな彼の様子を観察する。そうしてムッと眉を寄せる彼女に、梓劉はやれやれと頭を振る。


「はい、これどうぞ」
 長く美しく整えられた爪の備わった指先が支える湯飲みを両手で受け取り、魔物は軽く会釈した。亜夜は自身のそれを持って席につく。玉露をすする音が室内に響き、その他衣擦れの音がするのみで、場にもたらされる静けさが一層増したような気がした。遠くから喧騒が流れてくる。
「夜那から随分色々話は聞いていてね、お前さんの活躍はまあ色々知ってるわけさ。あの子とわたしの関係も知ってるらしいね……。本題に入ろう。何、簡単なことだ」
「はあ……? それで」
 疑問符を表情に貼り付けたまま雷吼は首を傾げる。湯飲みは手の平を温め続ける。
「何、簡単なことだ。取引だよ」
 亜夜は繰り返す。繰り返し、包帯を巻かれた雷吼の腕に目をやると、鮮やかな笑みを紅唇に浮かべた。
 魔の生き物として働く『勘』がある。そして今、その勘が非常に嫌な予感というものを彼に提供していた。この場を立ち去りたい衝動に駆られる。
「今日はあの子が随分と迷惑をかけたようだし、煉斉(れんせい)もよく思っていないみたいだし、お詫びのしるしとしてわたしのことを抱いてみないかと思ってね」
 さらりと投下された爆弾発言。空気を振動させ、鼓膜を打ち、それは確実に雷吼の脳に届いた。
 信じられない。
 脳に届いた言葉は情報として処理される前に、通信回路を遮断される。理解を拒んだ。
 ―――今、この女は何を言った。

「は?」
 何とも陳腐なたった一字の疑問符。しかも極めてマヌケな声音。けれども他に、どう反応を返せばよかったのか。
 雷吼は穴が開くほど美しい遊女を見つめる。この女を抱けるらしいと見つめる。そして不意に笑いたくなった。
 ついに自覚症状である。
 雷吼は笑みをかみ殺す。そうでなければ大声で笑わずにはおれなかった。
「いやだね、こっちを見てちょうだい」
 拗ねた口調で言うのは緋色の太夫。
「……わたしじゃ、不満? 抱いてみたくはならない? 触れてみたくはならない?」
「あーいや、うん。……なるな」
 咲き誇る艶やかな華。清廉さはどこにもなく、男を惑わす甘い微笑。亜夜はそれを伴って彼のそばによる。
 快活に日に焼けた手の平を取る。
「だったら、思うままに」
 指先に口付け、白く細い指が額からこめかみを撫でる。
「お前さんがその頭の中で考えていることを、全て実行してくれればいい。わたしは拒まない。わたしはここにいる」
「へえ」
 紫紺と金の視線が交わった。
 淡く淀んでいた空気が緊張を帯び、硬質化していく。梓劉はその瞬間、室内を彩る調度品と化した。出て行きたいのは山々であるが、今は動けない。動けば気を乱してしまうから。―――いや、この行く末をでばがめしなくてどうする。というのが本音であるのだが。
 非常に興味がある。この金髪がどう対応するか。

 緋色の魔物は獲物を狙う猛禽類のように目を細め、しなやかな肉食獣のように身体をしならせる。
「ねえ」
 雷吼は笑む。細い腕を掴むや否や引き寄せる。さらに笑う。間近で見ると女はさらに人形じみていた。そっと紫紺を覆う瞼の上に唇を落とせば、甘い微笑。
「オレ、あんたの目の色好きだな」
「そう?」
「ああ。いい色だよ」
 ぽんと緋色の頭に手の平を置く。
 そして言った。
「―――あれに似ててさ」
 未練が首をもたげる前に、彼は座椅子から立ち上がった。紫紺の瞳が追いかけてくる。それを振り払う。
「悪いな、今はあんまそそられねぇわ。―――お母サン」
 亜夜はあくまで無表情のまま黙り込む。そうして彼女は"あれ"にとてもよく似た笑みを浮かべた。
「本当、悪い。―――だいたいね、あれがわたしに似てるんだ。子供なんだから」
「そうだな」
 苦く笑った雷吼は首を鳴らす。酷く疲れていた。けれどもそうなのだ。今は、そんな気分にはなれない。あるいは別の日ならば、とも思わなくてもないが。
 今夜、あれを見た後でそういう気分にはならない。
「そう……わたしの誘いを断わったの、お前さんで何人目かねえ。もう困るよ」
 自信なくすよと続け、亜夜は含み笑う。
「―――可愛いだろう?」
「かなり」
「ああ見えてね、本当に可愛い子なんだよ。普段は中々目に付かないから、何せ覆面だからね。耳の裏こしょこしょやったら嫌がるし、足の裏も。ああ可愛い」

 やはりしなやかな動きで彼女は立ち上がった。ふわりと花の香りを纏う毅然と伸びた背筋には、もはやどこにも媚びる気配はない。ああ、いい女だなあと思う。

「よろしくとは言わない、絶対ね。―――だけどまあ、またおいでよ。追い返しはしないからさ。さて、わたしもそろそろ仕事に出ないとね」
 黒衣の廻り役は何も言わず襖を開いた。
 当たり前のように退出する緋色の魔物に続く彼は、ふとこちらに視線を向ける。
「旦那、あんたスゲエな。―――俺なら絶対やってるよ」
「どんな堅物かと思ってたけど、意外と身も蓋もないなお前!」
 梓劉は肩をすくめる。
「この世に亜夜さん以外で、あいつを『可愛い』なんて形容するやつがいるとは思わなかった。何で抱かなかった?」
「そりゃなあ」
 苦笑。
「20倍カレーを食った後に、2倍カレー食わされてもどうにも思わないだろ。そういうことだ」
 言い切った雷吼に、黒衣の男は再度肩をすくめる。そうか、と頷き姿を消す。
 ひとり取り残された彼は盛大にあくびをし、手渡された湯飲みを一瞥する。

「媚薬および睡眠薬入り茶……。すげーもん出すよなここの太夫も」
 独特の匂いで分かった。ゆえに口をつけなかった。
「……怖ぇえ」
 渋面するしかない雷吼である。

  ◇ ◇ ◇

 前を見たまま足早に廊下を歩く亜夜は言う。
「あの男、知っていたと思うかい?」
「薬入りの玉露の方には気づいてたみたいですけど、規則に関しては思わないですね」

 妓楼にはいくつかの規則がある。
 その中の一つで、妓楼内では売買契約のない性交渉を禁ずるという項目があった。

 梓劉がそう答えれば、亜夜はいらただし気に唇をかむ。
「何なんだろうね。ああ、わたしの夜那が!」
「良いじゃないですか、試した結果上々だったんですから。任せるには良い男ですよ。取りあえずの所俺が保証しときます」
 言いながら、太夫の身支度を整える髪結師らの待つ、室内に続く襖を開く。
「だからこそ嫌なんだよ、完全に取られちゃいそうじゃないか! もう、淋しいわ」
「いい加減子離れしましょうね。―――さ、侍従の役引き継ぎます。俺は本来の仕事に戻りますよ。風鳶(ふうえん)も間もなく来るでしょう」

 もしもあの場で雷吼が行為に及べば、一生彼らに近づくことすら叶わなくなっていたと断言できる。規則とはそういうものだ。もちろん本格的にどうにかなろうとすれば、梓劉は止めに入るつもりであったが。
 何しろ夜那が怖い。

「梓劉」
 はいと応えて振り返る。身支度のため、数名の魔物に取り囲まれながら亜夜が言う。
「これからも、あの男が来たらわたしに報せてちょうだい。頼んだよ」
「またそんな―――はいはい、仰せのとおりに太夫」
 女に睨まれると怖い。特にこの魔物は、瑠楼殿の主とも対等に渡り合ってしまうような、とんでもな女なのだから。


 ―――彼女がここで勤め出した時の逸話を知っているか。
 昔、京石(きょうごく)に聞いた話が思い出される。
 手荷物は何もなく、一銭すらも持たぬ魔物は、煉斉を前に開口一番こう言ったそうだ。

「わたしを三億で雇ってくれれば、この妓楼に五億以上の稼ぎを保証しよう。お買い得だろう」

 まさに酔狂。ふっかけるのもいい所である。
 しかし今や彼女はそんな酔狂な発言通り――それ以上にふんだんな利潤を職場にもたらしているのだから、そら恐ろしいものである。一晩に百万からなぞ序の口、正確に言うならばゆうに二百はふんだくっているはずだ。

 もっとも更に酔狂なのは、そんな女を「よっしゃ、働いてみろや。契約金は三億五千万」で雇ってしまった六代目だとも言えなくもないが、そんな男女によって、この妓楼が魔境中央で最高峰と呼ばれるようになったのは動かしようのない事実である。―――らしい。

 ゆえに彼女のワガママというものは大半が通る。
 こうやって予約客を待たせていても誰も文句を言わない。怒らない。
 その身一つで多額の金品を稼ぎ出す遊女は、だからこそ太夫。彼女を懐柔するということは非常に意味がある。
 この妓楼内での万事を掌握したに等しい。

 そのことに気づいていたか、亜夜を抱かなかったあの男が。
 ―――そのとおり、あんたは正しい。
 妓楼内のものが欲しくなれば、まずは彼女からがセオリーである。




前のページへ戻ります 表紙へ戻ります 次のページへ進みます