「続・魔境における、こんな愛情表現 〜風鳶の行方〜」
―宴【うたげ】をめぐる攻防―
九.
男が
瑠楼殿
(
るろうでん
)
を訪れるようになって早四ヶ月。どうやら自分の預かり知らぬところで、色々と事は起こっていたらしい。
現在進行形でその『事』が起こっているなど露ほど知らず、
夜那
(
やな
)
は一つ、表面化した『事』と出会っていた。
目を三角にして
襖
(
ふすま
)
を開いた女は、
杏里
(
あんり
)
という名の歳若い遊女。彼女こそが『事』の持ち主である。 相も変わらず
抹茶
(
まっちゃ
)
の傍ら、いたずらに
屯
(
たむろ
)
していた夜那は、突如開いた襖からのぞく女の立ち姿を「おや」と見やる。
「どうした?」
怒り心頭といった様子の杏里は髪結師に
一瞥
(
いちべつ
)
もくれず廻り役へと歩み寄ると、じわり、涙を浮かべた。
「ど、どうした? なんで泣くんだ。ついでに仕事はどうした? さぼりか?」
もの言いた気な抹茶を無視し、顔見知りの遊女を招き入れようと、差し伸べた腕を振り払われる。パシと乾いた音が室内に響く。
「どうしたもこうしたもないよ! どうしてくれるのよ、
風鳶
(
ふうえん
)
……! なんで
雷吼
(
らいこう
)
はんを半殺しにしたりしたの!」
「………らいこう……?
誰だそれ」
「馬鹿―――!! あんたが今日、ボコり倒した男の名前だよ! 白金の髪と金の目が素敵な!」
あーあーあーと頷く夜那は、まあ座りなさいよと座布団を勧める。逡巡した後杏里は腰を降ろし、手の平を膝の上で固く結ぶ。抹茶は無言のまま我関せずを通すことにした。
「それで、あの馬鹿がどうか?」
「ひとの話を聞いてた……? なんで、どうして彼に怪我させたりしたの。もう二度と来てくれなくなったら、どうしてくれるのよ」
「ええと……わたしとしては嬉しい限りなんだけどね」
「馬鹿―――!!!」
本日二度目の罵りとともに、細い腕が振り下ろされる。連続した打撃。
「ちょっと、あの、痛い」
「馬鹿! 阿呆!! とんま! あたしは嫌なんだ! 雷吼はんと会えなくなるのは嫌なの! あんたのせいだからね!! もし、これで来なくなったらあんたのせいだ!!」
「『とんま』とか久しぶりに聞いたよ。―――って言うかあの男、ここ最近の杏里の客だったのか。そうか、初めて知った。で、なんで会えなくなると嫌なの?」
真顔の問いに、ぎゅっと唇を噛む。夜那を睨む彼女はふと笑みの形に口元を歪めた。
「客を好きになるなんて、滑稽なことは分かってるよ」
「……好き? あの馬鹿を? 杏里が……!? ウソぉお!」
「馬鹿とか言わないでよ! 馬鹿!」
「本気かよ」とは、よもや言うまでもないらしい。プリプリと怒る女は誰か男を好きになっている時特有のものである。
ましてとんでもない珍事でもないのだ。遊女が客相手に本気になってしまうことなど。
しかしそれは相手がそれなりの相手であるからこその話。疑わずとも、あの男の何が良かったのかと、夜那としては――東大生級の物理の問題に挑むごとく――ただただ首を捻るしかない。 ―――いやいや、わたしには分からない場所に良い所があるのかもしれない。うん。 でもなぁやっぱりなぁ、と言う呆れの言葉を飲み込んで生真面目に首を傾けてみせた。
「……ならさ、仕事をやめて追いかけてみるか? 六代目への口添えなら惜しまないよ」
「―――え」
「好きなんでしょう? だったらここを出て、押しかけて行ってしまえばどうよ、っていう話。おお……、案外いいかもしれないな。心動かされる」
こちらとしても都合が良い。杏里と恋仲になって、あの男が
亜夜
(
あや
)
へくだらないちょっかいを出さなくなれば万々歳だ。
「簡単に、言わないでよ」
「じゃあよく考えればいいよ。そう難しくない。好きか、それほどでもないか――」
「ふざけないで!」
大声が言葉を遮った。
「そんなに簡単なことなら、あたしだってこんなふうにあんたの所へイチャもんつけに来たりしないよ! 押しかけてフラれたらあたしどうしたらいいの? 泣いて戻ってくればいいの? 彼が怪我してるのを、黙って見ていろって言うの……!? 冗談じゃないわ。あたしは、あんたみたいに、できないことの方が少ない魔物じゃないのよ―――っ!」
口を閉ざした夜那は真正面から女の言葉を受け止める。紅茶色の瞳から、ぼろっと涙がこぼれ落ちた。それも受け止める。
「今日だって、怪我したって聞いて……、とても驚いたんだよ。―――ねえ、どうして……? 会えるだけで――あたし、嬉しいのに」
「……分かったから少し落ち着け」
言ったのは髪結師――抹茶で、彼は武骨な動作で襖を示した。
「一先ず引け。自分が何を言っているのか訳が分からなくなっていること、自覚できるか? 後日落ち着いてから、もう一度話をつければいい」
「でも――……」
「――……いいから、お前には落ち着く時間が必要だ」 杏里が退室し、残されたふたりは何とはなしに顔を見合わせる。
「珍しいな。抹茶が揉め事に口を挟むか」
「ああいう手合いは、耳障りだ……。そこまで言うほど惚れているなら、ひとに責任を転嫁せず自分で行動に移せばいいだろうに」
「それは経験論か? 抹茶」
煌々と光を放つ
行燈
(
あんどん
)
をぼんやりと眺めながら問う。行燈の中身は火ではなく、そのような術が込められている代物である。
逡巡するように、深く瞬いた男はあさって方向に重く息をついた。
「―――少なくとも俺は、亜夜さんがいるからこの世界に入った。それだけの力があるひとだとも思っている」
「なんだ色気のない。せめて魅力って言えばいいのに」
軽く笑って立ち上がる。覆面を身につける。そろそろ潮時だ――仕事を放棄して早半刻――いつ怒鳴り込まれてもおかしくない。
黒衣の廻り役は襖の取っ手に手をかけ、思い出したようにそれを訊ねた。 「なあ―――わたし、できないことの方が少ないような魔物に見えるか?」 行燈の灯りがゆらと揺れる。
抹茶は肩をすくめ、
「よかったな、能力以上のものがあると勘違いしてもらえて。本当にそうなら仕事をさぼったりせんだろう。―――それで、やっと仕事に行く気になったのか?」
「ああ心配ご無用。わたしが亜夜の不利になるようなことをすると思うか? いつもべったりはりついてたんじゃ格好つかないでしょ。だから、たまには手を抜いておくくらいのことをしておいた方がいいんだよ。今夜の客は亜夜に微笑みかけてもらえるだけで有頂天になれるような、骨抜きにされきった
零狼
(
れいろう
)
っていう
魑魅
(
ちみ
)
だから、まず大丈夫だし」
ああ、そうかい。と相槌を打ちかけた彼は口をつぐんだ。
音もなく開いた襖の先に冷気を纏った覆面の偉丈夫は立ちふさがる。深い深淵のような黒い瞳の持ち主を前に、いっそ愉快なほどに夜那の背筋が伸びた。
「仕事中に申し訳ない髪結師。―――さて、と。夜那、言い訳があるなら聞いてやるくらいの慈悲の心がカス程度だが残っている。………お前、仕事をとんずらして何をしている?」
「……きょ、
京石
(
きょうごく
)
! どうしました、こんな場所で会うとは奇遇ですね。いやいやいや、もしかしたら―――」
「
戯言
(
ざれごと
)
はいい。――来い。拒否権はない。黙秘権もない。鍛えなおしてやる……」
覆面の下、夜色の魔物の師は凶悪に笑う。
「安心しろ、明日の休みはすでに取ってある。存分に仕事をサボれてさぞや嬉しかろう」
「ま抹茶抹茶っ! 何とか言ってくれ! なんか半殺しにされるらしいぞ!!」
「嫌だ」
首根っこを掴まれ、引きずられて行く女に小さく笑ってやった。
「そういうのをな、自業自得というんだ」
十.
「どうしよう
苑笠
(
えんりゅう
)
さん、オレついに運命の女に出会っちゃった!」
開口一番でそう言った男は、本日の天候そっくりの浮かれた笑顔を垂れ流している。
―――うむ、見事な馬鹿面だな。
「またかよ……、お前には何人運命がいるんだ」
うんざりした顔で、
雷吼
(
らいこう
)
を見やった魔物は足のつめきりを再開した。
ここは彼の――苑笠の自宅――魔境東部に位置する、木造平屋建ての住処である。 「違うって、今度はマジなんだって。一粒で二度オイシイ、一見野郎に見えるすっげえいい女。あ、もったいないから誰かは言わないですよ」
こちらも「一見野郎に見えるって、そりゃどんな女だ」とは言わないでおく。
「ほお、五ヵ月前ほどに別れた
冴焔
(
さえん
)
の時も『これは運命だって、超クール美女。彼女はオレと出会うために居酒屋で飲んでたんだ』とか何とか言ってなかったかお前」
「あいつはアレだよ、向こうから別れるって言ってきたんだから仕方ないでしょ。男たるもの女々しく跡を引きずるのはよくねえよな。うん、いい女だった。グッジョブ」
「さらに遡ること二ヶ月、
深澪
(
みれい
)
」
「ああ、深澪はこじんまりしてて可愛かった……! いまだかつてなく初恋の
春濫
(
しゅんらん
)
に似てたあたりが驚きマシタ」
「………
汀渦
(
ていか
)
」
「色白でイイ身体してたなあいつは。けどですよ、汀渦に関してはオレのが弄ばれたというか何と言うか。あまじょっぱい僅かな蜜月だった」 これら三つの名は雷吼が『運命だ!』とほざいた、少なくとも彼が覚えている範囲の名である。細かい関係まで名を上げるのならば、さらにぽろぽろと指折り数えることができるに違いない。なんとまあ阿呆臭い話だ。
几帳面に新聞紙の上に散らばる爪を集め、くしゃりと丸めた。
「―――以上、ここ最近のお前の女事情。回転速すぎだろうが馬鹿者。発情期かお前は、少しは落ち着け」
「聞き捨てならねーよ苑笠さん。惚れた女とつき合って何が悪いんですか」
処置なし! 天を仰ぐ苑笠はやれやれと首をすくめる。 そう、男は非常に惚れっぽい。良く言えば常に目新しい刺激を求め、悪く言えばあきっぽい性格をしているのである。よくもまあ揉め事にならないものだと思うが――何のことはない――早くて一週間遅くて四ヶ月、それだけの期間で大概の場合フラれているのだ。 いよいよ別れ際になると沈んだ女たちは口を揃えて言った。
「あのひとが何を考えてるのか分からないのよ」
しかし苑笠は思う。『今』ならば笑ってきっとこう言うに違いない。
「あんな最低の男どこがよかったのかしら、あたし」 常にもの楽しげに笑っている男。それに惹かれる女は多かった。
男が営む愉快気で快活な生活、そこに混じってみたい。きっと、ずっと楽しいに違いない。楽しく過ごせるに違いない。
そっぽを向いて「嫌いよ」と言っても「好きだ」と言ってくれる。楽しませてくれる。
だから幸せになれるはず。与え続けてくれる彼の隣は楽しい空間だ。
そんなふうに女たちは惹かれるのだろう。いつしか男に恋をする。好きになる。
恋は盲目とはよく言ったもので、釣った魚に餌を与えないとはよく言ったもので―――。釣をこよなく愛する釣りびとは白金の魔物。
せっせせっせと餌をやりいざ釣り上げてしまえば――最初こそ喜びはしゃいだはずの男は――うっとりと動かなくなった女たちから徐々に興味を移していく。水面できらきらと泳ぎまわる次の魚に興味が移る。
魚篭
(
びく
)
に込められた得物を忘れ、何も与えず放置するようになってしまう。忘れてしまうのだ。 ―――否、魚篭に込められた魚は水中を忘れたわけではない。魚ではなく女であるが故に、広大で自由に泳ぎまわれた世界を忘れるはずがないのだ。出て行く足も術も持っている。足りないものは意志。ゆえに男が油断した隙をつき、するりとそこから飛び出していく。
それで終わり。その間長くて四ヶ月。 恋を遊びだと言うには余りに下手くそだと思う。男は、こよなく遊び下手な魔物であった。
そして苑笠にはこの件に関して男を肯定する気になれない。
『あのひとが何を考えているのか分からないのよ』
言った女たちの気の毒なこと。愚かしいこと。与えられるものにどんな意味があるのか、考えてみなかったのか。 こめかみを押さえ、彼は言う。
「どーしてそんな手癖の悪い男に育ったんだろうねえ、お前は。―――キャッチアンドリリースができないなら、釣なんかするな」
「女を魚呼ばわりしてんじゃないですよ。怒られますよ、苑笠さん」
「魚扱いしてるのはどこの誰だ。いいか雷吼、最後にゃお前がことごとくフラれるのはなぜか考えろ」 「うわ、その一言はスゲー効くよ苑笠さん。オレの繊細な胸が痛い。そんなものオレが教えて欲しいくらいなのに……イテッ」
「殴ったからな」
「じゃあ、殴らないでください。胸だけじゃなくて頭までイテーし」
鼻を鳴らし、苑笠は行く。
「ただでさえお前は阿呆なんだから、考えることをサボるんじゃねえ。考えることを惜しむな。面倒くさがるな。それだけのことをやった上で出した答えなら、どんな答えだろうとそれでいいんだからよ」
「今、サラリともの凄い侮辱を受けた気がするんですけど……」
「気のせいだ。ああそうだ、昼飯は食っていくか?
壱紫
(
いつし
)
が作ったメシだからうまいぞ〜」
壱紫――苑笠の恋人である。穏やかな気質のひとで、たいそうな黒髪美人である。タイミングよく台所から軽やかな声がかかる。
「苑笠ごはんできたわよ〜!! 雷吼くん連れて来てちょうだいね」
「はいはい〜。な、俺みたいな幸せを掴みたいなら良い恋をするこった。メシがうまい、夜は幸せ、言うことないね」
雷吼はヘッと嘆息した。
「………この間の
瑠楼殿
(
るろうでん
)
でのことを、壱紫は知ってるんですかねえ」
前を歩く、およそ自分ほどに上背のある男の双肩がびくついた。にやり、笑う。
「誰だっけ。ああ、
裡唖
(
りあ
)
だ裡唖。あの遊女と随分仲良しでしたよねぇ、壱紫かわいそうだなあ」
「雷吼」
「教えてあげた方が親切ってもんですよね、あなたの恋人は夜な夜な女遊びにせいを出してますよって」
「雷吼君雷吼君、君は俺への情を持っていないのかね。だいたいあれは―――」
「壱紫〜! メシの前にいいこと聞かせてやるよ、あのさー苑笠さんがさー」
わーわーわーと声を張り上げる彼を投げ捨て、雷吼はタカタカと駆ける。 本気でない時なんかない。
いつだって本気だった。
本気でない時なんか、ない。 遊び? 冗談じゃない。
興味のあるものに、本気なく接したことなどこれまで、たったの一度だってない。 ただ、どうしようもなく飽きるだけだ。
興味が失せたあとのことまで言われてしまうのならば、自分はどうすればいい。 「オレは本気ですよ。飽きるまではいつだって本気だ」
『どうしてフラれるのか考えろ』と言った続きを言っているのだと悟り、苑笠は渋くなる。
「その本気が他人には毒になるんだよ。現に俺がそうだ。本気で言うなよ、やめろよ。円満関係にひびを入れるんじゃねぇ」 熱しやすく冷めやすい。男はそれで、どうしようもなくそれで。
その<熱>に魅せられ、落ちたところでぷつりと途絶える<本気>。そして女は気づく。
与えられていたものが、甘い毒であったことに。失って、どうしようもなく、たまらなくなる。
唯一の救いは『先に愛されたのは自分だ』というプライドが彼女らに残っていたことだろう。それがある故に、失ったもの相手にのめり込まずに去ることができる。断ち切れる。 立ち止まり恩師に向き直る雷吼は、そそくさと身を翻した。
「……壱紫〜!!」
「あーもーやめんか! 蹴るぞ!!」
「もうすでに蹴ってるし!」 陽気さの持ち合わせはある。他人を巻き込むほどの機動性もある。何事にも本気で取り組むことだってできる。ただし、直情型。
白金の魔物に足りぬものがあるとするならば、それは持続性である。 ◇ ◇ ◇ 陽気さの持ち合わせはある。他人を巻き込むほどの機動性もある。何事にも粘り強く取り組むことだってできる。ただし、偏りあり。
夜色の魔物に足りぬものがあるとするならば、それは真剣さである。 一晩空けて、雲一つない蒼天。
陽光は美しい庭園も凄惨な戦場――『鍛えなおし』の現場である――も平等に照らし出していた。
「どうした、もう終わりか。たいした実力だな」
嘲笑浮かぶ師の口元を見やりながら、夜那は口の中に溜まった血の味の唾液を吐き出す。首元をさすりながら、
「お褒めに預かり光栄です。あー……イッてぇ。寝不足に怪我――本気で寝込むな、これじゃあ。相変わらずのサディスティックぶりで懐かしい限りですよ
京石
(
きょうごく
)
」 嫌味には嫌味で。京石が何を言いたいのか分かる。 「口だけは減らんな、お前は。ああそう言えば聞き忘れていた。……一連の行為は六代目からの正式なお
達
(
たっ
)
しがあれば、どうなるか分かってのことか?」
「客を不当に殴って、仕事サボって? まあ、それなりには分かっているつもりですけど、ここ最近、世間にわたしが亜夜を大切にしていることを知られすぎましたから――仕方がない」
覆面の魔物は渋面を作る。
「クビになっては元も子もなかろう」
「なりませんよ」
確信を持って言う。
「なりませんよ。わたしは亜夜の娘ですからね」
「馬鹿者が……。―――今からお前の腕を折る。仕事復帰直前まで術による治療は許さない。それで今件はおしまいだ。廻り役首長として不問に処す」
言いながら背後を取り弟子の膝裏を蹴る。膝を折らせ、地に肩から体躯を押し付け、彼女の腕を掴む己の手に平に力を込めた。骨格が軋みを上げる。夜那は動かない。
次瞬、あっけなく鈍い破裂音が鳴った。左腕であった。
肩で息をし、痛みに奥歯食いしばる夜那に
一瞥
(
いちべつ
)
をくれ、京石は身を翻す。
「本日一日謹慎を命じる。……最後に助言をくれてやろう、こんなことをしているといつか死ぬぞ」
「――……了解。首長」 遠ざかる足音を聞きながらしばらく息を詰め、脂汗混じりにふらりと立ち上がれば、彼女は正気に戻るがごとく「あ」と息を呑んだ。脂汗が冷や汗に変わる。さあっと血の気が引いた。
「やっばい。亜夜に何も言ってない……! 無断外泊!!」
正確に言うなら外泊ではないのだが。ここは瑠楼殿の敷地内である。
しかしそんなことはあの緋色の魔物には一切の関係がないだろうと予想でき、傷に響く痛みに顔をしかめながらほうほうの体で帰宅すれば、案の定、盛大な雷が落ちるのであった。 壁に張り付きながら夜那は縮み上がる。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。ごめんね亜夜!」
昔からそうだ。その形良い柳眉を吊り上げ、艶やかな声で怒鳴られればひたすらに恐ろしかった。どれほど時を重ねても、決して敵う相手ではないと思う。
言い換えるなら、彼女の怒りほど怖いものはないのだ。もはや
魂のレベルで恐怖が染み付いている
と言える。これは条件反射。すりこみなのである。 「あぁんもう馬鹿―――!! わたしが、どれだけ心配したと思ってるの!!!」
言葉とともに両腕が巻きついてくる。
「ああ、亜夜、傷にひびく……。傷に」
「痛いのくらい母親の抱擁を受けるために我慢しな! もう、何があったのか心配で心配で。誘拐されたんじゃないかとか、どっかの変な男に路地裏に連れ込まれて誑かされてるんじゃないかとか」
「…………………それ、本気で思ってた?」
「実を言うとあんまり」
えへへと笑う。娘は強いのである。
「とにかく昨日は五時間睡眠しかできなかったんだからね。ちゃんとリンチ受けに行くなら行くでわたしに連絡してから行きなさい。大丈夫? ひどい顔、してるよ夜那」
「ご、ごめんね。ごめんね。いつもは六時間睡眠なのに―――亜夜」
最後にもう一度ごめんなさいと言った娘の頭を撫で、憂いを含んだ目で緋色の魔物は夜那の着衣を脱がしにかかった。顔やその他、切り傷打ち身も酷いが、なにより左腕が普段の二倍にはれ上がっている。
「ああもう京石も随分なことをやってくれる! あとで
獅己
(
しき
)
に薬を貰ってこよう」
「ありがとう。にしても亜夜、京石がやったって誰に聞いたの?」
母は笑う。
「わたしは夜那のお母さんだからね。それくらいのこと、知っていて当然だろう。お前の母親は
瑠楼殿
(
ここ
)
ではそれなりの力を持っているんだよ」
瑠楼殿内で好き勝手できると思わないで欲しい。
言いながら何度も頭を撫でる。 ―――多分、
梓劉
(
しりゅう
)
あたりだな。
梓劉――のん気な同僚である。
軽くあたりをつけ、夜那は手近に用意してあった救急用品を引き寄せながら提案する。
「さて、と。亜夜いいか。今のわたしは役に立たない。梓劉あたりで護衛を誰か、用立てて欲しい」
同僚には申し訳ないが、乗りかかった船と言うやつで一つ頑張ってもらおうと思う。
「あらやだ。何なら今夜は仕事、休もうか?」
「駄目だよ。今日の客は東の一強だろ。ドタキャンは割に合わないよ」
亜夜
太夫
(
たゆう
)
の向こう三週間の予定は頭に納まっているのである。
そこでふと脳裏を過ぎるものがあった。苦虫を潰したような顔で唸る。
「ああ、そうか、梓劉は駄目だった。あの阿呆を何事もないように通過させるからなあ。誰かもっと他のいいひとにしよう」
ひとりの男の名と共に、ひとりの遊女を思い出す。
―――このボロ姿を見せてやれば、杏里も少しは気が済むだろうか。
厄介事というものは、耐えないものである。
『いいかい夜那。妓楼でうまくやっていくにはね、遊女を敵に回すんじゃないよ。もっとも、女には可能な限り恩を売っておけばいい。特に美人にはね。―――いつか、絶対、役に立つから』
言ったのはやはり母親である太夫であった。 亜夜が口を開く。
傷による熱でぼおっとした頭に様々なことが去来し、夜那はその発言を思わず聞き逃しそうになった。
「ああ、その件ならもう大丈夫だよ。昨日あの金髪にはすでに会ってるからね。今さら大したことないだろう?」
「そうそう、すでに会ってるからね。って、え……? え、ちょっと、ちょっと待って。亜夜今なんて言った!?」
「だからあの雷吼とかいう男と会って話をしたんだよ。なかなか小賢しい男でね、わたしが誘ってやったのに手を取らなかった」
マジかよ。いろんな意味で。
「……何でそんなことしたの? まさかタダで?」
「勿論無料だ。殴って怪我させたってことが大義名分になるだろう? で、やっぱり母親としては、ここ最近の娘の関心を奪ってる男がどんななのか見ておきたいじゃないか!」
―――誤解を招く言い方はやめて欲しい。どこらへんが娘の関心を奪ってる男なんだか。
「頭がいたいです。亜夜」
「かわいそうに……。大丈夫かい?」
そう、厄介事とは絶えないものである。
一つ生まれれば、まるで連鎖のごとくバタバタと押しかけやってくる。
複雑に絡まりつつある
厄介事
(
それら
)
をほぐし、いかに手際よく片付けるか。彼女にとって愉快な作業の一つだった。
往々にして適度な頭の運動というものは楽しいものである。ロジックパズルを解くのがそうであるように。 夜那という魔物は、決定的に物事を舐めてかかる傾向があった。世の中の事象を遊びとして捉え、いかに楽しんで過ごすかに全てをかけていると言ってもいい。根っからの遊び人なのである。遠山の金さんなのである。 「夜那」
自身を呼ぶ声が聞こえる。声の持ち主は、そんな事象の中での唯一の例外で。
「どうした? 亜夜」
小さく笑みを浮かべる。
「ごめんなさいね。怪我、させてしまって」
「変わったことを言う。自業自得だよ、これ」
抹茶にも言われた、と笑う。 生きていれば持ち物は増える。金しかり、家しかり、故郷しかり、家族しかり。
友人知人は大勢いる。しかし彼女にとっての持ち物は、この美しい魔物意外にない。 「大丈夫。すぐによくなるから」 そんな彼女を、時にひとは『
風鳶
(
ふうえん
)
』と呼ぶ。『夜那』では女女しすぎると、男ばかりの仕事場の都合でもある。
つまりは凧のことである。空を飛び、ゆうゆう地上を見下ろす。紙の玩具。
玩具であるからには持ち主が必ず必要で、それが誰なのか言うまでもなく。
字
(
あざな
)
を付けたのは皮肉の塊のような六代目――
煉斉
(
れんせい
)
。
風鳶と呼ばれ、今はまだ、ただの一つしか持っていなかったころのこと。
大切な一つを失い、後に多くのものを手にすることとなる未来から、遡ることおよそ四百年前のお話。 夜色の魔物と白金の魔物の人(魔物)生は、これ以後、重なったり離れたりすることになる。
―――「宴【うたげ】をめぐる攻防」
(了)