「続・魔境における、こんな愛情表現 〜風鳶の行方〜」
―閑話:夜に灯せば―
「これを貴女のために造らせたよ。どうぞ、使って?」
「今日も本当に綺麗だ」
「お前ほどいい女を他に知らない」
「………なんて、美しい」 ―――ああ、くだらないくだらない。なんて愚かしいのだろう。 妓楼に勤め始めた理由は至極簡単で、単純で、ただこの容貌から身を守るための手段にすぎない。いくらでも群がってくるそれらは、まるで灯りに吸い寄せられる羽虫のよう。もしくは
夏場の深夜睡眠中に耳元で飛ぶ蚊でもいい。
煩わしい。
鬱陶しい。
生れ落ちて齢を重ねていくごとにそれらを軽くあしらう方法も覚えたが、この容姿で愚か者を
嘲笑
(
わら
)
って金品をむしりとることができるならば長年の溜飲も下がるというもの。
そう思っていた。
妓楼に勤め出して数年、脅威の速さで
太夫
(
たゆう
)
と言う地位を手に入れ、望みは全て手中に。安全に金銭、優越。全て手に入った。
男はやはり愚かなまま、媚びへつらい、時に力任せな事に及ぶ。けれども彼女は昔の彼女ではなく、安全な檻の中で全てが守られる彼女に怖いものはもう何もない。飛ぶ火の粉はすべて店の者が払ってくれる。もはや仕事をせずとも『労災』の名目で金品が手に入る。ゆえに彼女は「愚か者が消えた」と笑っていなくてはならないはずなのだが……。
それで幸せになれると思っていたのはいつのことだったか。 すべてが思いのままに。どんな苦労も必要ない。どんな労力も努力も、何も。
けれども何だろう、この倦怠感と虚脱感は。何なのだろう。 ―――ああ、くだらない。しんどい。溺れてしまう。 なんて息苦しいのだろう。 このままでは駄目になる。
直感のまま、女は憤懣やるかたなく仕事場を飛び出していた。
艶やかな化粧を全て落とし、一人の魔物として。いまや彼女を着飾るものは緋色の頭髪と紫紺の瞳ばかり。
それでもなお匂い立つように美しい魔物の名を、
亜夜
(
あや
)
という。 ◇ ◇ ◇ 金の
礫
(
つぶて
)
が男を打つ。
まさに鳩が豆鉄砲で撃たれたような顔をして男は亜夜を見ていた。それが少しおかして、そんな自分は今少し『おかしい』のだと思いながら緋色の魔物は笑った。 「その金で、わたしを楽しませて」
知りたかった。金で買った魔物に相手をしてもらう時間のいったい何が楽しいのか。どうして虚しいとは思わないのか。
知りたかった。笑いたかった。疲れていた。
数枚を投げ、残った金がシャンシャンと
布袋
(
さいふ
)
からすべり落ちていく。これほどのはした金ならいくらでも。欲しいだけいくらでも差し出していい。 魔境中央花街界隈の中で適当に目星をつけた。
少し他とは違った雰囲気を持った、一緒に歩くのが苦ではない程度の容貌をしているこの男に。
しかしその第一印象は、実際にまじまじと見上げてみれば、ひどく間違えていたことに気がつく。男は花街にそぐわないストイックさがあった。切れ長の瞳が印象的だった。
そうした結果射抜くように見つめていると、男はふと微笑み返す。
「いいよ。私でよければ喜んでご相手いたしましょう」
ためらいもなく屈んで砂金を拾い集め、亜夜に差し出した。
「だけどこれはいらないな。知っているかい? 世の中ね、楽しむだけなら金なんて必要ないんだよ」
押し付けるようにされたものを思わず息をのんで見つめていると、それらは次々と亜夜の手元に戻ってくる。布袋にしまわれていく。
手を取られ右斜め前方に注視を促された先に、ひとりの男がいた。
「ただ眺めるだけでも実は十分に楽しめるものが世の中というも。例えばあの柳の木の下に居る彼、あの彼は女難の相が出ているのが分かるかい。ほら、若草色の服を着た」
胡散臭げに見やれば男はくつくつと笑う。
「そんな目で見られちゃあ仕方がないな、証明しようじゃないか。おいで」
「え。あ、別にいらないけど」
「いいから。ほら」
声をかけたのがこちらとは言え、「来なさい」と半ば引きずられるよう男に連れられてきた場所は例の柳の下で、頭まですっぽりと覆ってしまえる長衣を着込み――いかにもインチキ占い師じみた格好と化した男は(実際に「何その格好。うそ臭い占い師みたいだよ」と言ってやると、「占い師なんだよ」と笑みのまま言われた。もちろん信じてなどいない)亜夜を振り返り見ながら唇に指を乗せ、茶目っ気たっぷりにこう言った。 「いいかい、うまくいけば泥沼愛憎劇が生で見れるよ。―――もしもし、そこの御仁」 怪訝な顔でこちらを見た若草色の着衣の男は、亜夜を目に写した瞬間その顔色を変える。笑みを貼り付けた顔で舐めるようにこちらを見る。粘りつくような視線。見定めるような視線。
亜夜はうつろに微笑み返す。これは盾だ。ひきつったの表情というものは、彼女を助けてくれはしない。彼女に災厄しか招いたことがない。
不機嫌にうつむいていると目の前が陰る。息苦しさが減って。
背中。
「私は旅の占い師。彼女は私の助手。単刀直入に申し上げましょう。御仁、あなたには少々厄介な相が出ていましてね。お役に立てればと思って声をかけたのですよ」
「はぁ?」
「女難の相、です。いち早く花街から去って、恋人に花でもプレゼントした方が無難だと思いますよ。まもなく、あなたは、災厄に見舞われるはずだ」
噛み含めるような言葉に面くらい、やがて呆れた顔をした男は軽く手を振って立ち去ろうと足を踏み出し、そうして身体を強張らせた。
信じられないものを見る目で彼を振り返る。
それは彼女も同じで。
男の進行方向の先に真っ赤な顔で怒り心頭の表情をした女がいる。男を刺し殺さんばかりに見る女だ。
「……どういうことだ」
「何がですか?」
「どうしてあいつがここにいることを知っていた!?」
「言ったじゃないですか。私は占い師だと。ね、優秀でしょう?」
「うそつけ!」
うそつけ。その点に関してだけは亜夜も心中唱和する。
「あれに雇われでもしたのか……!?」
「いやはや信じてもらえなければ占い師というものはそれまでなわけでして。失礼。……今夜は荒れそうですね。―――行こうか、助手君」
並んで歩けば、ああそうだ、と思いついたように耳元に言葉を落とされた。
「―――彼の花街最後の思い出として微笑んであげたらどう? 今なら心のそこから嘲笑できるんじゃないかい?」
想像する。
狼狽しきる男。それを馬鹿にするように笑いかける自分。金切り声を上げる女。
とても楽しいことのように思えた。
鬼の形相で近づいてくる女性を呆然と見やる男に微笑みかけてみれば、案の定凍りつく男ができあがる。
「ご愁傷様」
言ってやった。
ほんの少し、とても非常に、スッキリとする。 断末魔を後に残し、未練なく先を行く彼は亜夜相手にまるでそうすることが当然と言わんばかりに得意げに、説明を開始する。
「私は君に声をかけられるまで花街の観察をしていたんだけどね、それで彼が尾行されているのを知っていたんだよ」
暇人よろしく、ただ橋の上で突っ立ていたわけではないらしい。
「ああ……。こんな場所で女に尾行されるんじゃ、まず間違いなく彼女だものね」
花街に居るということは、女を買いに来たということだ。
推し量るよう見上げれば「その通り」と笑って、男はくしゃりと亜夜の緋色の髪を混ぜる。
「そもそも良い占い師っていうものはね、運気を読むなんてことにより人の状況を読むことに長けている者のことを言うんだよ。その場を見て、相手の顔色を見て、当人の望むことをいってやる。普通の魔物になら当てはまる悩みを、自信満々にずばり言ってやればそれでいい。そうして訳知り顔に諭すんだ」
「詐欺の手口と同じね」
「それはとてもいい例えだね。詐欺師と占い師っていうものは紙一重の存在だと私も思うよ」
男はにこやかで、つられるように亜夜は格好を崩す。
「あら、だったらあんたはかなりの所で詐欺師の方じゃないかしら」
「あぁそれはとても悪い例えだよ。私は自称占い師。ただ小遣い稼ぎに―――」
言って途端に神妙な顔つきでこちらを見た男に、少しどぎまぎと仰け反る。
「あなたは普段料理を作りませんね? けれども作らないだけで、実は料理ができたりする。特に一見手の凝ったように見える一品を、手早く作ることが得意。違いますか?」
じっと緑の目で顎を落とした亜夜を見つめ、やがてくすくすと笑い始める。
「こんな感じで言い当ててだね、『ではそんなあなたに運気を呼び寄せる包丁はいかかでしょう』と霊験あらたかな百均の包丁を、多少の利益と交換したりはしているけどね」
「やっぱり詐欺師じゃないの! って言うかなんで!? どうして分かるの? わたし、酒のアテなら作るの得意なんだよ」
「教えて欲しい?」
「教えなさい! じゃなきゃストーカーとして、こっちにも考えがあるわ!!」
腰に手を当て詰問する。
ここは花街。彼女が手配すればこのような魔物、如何様にでもできる。目を細める男は前方を見たまま、
「だったら今度、君の手料理が食べたいな。それで手を打とう、よし決めた」
勝手なことを言う。
不思議なこと悪い気はしなかった。それが気にいらなくて亜夜はへそを曲げる。
「何よ口説いてるつもり? いやぁよ、わたしの料理は安くないんだから」
「割りに合わないかい? 材料費は安そうだけ……。けどそれは困ったな。だったら先払いしておこうか。―――行こう」
その視線があらぬ方向を見ているが、理由を悟るのは簡単だった。店の者だ。大切な商品に傷がつかないように護衛の者が数名追って来たのだろう。差し出された手の平を今度は自分の意思で重ね、頷き返す。
「楽しませて」
喉に何か詰まるように告げた彼女へ、男は軽やかに笑いかける。
「了解! じゃあ少し走るよ」
緋い空の下、手と手を取り合い紅い太鼓橋に向かって駆ける。浮気男も女の糾弾も置いてけぼりに、人波を縫うように、肩をぶつけて謝りながら。
手を引かれながら茫洋と見上げる先の男はただただ不敵に笑んでいる。青みを帯びた長い髪を翻し、街灯の横をすり抜け、川に沿って駆ける。
背後でひたひたと影が滑るように疾走する気配を感じた。
高揚した気分と呼応するように、それがなんだか楽しくて亜夜は息をはずませる。
わたしは魔物なのだ。
「お嬢さんには随分と、心配性の保護者がいるみたいだね」
「わたしのためなら、何だってしてくれる、からね。あの男の役に立つ限り。―――ああ囲まれる。どうするの?」
立ち止まり、ほがらかに振り返る。
「仕方がないねえ。ちょっとからかってやろうか」
「からかうって、そんなこと」
できるわけがない。太夫を守る彼らは瑠楼殿の中でも精鋭の廻り役たちだ。特に
京石
(
きょうごく
)
。あれは出し抜くだけでも相当な苦労のはず。
一度相対せば、遊ぶどころでは絶対になくなる。
「やめた方がいいと思うけど」
「私は思わないね。今日は楽しむ日だろう? ただの撃退なんてつまらないじゃないか。私は一日一笑を目標に掲げているんだよ」
そう言う問題だろうか。
「命が惜しいなら、そういう下らない方針は今すぐ捨てな」
「まあ任せておきなさい。悪いようにはしないから」
黒の影が絶妙な距離を保ちながら彼らを囲んだ。周囲の魔物たちが追いつめる者と追いつめられた者の両者を何事かと注視する。
握られる手の平へかすかに力が篭り、応えるように仰ぎ見れば、男は追っ手相手に視線を満遍なく走らせ、やはり笑み、そうして門答無用に指先を弾いたのだった。
「『
閉
(
へい
)
』」
力ある言葉と共に周囲が薄い膜で覆われる。ぎょっと目を見張り慌ててこちらへ駆け寄って来る黒衣の集団。
亜夜は状況把握ができない。なぜ慌てているのだろう。
「何したの?」
「ちょっと忽然と姿を消してやった。彼ら的にはびっくりだろうね。―――お、あの覆面の魔物中々やり手だよ。ほら見てご覧、まったく動揺してない」
「どうやって、したの?」
「それは企業秘密ということで黙秘権を発動するよ」
秘密の多い男だ。そういえば名前も聞いていなかった気がする。
「……そろそろ危ないかな」
こっちへおいでと手を引かれ、それと同時に周囲の膜も動いて、亜夜の見知った廻り役の背後に到着する。
「ここに背中がある。非常に無防備だ」
確かに。
「私はこの背中を思い切り突き飛ばしてみたいと思う。さて、どうなると思う」
「つんのめる?」
「残念。不正解」
笑って蹴った。それも回し蹴りで容赦なく。
優秀な廻り役は不意打ちをまともに食らうことはしなかったが、それでも衝撃に片膝をつく。
亜夜は盛大に瞠目する。
「ひとり目攻略。はい次」 独壇場が始まった。姿見えぬ襲撃者に彼らは成すすべなく、正確に言うならば成そうとしてことごとく失敗し、最後に残ったのは厳しい目元をした京石のみ。
ううんと唸り声を上げ、襲撃者と化した彼は眉をひそめた。
「最後に残してしまったけども厄介だね。失策だな。彼とはできれば関わり合いたくない。怪我をすれば痛いし、痛いのは嫌だし。――どうしようか?」
目を白黒させた美女は、男と目が合ってさらに視線を泳がせた。
「どうしたんだい?」
「だって」
「だって?」
「だって、信じられないんだもの……! 本当に信じらんない。なんでそうなるの? 普通蹴る? 膝かっくんとかする!?」
正確に言うなら、膝裏を蹴っ飛ばしたのだが。要は膝かっくんである。
「デートには邪魔だったから。だいたい無粋だろう」
だからそう言う問題だろうか。
「わたし、廻り役が膝かっくんされてつんのめって、それでもってしりもち着くところなんて初めて見たわ……」
「それはそれは、―――初体験だね」
「真顔で言わないで。――分かった。あんたって基本馬鹿なんだ」
もちろん様々な意味合いで。
何しろこれで完璧に妓楼を敵に回したのだ。下手すれば見せしめとしてつるし上げられるまで、一生追われ続けることになりかねない。たかが偶然出会った女のために。
「失礼な――……そうでもないと思うけどね」
「完全否定しないあたりが、そうだ」
「そうでもないと思うけど」
「いいやそうだね。そうったらそう」
不毛な言葉の応酬が繰り広げられそうになったところで、京石がゆらり動く。
「……動かねばこちらから動くが、それでいいか」
まじめな最後通告である。それを受けて亜夜は隣人を見上げる。
「だって」
「そんな他人事のように言わなくてもいいんじゃないかい?」
文句を言うものの、その顔には思案が走っていた。何かとっておきの戦略を練る顔に見えて亜夜は少しわくわくとする。
「ねえどうするの?」
「そうだな。お嬢さん、こんな言葉は知っているかな?」 ◇ ◇ ◇ 明らかに転移の術ではない消失に、部下は浮き足立ったようだった。
『帰ったら鍛えなおさなければなるまい』ひとり京石は嘆きながら、花街訪問客が譲り渡した空白の中――部下が累々と横たわる中で、神経を緊張させる。 声もない。足音もない。何もない敵は背後を取るように降って湧き、そうして攻撃を繰り出す。幸いなことに致命傷を与えるような攻撃は『しない』のではなく、どうやら『できない』ということだった。
詳しくはないが見ていれば分かる。あれは結界だ。結界によって姿を消している。
そして結界の内側からの攻撃は、皮肉なことにそれ自身によって力の波及を阻まれるのである。 思案に耽りながら覆面の魔物は空気の流れを感じ取る。先陣切った部下を観察した結果を元に居場所を割り出し、反射の動きで小太刀を投げた。
何もない場所に『命中』。批難が込められたざわめきの中を、小太刀は金属音を立てて転がり落ちれば軽く舌打ちする。
―――はずれ。
おとり。簡単なことだ。これほど簡単に命中させてもらえるはずが無い。
ならば思い、第二候補であった遥か彼方ひとごみにまぎれてしまいそうなその方向に向き直った。身を躍らせる。
どこからともなく京石と呼ばわる声がかかった。太夫の声である。
「京石! 今夜の仕事、わたし休むよ! ちょっと遊んでくるから心配しないで!」
追跡者から十分に離れた場所で艶やかな立ち姿が男共々ふと現れる。彼らの周囲の魔物たちがいっせいにどよめいた。たじろぐ者もある。
「
煉斉
(
れんせい
)
にもそう言っておいて! 大丈夫! 絶対帰って来るから!!」
追う足が弱まる。立ち止まり、魔物は問うた。
「その話、信じる証拠は!?」
「このひとが、ついさっきわたしのことを笑わせてくれたからね」
隣に立つ男の着衣を握りしめ、緋色の美女は満面に笑う。とろけるような笑みをふりまく。
「だから帰るよ! 今日は充電日だ」 ここ最近の太夫の様子がおかしいことは知っていた。鬱々と苛立った様子の彼女を危惧する声は日増しに高まり、今日などは嵐の中をさ迷う小船のような存在と化していた太夫。
その彼女が、つき物が落ちたように笑っている。 結論は容易く出た。
京石は何を言うでもなく男に向かって会釈する。余計な労力は使わないのがこの魔物流である。颯爽と身を翻した覆面の偉丈夫は部下を叩き起こしに身を翻す。
これだけのことができるのなら男の戦闘能力に問題はあるまい。恐らくそれを示すために、わざとこれだけ派手な所業をしでかしたのだろうと思う。
「太夫はお出かけだ、六代目に報告する。戻るぞ」
正確に急所を打たれ、唸る黒衣の魔物集団。魔物は無慈悲に手近――足近にある腹を蹴る。
「ただし、これで終ったと思うな。―――中々お目にかかれない魔物相手とは言え……少々情けないな」
酷薄に笑んだ上司にすくみ上がる一同は、この先に待ち受ける拷問に近いそれに思いを馳せた。
最悪である。少なくとも今晩の飯は喉を通らないに違いない。 ◇ ◇ ◇ ことさら上機嫌に目の前の男を見上げる亜夜は腕を絡め合わせ、つい先ほど繰り広げられた白昼劇を思い出し、笑った。 「さて、お嬢さん。こんな言葉は知っているかな? ―――『三十六計逃げるにしかず』ってね」
言った男は懐から紙片を取り出し、人差し指の皮膚を噛みちぎるとあっと言う間に『式』を造りあげた。式とは力のある紙人形である。血液が媒体となり、この紙はたった今男と同質のものとなった。
それを投げ置くなり、予告通り身を翻す。
「ただ結界を増設するだけじゃ心もとないからね、おとりになってもらおうと思う」
「これって結界だったの」
取り囲む薄い膜を見ながら亜夜は言う。
「さあ、どうだろうね」
「だって今言ったじゃないか」
もう一度「さあどうだろうね」と男は口元をほころばせながら、亜夜の瞳を覗き込んだ。
「もしかして、私のことを知りたいと思っていてくれたりするのかな? いい傾向だね」
「あんたってば事実の確認を詮索と呼ぶの? ほらみなさいよ、やっぱり馬鹿だわ」
「少しは恥らって『やだ、何言ってるのよ』くらい言うリップサービスがあってもいいのに……」
期待するほうが間違っているのだ。
「まったく世知辛い世の中だね、―――っと! 下がって!」
言われるまでもなく後ろへと飛び退る。男の長衣が眼前をひらめいた。人波を縫って投げて寄越された小刀が、勢いもよく足場にしていた場所に刺さる。おとりには小太刀が投げてかけられ、甲高い音と共に弾かれ地に落ちた。
「恐ろしいほどに正確無比だね。見上げたものだ。さすがに女性なだけはある」
今、何か聞こえた。
ほとんど白くなりながら、亜夜は怖いもの見たさの――否、聞きたさの心境で男の袖を引く。 さらりと付け加えられたその言葉。聞き捨てならない。 「いま、ななななななんんて言ったの」
「凄まじくどもったねえ」
「誰が? 何が? 女だって!? ねえ何が!!?」
あの言葉の流れでは、『京石』が『女』だと言われているようではないか!
「あの黒衣の魔物は女性だろう?」
何を当然のことを、の顔つきである。
おいおいおいおいおいおい。
「じょじょじょ冗談じゃないよ! 寝言は寝てから言ってよ!! あ、ありえないわ! あああ〜、変な汗出てきた」
「別にそこまでありえないことじゃないだろう。世の中、不思議なことなど何もないのだよ」
「パクったー! …………京極堂」
男は苦笑する。
「馬鹿だね。いいかい? 女か男かということを仮定して、それに伴ってこれから各性別の特徴込みで対象がどんな魔物なのかを考えるならともかく。実際にこの場所にあの魔物がいるんじゃぁ、もはや男だろうが女だろうが大差ないんだよ。あの場所にいて、頭が冴えて、高圧的で、冷静で、絶対隙なんかできないんだろうなぁ、と思わず確信してしまうような所は、変わりはしないんだからね」
「分かりにくい解説を、長々とありがとうございますね。だったらわたしの精神衛生的に京石は男! 男と言う一存で片付けるよ!」
「どうしてだい?」
顔を覗きこまれ、思わずのけぞった。男の新緑の目には何もなかった。何も写っては、いなかった。腹の底に冷たいしこりがこびりつき、ひやりとする。
気がつけば、闇雲に言葉を放っていた。
「だ、だったらわたしが男だって言ったらどう? それでもあんたは、わたしとこうやって傍にいてくれるの!」
どうせこの男もこの容姿を見て気まぐれを起こしたに違いない。だいたい初対面で金を投げつけられて怒らないなんて信じられない。信じない。
「じゃあ、私が女だと言ったら君はドン引きするのかな?」
「へ?」
「悲しいね。せっかく、久しぶりに楽しげな魔物から声をかけられたと思ったのに。君に声をかけられた瞬間ね、本当にワクワクしたんだよ。どんな楽しいことが起こるんだろうってね」
くしゃりと前髪をかき上げれば、苦笑の顔が露になる。
「もう辛抱我慢ならないって顔をして、『この金でわたしを楽しませて』だよ。思わず抱きつきたくなったね。――私は君のことが好きだよ、男だろうが女だろうがなんだろうが、そんな君が大好きさ! 可愛くて仕方がない」
「なによそれ……」
「それに君は頭がいい。なにせ私のことを馬鹿だと見破ったのは君が初めてだよ、お嬢さん」 しばし押し黙り、亜夜は無性に笑いたくなった。
愉快だったのではなくて、それもあるが何よりこんな男と出会ってしまった自分に、そして男自身に。
身体を二つに折り腹を抱えてひとしきり笑ってから、追っ手を振り返った亜夜は声を張り上げた。
「京石! 今夜の仕事、わたし休むよ! ちょっと遊んでくるから心配しないで!」
結界が消失する。
「煉斉にもそう言っておいて! 大丈夫! 絶対帰って来るから!!」
隣に立つ魔物の着衣をぎゅっと握りしめ、前を向いて。きっと今、時分の顔は幸せに崩れているに違いないと確信しながら。
発言の証拠を訊ねる魔物に告げる。
「このひとが、ついさっきわたしのことを笑わせてくれたからね。――だから帰るよ! 今日は充電日だ」 この手を離したくない。
きっとわたしはこの
男
(
ひと
)
を好きになるだろうから。 背中を見せた京石を見送り、亜夜は腕を絡める。近寄り、引き寄せ、つま先だって頬へ口付けた。
「何して遊ぶの? 楽しませてくれるんでしょう。わたしだってあんたが男だろうが女だろうが」
余裕綽々に肩に頬を寄せれば、その緋色の頭を撫で、男はやはり笑う。
「そうだな、……時間はあるし。とりあえず
花街
(
ここ
)
から出ようじゃないか」
「そう」と先陣を切る晴れやかに笑う彼女が何やら眩しくて、つられるように格好を崩す。 「……まいったな」
揺らめくは街灯に込められた灯火。
夜の気配を帯びた風に長衣をなびかせ、彼はその後を追った。 ◇ ◇ ◇ 魔境中央。夜を照らす煌々とした灯りと月光の下、彼らは繁華街を練り歩いていた。涼やかな風が頬を撫でるのが心地良い。難しい顔をした亜夜は差し出される男の手の平をまじまじと見つめ、慎重に「二」と答える。
あくまでも金は使わないという方針の下、彼らが興じているのは数を使った知能ゲームであった。七枚の金貨を三枚以内の数で好きなだけ交互に取り、相手に最後の一枚残せば勝ちというゲームである。 単純明快なルールであるが、勝つためにはコツがいる。それに気づかず初回、何となく勝負に挑んだ亜夜は見事に負け、現在くやしさをこらえての再挑戦中なのだった。
「二枚でいいのかい?」
「いい」
「本当に?」
「いい、これで大丈夫」
「じゃあ私は一枚」
男の手の平に残った金貨は四枚。亜夜は「やった」と笑う。
「次わたし、三枚。勝ち!」
「順応が早いね。正解。自分の手の時に、残りを4n+1となるようにコインを取ればいい。先手が二枚取った時点でこの勝負は先手の勝ちを意味するね」
金貨を亜夜に返却しながら男は解説する。
「じゃあ次は二十を言ってはいけないゲームということで。ルールはさっきのと同じ。今度は私が先行だ。はい、いくよ。一、二、三」
「え、ええと―――」
同じく頭の体操である。その後、亜夜は『二十を言ってはいけないゲーム』で二回負け、三回目にしてようやく勝利を収めた。 そうしてふと気づけばそこはひと通りのまばらな閑地で、男は含みありげに進み出ると、聞き覚えのある音色を甲高く吹き鳴らす。指笛である。
「極楽鳥を呼ぶの?」
「君に夜を見せたくてね」
舞い降りる極彩色の巨鳥。風になぶられる長髪が空気と同化するさまに、思わず亜夜は見惚れる。
「じゃあちょっと下がっていようか。無賃乗車のコツをお教えするよ」
地に降り立ち、愛嬌ある極楽鳥は何も知らずに客人へ向き直る。
「ハイハイー。まいどお馴染みなんでもラクラク便のご利用、まことに有難うございまさァ。お荷物ですかい? 乗車ですかい?」
「乗車で頼むよ。とりあえず上へ行ってもらえるかな? 急ぎの用なんだ」
「合点承知! では足元にお気をつけてご乗車くだせえ! なお、お煙草はご遠慮いただきまさァ」 鳥は舞い上がる。
ぐんぐんと地上を突き放し、空へ。なびく頭髪を押さえながら亜夜は目を見開いた。
空には満天の星と堂々と畏怖たる月。そして地上には一面の星模様。
それは一面の曇りもなく、まるで見下ろす風になったようだった。こんな夜を、亜夜は他に知らない。
「すごい……!」
手放しで感激する。どんな髪飾りも、留め帯びも、耳飾りも、宝石も――煌めくそれらは、この場所では無為だ。ただの一点でしかないそれと、抱えきれないほどの光。比べるものではないだろう。
「凄い、凄い! なんて綺麗」 ―――夜とはこれほど美しいものであったのか。 「極楽鳥は役得だよね。毎日こんな景色を見てるんだから」
その声に男の存在を思い出し、亜夜は視線を投げた。上気した頬に風が心地良い。
「『とっても』って一万回言っても足りないくらい綺麗だわ!! 本当だよ!」
「よかった。喜んでもらえたようで嬉しいよ。けどね、そんなところで大変申し訳ないんだけど―――」
にやり、笑う。
「そろそろ時間切れなんだ」
「……どうしてって? ―――っ!」
何事かを小声で告げられる同時、強く腕を引かれた。
ふわり。
宙に身体が投げ出される。え、と思うまでもなく風を切って落下していく身体。
「―――うそおぉおおぉおおおおおお!!!」
亜夜は絶叫した。
落ちている。間違いなく落ちている。落下している。闇にうかぶ光の粒が巨大化し迫り来る。言い換えても同じことである。
このままではミンチ街道まっしぐらなのだから! 「お嬢さん! これが無賃乗車のコツだよ!!」
どういうわけか風が止み、頭からまっ逆さまに墜落していた亜夜は、再び腕を引かれ体勢を立て直すことに成功した。引き寄せられた先、すぐそばに彼の顔がある。
「ちょっ、なに!? な、なな何がどうなってるの!!?」
「落ちてるだけだよ」
「今も!!?」
慌てて眼下に視線を投じたところ、悲しいことに冗談ではないようだった。線となって伸びるように地上が近づいている。どうしようもなく恐怖を感じ、歯を食いしばってしがみついた。
「――大丈夫」
何が大丈夫なものか!
「私を誰だと思っているんだい。稀代の結界師たる男だよ」
「だったら―――何とかしてっ……!!!」
「もちろん―――」
結界がはじける。
「そのつもりだ。『
烈
(
れつ
)
』!!」
いっそ夜を切り裂くような突風だった。方から身を貫くような烈風が巻き起こる。腕に庇われながらいると突如降下感がおさまり、そうして次に訪れたものは浮遊感であった。全身がそれで満たされている。
亜夜は空にいた。身一つで、夜の闇に。
息が詰まるほど頼りなくて、けれども彼女はそこに、独りではない。
彼女を片腕で抱く男は声を立てて笑っている。 ―――なんて男だ。信じられない。 最後は浮遊の術を用い、ふわふわと揺れるように到着した場所は、出発点から大して離れていなかった。
「いや〜、いつやっても最高だねっ! 紐無しバンジー!!」
満足気に晴れ渡る表情で頷きながら亜夜を見やれば、五体満足で地に両足を着くや否や腰がくだけたようで、それを支える。
「こ、怖かった……」
「そう? 気分がこうスカッとしない?」
「怖かった……」
「あー……呆けてるね〜、大丈夫かい?」
「馬鹿―――!! なーにが『大丈夫かい』だ! 怖かったよっ、もの凄く怖かったよっ!
だいたい無賃乗車っていうか
飛び降り自殺じゃないか!
極楽鳥もびっくりだよ!!」
「これやるなら、夜にやるのをオススメするね。探しにくいし見えにくいから」
胸倉を捕まれた男は苦笑しながら、ぐりぐりと風に乱れた緋色の髪を混ぜる。
「可愛いね、君は。本当に」
「馬鹿っ!!!」
一瞬にして頬に朱が上る。
「もう、わたし、どうして……」
熱を帯びたのは頬だけではなかった。目頭。顔を押し付けるようにして、抱きつく。
「ん、どうしたのかな?」 名前さえ聞かなければ、もしかしたらと思った。
名前さえ教えなければ、もしかしたらと思った。 呼びたい。呼んで欲しい。
知りたい。知って欲しい。 ―――こんなにも、心ぐらついたのはきっと初めてで、どうすればいいのか分からない。 「ねえ」と見上げる。
名前すら知らない男を。出会って半日も経たない男を。 空気が変わった。 「駄目だよ」
ゆるゆると頭を振るそのひとが、信じられない。
「私はね、普段こんな風に誰かと接触したりしないんだ。いつも
長衣
(
これ
)
で姿を隠している。どうしてだか分かるかい?」
「知らない」
「……誰かと出会うのが怖いからだよ。けど時々たまらなくなって、それで街に出てくる。今日の君と同じだ」
新緑の目が慈愛を抱き、指先が亜夜の髪をすく。
「ひとと出会うことが怖い。話すことが怖い。見られることが怖い。知られることが怖い。けども私は私だという確証が時々欲しくてたまらなくなるんだ。独りでは得られないものだから街に来る。―――ね、臆病者だと思わないかい」
柔らかな手の動きにうっとりと目を閉じていた亜夜は、次の言葉を聞いて一気に肩を強張らせた。
「だから自分で得た情縁じゃなく、金のつながりを望む。私は、そういう男だ」
「……いらないって言ったじゃないか」
金の塊を突っ返したのは誰だ。
「簡単だよ。花街の住人である君が、望んだことから。君は割り切ることに慣れているだろう―――」
「いや!」
言葉を遮る。
「そんなこと言わないで知ってよ。わたし、あんたが好きだよ。その髪の色も目の色も全部好き。ここにいるこの魔物が好き。大好き」
「そう」
「分けわかんなくて、柳みたいな性格をしたところが好き。腕が好き、指が好き。嘘なんかじゃないわ、本当だよ……!」
「分かったよ。―――うん、ありがとう」
しがみつきながら頭を振る亜夜はその音を聞いた。
何がなんだか知らないが、情が怖いというならば。知り合うことが怖いというならば。
懐
(
ふところ
)
から財布を取り出す。
「どうしても名前を教えないっていうなら、これ、持って行ってよ」
なみなみと砂金の含まれた布袋。押し付けるように手渡そうとすれば、男は初めて困惑の表情を見せた。
「金の繋がりならいいんだろう? だったら持って行ってよ。もらえないって言うなら花街
瑠楼殿
(
るろうでん
)
に返しに来て。そこでじゃなきゃ受け取らない。わたしはここで終らせたりしない」
「―――いいかい、あのだね」
「楽しませてくれるんじゃなかったの? このままじゃわたし、少しも楽しくない。泣いて帰ってそれでもいいわけ? 男の風上にも置けないよ!」
「……困ったこだね」
うんと困ればいい。忘れられないくらい。
「私は、本当に、金の繋がりじゃないと、傍に居られないよ。弱くさいから」
「紐無しバンジーを笑いながらできる男が弱いもんか」
「適当だし、気の利いた言葉だってかけられない。自分が思った通りのことしか話さない」
「一遍通りの褒め言葉なんて聞き飽きてるわ」
「君の店のひとたちを、のしてやったりもした」
「うん。あれは面白かった」
亜夜はくすりと笑みをもらした。
男は問う。
「――それでもいいの?」
「そんな魔物だからいいんだよ」 この手を離さないと決めた。好きだと確信したから。
着衣を握る手に力を込める。 「……ありがとう」
頭上に笑みが降り、怪訝に見上げれば額に口付けられる。
「ああ、やっぱり君は可愛いね。―――行くよ、行く。この金を返しがてら手料理を食べに」
頬へ。
「君の名は?」
逆の頬。
「――……亜夜」
まぶたに。 「私は
灯景
(
とうけい
)
。今はただ、それだけを」
そして静かに唇が重なる。 夜に灯せば、ほら温かく。今宵は
天
(
そら
)
が違って見える。 出会って半日も経たず、きっと名前しか知らぬあなたに恋をした。
―――閑話:「夜に灯せば」
(了)