生まれに生まれたり、九人のひめぎみ。
 王子はただ一人ともいらっしゃいません。
 としおいた王さまはおっしゃいました。

 十番目に生まれたわが子を、王とする。

 お生まれになったのは、とびいろのおぐしをなされた ひめぎみであられました。

 王さまはたいそうおこまりになりました。
 おんなのこが国をおさめていくことなど、できるはずがないと思っていたからです。

 王さまはたいそうおこまりになりました。
 ひめぎみは どういうことなのか、異常に賢いお方だったからです。

 王さまはたいそうおこまりになりました。
 たいぼうの王子がお生まれになったからです。

 そしてある日 十の姫はいなくなりました。

 王さまはやっとこまるのを おやめになりましました。
 みんな 笑いました。


『十番目の姫君』
―金色のストリスク―



 小刻みに震える娘の薄い肩を拘束しながら、イェインはどうしたものかと頭を悩ませる。帝国で身を立てていた頃に賞金稼ぎや名売りの真似事をしてみたことはあっても、さすがに強盗はない。勝手が今一つ分からないのである。
 じゃあちょっと路地裏に引きずり込んでみようかな、と力を加えた時であった。ふいに加えるべき対象がなくなる。え、と困惑すると同時、娘の肩へ置く彼の手は柔らかな感触に包まれていた。
 重ねられたものは、歳若い女特有の小さく頼りない手の平だった。
 追いつめられた被対象者特有の身体の震えがいつのまにか止まっている。それに気づき驚く間もなく、
「こちらへ」
「え、あのちょっと……」
 畳み掛けるよう鮮やかに身を翻し、まごつく彼の腕を取り走り出すとび色の髪の娘に、イェインは目を丸くした。行き先と言えば路地裏で、彼女は小さな身体を盾にするかのように大通りへ背を向ける。
 こうなってくるとまるきり立場が逆である。一心地つけたイェインは、自分が路地裏に引きずり込まれたのだと再確認した。いや、十分におかしいのだけども。
 娘は窺うように大通りへ視線を投げ、そっと息を吐く。そうすべきは本来イェインであって彼女ではないことを分かっているのだろうか。何がなんだかと呆れた調子で目を回していれば、平らにこちらを見上げる娘の姿があった。
「……他国の方が何をやっているんですか。こんな警備の厳重な場所で、しかも貴国の皇太子殿下がサリアディートから皇太子妃を選ぶ、政治的に重要な時期なのに。どなたかの命令だったとしても(いさ)めることをしてください。こちらの寿命が、縮むかと思いましたよ」
 呆気に取られるとはこのことだった。と、彼にそうさせた当の娘が軽く瞠目する。
「って――……ミュヒのところで会った方でしたか。ということは、黒幕はアルヴィスさんでしょうか。あの方ただの貴族ではないでしょう? 国民を襲った部下の不祥事でも作って、婚約の話を潰したいとか……? 止めてください、不穏な」
 身内の不幸を聞きほろ酔いの気分が吹き飛んだ夜を。得体の知れない何かに腹の底まで見透かされた白昼を思い出した。
 無表情に饒舌に一人話し始めたのは、先ほどまで確かに震えていたはずの娘である。
 もちろんそれを顔に出すようなマヌケではないが紆余曲折の人生にあって、
 異様な、と思わずに居られない。
「……きみは、どうして?」
 娘――ラティは「あら」とようやく表情らしいものを見せる。苦笑した。
「もしかして当たっていましたか? よかった、見当違いなことを言っていたら間抜けなままに殺されていましたね」
「なぜ……?」
 イェインはこれを「どうして分かったのだ」と問う代わりに呟いた。ラティは少し困ったように眉根を寄せ、首を傾げる。
「……発音に少し、なまりが残っています。あなたのものはエスティカリアなまりですね。両国で使われる口語は、同じ流れの言葉を元にして発展しているので相当に似通っています。ですから文法は簡単に学ぶことができるわけですが、ただ発音は……」
 言葉を切る。
「日常的に使われる場所で埋もれないとどうしようもないものですから。――むしろ素晴らしくお上手です。ほとんど違和感がないくらい」
 それはサリアディートのみならず、帝国近隣諸国で同じことが言えることをイェインは知っている。基本的に周辺国は同じ文字を使って言葉を記すわけで、言語体質は非常に似ている。ゆえに自分のような者でも難なく話すことができるのだ、というのが彼の考えであった。
 もっとも褒められたサリアディートの言葉に関して言えば、宮仕えする前から自由意思で学んでいたためでもある。いつかこの国の剣術大会に来るのだと、虎視眈々としていた頃の話だ。
 しかしそれだけで。
「なにをやってるんだ……」
 思わず口から零れ落ちた極小の本音は顔を覆った手に遮られ、路地に届かない。
 それだけで――発音がエスティカリアなまりというだけで強盗と思しき人間の腕を引いたという。
 確かにイェインは一度、闘技場でリーガルト女剣士を訪れた時に声を披露した。それで覚えがあったのだろうか? 一応身元の割れた自分だとあたりをつけて? 正解を手繰り寄せるための疑問は耐えない。
 ちらと見やれば相変わらず無言が彼を見上げている。
 人を脅す時にしか使わない声音を出したつもりであったし、何より剣を持って脅しているのに恐れてもらえないと剣士とはいかがなものだろうか――彼は己の『剣士としての今後の在り方』についてを頭の片隅で追求し始めかけたが、今論じるべきはもちろん別にある。
 無関係な彼が焦りを覚えるほどの無謀さ。
 ルヴァーン・アイディス剣術大会の時期、エスティカリアからだって数多の訪問者がある。その中に頭の悪いのがいて、襲われたとは考えなかったのだろうか。端的に言うなら馬鹿なのだろうか。
 第一、常識的に考えて、背後から急襲されれば脅えてしまってまともに思考なぞできるはずがない。それがなかったとでも言うのだろうか。直裁的に言うなら病的に暢気なのだろうか。
 ――まあ、運が良いことにつきるんだろうが。
 運。
 焼け付くほどの羨ましさを覚えるが、毒気を抜かれる言葉でもある。
「よくもまあ、豪胆な娘さんだな……。そんな理由で普通、害意なしと判断するか?」
 これは素直な感想だった。胸中で散々言ったあとの言葉であるので意味が通じているとは思えないが、言わずにはいられない。
 軽く笑ったラティは身を翻す。その笑みにひっかかりを覚えながら小刀を納めていると、今度こそイェインは呆然と立ち尽くすはめになった。
「刃物を振り回すしか能のない、こんな場所で強盗するような程度の低い方なら、あなたのように手の平の皮が厚くなりませんよ。ミュヒと同じですね。私、そういう手が好きです。こんなくだらないことに剣を握る手を使わず、もっと大切にしてください」
 小さな背中を見送りながら去来するものは、きっと、この娘は心の中を覗き見ることができるに違いないという思い。そしてそれはある意味確信で。
 イェインはこれと同じものを抱く人間を、不幸なことに、すでに一人知っている。
 娘を挟んで大通り側、路地を塞ぐように立ったその人影。金の長髪は逆光をはじき、薄暗い影が表情を隠しているけども、彼には軽く想像がついた。笑みである。しかもさぞかし上等な笑みを浮かべているに違いない。
 アルヴィス=セルトベルク=フォン=エスティカリア。
 図ったように現れたのは(まさしく図って現れているのだが)彼の主たる高貴な人だった。
「やあ、お嬢さん。また会ったね。こんな場所に連れ込まれて大丈夫かい? イェインも駄目じゃないか、口説くならもっと正攻方でいかないと」
 こんな台詞を臆面もなく言ってしまうあたりが奇人なのだと、どっとイェインの肩から力が抜けた。
 ――自分で言ったくせに。
『可能な限り大通り近くで脅すがいいよ。私の考えが確かならば、それで全部はっきりするはずだ』
 そのしまりのない顔に更なるひっかかりを覚え、脱力者は首を捻る。どうにも嫌なこの感じ――空気と言い換えても良いものを、彼はどこかで見た覚えがある。
 大の男に進路を塞がれたラティはひるむわけでもなくひょいと眉を上げた。
「まあ。こんにちは、アルヴィスさん。どうしましたか?」
「いやあ。しらばっくれたいのは分かるけど、もう無理かなぁ。君、ただの街娘じゃないだろう? 私が保証するよ」
 にこにこにこにこ。笑みを絶やさない二人は対峙したまま動かない。
 ああ、とイェインは溜息交じりに感嘆する。二つ並べば余りに明白。
 この娘の笑みはアルヴィスのそれと同質なのだ。眼前で繰り広げられるものはまさしく笑みと笑みの化かし合いなのである。
 頼りないのではない、押しどころの見当たらない柔らかさ――と呼ぶべきもの。
 こんな顔で笑う人間が、世界に二人もいて欲しくなかったと遠くを見つめる。
「ええ。私は世間でいうところの没落貴族というやつですから、普通の街娘ではないと思います。もっとも今となっては全く関係がありませんけども」
 主の直球な質問に娘は動じなかったが、同じくらいにその返答を取り合わずアルヴィスはくつくつと笑う。
「じゃあ家名を教えてもらえるかな? 貴族なら落ちぶれたとしても御名が残っているはずだ。いついかなる時期に家を失ったのかってね。貴族の人間って言うものは不名誉な他人の話というものが好きだから」
 その口ぶりは例えて言うなら荒唐無稽な子供の嘘に付き合う大人のもので、ついにはこんなことを口走るのであった。
「いやいやしかし、こんな偶然もあったものだね。まさかリーガルトさんを追っていたら本命に行き当たるとは思わなかったなあ。私の勘も満更じゃない。で、名前は?」
「……ラティアリーズ=シルドです。私はシルドの分家の娘でした。父も母も物心つく前に亡くなりましたから、私のことを社交でご存知の方はいないと思いますよ」
「ふうん」
 何がそんなに楽しいのかと思うほどの近年まれに見る笑顔を浮かべながら、顎に手を置く。アルヴィスの癖である。特に面白がっている時の。
「本当かなぁ、それ。特に父親の方」
「本当です」
 会話に呆れる一方でイェインは考えていた。考え、右往左往させてからやがて一つの結論にたどりつく。狐狸(こり)の霧から逃れるように思考が纏まった。
 サリアディートの姫君は全部で十人。一から三の姫たちは他国へ嫁ぎ、四の姫は政治家に――王が持て余す姫の数は六名。
 しかし事実上、皇太子妃候補に差し出された姫君は五名――これはこちらに来てから分かったことなのだが、五から九の姫の『五名』であった。行方知らずの姫は『十の姫』ということになる。
 帝国船が皇都に到着してから剣術大会が開催されるまで、一週間ほどの時間があったのだ。サリアディート宮中の事情は大方把握できている。少なくとも自身に――帝国に関係あることは。
 そしてそのイェインが、各姫君に愛想を振りまくアルヴィスの側近として付き添っていた間、十の姫を見たことがない。必要以上に笑顔のない侍女と偶然二人きりになった時、会話を持たせる意味で訊ねてみれば「亡くなった」という返答だけで深くは考えていなかったが――。
 主が『本命』と言うのはつまり、そういうことである。
 奇しくもイェイン自ら対岸のエスティカリア帝都で言ったのだ。
『事実上、皇太子妃にと差し出された姫君は五名。残る一人はどうした、とうことですか』と。
 穏やかな問いただしは止まらない。
「確かこの国の、十番目の姫の年頃は十六、七だっけ。ちょうど君ぐらいの年頃だな」
「変わったことをおっしゃいますね。生きていらっしゃれば確かにそうですが」
 アルヴィスは目を細める。
 イェインは内心で舌を巻いた。下手に取り繕わない辺りがうまい。
 主としてはさっきの質問で「そうなんですか?」とでも答えて欲しかったに違いない。そこから一気に突き崩すことができる。
 エミラティア――ラティアリーズはどういう理由か身分を隠したがっているのだから、本来、的を射た発言をされれば遠まわしにでも『違う』と言いたいはずだった。もっと言うなら焦った末に、全てを打ち消すべく「違います!」と答えてしまうことがあってもいい。そうなればもっと簡単に事は運ぶことになる。後は「何が違うのだ」と尋問すれば良いだけなのだから。
 どちらにせよ仮にも貴族の出で、自国の皇女の年頃も知らないというのはおかしな話なのだ。確かに姫の数は多いが、年齢が近い者ならば貴族の親はその姫を意識せずにはいられない。
 けれども甘い。
「しかしシルド家というと、あれだな。その亡くなった姫の母親の実家じゃなかったかな」
 サリアディート宮中事情――その整然と並んだ名前の項から姫の名を洗い出す。
「エミラティア=リーズ=サリアディート」
 甘い顔は胡散臭いと言い、穏やかさとは気づけば後ろにある静けさのことである。
 エミラティアリーズ。ラティアリーズ。
 イェインは苦笑する。
 王宮を離れて数年――それでは知りようもないのだろうが、アルヴィスはただの貴族ではない。サリアディートの社交の場から、死んだ人間の名を興味の対象として探し当て、さらには手間隙をかけて母方の家まで調べ上げる貴人である。貴族ではなく王族。皇太子殿下様だ。
「続けて読めば随分似てるけど……似てるというか君の本名だろう? エミラティア姫」
 勝ち誇る響きなどまるでなく、それは確認の言葉だった。
 立ち尽くすエミラティアを気の毒に思ったイェインが、何とはなしにそちらを見やると娘はひどく穏やかであった。まだ何かあるのかと、ぎくりとする。
 ラティは生真面目に顔を傾けてみせ、口を開いた。
「一介の没落貴族が一国の皇女様を疑ることなどあるはずがなく、まして母方のお家を知ることなどできませんから何のことだかさっぱりと分かりませんが……」
 困ったように笑う。
「それは違いますよ、アルヴィス皇太子殿下。そのような畏れ多いこと、絶対に違います」
 内容よりも正しい敬称にギョッとしたが、先ほど思惑を大方見透かされたことに比べれば大した衝撃ではなかった。アルヴィスの金の長髪は目立つのだ。闘技場で皇族席を見ていればいい。
「ここまで符合が多いのに、まだそんなこと言うの? シルド家のお嬢さん」
「そこまで疑わしいのならば、我らが王に訊ねて御覧ぜられませ。十の姫様は亡くなっているのかと。大々的ではありませんが国葬も行なわれたのですよ。間違いなく是とお答えになるでしょう」
 イェインは再び呆れた。これは伝家の宝刀ではなかろうか。
 絶対君主制の国にあって、王が黒と言えば白だろうか黒になるのだ。
 アルヴィスが王族だと言った上で、実際にそれができる状況にある人間だからこその発言だった。外交的重要な時期にあって「それは嘘でしょう」などと言えないことを見越している。
 ――まあ、この若様がその気になれば関係ない話だ。
 セルディアス=ルド=ユィーマン老侯爵あたりが卒倒しそうなことを、平然とやってのけるくらいのことはする。「何言ってるんですか、馬鹿じゃないですか?」をもう少し穏やかな物言いで言ってのけるくらいはする。
「……君の言葉はひっくり返されて天日に干されて、埃叩きの棒で親の敵のごとく叩かれても、埃一つ出ないと誓えるかい?」
 その言葉に嘘がないと胸を張って言えるのか。
「まあ。それでは一つどころか埃はたくさん出るでしょうね。私は仕立屋に勤めていますから。今でこそ恥ずかしくない程度にしゃんとしていますが、仕事中は糸くずまみれなんですよ」
 安く受け流す。
 ――うーん。
 路地に寄りかかりながら、これは少し雲行きが怪しくなってきたなと、イェインはこの場に主が現れてから初めて困惑と思しきものを覚えた。
 彼は今までにアルヴィス以上にくるくると舌車の回る人間をお目にかかったことがなく、またこれほどに長々と自分の意見をアルヴィス相手に貫き通せた人間を見たことがない。それがどうだ。
 どうにもこちらが劣勢なのではないかと思い始めたのである。いよいよ持ってとんでもないお姫様であるが、こうなってくると何故そこまで隠したがっているのか、そのことこそが重要なように感じられる。
 姫君が平民に化ける状況から、抜き差しならぬ事情の存在を感じることはできるものの、王族であることに罪悪はないはずだった。むしろ名のある国の王族として贅沢に浸かっていられる権利があり、蔑ろにされたことに憤って自ら告発してもいいほどの大事である。矜持が服を着て歩くのが王侯貴族というもの。
 ――だいたい自分の娘を死んだことにしたがるとは、ここの王は一体どういう了見なのだ。
 唾棄すべき事態に鼻白む。
「さて」
 言葉を発したのはラティだった。
「申し訳ございませんが私はこれから仕事があります。遅れて行けばリザさんに叱れてしまいますし、何より心配させてしまいます。そこを通していただけますか?」
「おっと、これは失礼。――ラティアリーズ嬢」
 アルヴィスはにこりと笑んで立ち位置を改めると、手の平を差し出した。隠す前にその手を攫われた彼女は、困惑顔で男の手を借りながら横を通り抜け、軽く会釈した。
「分かっていただけたようで何よりです。それでは、あの――手を」
「ああ手。そうだね、またどこかで。気をつけて帰ることだよ、今は何かと物騒な時期だからね」
 性懲りもなく押しかける気だなとイェインは苦く笑う。どうやら今回はこれでお開きになるようだが、アルヴィスが納得しているとは思えない。
「ご心配ありがとうございま――」
 突如途切れた言葉に肩を浮かせば、何のことはない。合わさった手の平を掴み引きずり寄せ、ラティの頬と唇のきわどい部分に口付けたのだ。
 あーあと頭をかく。
 ――やらかした。どやされるぞこれは。
 思い、反射の動きで大通りを見やる。わっと群集の声が上がったかと思えば、勢い良く路地に何かが流れ込んできた。何か――壊れた樽の残骸と大量の氷に囲まれた鮮魚である。
「もったいないな……ったく」
 イェインはこんな場所まで届いた大物をまたぎ越しつつ、大通りの状況を把握し――路地のすぐ傍にあった魚屋の出店で、積み上げられていた樽が無残に崩壊していた――白い顔で男の腕の中に納まっているラティアリーズを確認してから、最後に、はたから見ればまるで壁に向かって女を押し付け口説く風になっているアルヴィスに視線を投じた。
「彼女は無事ですか?」
「ご覧のとおり無事だよ、あまり良くない状況でね」
 苦笑いで娘の顔を覗きこむ。
「いやはや――さすがに専任守護者は強し、だね」
 はっと顔を上げたのはラティであった。
「いいかい、覚えておいで。私の名はアルヴィス。アルヴィス=セルトベルク=フォン=エスティカリア。私はこの国に妻を娶りに来た。妻の条件はこの国の姫であること」
「……知っています」
 真っ直ぐに蒼の目で見つめながら、うんとアルヴィスは頷く。
「ならこれも知っておくんだね。君の守護者は、エミラティア皇女に生き返って欲しいと真剣に思っている。無関係な魚屋の魚をぶちまける程にね」
 突如樽を連結する縄が切れ、塔が崩壊し、ましてそれが路地に向かって流れてくる。偶然ではありえない。おまけに間が良すぎるのだ。
 それはまるで威嚇の声であった。我が主にみだりに触れるなとの。イェインは野次馬の中にアッシュブロンドの姿を捜して黒い目を走らせた。
 首をすくめるラティのとび色の頭をくしゃりと撫でたアルヴィスは、今度こそ素直に踵を返す。
「じゃあまあそういうことで、これで諦めたと思わないことだね。――また会いに行くよ。君にならアルでもアルヴィでも好きに呼んでもらって構わないから」
「呼びません」
 パシパシとスカートの裾を手で払いながらのむっとした声音に、声を上げて笑う。
「今はね。でもその内必要になった時に困るだろう? じゃあね、ラティ」
「はい。できればそのような必要が来る日は、おとついあたりに来て欲しいものですが」
 アルヴィスは上機嫌でイェインを従え、路地奥へ進む足を止めた。振り返る。「ああと、どこにしまったかな」腰元からさぐり出した小さな煌きを投げ寄越した。
 ラティが受け取ったもの――金貨である。
「それ、返しておいてくれるかい。リーガルトさんに」
 たった今、消費させてしまった魚の代金だった。

  ◇ ◇ ◇

 異国の主従が去った路地にやれやれと寄りかかり、獅子の図案が彫られたエスティカリア金貨を片手で弄びながらラティは大通りからの客人を待っていた。喧騒が耳に遠い。
 きっと彼女は第一声で、こう言うに違いない。
 ――大丈夫ですか。
「大丈夫ですか?」
 気遣わしげに想像通りのセリフを吐く女剣士に、表情を崩して駆け寄る。
「大丈夫ですよ、ちょっと驚きましたけど。そうです、ミュヒ……、私はとても驚きました」
「状況が状況でしたから頭が回らず――不手際、申し訳ありません」
 力なく頭を振る。
「不手際など……。襲われたところ助けてくれて、ありがとうございます。それよりも――ねえミュヒ、どうすればいいと思いますか? ちょっと厄介な人にばれてしまいました」
「例の太子ですか?」
「少し話してみただけですが、相当な切れ者ですよ。人の嫌なところをチクチクと。困った人です。この分だとあの人は現状を壊してしまいかねない……せっかくなじんだ皇都ですが、予定より早く出てしまうのも手ですね」
 あれほど会話に疲れたのも久々である。また、あの程度でごまかされてくれるような御仁ではないと、嫌になるほど分かっている。
 答えないミュヒレイザに金貨を差し出す。
「これを預かりました。あなたに、だそうです」
 これは証だ。かの貴人の厄介さの。
「魚屋さんにいくら支払いましたか? 賞金も貰っていないのに、無駄遣いをしてはいけませんよ」


 問題は、そう、すぐ傍らに。
 死人を起こしてはならないのだから。

 彼女には彼女の理由がある。しかし彼らにも彼らの理由がある。



<第一章『金色のストリスク』(了)>