王になるにはなにがいる きらめく武器と忠実なる兵が
 王になるにはなにがいる 国をよく知る賢き諸侯が
 王になるにはなにがいる 金、銀、財宝、宝石が
 王になるにはなにがいる 聡明なる頭脳と鷹揚さが
 王になるにはなにがいる ゆるぎない決断力が
 王になるにはなにがいる 王になるには男の姓が!

 陽気な吟遊詩人は歌います
 陽気な吟遊詩人は殺されました


『十番目の姫君』
―お針子ラティとアマゾネス―



 禁衛府・皇宮警邏(こうぐうけいら)本部副総監官邸――早い話、大貴族リーガルトのほとんど城じみた屋敷にはひそやかに薔薇が咲き誇っている。よく分らない。いつでもこの庭には薔薇が咲いていたような気がするが、そうではないのだろう。きっと季節があるのだろう。
『お嬢様ご覧下さい、薔薇が美しいですよ。今が見頃でございますね』
『またそのようなしかめっ面をなさる。花がお嫌いなど、寂しいことをおっしゃっていけませんよ。剣術は心を鍛えるでしょうが花は心を豊かにいたしましょう』
 初老にささしかかった庭師だった。今もまだここにいるのだろうか、下男に馬を預けたミュヒレイザは何とはなしに横目付けで花園をなぞった。薔薇は朝露に濡れている。

  ◇ ◇ ◇

 偶然本家に立ち寄った次期当主を、忙しい身分であるリーガルト当主が偶然屋敷にあり迎えた――という筋書きは、いささか無理があるだろうか。
 親と子の接見は早朝の重々しい空気の中で執り行われた。さざめく侍女の声も単調な執事の命令の声も、今は静寂に抱きこまれてしまっている。
 目礼に伏した顔を言われるがままに上げ、記憶より幾分か白い頭髪のミラルド=ハイン=ド=リーガルトは良くも悪くも変わりなかった。リーガルト家当主であり、ミュヒレイザの父であり、サリアディートを担う大貴族は、なるほど厳かである。
「少し肉がついたか。健勝そうだな」
 座りなさい、やはり言われるがまま腰をおろした彼女は知らず、剣の柄に指を這わせていた。武人の屋敷で剣士が得物を手放すことほど本末転倒なこともない、とは師の言葉だった。
 紅茶が運ばれてくる。
「どうにもあちらこちらで騒がしくて落ち着いて茶を飲む暇もない。お前の方で変わりは?」
「ございません」
 などと言えるはずもなく固辞の姿勢をとる。
 ルヴァーン・アイディス剣術大会から一夜明けたミュヒレイザの世界はおよそ半回転ほどした。街を歩いているだけで好奇の目にさらされる。ひそひそされる。声をかけられる。知らない友人ができる。勧誘される。友情を結ぼうとされる。
 そして何より明言したことで心に一本芯が通った気がするのだった。
「祭に浮かれているのか近頃は周囲に痴れ者が多くてな、叩くのに苦労している。歳には勝てないと思う機会が増えたよ。実に不愉快だ。――ミュヒレイザ」
 声の質が変わった。押し込めた嫌悪と矜持に満ちた冷たい施政者の声。ミュヒレイザ――彼女の名を呼ぶ音だ。
「リーガルトの名に泥を塗る愚か者を、お前ならばどう処断する?」
「……そこまでほのめかすなら、はっきりと仰ったらいかがです。らしくもない。わたくしをどうにかしたいなら言えばよろしい」
 などと言えるはずもない。言葉遊びに興じたいのなら付き合おう。彼女とて有位者、貴族の好む遊びくらいできないこともないのだ。
「口さがない下賎な者に汚されるほど、我が名は低くないでしょう。泰然となさっていればいい」
「泰然と? 反撃もせず黙って切られていろと剣を持つお前が言うのだな」
「ならば切り捨てますか。血曇らねばいいのですが」
 華奢な茶器に囲まれる水面が揺れた。しん、とした室内にぬるい風が迷い込んだようで、なにを間違えたのか図らずもミュヒレイザなどは考えてしまう。扉を開いたからなのか、窓を閉め忘れたからなのか、風を起こしたからなのか。己か父か業か。
「先日、ルドニスにお前の官舎を見にやらせた」
 先日? それは昨晩のことだろうとミュヒレイザは手つかずの茶器を眺め続ける。心づくしの宴から帰宅した彼女に、執事が手渡した花束には見覚えのある筆跡で「戻れ馬鹿者め」とだけ記された小さな手紙が添えられていた。激昂するままのこの男を(なだ)めるため、師が訪れたに違いなかった。
「随分と質素な暮らしをしているらしいな。最低限と言うのもおこがましい、備え付けの家具しかなかったと報告を受けた」
「はい。屋敷内を片付けていますから」
「ほう、昇格の辞令か?」
 官邸は位と手柄に応じて国から与えられる。ミュヒレイザが今の屋敷を手に入れたのは、皇国初めての女性武官として国皇より下された栄誉だった。
 唇を引き結んで、口角を持ち上げる。
『こうすればほら、笑ってみえるでしょう』
「あなたの他に、誰がわたくしに辞令をお出しになるのです閣下。いたらないながらも、陛下より賜った宣旨を懸命に追行している最中でございます。現状に変わりはございません」
「ミュヒレイザ」
「リーガルトとは武の貴族。我を誇るならばその一切を捨て、命も品も皇家のものであらねばならぬでしょう。無数にある手足の一が欠けようとも皇国は立ち行きます。また、そうでなくてはならない。――父上、あなたのおっしゃることはご自身を冒涜するものでございます。ご自重なされよ」
 分ってはいるのだ。きっと誰も悪くはないのだし、もちろん誰かが悪いのだ。そして多分、風が迷い込んだこと自体悪いことではないのだ。
 けれども――、
「ああ……お前にはすまぬと思っているのだよ。私の都合で家督を強要し、女である楽しみも自覚も奪ってしまった。絹を与え花で飾り、歌を教えていればよかったのだ」
 (つか)に手がかからなかったのは奇跡に等しい。両の手を握り合わせる。
「国の大儀もリーガルトの威信も分らぬお前に、何を誇るものがある。泥を塗るその手を、血にも濡らさず後生大事にしていればよい。馬鹿馬鹿しい。国に四と並びない我が名が無数の一? この高みが分らぬと言うのか愚か者がっ!!」
「……あなたのその口が大儀を申すのですか、わたくしに。王朝の青き血を蔑ろにする大貴族が」
 動と静、向き合う面立ちの似通うことが不思議だった。同じ血を持ってここまで噛み合わないことが不思議だった。
「陛下のご不興を買う、この意味が分るか。リーガルトの名をなぜ口にした。そうまでして私に恥をかかせたかったのか」
「わたくしはすでに騎士ではありません、しかしリーガルトの人間です。陛下に偽りを申すつもりはございません」
「リーガルトの人間が剣を持った時点で、騎士でないはずがないだろう……!」
「誰がそれを認めました。それはどこにおります。わたくしの誇りはどこに。与えられた命は死者の監視。皇家に名を連ねる方々に仕えることすら認められないわたくしが、騎士であるはずがない。飾り物の剣を持って喜ぶほど愚かではありません」
 ミュヒレイザは歪む眉を無表情にただ見やる。きっと同じ顔をしているのだろう。血と理不尽に支配され、じっと耐える顔を。
「そもそも、閣下は、あの時のことをご存知のはずだ」
 ミラルドは溜息交じりの唸り声を上げた。
「……腐り落ちたくなければ、その硝子玉を、外せ」
 心当たりは一つしかない。サファイアでもブルーダイヤでもないそれは、ミュヒレイザにとって何物にも替えがたい大会優勝を祝福する耳飾り。
「お前には似つかわしくない。外せ」
「女が宝飾品で身を飾ることがおかしいですか」
「リーガルトに相応しくない、外しなさい」
 どこかで後戻りできるのではないかと思っていた。出口を見失った風は、花瓶にいけられた切花を揺らして霧散する。
「お前の処遇については善処しよう。運び出された荷はすでに入れてある、私の言うことを聞きなさい。お前は私の娘なのだから」
 ミュヒレイザは茶器を見つめて浅く溜息をつく。
 この溜息はいつか風になる日が来るのだろうか。

  ◇ ◇ ◇

 エスティカリア帝国皇太子妃候補筆頭であるエスティアナ=イリーナ=サリアディートの館には、それは見事な薔薇園がある。花ざかりの茂みから輝かんばかりの顔をのぞかせたエスティアナは、侍従によって棘を取り除かれた切花を抱いて異国の皇太子に駆け寄った。
「ああ、お走りにならないで。危ないですよ」
「もうアルヴィス様ったらカトレアのようなことをおっしゃるのね。それよりご覧になってほら、ご覧になって」
 乳母の名を口にする皇女の仕草は幼く甘かった。広大な皇宮の北東に位置する第七皇女の館、華やかながらもつつましい茶会の席のことである。
「美しいですね」
 耳に心地よい柔らかな声は、エスティアナをいつだって満足させる。うつむき白い頬を朱に染めあげ、花を美しいと言う夢の如く優しい異性を上目使いに見上げた。
「美しい、ですね」
 言葉を重ねる男の視線は花へ向いていなかった。ひたむきに注ぎ込まれる蒼の双眸に釘付けられ、ぼんやりとした彼女からアルヴィスは「貸して」花を取り、小さな刃物で長さを調節し耳元に飾る。指が頬をなぞるように離れ去っていく。
 咲き誇る薔薇の豊潤な香りを感じたエスティアナがつと目をやれば、赤い花弁が視界の端に映りこむ。
 金の髪の貴人は一層笑みを深くし、そっと、
「お似合いですよ、エスティアナ様。貴女には花がとてもよく似合う」
 秘密を告げるように囁いた。
 薔薇園を満たすのはほほえましさ。未来を約束された比類なき貴人らの行く末に、侍従たちは安堵の息をつく。
 ただ一人、赤毛の男を除いて。
「そうだ、姫。せっかくの心地よい晴天です、私をお供に召抱えて城下散策などいかがですか?」
 なめらかに手を取られ、エスティアナは微笑み返した。従者の表情がさらにひきつったのは言うまでもない。

 第七皇女が衣装を改めるため自宮へ下がったのを良いことに、イェインは釘を刺しておくことにした。ちょっとこの人好き勝手すぎる。
 庭園に設置された白亜の円卓で一輪の薔薇を弄びながら、柔らかな日差しを浴び茶器を傾ける皇太子はさながら一枚の絵画だった。ご機嫌である。
「いや楽しいな、異国のお嬢さんは素直でいい」
 にこやかな会話にぞっとしない。イェインは危惧することを伝えるべく、エスティカリア語の声を低く落した。
「若」
「大丈夫だよ、いたって順調だと思うけどね」
「周囲のお付きの方々はもうノリノリですよ。誰にも止められない感じですよ」
「止めなくていいさ、私はこの国に伝手(つて)がない。ここで得ておくのは当然だろう? 帰国まであと二週、少し時間がかかったけどこんなものだね」
「二人きりでうろつくだけで責任を取らされかねなくてもですか。強制お持ち帰りですよ。だいたいかわいそうだ、あんな世間知らずのお姫様相手に」
 夢のように優しげな微笑――帝国一の胡散臭さ全開のほほ笑みを浮かべたアルヴィスは、「彼女ほど素敵な女性はいないよ」打って変わって聞き取りやすいエスティカリア語(実にわざとらしい)で声を上げると、椅子から立ち上がった。
 館から、華やかさを押さえた衣装の皇女が侍女に伴われて石段を降りてくる。
「お待たせいたしましたアルヴィス様」
「いいえ、少しも。私のことなどお気になさらなくてよかったのに」
 事実、エスティアナの衣装替えは普通よりもずっと短時間で済まされていた。恐らく非常に現実的な――街へ出るに当たって大げさにならないことだけを考えられた――それが行われたのだろうと思う。貴族の着替えの遅さ、特に年頃の娘の着替えについては折り紙つきである。
「まあ、そんなことできませんわ。ねえアルヴィス様、わたくしをどこにお連れになって下さいますの……?」
「そうですね、街を隅々までご案内できるほど残念ながら詳しくないのですが。街中を歩いて、活気ある空気を楽しんで、目を引くものがあれば手に取る。素朴ですがきっと楽しいですよ」
「まあ」
 感嘆と言うよりも、何か危惧するような声だった。アルヴィスは付き従う護衛達に視線を投げ、己が従者で止めれば空気を呼んだ赤毛の男は腰を折る。
「貴女の御身は殿下と私を含む全ての者が守ります。どうぞご安心を」
「まだご不安に思われることはありますか、エスティアナ様」
 言い募ろうと開きかけた唇にそっと指を置き、
「お顔に出ていましたよ。貴女のそんな姿を見るのは寂しいけれど仕方がないのかもしれませんね」
「違いますわ! ただ、アルヴィス様はお優しいから、なんだか急に不安になって……外には行き慣れないものですから別に行かなくてもいいかな……って。ごめんなさい。いやだ、わたくしおかしいですわね」
 口をはさまずまんじりと姫君の様子を蒼い目でただ見下ろす。
 さりげなく差し出された腕に、腕を絡めたエスティアナは同伴者を見上げた。視線が合えば彼女を見下ろすアルヴィスの目が驚きに揺れ、軽く外される。
「とてもお似合いですよ」
「え」
「よく、お似合いです」
 再度目があった。衣装のことを言われているのだと気づき、エスティアナの頬が熱くなる。
「さてどこへ行きましょうか。楽しみですね」
「はい」
 破顔一笑。本当に優しい素敵な人だと、皇女は幸福にはにかんだ。
 二人きりの車内の時間はあっという間に過ぎてしまった。華美な馬車を見送りエスティアナは口を開く。
「この広場は五代前の国皇陛下が、植物のお好きな皇后様のためにお造りなったのですわ」
 散策は広場中央の噴水前から開始される運びとなった。ここより東は有位者の住処、西が無位者の住処を意味する――階級社会の象徴とも呼べる、場所である。
 腕を組む仲睦まじい二人の佳人の前後左右、さらにその外側を囲う屈強な男たちの一団は周囲の視線をことさらに集めたが、そもそも視線の中にあることを当然として育った彼らへ影響するものは少なかった。
 皇女は目の前で展開される一つ一つに興味を示し、同意を求めるよう振り返る。入店する際には先払いが行われ、民衆は可能な限り遠ざけられ――護衛には細心の注意が払われたが、いたって和やかに行啓(ぎょうけい)は続いた。
 小波を生む小石を投じたのはイェインの予想通りエスティカリアの奇人だった。最悪である。
 頭上でくすりと笑う気配に、エスティアナはアルヴィスを見上げる。
「どうされましたの?」
「ああ、昨日ここで少し面白い人を見つけたので。つい」
「……大道芸人ですか?」
 この通りは商店屋台が中心のように思われ、エスティアナは首を傾ける。
「いいえ一市民の……普通の方でしたよ」
 はあ、と怪訝な顔をする皇女に頷いてみせる。通りの先に眼差しを向け、
「そうですね、ここから近くの仕立屋に勤めているとか」
 奇声を発したくなったイェインはぐっと唇をかみ合わせる。腕の確かなサリアディートの面々より不審の視線が投げられるが、
 ――涼しい顔などしていられるか!
「仕立屋、ですか? 衣服を作っていただくあの?」
「興味がおありならば訪ねてごらんになりますか?」
 エスティアナの地位となれば、城で採寸をとるだけで幾通りもの衣装が献上され、その中から好みの物を選んでいる。制作の現場など見たことがなく、また特に興味を引かれるものでもなかったが、折角のアルヴィスの誘いを断りたくはなかった。
「よろしければ贈らせていただけませんか、今日の記念です」
「そんな、どうしましょう。よろしいのかしら」
 もちろん、と言いさしたアルヴィスを(はばか)るように八名の護衛の内、とりわけ強面の侍従が佳人の前にやんわりと申し出る。
「――エスティアナ様、いけません」
 まったくだとイェインも胸中同意した。こんな人物に借りを作るものではない、止めておいた方がいい。さらに心内吐露を続ける。
 男は儀礼を守りながらも、己の意見をはっきりと押し出した声音で言う。
「申し訳ございません。なにとぞこれ以上の西下はお控え下さいアルヴィス皇太子殿下」
「なぜ?」
「は。下層市街地区へ差し掛かる場所へ、あなた方をお連れすることはできません。わたくし共の使命はあなた方の身の安全を図ることにあります」
「ずいぶんと謙遜をするね。皇宮警邏本部近衛隊の精鋭がどうしてそこまで己を過小評価するのかな?」
「万全を期したい、ただそれだけです。お許しください」
『グダグダ言わず黙ってろこの餓鬼が、他国の佳人であるお前や第七皇女に何かあったらこっちの首が飛ぶんだよ』
 つまりこう言うことだなとイェインは翻訳しておく。不思議そうに腰に手を当てた別の護衛が強面の耳元で何事かを囁くものの、しかし首は左右に振られた。
「しかし、リード」
「御身の安全が最優先される」
 あくまで譲るつもりはないらしく、エスティアナ皇女の不満気な顔に腰を折る護衛は、アルヴィスへ承諾を求めるように再度向き直った。もったいつけるような空隙のあと、異国の皇太子は首を縦に下ろす。
「では、仕方ないね。職務に忠実なのはいいことだよ」
 ほっとしたように頬が緩んだ(そのように見える)男をイェインはじっと見守る。我らが皇太子殿下はゆったりと瞬きじわり、苦笑を呈した。
「安心しなさい。そもそも私はこれ以上西下するつもりはないんだ」
 通りを直進するつもりはアルヴィスにない。一拍後、男に意見した護衛がくと笑いをこらし、驚きを顔一杯に広げた皇女はぽかんとする強面の護衛――リードを見やって同じく笑みを広げた。
「ここから南に程近い場所にあるのだけども、どうだろうか。承諾していただけるかな?」
「それは、無論。わたくしどもは貴方様方の安全を図ることだけを考えております。どうぞ我々のことはお気になさらず」
「ありがとうリード」
 満足げに頷かれ、さりげなく名を呼ばれた男の目に走った思案をイェインは見逃さなかった。
「ではエスティアナ様、いかがなされますか?」
 仕切りなおしたアルヴィスに、くすくすと笑う姫君はにこやかに相槌を打つ。
「もちろんお供させて下さいな。くだんの仕立屋さんを拝見したいですわ」
 貴人の行進は続く。この裏で、目に見えない場所で、さらに幾人もの人間が彼らの安全を保つために奔走している。
 しんがりを勤めるイェインは柄を握る。
嘘つき大会(レイアジェノス)
 エスティカリア語でつぶやかれた言葉は、一団にストンと納まった気がした。

  ◇ ◇ ◇

「おお、ラティ! 今日はまた一段と愛らしいね! 天使のごとくほほ笑む君の姿は夢の中ですら僕を和ませてくれたけど、小鳥のよう生き生きと仕事に励む姿はいっそ僕に感銘を与えるよ。素晴らしい。何か良いことでもあったのかな? 君の喜びは僕の喜び、ぜひとも共有させてくれたまえ!」
 冬を飛び越し一足先に(頭に)春が居着いたような上得意の顧客を向かえ、仕立屋ルディッサはにわかに活気付いた。
「ばかると……」「今日はいくら落していくのかしら」「シッ、黙んなさい! 金づるなんだからっ」「相変わらずねえ」
 針を動かす手を止めたラティは会釈する。
「ファルトさんこんにちは。今日はお早いですね」
「君に会いたいがために、急ぎはせ参じてしまった僕の止められぬ想いを許しておくれラティ。仕事に忙殺されている時も心にあったのは消えぬ君の微笑み、君の笑顔が見られぬ失意の日々はまるで夜の闇のようだったよ。月明かり、はたまた闇に漂う歌声のようなこのハンカチを押し抱いて過ごすしかなかった」
「新しく仕入れることができた布に、とても良いものがありますよ。やはり剣術大会の影響は大きいのでしょうか、とても珍しい織りの美しい絹です。ファルトさんのおかげですね」
 始まりは雨の日のこと。水を避けるよう店へ立ち寄った身なりの良い男に、ハンカチを差し出したのがラティだった。再び店を訪れた男は有力貴族の子息だと名乗った。
 ファルト=ド=シーレイン。
「ファルトさんのような有位の方々がこの時期を奔走して下さるから、皇都の生活は潤います。今は年に一度の稼ぎ時ですよ」
 男は流れ落ちる言葉が嘘のように黙りこくり、ふるふると打ち震えると「結婚しよう!」お馴染みの一言を叫び、ラティの両手を握り締める。
「慈愛深い君を慈しむことが僕の至上の幸せだよ! 君のための労働だと思えば馬車馬のような待遇を受けようとも、その痛みすら愛しいね。僕はなんて幸せ者なんだろう、人生をかけられる女性とこんなにも早くめぐり合うことができた。女神ル・ゼータ、貴女に感謝を!」
「シーレイン様。さ、こちらがラティの申していたお仕立て用の布ですわ。いかがいたしましょうか」
「ああ店主も人が悪い。彼女が素晴らしいと褒める物を僕が手に入れないわけがないじゃないか、ぜひとも衣装を仕立てて欲しい」
 頭の中に花壇でも耕しているのだろうか。従業員の手の平を握り締めたまま放さない馬鹿……ではなく奔放な貴族に、リザ=ルーディはほほ笑んだ。
「じゃあラティ、シーレイン様のお仕立てを頼むわ。シーレイン様この娘の腕は確かですよ、それでよろしゅうございますか?」
「知っているとも! 問題など何もないとも!」
「わかりましたリザさん。ファルトさん私頑張りますね、楽しみにしていて下さい」
 リザはラティに張り付き感極まったようにうるうると涙ぐむファルトを、仕立てで生業を得ているとは思えない豪腕で引き剥がし、腕を取って応接場に運ぶ。
「シーレイン様、本日はお忙しいのでしょうか? こちらで焼き菓子などお召し上がりになりませんか。生憎ラティは仕立てで忙しい身ですが、話すくらいの余裕はありましょう。――アンナ、お茶をご用意してー!!」
「あぁラティ! いつでも君を想っているよ、店主と過ごすこの時間は決して君への裏切りと思わないでおくれ」
「アンナあーっ! お茶まだー?!」
「今やってますー」
 賑々しい店内に扉の開閉を告げる鈴が鳴る。紅茶の葉に湯を注ぐ手を止めずに、アンナは訪問者を振り返った。
「いらっしゃいませー。――あら、リロじゃないの」
「こんにちは、パン屋のカーディスです。お昼の宅配にきました」
 いつの間にやら昼時らしい。
 扉の向こう、日向(ひなた)から顔をのぞかせたのは少年――ラティの下宿先であるパン屋の一人息子リロ=カーディスだった。アンナはリザへ茶器一式の乗った銀盆を手渡すと、少年の小さな手から昼食の入った籠を受け取る。中身――ハムとチーズを挟んだスライスパンとオニオンスープの入った鍋を手近な机に広げ、籠の底に代金を仕込んでから返却した。
「まいどありがとうございます」
 すっかり板についたらしいリロの接客にアンナは笑みを贈る。一月前のたどたどしい言葉回しを思い出せば、さらに笑みは深くなるばかりだ。
「あんたもそろそろ一人前ねえ、シレンさんによろしく言っといてちょうだい」
「わかったよ。ねーちゃんは?」
 そわそわと落ち着きのなくなった子供に苦笑しつつ首を振った。
「今は止めた方がいいわ、接客中だもの」
 リロの視線の先には机に頬杖をつき、本格的な作業に移るため仕立室に移動するラティへ、上機嫌で視線を注ぐシーレインの姿がある。
 「……またあいつ?」と口に出さないだけの分別があるのは、やはりシレン=カーディスの孫というところだろうか。あからさまに不満を顔一杯に膨らませた少年は、もう用はないと言わんばかりに踵を返しかける。
「あ、じゃあししょーは? 来てない?」
「ミュヒさんなら今日はまだ見てないわねぇ」
 アンナは声を小にして落した。馬鹿貴族だけならば多少騒ごうと構わないが、今は下町の仕立屋にしては珍しいことに上客がいる。同僚とあーだこーだと話しこんで随分経つのである。囁く。
「そう言えば昨日は凄かったわねっ、あんたの師匠かっこよかったわ〜」
「やっぱり!? おれも見たかったんだけどなー、ばーさんがかせぎ時になめたことぬかしとる場合かっ! ――て、こえーから」
 思い出したよう背筋をぴんと張り、やべ、口の中でつぶやいた。
「おれ帰る。ねーちゃんにおれが来てたこと言っといてっ」
「もう? そうだこれ持ってっていいわよ」
 衣服から取り出した砂糖菓子にぱっと気色を浮かべたリロはしかし、すぐに落胆して首を振った。
「う〜だめだっ。だっておれ、仕事中だもん」
 心底惜しそうな声にアンナは思わず吹き出しそうになる。
 時を同じくしてくすりと笑う声がした。彼らを振り返ったのはあくまで傍観者であった上客――栗色の髪を上げ、うなじを見せた女だった。
「マジメなきみ、良い事を教えてあげようか?」
「へ?」
 流行の洋服を着た妙齢の女は席を立ち、たじろぐリロの前に歩み寄ると腰を折る。
「黙っていればいいのよ」
 どこか好奇的な光を放つ瞳は深い緑の色をしていた。
「お菓子貰ったこと、誰にも言わなければいいの。そうしたら怒られないわ」
 女は「はい」とアンナの手から攫った砂糖菓子を握らせる。剣術大会に乗じてサリアディートにやって来たという客はどこか颯爽としていた。言葉にたどたどしさがあまり見当たらないためなのかもしれなかった。
「ここは賑やかで良い店ね」
 華やかな室内に視線をめぐらせた彼女に、応対した女店員セイラが申し訳なさそうに首をすくめる。
「いやだ、謝らないでねセイラさん。二週間後のお昼にまた会いましょう」
「お心遣いありがとうございます。はい確かに、そのように」
「長々とごめんなさいね、楽しかったわ。本当よ。主の長衣なんかはどうでもいいんだけど、あたしの衣装には気合を入れたいじゃない。今からとっても楽しみ」
 笑顔がリロを向く。
「じゃあね、きみ」
 満面の笑みで手袋のはまった手を振られてしまえば、リロは砂糖菓子を握り締めたまま頷くしかない。扉の鈴の音を鳴らして軽やかに立ち去る後姿はどこか金持ちらしくないような気がしたが、当然のように立派な馬車に吸い込まれてしまった。
「さすがねえ」
 セイラは溜息をつくように頬を押さえる。
「あの方とんでもない大金持ちよ。どこのご息女なのかしら」
「そんなに凄かったの? ご注文」
 そりゃあもう、と頷く。
「きっとその気になれば、この店が丸ごと買い占められるわ」

  ◇ ◇ ◇

 じっと、時を待つ。
 仕立屋の扉を開いた男は、やかましく言葉を垂れ流しながらラティアリーズと別れを惜しんでいるようだった。
 ――まったくもって馴れ馴れしい。
 ファルト=ド=シーレイン。一度聞けば忘れるような真似はしない。
 ようやく場を動いた男を、役目を果たすため彼女はそっとその跡をつける。

 ファルト=ド=シーレイン。

 どれほど記憶を洗ってもそんな名の貴族など、聞いたことがない。