(語り手の不在のため、しばしの休息)

―お針子ラティとアマゾネス―
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浮き立つような喧騒は昔に重なる。冬の去りつつあった過去はきっと現在――剣術大会の季節ほど騒がしくはなかったのだろうけれど、気候としてはよく似ていたし、何より目新しい城下町の活気はそれだけの迫力を彼女に伝えた。三年も前の話だ。
夕焼け空の茜色。夜の気配も色濃く、少し肌寒い。果たして仕事上がりというものは、どうしてもこうも軽やかな気分になれるのだろう。煙突にたなびく煙に混じるシチューの香りに心がほっと息をつく。彼女にも夕食を作って仕事帰りを待ってくれる拠り所がある。
「ああ、ラティ今帰りかい」「お疲れさまですレンドさん」
「ラティおつかれ!」「はい、お疲れさまです。また明日」
道々で挨拶を交わし、時に小石を靴先で蹴って石畳に沿い郊外へ歩いていく。シレン=カーディスの店、もといラティの下宿は、港――皇都最西下に程近く、船乗りや貿易商を筆頭とする様々な人間に愛されるパン屋――軽食を販売する――である。数種ある日替わり品目の中でもミースミートパイには定評がある。
いよいよ途切れがちとなった石畳の下り坂に差し掛かり、目前に迫る死にかけの太陽に目を眇めた。建築物の合間をぬって赤く染まる海が見えた。長い影胞子が地に縫い付けられ、声が溶けていく。
遠い昔から茜色は少しも変わらない。十四歳のラティは海を目指していた。誰に命じられた訳でも頼まれた訳でもなかった。何も持たず、全てを持っていた頃の話だ。
船。
あれに乗ればどこにだって行けるのだと思っていた。弟は今どうしているのだろうか。母は。姉たちは。知るすべはない。何もかもうまくいっているとは思えない。訳のわからない貴族には周辺をうろつかれているし、ミュヒは頑固で、異国の皇太子は厄介なほど明晰である。
しかしこの道を通らなければ今はなかっただろう。あの時、この道を通り、スープと焼きたてパンの匂いに誘われ、彼らと出会わなければ、今はなかっただろう。産気づいたサラ=カーディスと遭遇し、店番を任され、宿と仕事を得、代金代わりに差し出した刺しゅうのハンカチの腕を買われてお針子の仕事を得ることができた。無駄なことなど何一つない。今も昔も。
「あら、ラティじゃないの!」
影胞子が地上より開放される。聞き覚えのある声は皇都南西に店を持つ、同業者の女だった。
「ねえね、ちょっと聞いてちょうだいよっ、凄いのよう!」
「どうしましたか?」
「もうね景気がよすぎるの、怖いくらいなの。聞いて驚いてちょうだい! 我が仕立屋がやんごとなき方々の御用達になったのよっ」
――あの男。
件の皇太子の顔を脊髄反射で思い出した。
アルヴィス……エスティカリア皇太子。
人形師が丹精こめて創造した人形の顔。あれは『ような』ではなく、まさしく人形の顔だ。淡い金の髪に曇りなく――月光を浴びる天使のそれを奪い取って。蒼の目は澄みきって――深海に射す光のそれを盗み取って。人の心を取り込まずには居れない美しさには壁がない――まるで炎のように。物言わぬ左右対称の、ただの作り物ではないのだ。作り手の意思が宿る豪奢な笑みを浮かべる人形なのだからして。
曰く、異国の皇太子殿下が第七皇女を連れてやって来た。
曰く、とても仲睦まじい様子だった。
曰く、異国の皇太子殿下はとんでもないイケメンだった。
曰く、やはりとんでもなく金払いがいい。
曰く、本当に本当に素敵なイケメンだった。
夢見心地かつ得意げな女の言葉を何とはなしに聞き、ラティの思考は燻っていく。
意図を持つ人形は狡猾であると昔から相場が決まっている。
どのように考えても揺すぶりだった。彼のちょっかいに対して、サリアディートがどのような対応に出るか知るためのそれのように思えた。あの現実的かつ合理的かつ快楽的な人間は――皇帝の世継ぎは、価値のないものに興味を示さない。
否――、
価値のあるものに仕立て上げられるものにしか興味がない。
「それでね」
「エスティカリア皇太子がイケメンだったんですよね」
よほど衝撃的であったらしい、五度目の言及である。
「そうなのよ〜。金色の御髪なんてあたしが今まで見たどんな色より神秘的で、目の色なんかル・ゼータが嫉妬するほど魅力的な青なのよ。何よりお顔のつくりがあたしの亭主百人いても敵わないわ。はあ、素敵すてき」
「それはそれはリザさんがとても羨ましがりそうな話ですね。派手なことが好きですから。――私たちに手伝えることがあれば遠慮なくおっしゃって下さいよ。及ばずながら力になります」
仕立屋同士で助け合うのは今に始まったことではない。大口の注文が取れればより精密に仕上げるため、連携を取り、各店が得意とする仕事は任せてしまうものだった。特に刺繍とレース編みを任されることが多いルディッサである。
女は呆れた顔をした。
「いやーねあんたってば、ホント浮いた話を避けて通ろうとするわねえ。あの貴族の男とはどうなのよ? 相当鬱陶しいってアンナがぼやいてたけど。なんならあたしが男避けを紹介しちゃおうかしら、トーマなんてどう?」
「トーマさんには好意を寄せている方がいたような気がします。私も、そういうことなんですよ」
伏せ目がちに腹の上で組んだ指先を見つめる。
「やだ、あ……そうね、あたしも野暮よね! じゃあ明日ルディッサにレース編、お願いしてみようかしら!」
「ええ、はい」
いつまでも昔の男に囚われてちゃダメよ、と訳知り顔に諭す女に小さく笑って背を返した。もちろん昔の男などラティにいたことはない。口角を持ち上げる彼女の懸命な努力はすぐに無駄となった。
◇ ◇ ◇
「ししょースゲーッ、まじでキゾクだー」
「ミュヒししょーりっぱだぁ!」
「うわっ、剣もかっこいい! すげー! すげー!」
店の裏側を占拠する大中小の三人組。背後から軍服の長裾を振り回され、装備を撫で回され、困りきった様子のミュヒレイザに思わず笑みがこぼれた。
「あ! ねーちゃん、おかえりっ」
「かえりーっ」
はじけるような笑みで振り返り、子犬のように転がりこんでくる中小――中といっても十分小さな兄を、妹ごとかがんで抱き止める。
「ただいま! リロくんサシャさん。今日も一日楽しかったですか?」
「おれ仕事だもん、はたらいたもんっ」
「サシャもてつだったー!」
「あのね、ハムはさむのてつだった」とおっとりと訴えるサシャの小さな頭を撫で、心得たように頷く。
「今日もおいしいお昼でした。リザさんもアンナさんも皆喜んでいましたよ、ありがとう。私はね、お仕事を一つ任せていただけてとてもいい一日でした。二人はどうでしたか?」
「サシャ、ばあちゃにほめられたーっ」
「おれも! おれもばーさんに褒められたっ」
シレン=カーディスをばーさん呼ばわりできるのは、世界で彼らだけに違いない。「褒めてっ」と言わんばかりに期待あふれたそれらに手の平を乗せる。
「いいですか。あのシレンさんに褒められるのは、とてもとても立派なことなのですよ」
「サシャとにーちゃ、りっぱ?」
「サシャさんは立派でかわいい、リロくんは立派でかっこいいですね。皆があなたちのことを大好きな理由がよく分ります。私も、大好きです」
えへへと視線を見交わした兄妹の肩をそっと押し出す。もの言いた気な視線を投げてよこす女剣士――騎士にラティは笑みを返した。
「さ、家に入りましょう。ミュヒのことをあまりいじめてはいけませんよ」
「そんなことしてねーもん! ねーちゃんひどい!」
「してないよう」
「そうですか? ミュヒは撫で繰り回されるのに慣れていないのですから、師匠ならば敬わなくては」
さらにもの言いた気な視線を寄越すミュヒレイザに笑みを噛み殺す。兄妹の母親が店の勝手口から顔をのぞかせた。わずかに目を見張り女剣士に会釈する。
「ラティおかえり! 今日は遅かったのね! ――あーんーたーたーちーっ! 夕餉の手伝いはどうしたのっ、もう」
腰に手を当てた母親の叱責に「げ」と顔をしかめたリロに続いてサシャがパタパタと走り去っていく。こちらを窺うように顧みたサラは一つ息を吐き、
「ラティあなたも早く入って来なさいよ。ちびどもに全部食べられても知らないからね」
「サラさんすぐに行きますから、すぐに入りますからオニオンスープの確保だけはお願いします。絶対ですよっ」
笑い声が店舗兼家屋へ吸い込まれていく。小波のような喧騒だけが散漫と周囲に漂った。
「エミラティア様」
「本家で何がありましたか?」
黒を基調とする着崩された詰襟軍服、見事な銀剣を帯び、かっちりとした軍靴を履きこなすその姿にリロやサラが驚くのも無理はなかった。
「長衣も身に着けず……逃げてきたのですか? 今までどこで時間を潰していたんです」
常ならば「私は貴族ですよ。騎士ですよ。さあ下民ども敬いなさい」と触れ回るような姿でラティアリーズの周囲をうろついたりしない。何かよほど緊急を要することでもあったのだろう。ミュヒレイザがラティを『エミラティア』と呼ぶ時は、相応の話をしたがっている時だ。知っている。押し黙るミュヒレイザに頭を振った。
「あなたが御前で家名を出した時から、今を予想できていました。大会に騎士は出場できず、リーガルトはただ一人の直系であるあなたを手放すことができない」
けれどもそれは騎士であるミュヒレイザの死の予兆だ。挑発は致命的であり、修復の方法をラティはいまだ思いつくことができない。
あの場で名乗ってはいけなかったのだ。挑発的に国皇を見上げてもいけなかったのだ。名もなき通りすがりの剣士です、とでも言っておけばよかったのだ。
女剣士の眼差しは恐ろしく真摯で恐ろしく純粋で、それを重荷に感じたことはなかったが胸を突く痛みは感じる。ミュヒレイザは不器用だ。
「あまりに腹が立ったので当主に茶器を投げつけて、ひるんだ隙に窓から逃走してまいりました。今ごろ血眼でしょう」
「……それは、ますます帰れませんね」
「帰してやると言われました。子を産み、剣を捨てろと言われました。わたくしを捨てろと」
「ミュヒ」
「この国は平和すぎる。戦のできない軍人は功を上げるすべがありません。商会の傭兵団に取って代わられ、サリアディートの軍部はすでにお飾りです。四大貴族と呼ばれて久しい当家も、剣を持つしか能がないというのに政治家の真似事を始める始末。どうやらわたくしは、その失敗策のようだ」
サリアディートが航路の要所でいられるのは一重に、東方への航海を破格に短縮する『リライ運河』を有するおかげである。商人ギルドは各々傭兵を率いて(商船や積荷の護衛)皇国の騎士たちと連携を取るわけだが、とりわけギルファニード商会の影響力は大きく、近隣諸国は運河目当てに下手に手を出せない。商会が運河の介入を嫌うためだ。
余談ではあるが、創設者ギルファニード=キステの影響力は『国土を持たぬ王』とも呼ばれる。ラティなどはこれを噴飯ものだと考えるが(民も国土も持たない王など一体何がしたいのかわからない)、実際、皇国は商会上層部には功労者と称して准男爵位(ちなみに下から二番目である)を与えている。しかし懸命なことであろう。
あらゆる要因においてサリアディートに戦火の気配はなく、皇室の歴史はどの周辺国よりも長い。政変もなければ革命も起きない。愛すべき彼女の国は変化を捨てて平和を得た国だ。
――流れ込む人も物も繰り返せば惰性となる。けれどそれも。
夜と海の狭間に炎の色が踊って見える――まもなくだ。
本人に伝えれば怒られてしまうに違いなかったが、ミュヒレイザはまるで暗がりを恐れる子供のようだった。これについては分らなくもない。
二十一年だ。二十一年、彼女はそのために生き、そのように誇りを持ってきた。盲目に従順に。彼女の、手の皮の厚さを知っている。わずかに外側へ湾曲した、たこのある右薬指を知っている。彼女のふとした折に覗かせる教養を知っている。彼女の真摯な立ち振る舞いを知っている。そしてそれだけではない、澱みを知っている。皆同じなのだ。
「貴女だけです。ゆえにわたくしは貴女に忠誠を誓う。貴女の威信を損なわせはしない」
『あなたならできるわエミラティア。あなた以上にふさわしい者はいない』
どのように答えればいいのか分らない。「けれどその人間は死にました」ようやく手にいれた暖かな居場所を手放したくない。心に燻り続ける煙が消えなくても、それでも今が愛しい。
「例えどのように仰っても……サリアディートに貴女だけなのです」
『あなたは私のたった一つの……、――私の愛児』
言葉ではなかった。視線だ、圧力だ。耳を塞ごうとも染み渡る圧倒的な倒錯的愛情である。ラティは唇を引き結び、口角を上げる。翻弄されている場合ではない、時間だ。
ミュヒレイザが逃げてきたと言うならば、これもまた、分りきったことだった。
追うものがあるから人は逃げるのだ。
「ミュヒ、一緒にごはんを食べましょう。私のぶんを分けてあげます」
「……」
「サラさんとシレンさんのごはんはおいしいですよ。ロッドさんのパンは絶品です。だから、中に」
険しく眉根を寄せるミュヒレイザの手が、静かに銀の柄へ伸びた。
「私に尽くしてくださるのなら、どうぞ中へお入り下さい。ド=リーガルト」
「わたくしの問題で貴女の手を煩わせる必要はございません」
「失望しないで下さい。あなたが私の身を守ってくださるなら、私にはあなたの魂を守る責任がある。亡霊にも意地と誇りがありますよ」
「さあ、行って!」女剣士を室内へ押し込んで、ラティは地にふんじばる。
現れたのは壮年に程近い屈強な男を筆頭とする、三名の軍人貴族だった。やれやれと眉根を上げた人を食う表情の壮年の男は、剣を帯びた腰に手を当て背後の同行者に向かって逆の手を上げた後、踵をぴしりと合わせて姿勢を正し貴族式の礼を取る。様にはなっているものの、一介のお針子へ行うにしては中々に酔狂的である。
「お初におめもじかかりますラティアリーズ嬢。わたくしは軍人で言葉を扱うことになれておりませんので率直に申し上げます――ウチの馬鹿者を返していただけませんかね」
ルドニス=ド=ガゼラ。リーガルト伯の右腕。
ラティの帰る場所はシレン=カーディスの店以外にないのだから、死人の番人であるミュヒレイザを押さえたいならここでじっと待っていればいい。大人の追いかけっことしては非常に簡単な結末だったろう。
茶番の始まりに、ラティはにこりと瞬いた。
◇ ◇ ◇
磨き上げられた大理石へ、連なる硝子照明の乱反射する光が落ち――薄氷のように儚い美しさの上で、艶やかな布々と宝石の群れはひしめき合い、踊る。
音楽と香油と白粉と花の匂いに満ちた大ホールは、エスティカリアのそれよりも格段に――悪趣味なほどに豪奢であるものの、様式の差はないに等しい。広くて、天窓があって、壁沿いに柱が乱立していて、正面には色硝子を組み合わせた大窓の装飾がある。
「まあ、なんて素敵な首飾りなのかしら……! それはどちらのお品ですの?」
そう問う女の指に、馬の四五頭を購えるはるかに高価なルビーの指輪がはまっているのは当たり前。
「セドニック=シーファスの匠ですのよ。彼がもともとユネイで硝子の細工をなさっていたのはご存知? その時代に得た夫の伝手で特別に作っていただけましたの。それよりも貴女の羽飾りのほうがずっと素敵だわ」
そう答える女の得意げな顔が、相手の腹の内に気づいているだろうに、小揺るぎもしないのもまた、社交界では当然に値する。彼女たちの宴は出会い頭に相手の衣装を頭のてっぺんからつま先まで褒めあうことから始まるのだ。あるいは自慢話から。
ほほほと笑いあうお約束の犬猿の争いを、見やることなく背中で楽しみながら、夜会の主役は華奢な硝子細工の杯を傾けた。
「サリアディートにはお慣れいただけましたか? 姉上はずいぶんと喜んでおられましたが、本日の行啓にご不便はございませんでしたでしょうか」
十三になったばかりの歳若い世継ぎ――皇国では皇太子を東宮と呼ぶことがしきたりである――のありきたりな問いかけに、彼はくすりと微笑する。たったそれだけの動作で周囲の空気を引き付けて心溶かす華やかさのある男は、夜会における主賓の役割は十二分に果たしていた。
「ええ、とても楽しかったですよ。貴国を知る有意義な時間でした」
第八皇女の隣にいるエスティアナに視線を投げ、東宮へ戻す。
「私は気楽な性分です、どうぞ硬くおなりならないで。逆に気楽にすごし過ぎて騎士殿にご迷惑をお掛けしたのではと心配しております。私はたいへん良くしていただいたのに」
「それはよかった――臣下へのご配慮ありがとうございます。アルヴィス皇太子殿下」
「なんの」相槌を打ち、毒にも薬にもならぬ他愛ない会話をしばし交わしたアルヴィスは、ふと思いついたようにその話題を持ち出した。
「東宮殿下にはお姉さまが多くいらっしゃるのですね。ご挨拶もままならず、少し残念に思います」
「はい、六いえ五名もいれば大所帯ですね。どの姉上もその様なことを気にする方ではありませんが……やはり物珍しいものですか?」
「私には兄弟がいないのでよく分らないのですが、賑やかそうで羨ましいですね。第十皇女様ともお会いしたかったな」
わずかな表情の変化も見逃さないよう、東宮シルディオをつぶさに観察する。
「ええ……。ティア姉上は、とても優しいお方でした」
「これは失礼を。過去形でしたのですね……」
「いいえ、とんでもない。そうですね、私が物心つく頃には病に臥せっておられて、世継ぎである私はめったにお会いすることができなかった。聡明な方だったと聞きます――私には優しさばかりの人だった記憶しかないのですが」
従者は皆、彼が見舞うことを良しとしなかった。大切な御身、病人に近づいてはなりませぬと頑なに諭された。けれども彼とて愚か者ではないのだ。幼いながらに姉の身の上を薄々と悟っていた。だからこそ、こっそりと訪ねるしかなかったのだ。
「わずかなりと花を摘んで行けばそれだけでいくらでも喜んでくれました。その花にまつわる神話やら昔話やら土地の話やら、望めばいくらでも話してくれました。見知らぬ野花を持っていって、これは何だと問えば笑って名前を教えてくれる。そうですね、今思えば博識な方だったのでしょう」
稀に姉にも分らない野花があったが、それでも次の訪問した時には「あのね、シルディオのくれたお花の名前、分りましたよ。この花はね」と得意げに話していたのを覚えている。優しい、小さな人だった。宮城敷地内の西端にあった小さな宮は、はやり病にかった姉が亡くなった後に取り壊されてしまい、病に侵された肉は燃やされわずかばかりの灰が墓に埋められた。
「おかげで、男ながらに花の名前には妙に詳しくなってしまいました」
「それはまた女を口説く時に使えそうな特技ですね」などと言える空気でもなく、「そうですか」といかにも切なげにまつげを伏せたアルヴィスは、ふと第八皇女が髪に生花を飾っていることに気がついた。アルヴィスが何かを言う前にシルディオが笑って答える。
「ラナンキュラス。エヴィンディ姉上によく似合う花ですね」
ラナンキュラス――花言葉は魅惑的、美しい人格。なるほど相応しい花である。
ともかくもお花の話はもういい。だいたい彼女はぴんぴんしているわけで、いかにも怪訝な点を回収すべく次の言葉を落した。
「本当に、とても仲がよろしかったのですね。しかし……やはり不思議だな」
「何がですか?」
意図的に瞳をぶつけ、決して逸らさせず。
「あなたは隠れ忍んでまでして、第十皇女殿へお見舞いに行こうと思われた。生まれてからまともにお会いしたこともなかったお姉さまに」
質問の意図は不明瞭に、前提条件を押し出して。
「え」
突きつける。
「従者の方々の代弁する訳ではありませんが、あなたはこの国でたった一人の世継ぎだ」
――なぜ行かなければならないのか、よく知りもしない病持ちの女の見舞いに。身の安全を約束されねばならない東宮であるお前が!
シルディオは『たった一人の世継ぎ』に深く反応した、あっけなく情報はもがれて落ちた。興が削げる。
言いよどみ狼狽する少年に、アルヴィスはいっそ無邪気に小首をかしげてみせる。
「つまるところ尊い御身。警備も厳しいでしょうから、一体どのように従者殿を出し抜かれたのか不思議で――私も国で参考にさせていただきたい」
「あ、ああ。なんだ。いえ、申し訳ございません。勘違いをしていました。そうですね――」
罪のない冒険談を語り始めた東宮を横目で見やり、アルヴィスは情報の切片をはめ込んでいく。最後のそれを持つのは、やはりファイリス=ミラ=シルドらしい。今は下級貴族で女地理学者であることしか知らないが、しかしそれも彼の側近が埋めてくれるだろう。
いつ彼女を迎えに行こうかと、エスティアナ皇女を眺めながら考えた。
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