どんなにこわくてもにげてはいけないよ

 わたしを忘れたのですか? ひどいですね。
 あなたはわたしを殺したのに

 うしろからがぶりとたべられてしまいますからね


『十番目の姫君』
―お針子ラティとアマゾネス―



 店の裏、すきっ腹を抱えながら頭二つ分は確実に大きな軍人をラティは見上げた。
「ミュヒは馬鹿者でも私のものでもありません。ただ少し盲目的なまでに誇り高くて貴族で騎士なだけです。大切にしてくれない人に、大切な友人は渡せませんよ」
「そんなご無体な、せっかく無粋な真似をせずに大人しくしていたのに。わたくしも暇ではないんですよ。家で女房子供が『あなた、父様早く帰ってきてー』と待ってるわけなんだが――いや、いるわけなのですが」
 ルドニス=ド=ガゼラの赤茶けた瞳がミュヒレイザを押し込んだ勝手口に動く。お針子である彼女を丁寧に扱い直すほどには意識している。
「……貴女もミュヒレイザのことは返していたがったはずではありませんか。今更だとお思いになるでしょう?」
「女同士の秘密の会話をぶった切らなかった件についてはお礼を言います。しかし私は今のミュヒレイザを必要とする場所に返したかっただけです。剣を取り上げて、夫を押し付けて、子供を取り上げて、そんなことをさせるために返したいのじゃない」
 嘘だ。鏡を見るたび瞳の色を知るように、他者を押さえつけるための言葉は彼女の内側から確実に何かを抉り取っていく。
 生き方を決められることはおおよそ全ての貴族にとって使命だ。けれども。それすらも嘘だと知った。外の世界はいくらでも広がっていた。
「だからどうぞ、誓約を。約束してくださいルドニス=ド=ガゼラ。あなたになら頼めます。ミュヒの、手の平の厚さを知っているでしょう?」
「……困ったお姫様だな、貴女も。男心のくすぐり方を良くご存知のようだ」
「そんなもの知りません。何ですか。私は巷でちょっと評判なだけの、ただのお針子ですよ」
 責任を放擲し、逃げて、職責を全うした。彼女という小石があるから、かみ合う歯車の全てが動かないのであり、もはや存在は悪であり、混乱しかもたらさない。優しい弟ならできるはずだ。
 夜の帳が降りた。太陽は死んでしまった。オニオンスープの香り漂う中、男の行動は迅速だった。控える部下に右手を振る。
「対象を捕獲しろ。屋敷に連れ帰る」
「あの、そちらは……」
「かまうな忘れろ。ただのお針子、だそうだからな」
 含みある目で流し見られ、ラティアリーズは笑み返すと、顔を隠すために深くうつむく。男らにはお辞儀しているように見えたかもしれない。これ以上多くの人間に詮索されたくなかった。居られなくなってしまう。死人には大人しくしていてもらわなくては困るのだ。
 ルドニスは建物を背に立つ娘を横切っていく。
「針で剣は弾き返せない。貴女の失ったものの価値が分るか」
「そうでしょうか」
 外の世界で知ったことは、きっと両手に余るだろう。心がじんと熱くなり、居たたまれなくなるような類のもので両腕は埋まっている。悪人でいることにもう疲れた。
 彼女にできぬことは他の誰かができることだ。
「あなたは自分のお墓を見たことがありますか? 私は、あります」
 夜にできた危うげに揺れる角灯(かくとう)の影に滑り込むようなその声は、軍人である男の足を止める。
「は?」
「フんぬぅぐうらあうあぁああぬぁあっっ!!!!」
 夢に見そうな平穏をつんざく老婆の奇声と共に、勝手口が跳ね飛び室内の光が地にこぼれ落ちる。耳をふさぐ手筈は整っている。後ずさり出て来る軍人二人組の背が切ないほどの動揺に満ちていて、ラティは少し笑ってしまった。避難をするのも忘れない。
「わしの店に挨拶もなく勝手に入ってくるたァこの馬鹿貴族どもっ、お得意の礼儀はどうしたんだろうね……っ! 手土産の一つもないのもまっことどういう了見。サリアディートのお貴族様も地に落ちたものよっ!」
 落ち窪む目を光らせ蓬髪を振り乱し、切っ先の光る包丁を手にした老婆の姿はまさしく血肉をすする山姥のごとし。大喝する鬼のシレン=カーディスとはご近所でも有名な話であり、この婆さんからサラが生まれたのは何かの間違いである、というのが若者の間での総意である。ラティはこの理不尽な老婆のことが大好きだった。
「た隊長!」
「なんだこの婆さん」
 包丁が飛んだ。ルドニスはとっさに鞘で払い、さらに空飛ぶすりこ木を避ける。
「どわっ! ちょ、危ねぇな婆さん!」
「そこな若造! 女子に対する礼儀がなっとらん、誰が婆さんか!! シレンさんとお呼びっ!」
「俺にはかわいい妻と子供がいるんだっ! お前ら、応戦しろ!」
「お、お母さん……っ、年甲斐もない! リロとサシャは危ないから下がってなさいね。ロッドっ、一人涼しい顔してないでよ! ミュヒも!」
「――ん」
「ラティ、こちらへ。危険です」
 鋼鉄のフライパンを持った寡黙な大男は一歩前に出たものの、シレンの一睨みにくるりと妻に助けを請うた。ミュヒレイザはそもそもこの場で役に立たない。
 さすがに老人へ剣を振るうわけにはいかないらしく、出没怪奇な老婆に困惑顔の軍人貴族らへ一方的な暴力は続く。掃き箒が飛び、ロッドから取り上げたフライパンが飛び、果物用の刃物が飛んだ。近隣住民が一人二人と戸口から顔を覗かせ怪訝な顔でこちらを見ているものの、止めに入る勇気ある者はいない。怖いのだろう。
 そもそもシレン=カーディスとは下町近隣住民の顔役である。その絆は年配を中心として思いのほか固く、彼女が一声上げれば財布をすられたと嘆く客の前に、一晩にして犯人が突き出される、といった不思議な具合なのである。
 どやどやと表の店から客が回ってくる。
「どうしたんだい、シレンさん」
「ちょっとなんだよシレンさん、飯は? 俺の番なんだけど。腹へったんだけど」
「客はすっこんでるんだね! 今忙しい!」
「そーんな……」
 暴力に怯む男たちの腕章に目を止めた客の一人が口を挟む。
「しかしシレンさん、そいつら四大貴族の兵じゃ……」
「知らん!」
「知らんってあんたね。まぁ、いいか……」
「そこの男の言う通りだ! ご老女、いささか無礼に過ぎよう。我らが身分をわきまえよ!」
 声高に叫んだ貴族をシレンはすげなく切って捨てる。
「やかましいわ小僧。軍人だか四大貴族だか知らんがね、他人の家に無断で立ち入った時点でこそ泥と同列の腐った野菜以下じゃろうが。塵だよ塵! それを身分だなんだと喚いて誤魔化そうとする恥を知りな!」
「愚弄するか……!」
 かっと眉根を寄せ柄に手をかけた部下の後頭部を、ルドニスは小突く。
「やーめーとーけ。相手の地の利でこちらが不利だ」
「どこがです、老人素人の寄せ集めだ」
「仮にも貴族がご婦人に対して無礼な口を利くんじゃない、と俺は言ってるんだ。ちったあ周りを見て頭を冷やせ、馬鹿者が。――シレン殿におかれましては私の部下が失礼した。しかし礼を失したのはそちらも同じこと、相応の覚悟がおありかな?」
「フン、まだ言うのかい貴族の狗が。さっさと帰んな」
「国を守る軍人に対しての暴行、よもやお忘れではないでしょう。これが(おおやけ)になれば、娘ご夫婦やお孫さんをはじめとするお友達にも困ったことになるのでは」
 沸々と怒りを製造するよう黙る老婆に呼応して、周囲の空気が剣呑と敵意を帯びていく。そもそも下町の住人と貴族の相性はよくない。このままでは食事の時間が遅くなっていく一方だと思ったラティは、早急にお帰り願うべく一歩前に出る。
「へえ、そうなんですか?」
 ほがらかに横槍を入れる。
「私、皇国を守っているのはギルファニード商会の傭兵団だとばかり思っていました」
「ちょっと黙っててくれお嬢さん。こっちは大人の話をしてる最中だ」
「だいたい暴行って何のことですか。シレンさんはか弱い女性ですよ。屈強なあなたたちに対して何ができますか。皆さん、今、ここで、何かありましたか?」
「ねーちゃん、そいつらがかってに入ってきたんだ! ししょーを出せって」
 リロを皮切りに客人から次々と声が上がる。
「知らねー」
「さあ、よく知らないね」
「軍人さん、あんたらの勘違いじゃねーの。仏のシレンと言ったらこの辺りで有名なんだぜ」
 ルドニスの頬が引きつった。
「トーマさん、裁判所での証言はどうしましょうか」
「リーガルトの軍人が突然シレンさんの店に押し入って大暴れしたんだ。それで俺、急いで仲間を呼びに行って戻って、軍人はなんか酒臭いし、剣を持ってるしで――」
「よく分りました、つらい証言でしたね……。あらあら確かにこれはひどい荒れ様です。シレンさん、こんな酷いことを一体誰にされたんですか?」
「うむ、そいつらじゃ」
 棒読みを終えたラティは満足げに頷いて、少なくない聴衆の中、眉間を押さえるしかめっ面の男に向き直る。
「弁舌はどうしましたか?」
「数の暴力だ……。なるほど、貴女がここにいる理由がよく分りました。向かないどころじゃない――なあミュヒレイザ!」
 影のようにたたずんでいた女剣士に、その場に集まった十数の視線が集中する。思わず賞賛の眼差しを向けてしまうラティである。今のミュヒレイザの出で立ちは貴族そのもの。リーガルト姓は大会のおかげで確実に周囲へ浸透しており、『大貴族リーガルト』と『ミュヒレイザ=アイリラ=ド=リーガルト』を結びつけるに容易だ。異分子として仕立て上げられる。男らの目的はミュヒレイザの回収であって、奇行に走る老婆の制圧ではない。
 ミュヒレイザは沈黙した。
「お前はこちらの人間だ。彼らと馴染めるはずもない。彼らの生活を乱しているのはお前だ。ミュヒレイザ、――さあ」
 皮手袋に包まれた右手が差し出される。差し出されたその手の前を、「あーうるさいうるさいねえ」シレンが横断していく。
「わしらは別にこの嬢ちゃんに乱されるような生活は送っとらんよ」
「ば……シレンさん、今いいところなんだが――」
「わしらはこの嬢ちゃんに迷惑をかけられた覚えはない。孫もよく懐いとる。立ち去れ若造、今ならにわしら商店の迷惑人物表二軍に乗せるだけで勘弁してやろう。ちなみに二軍とは、ここいらに立ち入ればどこからともなく小石が飛んできて、商店に立ち寄ろうものなら即、臨時休業の札が下げられる具合だの」
「どこの万引き常習犯のならず者扱いだ。ああ、お前は落ち着け」
 息巻く部下をなだめながら、彼は次を考えた。
「どうするミュヒレイザ」
 そう呼びかけるくせに、軍人の視線は女剣士を見てはいなかった。矛の先をラティアリーズに向けた。むっとラティが眉根を寄せたその時である。
「いやああぁあ! 誰か助けてっ!!」
 東の方角から女の悲鳴が届いたのは。
 強盗か、変質者か――祭りの時期に無法者は多い。ざわと一同に緊張が走るよりも早く、ラティは左頭上女剣士の双肩が緊張を帯びたのを感じた。
 舌打ちをし、険しく表情を切り替えたルドニス=ド=ガゼラは檄を飛ばす。
「お前らは先に行け、年寄りは後から追う。ミュヒレイザ、お前も平然とその服に袖を通しているなら来るんだ!」
 外套の裾を翻すや否や、部下を追ってルドニスは駆けていく。
 ミュヒレイザは動けなかった。行きたいとは思ったが、その次にあるものを想像するとこの場を離れるのは得策とは言い難かったので。
「女性のあなたが行った方が、被害者の方もきっと落ち着くでしょう」
 は、と見やれば彼女を見上げるアイスグレイがある。
 ラティアリーズが行けと命じることはしない。ミュヒレイザ=アイリラ=ド=リーガルトはお針子程度の持ち物にはなりえない。
「行きます」
 ミュヒレイザは一礼するとその場を後にした。

 サラが旦那を小突きながら客や周辺住民に解散を促している。三々五々していく人々を眺めていたラティはシレンの呼ばわる声にはいと向き直り、落ち着き悪く体の前で手の平を結んだ。
「また、色気も乳もないくせに人様の心を弄ぶような真似をしたね」
「……胸はそれなりにありますよ」
「口答えするんじゃないよっ!! 百年早い! 何もかもチビのくせしてこの馬鹿者が。あの嬢ちゃん傷ついていてたんじゃないのかい」
「……はい」
「友達のつもりじゃないのかい」
「はい……」
「きっと、帰ってこないよ」
「……はい。けれど、それは」
 ――ミュヒが決めることだ。
「お前は本当に阿呆なのかい? 主人にあんな風に言われて、騎士が他にどうできたんだ」
 シレンにラティは敵わない。きっとこの老婆には多くのことを見透かされている。
 この先年齢を重ねていけばどうにかなっていくのだろうか――たとえば四十年の先の自分を想像して、ラティはひどく心おぼつかなくなるのを感じた。
 ぺちりと額をはたかれ、驚きに顔を上げる。
「な、なんですか」
「まったくおつむばかり使うから、実践ができないんだよ。阿呆には罰として晩飯の前に一働きしな。いいね!」
 ――ほら、こうして罰を与えてくれる。
 心の底からほほ笑んで、「はい……!」ラティは頷いた。

  ◇ ◇ ◇

「大丈夫ですかご婦人。賊はいずこに?」
 ルドニスの部下らが介抱する、路地にへたり込んだ女の身なりは貴族級のそれだった。息を切らした壮年であるところのルドニスはミュヒレイザを顎で使う。
「失礼、大丈夫ですか? わたくしどもが参りました、もうご安心ください」
 女の声に反応したのか涙がちの緑の目が女騎士を見上げ、その腕がミュヒレイザに抱きつく。
「怖かった……!」
「ええ、もう大丈夫ですよ。我々が貴女をお守りします。時にお付きの方は?」
 場所を空けた騎士が首を振る。
「駆けつけたときから見ていない」
「お立ちになれますか? すぐに人を」
「ごめんなさい、待ってください。ミュヒレイザ様、めまいが――」
 よろけた女を抱きとめながら、飛び出した己の名にミュヒレイザの身体は強張った。女は喉の奥で笑うと、固まる身体に深く抱きつき耳元で囁く。
「死人を起こしてさしあげる。今はおとなしくお帰りなさい」
 エスティカリアなまりのそれが身体に流れ込んで、とっさに女を引き離して――抱き起こしていた。
「こらミュヒ、ご婦人はもっと丁寧に扱え」
「……いいえ、もう平気ですわ。本当に、騎士様たちがお早く来て下さってよかった。まことにありがとうございます」
 栗色の髪の女は居住まいを正し腰を折ると、ミュヒレイザをその目に映した。
「あの……もし、よろしければ送って……」
「ああ、そんなものもちろんですよ。宿はどちらですか? それにしてもお怪我がなくご無事なようで、よかったですな」
 ルドニスの女への快活な受け答えを眺めながら、彼女は知らず眉根を寄せていたが、すぐに襟首をつかまれてそれを解くことになった。猫の子のように女の前に突き出される。
「もしも賊について何か思い出せることがあったら、なんでも、どんな些細なことでも構いませんからこいつに仰って下さい。つけておきますから。セイル、ミュヒとご婦人の三歩後ろから着いて行け」
「分りました」
「何から何までありがとうございます。サリアディートの騎士様は頼もしいですね」
 月明かりに照らされた女の緑の瞳はどこか好奇的な光を放ったまま、ミュヒレイザから離れようとはしなかった。

  ◇ ◇ ◇

 わずかにかけた月が天高い位置にあるころ、自室に下がるエスティアナを見送って――早い話だしに使ってアルヴィスも宴を後にした。
 貴賓室の扉の前に立つイェインに手を上げる。
「やあ、お疲れ。首尾は」
「若の勘が恐ろしく当たることを再確認しました。どんぴしゃりです」
 アルヴィスはふうんと笑みを刻んで相槌をうち、祖国から連れた側近の開ける二枚扉をくぐりながら手の先を二回振るう。一度は全員の退去を、二度は一部に対する人払いを意味する。うやうやしく頭を下げる従者達は今後、身内に対してではなく、サリアディートの面々への人払いを行うことになる。
 調度品から年代物のブランデーを拝借した赤毛の男は、二つの杯をふりふり文句を垂れた。
「しっかしここのアタマ、絶対『タマ』片方ないですよ。なさけないね」
「下品に駄洒落ている場合じゃないよ、まったく。ただでさえつまらない夜会だったんだ」
 連日の夜会が相当きているらしいアルヴィスは、カウチに荒々しく座る。沈み込む背にもたれかかった。
 ――貴族のやることなど、どこでも同じだと思うのだが。
 思ったことが明確に顔に出たイェインに、アルヴィスはやれやれと顔をしかめる。
「頭の足りていない貴族しかいないのかなあ、この国は。長年の平和階級にどっぷりと漬かりすぎた彼らに会話の楽しみがまるで見出せない。骨がなければ中身もない。ギルファニードさえどうにかすれば、百回ほど侵略できそうだよ。どうしようかイェイン」
「おやめなさいって若」
 イェインは琥珀色で満たされた杯を手渡し、自身は飴色の机に腰掛けた。
「あのお姫様から大反撃を食らいますよ」
「……だと良いけどね」
「じゃあまあイェイン=ターナス作筆、サリアディート皇室泥沼愛憎劇、聞きますか?」
 うまい酒がただで飲めるのは、イェインの宮仕えの仕事をしていてよかったと思う瞬間である。帝国のそれよりもブランデーの香りが芳醇でいい。さすがに貿易の街の品であった。
 扉が静かに開いて、音もなく閉じる。アルヴィスは気にすることなく、
「じゃあまあ、聞かせてもらおうかな」
 外の空気をまとった人物に、イェインはわずかに顔をしかめた。