あなたに抗えたらどれほど幸せでしょう
あなたを憎むことができればどれほど救われるでしょう
あなたを愛することができれば、どれほど慰められることでしょうか
だまされてはいけません みんなうそばかりついています
毛糸のようにもつれ だまになったこれらを
やさしくほぐすことが あなたにできますか
―お針子ラティとアマゾネス―
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息をはずませて、表情をはずませて、鉢植えを押し抱くエスティアナは早朝の回廊を駆けていた。
軽やかに衣装の裾をたくし上げて駆ける姿は「はしたない」と侍女や乳母にたしなめられるに十分だったが、今の彼女からはすっかり抜け落ちている。彼にこの花を見せるのだ。どんな顔をするだろう、やはり優しい彼のことだ、美しく微笑んで美しいですねと愛でてくれるに違いない。そんな顔が見たい。
貴賓室が間近に迫って呼吸を整えながら歩いていくと、アルヴィスの側近である赤毛の男が眼に映った。男が膝を折る。
「いいのです、楽になさい。アルヴィス様にお会いしたいの」
「申し訳ございません、殿下は半刻ほど前に外出なさいました」
意味が分からなかった。
「嘘。だってこんなに朝が早いわ。どこへいらっしゃると言うの……? お散歩?」
「行き先やお戻りする時刻は教えられておりません。恐らくはその類ではないかと思いますが」
「そんな……」
早朝にしか咲かぬ花だという。昨年の暮れ、たった一株だけようやく手に入れることができて、まるで運命のように今日花開いたというのに。こんなに美しいのに。
「七皇女、よろしければご伝言を頂戴いたしますが」
「意味のないことです……花を、お花をお見せしたかったの」
「花?」
ぽつりと響いた声が真実首をひねるようで、エスティアナは苛立った。
「異国より取り寄せた珍しい朝だけのお花です。あの方お花がお好きでしょう? お見せして、喜ばせてさしあげたかったの。でもアルヴィス様がいらっしゃらないなら仕方がないわ……」
エスティアナの怒りが伝わったのか従者は首をすくめてしまった。酷く乾いた気分がして、背中越しに睥睨する。
「帰ります」
「では、恐縮の至りですがお部屋までお供させて下さい。わたくしがそちらをお運びします」
頷いて促す。当然であった。
イェインは手中の鉢植えを見下ろし、隣を歩く可憐なお姫様を見やる。朝も早いというのに身支度はほぼ完璧と言ってよく、これはもう恋心のなせる技としか言いようがない。白い頬が目にまぶしい綺麗なお姫様だと思う。
――いったい彼女の中で我が主はどういった設定になっているのか。
すでに萎れ始めている花弁に再度目を落とし、想像の気持ち悪さにイェインは口元を押さえた。
◇ ◇ ◇
人がそうであるようにラティの朝は早い。白さの混じる朝の冷たい空気の中、洗面を行い、服を着替えながら鏡の前でため息をつく。波打つどころか絡まりあい、膨らむ髪に櫛を入れるのは一筋縄ではいかない。すずめの巣だの綿菓子だの、言いたい放題されるかわいそうな髪の救済はすでに諦めているので、適当にくくってしまうことにする。
朝食の前に店先の掃き掃除と、その片手間に彼女らよりさらに早起きな下町を行く人へ、昨日の残り物のパンを破格の価格で販売すべく戸口を開けると、空は夜の色から薄い青紫と移り変わっている最中だった。今日もよく洗濯物が乾くだろうとラティは目を細める。
ざっさかざっざ。
「おはようラティちゃん、パンをくれるか」「はい、おはようございます。どうぞ。2クルドですよ」
さかさかさかさっさ。
「ねえちゃんいつものパンくれや」「おはようございます。はいどうぞ」
ほどよく商品が薄くなれば店内でロッドの仕込みの気配がするのが常のこと。煙突から煙が上がる。パン屋のそれから遅れること少し、ぽつぽつとあちらこちらで薄紫の空に細い煙の筋がたなびき始める。
掃きためたものを金属製の塵箱に収めて手を払った。売れ残りの売れ残りはまだあるものの、これは朝食として食べればよい。
「あんたちおきなさーい! 朝よー! ご飯よー! ラティも入って来なさーい!」
サラの声が聞こえて、荷物を抱え店内経由で食堂に足を踏み込もうとしたその時だった。
「や、おはよう。いい朝だね」
「――!」
肘に手がかかって、乱暴ではないが有無を言わさぬ力で振り向かされる。朝日に煌く金髪をなびかせ、女に生まれた方が世のためなったであろう容貌の男が、ラティが咄嗟に投げた紙袋(商品入り)を顔の前で危な気もなく受け止めて立っていた。あまりに唐突な登場にさすがのラティアリーズも驚くしかない。
さわやかな空気の中、少しもさわやかではない双方の笑顔がぶつかる。
「なに? これはくれるのかな」
「差し上げるなら、こんな大胆な方法で渡しませんよ。……おはようございますアルヴィスさん」
◇ ◇ ◇
「ロッド、見て……。ラティ、誰なの、この王子様みたいな人……」
「……サラ?」
「ほう、わしの死んだ旦那によく似ておるのーお前さん。目鼻立ちがよく似ておる」
追い返す前にシレン=カーディスに見つかったことが敗因に違いなかった。あれよあれよという間に自己紹介が行われる中で、朝食でも一緒にどうだという流れになってしまったのは。胸中でエスティカリア皇太子のふくわらいを楽しみながら、スープに浸したパンをかじる。
「おねーちゃん、すごいねすごいね! おうじさまみたいだね!」
それはそうだろう、正真正銘本物のオウジサマだった。全身から私は高貴な生まれですよと匂いを放つような人物である。
「そうですか? サシャさん、理想はもっと高く持たなくては」
「サシャごほんでみたことあるもん、そっくりだもん」
ちゃっかりとラティの隣に座って同じものを食べているアルヴィスが、それに小さく微笑みかける。
「ほら、やっぱりおうじさまだようっ」
「笑顔で小さな子供をかどわかすのは止めて下さい、軍部に訴えますよ。サシャさんも目を合わせないように」
「やだ〜」
「侵害だなあ。君のためにここまで来たのに、君のかわいい妹をかどわかすなんてしないよ」
ねーと食卓を挟んで相槌を打ち合い、親睦を深める様子に危機感を覚えた。人の心に入り込むことは社交術の基本であり最大奥義でもある。人が数年かけて築き上げるものを、あるいは取り去るものを、この男は段飛ばしで行ってしまえる。そんな人間に、この暖かい人たちに触れて欲しくなかった。
スープのおかわりをリロに手渡しながらサラが言う。
「まあいいじゃないの、それにしてもラティにあなたみたいな知り合いがいたなんて驚きだわ。その子ってばいい年して恋人の一人も連れて来ないんだもの」
どうもアルヴィスは貴族時代の旧知ということで、折り合いがついてしまっているらしかった。
断じて違うが他にやりようもない顔を覆いたくなる現実である。出会ったのは二日前だが、知り合って二日目の人間は普通、親しげに早朝訪ねて来ない。腕を握り合った姿を発見されたりしない。「初めまして、僕はアルヴィスです!」とラティの肩を抱いて自己紹介したりもしない。
右隣に座る無言のリロから強烈な視線を感じて、「どうしましたか?」首をかしげ伺えば、ぷいと横を向かれてしまった。今まで一度だってリロからそのような態度を取られたことのないラティは、ささやか以上の衝撃を隠せない。
「エスティカリアに住んでいますから、なかなか彼女に会いに来ることができなくて。久しぶりに会えて僕も嬉しいです。良い家族に恵まれ、変わりもないようだ。安心しました」
「ああそう言えば言葉が。そう、あなた帝国の人なの」
時の流れは個人の抱くものであり、また単なる帝国住まいではなく下僕を従え帝都のど真ん中に住んでいるわけだが、嘘ではない。殊勝なことに、男はどうやら善良な民には嘘をつかない主義らしく、先ほどから頻繁にそのような返答を口にするのだった。どちらがよりたちが悪いかは口にするまい。
――私をこの生活の異物にしなければこの際もう何でもいい。
「その口ぶりだとお前さん、昔からこの娘のことを知ってるのかい?」
シレンである。
「彼女が貴族だったころの話ですか? 残念ですが、それほど詳しくは」
二日前に出会いましからね、と再三胸中で述べていたことを同じようにする。ところがこの話題にカーディス家の面々はひどく興味を惹かれたらしく、期待に伴う沈黙を発した。
――ひどい。第一この三年間、特に気にした風を見せたりしなかったではないか!
うっと詰まりたくなるところ我慢して、取り繕うことなく好きなようにさせておく。ここは家の中なのだ。仮に何を言われても信じられはしないだろう。凡庸な娘が皇女? お笑い種だ。何よりラティは信じている。
アルヴィスはわずかに口元を緩ませて、
「そうだな、今でこそ元気ですが昔は体が弱くて臥せっていましてね、室内で花の名ばかりを唱えていた時期もありました。今でも詳しいと思いますよ」
「へえ、ラティが? ああでも、そうかもしれないわねえ」
「ティアと呼ばれていた頃の話ですが……過ぎたことですね。今の彼女の方がずっと幸せそうですから」
各々にへ〜えと確認するように見つめられて、ラティは微笑する。
「昔の話です」
ある程度の覚悟はしていたものの眩暈を感じた。大丈夫ですかと問われながら背後から水桶に顔を押さえ込まれているような気分が、した。
『ティア姉上、その僕、ごめんなさい……』
「ねーちゃん」
浮上する。
「ああリロ君、どうしましたか。よかった口をきいてくれて」
「……いそがなくていいの? しごとじゃねーの?」
「そうですね、少し急いだ方がいいかもしれません。急ぎます」
手早くスープとパンを口に押し込む。
「君が行くなら僕も行こう。突然の来訪にも関わらず朝餉までご相伴させていただいて、本当にありがとうございましたカーディスさん」
「いいんだよ、こうしてこの子を訪ねてきたのはお前さんが初めてなんだから。わしも昔懐かしい思いができた。本当に良く似ておるよ、うむ、面の良い男じゃ」
「またいらっしゃい。ね、ロッド」
「――ん」
「またきてね!」と明るく手を振るサシャに愛想よく頷き、ラティに続いてアルヴィスも席を立つ。
「ごちそうさまでした」
「私もごちそうさまでした。サシャさんリロ君、いい子で。では行ってきます」
頭を片手で抱いてそれぞれの額に口付けを落とし、食堂に会した面々に挨拶を向ける。
「今日も遅いの? 最近ほんとに物騒なんだから気をつけるのよ、分かった?」
「はい、昨日と同じかそれよりも少し遅くなります。行ってきますね。アルヴィスさん行きましょう」
連れ立って家を出て、歩いて、歩いて、初めの曲がり角を曲がったところが限界だった。どうしてくれよう。向き直って居直る。人通りが少ないおあつらえ向きの場所だ。
「あなた、私をどうしたいのですか。知りたいことは何ですか」
「そりゃあラティ、男が女性に望むことなど知れて――」
「私を、どうしたいのですか?」
遊ばれてなどやるものか。気分じゃない。静寂は破顔する男に作られているようだった。同心円状に広がる静けさがなみなみと二人を抱きこみ、男の死んだ笑顔が別種の柔らかさにほころんで――言うなれば心底喜んでいるようにみえて眉根を寄せる。何か喜ばせるようなことをしただろうか。不本意かつ不快だ。
「ねえ、ティア。君について大体のことがわかっているよ」
「勝手な愛称で呼ばないでくれますか」
「ねえ、エミラティア。君について大体のことがわかっているよ」
「それは私の名前ではありません」
「ねえ、ラティアリーズ」
「なんですかアルヴィス皇太子殿下」
「君は逃げたんだね。親も、責任も、弟も、たくさんの姉たちもぜんぶ捨てて」
「あなたはそうやっていくらでも人を殺すのですね。やめて下さい」
人の一番柔らかな場所を選びとって喰らい、双眸を眇めるだけで場を支配しようとする傲慢さ。足を一歩踏み出すだけで相手を圧倒しようとする酷薄さ。アルヴィスの白い指が伸べられて、しかし動じないラティの頬へ届く前に、空を撫でるよう降ろされる。
「そんなにも疎ましかったの? 視線が、立場が。ラティ答えて」
心が震える。
なんと答えれば興味を失せてくれるのだろう。それとももう不可能なのだろうか、全部、全てをやり直そうとしたこの三年間は意味が無かったのだろうか。
心の震えが治まらない。聞こえるはずのない海の音が聞こえる。
焦点の定まらない眼差しで東を捉え、捕らえどころない男の蒼さをぶしつけに見つめる。
「この世で何よりも疎ましいこと――この世の何にも動かされず、動かすことのできない自分。赤い服を着せられること。花をくれた弟を愛すること。父の声を思い出すこと。他人として生きること。他人に殺されること。そこから逃げ出さず、唯々諾々と流されること。さあ、答えましたよ。満足しましたか」
疎ましさの裏には何があるのか。この人にはきっとわからない。それでいい。どうだ酷い女だろう。ドン引きするだろう。わははと高笑いしたくなる衝動を、作り物の悲壮な表情で耐えていると、笑みを刻む口元に添えられた手が今度は迷いなく頬に伸ばされた。指の腹が往復する感触に背筋がぞわりと粟立つ。
「勝手に触らないで下さい。お金取りますよ」
「わかった、払おう。いくら欲しい?」
真面目な顔で懐を改めながら言わないで欲しい。ぎょっとするラティの胸元に押し付けられた重く硬い財布は、受け取りが成立しないまま、アルヴィスによって事も無げに手放された。いかにも澄んだ切ない音を奏で、黄金の数枚が地上に零れ落ちる。
「金貨三十。その言葉に差し上げる」
行き場のない落下音は庶民の生活数年分の音。それをまるで塵のように。
「落ちましたが」
「今は受け取り手がいないから仕方がないね。私はね、価値あるものへの出資は惜しまない主義なんだ」
皮肉だ。お針子のラティアリーズでは役者不足だと言いたいのだ。盛大な嫌味に口元を歪めた。
「そうですか勝手にやってください。義理は果たしました、私は仕事に行きます。それもったいないからちゃんと拾うんですよ!」
「私は拾わない。君がどんなに嫌がっても抗っても望んでも――関係ない。私が決めた。必ず日の下に引きずり出して、名前と身体をあげるエミラティア。それが嫌なら」
左手首を捕まれて翻す身体に鈍い痛みが走る。思わず唇を虚空に開きかけたラティは、怠慢を戒めるべく噛み締める。取り戻そうともびくともしないほどきつく握られた手首の薄い皮膚の下、血の通う場所にアルヴィスが顔を寄せて――否、しっとりと唇を落とした。
「――何を! いたっ」
鋭く痛みが走って拘束が解ける。刹那睨み据えることに成功したものの、わずかに弧を描く蒼い目はラティを相手にしなかった。振りかぶった震えの止まらない手の平を握りこんだのは、意気地ない己の業だ。
「しっかりとその足で逃げなさい」
腕を抱きかかえながら走る。すでに遅刻は確実だった。
嫌な男だ。変態だ。
変態で嫌な男がここにいる。
疎ましさの裏にある後ろめたさを、あの男は知らない。後悔を知らない。おごり高ぶることを知らない。間違いを知らない。疑心。振り返ることを。神に命じられるまま神に祈らず、路を踏みしめる己だけがある。見ることなく全てを見て、冷たい優しさもぬるい嘘もたった一つの器に。
それゆえの得体の知れなさだ。男は人の支配者だった。――大変残念なことに変態だけれども。
「私を呼ぶな、私に触るな、私に見出すな。私にはできない壊せない…!」
空は晴れている。信じられないくらいに。道行く女性と肩がぶつかった。
「もう、やだちょっと何!?」
「あ……ごめんなさい、ごめんなさい」
一度漏れ出した言葉は際限なく彼女を蝕んでいく。
◇ ◇ ◇
駆け去っていくラティを路地から確認しながらイェインは肩をすくめる。彼は常日頃から主のこういう所がよく分からないと思っていた。暗殺者、奸臣、小賢しい侍女――耳元で飛び交う小うるさい羽虫はまるで無視するくせに、アルヴィスはわざわざ草むらから探し出して同じ虫を殺したがる。あるものとして享受し、力を誇示したがる人間ではまずないはずなのだが。
主はどこか呆然としたように娘の去った小道を眺めていて、イェインはさらに分からなくなる。
「あのお姫様、心の底から迷惑そうな顔でしたよ」
「恥ずかしがっているんだね、かわいそうに」
「余興、興味、愛情、打算。さあ四択です、どれなんです。おれにははかりかねるし、この中のどれかなら手を引かせてもらう。契約外労働ですからね。このまま念願のサリアディート観光に直行だ」
彼とアルヴィスの間にあるのは心による忠誠ではない。約束と金で繋がった雇用契約、列記とした職務なのである。城の中ですらイェインをアルヴィスが市井から拾い上げた従者<お世話係>としか思ってない者が多いが、全くの誤解と言うものだ。
無論イェインとてアルヴィスを憎んでいるわけではなし、奇人だと思う以上に空恐ろしく感じる部分だってたくさんある。もりもりある。だからこそ従う気にもなる。
「おれにもおれの剣に対する誇りや流儀がある。使われるならそれ相応でなければ嫌です。お貴族様の馬鹿遊びにまで付き合う気はありませんからね」
「誇りねえ。あの時私に負けたくせに」
「ううるさいですね……! で、返答は?」
「なあイェイン、お前には私が彼女にこだわっているように見えるのか? 特別視していると?」
咽の奥から込み上げる笑いだった。
「見事で頼もしい人間を刷り込むだけが軟化させるための術ではなかろうよ。私が、与えたのだ」
引き出されたのではなく、自分から進んで見せてやったのだと言う。
相手の望むものを的確に判断し、余すことなく与え、心の隙間を奪う。
「馬鹿じゃないって思ってるんでしょ? 世間知らずの皇族誑かすのよりずっと難しいって。当たり前だ。おれから見てもあのお姫様と若はとてもよく似ている。頭の使い方、かわし方。何より雰囲気。自分を攻略するのは、どうでもいい相手にすることでしょうかね」
「似てるかなぁ」
「似てますって」
「似てないよ」
「似てますよ」
足元に散らばった金貨を財布ごと拾い集めて差し出すと、見やりもせずアルヴィスはふいと横を向いた。はした金だと言いたいらしい。
――このお坊ちゃまめ。
「ではイェイン、お前にはこの国の穴が見えていないのだね」
「……あのお姫さまが穴だと? 逆じゃないですか」
「穴だというなら穴に違いない。彼女は馬鹿が空けた穴をふさごうと必死になっている。ふさがせないよ」
イェインは立ち尽くす。
「なんのためにくそ忙しい私がこの国に来たと思っているんだい。妃などどうでもいいよ、誰がなろうと同じこと。帝国には髪一筋分も関係がない。――ギルファニードと対談し、皇国中央を視察するためだ」
まず違和感を感じ、次に無謀だと思い、最後に消し炭ばかりとなった大陸にむずがる炎がなめるよう海を渡る姿が脳裏によぎる。
なぜこの国を、アルヴィスが直接訪ねるのか、疑問に思ったのではなかっただろうか。ただの遊びだと到底思えなかったのではなかっただろうか。答えが差し出されようとしている。
帝都の人間はいつだってためらいなく奪い、惜しみなく与える。決して乞わず、求めない。皇帝ディオスは苛烈にして冷徹、容赦の持ち合わせはない。
ふいにイェインはぎくりとした。頬が引きつっているのが分かる。
「まさかとは思いますけど、あの絵を見た時から今を予見していたとか」
サリアディートの不和、穴の開いた肖像。
黙ったままの柔和な太子の顔に溜息し、額をこぶしで押さえながら小さくうな垂れる。
「もういいです……、宮城で七皇女がお待ちかねですよ。だいたい若は勝手気まますぎる。すっかり飽いているようですけど、あなたの仕事はあそこにもあるんですからね! あんまりわがまま言ってると後でユィーマン殿にチクリますよっ」
アルヴィスはイェインの言葉にちらりと笑って城へ戻ったものの、結局、エスティアナと昼食を共にしてすぐに姿を消した(撒かれたのではない、笑顔で凄まれたのである)。行き先は早朝とは違って告げられなかった。ギルファニードの所かもしれなかったし、シルドの屋敷、あるいはお針子の所かもしれなかった。彼の同行が許されないサリアディート滞在期間中通産三度目の外出である。
ちなみにアルヴィス不在の定例行事として、イェインは七皇女の恐怖の語学勉強(もちろん言語はエスティカリア語である。アルヴィスについて雨あられのような質問が降る)に付き合わされることになる。
◇ ◇ ◇
元皇女とはみ出した騎士の丁重な無視の関係は実に半年以上に及んだ。
やがて窓より落とされた『お疲れ様です。明日は少し遠出しますよ』一行半の手紙が柔らかな均衡を破り、『はじめまして、私はラティアリーズ=シルドと言います』名前が落とされ、『どうぞ召し上がって下さい』焼き菓子が落とされるようになるまでに時間はかからなかった。
初めて声が落ちてきたのは秋を越えた初冬のこと。
夜気に冷える狭い路地にもたれかかっていたミュヒレイザは、硝子窓を揺らす音に顔を上げる。吐き出す息が白くなるほどに、しんしんと冷気が降り積もっていた。
「こんばんは、寒くはありませんか」
二階の窓から顔を覗かせた監視対象は、眉根を下げたいかにもすまなそうな顔でこちらを見下ろしながら、寒々しく首をすくめる。
「ああやっぱり寒いですね……」
吐息が白く染まり、けれどもアイスグレイの瞳は依然穏やかに監視者を見つめていたが、やがて彼女が何も言わないと悟ったのか、少女は「ちょっとそこにいてください」顔をひっこめた。
いわくつきと言えばサリアディートでこれ以上の存在は望めまい。
初めての国皇陛下から直々の命令が『これ』とは、ミュヒレイザにとっては笑えない事実だった。墓の下から出奔した皇女の監視。下位中流貴族シルドの女地理学者を母に持ち、よりによって国皇の十番目の御子として生まれた運のない皇女だった。正アルレニーデ皇后のご懐妊があと五年早ければ。国府の誰もがそれを思っただろう。神とはつくづく気まぐれなものだ。
十番目の子を王とする、年老いた王が告げられた過去はまっさらな雪に落ちた血痕のようで、どのようにしてもぬぐえはしない。神はその手で女児を東宮に招いておきながら、後に同じ手で熱望された男児を国に授けた。争いの種とはかようにそ知らぬ場所から芽吹くものかもしれない。罪深さは業か時代か。
『決して見失わぬように』
命令は国で唯一の女騎士へ下された。女ゆえの抜擢だった。我が娘に四六時中付けるのだから男であっていいはずがないとは君主の弁であるが、何のことはない、ただの厄介払いに過ぎないと分かっている。持て余すなら初めから受け入れる必要などなかったではないかとすさんだ気分になったところで、木靴をはいた少女が板戸から顔を出した。寝巻きの裾から覗く、折れそうに細いひょろりとした足首が目に寒々しい。
「今日はとても寒いから少しお話ししましょう」
始めの一言を口に出すきっかけがつかめなくて、だんまりのミュヒレイザは立ち尽くす。
「いいのです、何も言わなくて。その代わり今夜のことも災厄中のさらなる厄介事だと思って諦めて下さい。サリアディートの騎士、あなたの剣とあなたの時間に謝罪を……心からの謝罪を――ごめんなさい」
怪訝に眉をひそめた彼女に少女は力なく笑って見せた。
市場の中で尾行に気づきながら怯えない、監視されているのに気づきながら平穏に微笑む。ラティアリーズ=シルドはそもそも油断ならない少女であった。
「冬になりました。陛下はまだ、信じては下さらないのですか」
信じる、愛する、夢見る、希望。美しい言葉に付き纏う空々しさを一切含まない不思議な声だった。そこに興味を引かれた。
「……信じる対象は」
「陛下こそが人を殺す力を、誰よりも持っていらっしゃるということです」
少女は戸口の段差を利用して腰かけた。膝を抱えながら寒そうに身体を揺すり、白いものがついてまわる細い首を右から左に巡らせる。ミュヒレイザは毛皮の外套を脱ぐ。
「お寒いのでしたらこれを」
「いいえ。いいえ、冬の空は低いはずですがここから見上げるとずいぶん遠くに見えるのですね。星が綺麗です。ねえ騎士様、私はこう見えても剣の使い方を知っているのですよ」
行き場のない外套を手にしたまま、つぎはぎだらけの言葉の末尾に突出した奇妙な告白にきょとんと訊ねた。
「貴女が――?」
星の美しさを語る脆弱で無力なお針子の少女が?
そもそもその夜は何もかもがおかしかったのだ。
ミュヒレイザは亡霊に対して言葉を浪費したし、皇家の亡霊に騎士呼ばわりされ、少女は聖者の微笑を一度だって浮かべはしなかった。そして寒かった。
「はい」と言うや否やの小さな右手での抜剣。剣士たる彼女が察知できなかったわけではない。それでも腰元から短剣を抜き盗られたミュヒレイザは、茶色い瞳で少女の剣筋が描く思いのほか鮮やかな銀の弧を目撃していた。その思いがけなさが胸に迫る。
ガッと路地に得物が穿った。
「鞘から掃って柄を握り、血の通った肉の上につき立てればよろしい。それだけのことで人は殺され生かされもする」
おののくラティアリーズは一心に刃を見つめながら、柄を握り締めたままそろそろと息を吐き出した。逆の手で、柄から張り付いて動かない手を毟り取る。
「五つの時分には平然とこれを大人の前で言うことができました。剣が尖ったものであると知識を与えられていましたから。意味も持たずに、当たり前のことを理解したように、剣など触ったこともないくせに、ただ知っていました。どこまでも愚かなのです」
「はい」
ミュヒレイザの賛成も反対も含まない相槌は話の続きを促した。
「あるいは陛下は母を愛していらっしゃったから、それを裏切りだと思われたのかも知れません。御位の椅子を求める者だと、異端者を射る眼差しのまま信じて下さらない。私が剣など使えないといくら申し上げても信じては下さらない……っ」
アイスグレイに過ぎったものが、怒りではないことは確かだった。
「死んでまでも、まだ、お疑いになる……!」
揺れる瞳がミュヒレイザを写し続ける。
「それはそうでしょう、貴女は剣を扱える」
「どこが」
吐き捨てられた言葉は、下弦の月が笑い出すほど少女に似合わなかった。ミュヒレイザは無言に確信を携えて、煉瓦と煉瓦の隙間に突き刺さった短剣を引き抜く。切っ先を月明かりにかざし見た女騎士の背筋がひとつ凍えた。
「……あなたの剣を一つ駄目にしてしまいましたね。いたらない、本当に、許してくださいますか」
卑屈な声に頭を振る。
そうではない。馬鹿を言うものではない。刃こぼれ一つない。
依然白銀は白いまま、潔癖な姿でそこにあった。
何かがしんしんと降り積もる寒さを、暗がりに押しやるところまでは感じることができた。手足はこんなにも軽いのに心が唸るようにずしりと重みを増し、隙間を埋めながらようよう胸中で膨れ上がるものは熱く。去来し、いびつに出所を求めて歓喜に焦がしてゆく。
言霊を行動に移せる者だ。彼女が十数年必要としたことを――恐らくありとあらゆることを難なくこなす者だ。
――偽りではない、本物だ。神の誤りではなかったのだ。
女は喜びに嘲笑めいた笑みを唇に乗せる。嘲りは東へ。捉えた喜びはここにある。嫉妬は生まれなかった。
こんなうらびれた路地で本当を冠するものを目撃できる奇跡が、世にいかほどあろうか。背筋をざわりざわりと撫でながら伸ばしていくものをミュヒレイザ=アイリラ=ド=リーガルトは世界が真実に求める礼儀だと感じた。言葉が口を突く。
「貴女は」
「はい騎士様」
「貴女の悲しみも愚かさも、エミラティア様」
突然の申し出にも取り乱さないラティアリーズ――エミラティアに、意識しないまま熱で溶かされた頬がわずかに上昇する。
――だとすればこの国のなんと罪深きことよ。罪は国だ。
真実を恐れた馬鹿者たちよ!
「どうぞその全てをお持ちになって宮城へお戻りください。貴女の嘆きはいずれ、国の嘆きとなりましょう。真実の御方」
◇ ◇ ◇
ミュヒレイザは返答の代わりにいただいた、左肩を殴りつけられた拳の力強さを忘れたことはない。
騎士の正装に身を包んで、未練たらしく婦人用の衣装と髪飾りを手にした侍女を冷ややかに一瞥しながらリーガルトの屋敷を出る。事後報告のための登城だった。
常になく華やかな馬車に揺られながら回想にふける。昔から彼女の主は頑なだった。エミラティアは凪を乱すものを極端に嫌う節がある。
『死人に幻想も真理も求めてはいけない、流れに逆らっても得られることはありませんよ』
事あるごとに繰り返された言葉だった。
――しかし死人とは、生きて息をしている人間に使う言葉ではない。それは断言できる。
ぼんやりと流れる景色を見送るミュヒレイザに、くだんの女から仲介を受けた華やかさの発信源である同乗者が喉の奥で笑う。
「存在を忘れられるとは貴重な体験だよ」
「……失礼を」
「なんの気にすることはない、生きることは悩むことだよ。部下から話は聞いたね。一晩待って私も待った。返事を聞かせてもらおうか女剣士」
『どうやらシルドの介入者もあります、様子を見ましょう。脱するか残るか』
馬車の軋む音が耳に取り付いて離れない、乾いた唇を舌でなぞって正面を見据える。
『死人を起こしてさしあげる』
「協力と言っても証言するだけでいい。それ以上のことは望まないし、何なら君の微妙な立場の口添えをしても良いよ」
甘い言葉とはこういう物を言うのだろう。染み入る速度で身体が痛む。
「わたくしはこの国が嫌いです……」
穏やかな沈黙が促す。絡めとるように。
「ですがそれでも、わたくしは軍人なのです。国を守るためにある」
エミラティアに思いを馳せる。一人で大丈夫だろうか、厄介事に巻き込まれてはいないだろうか、暴力を何より嫌う人だとこの三年間で知った。
「貴方には火が見える。正直わたくしは恐ろしい、あの方が心を砕く国をないがしろにはできません。わたくしには、勿体無いお話でした」
生み出された静寂を破り、男はどこまでも快活に笑った。
「へえ、忠義より国を取るか。それもよかろう。意味のないことを」
「忠義の先に国がある。意味はあります」
馬車が止まる。ミュヒレイザは小さな窓越しに、ようやく宮城の停車場にたどり着いたことを確認する。城は間近だった。そしてそれが誤りだった。
遅刻を理由にこってりと絞られた後、肩を落として針を取るラティは内心怒り狂っていた。下世話にあてこすられながら同僚に発見されたそれ――今は左手首に巻いた包帯の下にあるものに千の苦虫を噛む顔をする。
鮮やかに刻まれた鬱血の意味するものが、初めは分からなかった。
「いやだまあ、若いわねえラティ。昨晩は寝かせてもらえなかったの?」
同僚のニヤニヤ笑いに、首から産毛をちりちりと焼くような熱さが昇り頬を焦がして頭上に到達する。信じられない!
針を針山に戻しながら「変態変態変態変態変態!」と胸中で怒鳴り散らし、心から離反して久しい笑顔をことさらに深める。
全てあの男が悪い。受身のままでいれば漬け込まれることが今朝ではっきりとした。対策を練らねばと思うが、一方で自分に何ができるだろうと思う。職場があって住む場所がある。動かしようのない生活を抱えて。
色素の薄い伏せたまつげを上げる。
放っておくのがよい。流れは彼女の干渉を許さない。
そもそも愚を犯してまでラティ程度の利益を得ようとする必然性がない。大勢の姉たちは種々に富み、いくらでも彼を助けるだろう。
――本当に?
娘殺しの親。それは醜聞。
流水中の網の国。それは衰退。
――本当に?
災厄の国の皇太子を招き入れ、皇女の身柄で安全を得ようとする国府。
それは暗愚。
――本当に?
自分ならうまくやれるというのか。そこまで思い上るほど愚かになったのか。
思い、思慮し、けれどもラティアリーズにできることなど、悲しいほどにありはしないのだ。
訳もなく胸騒ぎを覚えて入口を振り返った。ファルト=ド=シーレインの訪問を告げる鈴が鳴る。
一瞬を永遠のように長く、あるいは永遠を一瞬に濃縮した味がした。
ミュヒレイザはありとあらゆるものがない交ぜになった息と唾を呑む。
驚愕に見開かれた蒼の双眸には海が、荒ぶる海の色がいたぶるようにこちらを窺っている。
「何だって……それは誠なのかリーガルト!? 君は確かにエミラティア皇女を街でお見かけしたのだねっ!!? ああ、なんと言うことだ東宮殿下に――」
あまりに強引、あまりに卑怯。手にする権力の惜しみない無法な使い方。
馬車を降りた瞬間の出来事だった。
握り拳を作ったところでもう遅い。声高さに引き寄せられた聴衆は怪訝にそば耳立ている。他国の皇太子がその情報を持っているはずがないのだ。本来ならば。通常ならば。
驚きの芝居は大げさなほどに自然だった。動揺とにじみ出る喜び、救出劇を目撃した爽やかな好青年のそれ。
――この男でなければ……!
ぎりぎりと爪が手の平に食い込んだ。避けようのないつけは彼女に回ってくる。
他の誰に同じ芝居をしても意味がない。とぼけられて終わりだ――とぼけることができる。彼女でなければ意味がない。国皇に少なからず不興を買い、実際エミラティアに付き従ってきた彼女でなければ!
彼女が秘密を告げた。国皇はそのように判断する。それで、終わりだ。
踏みしめていたはずの大地が抜けた。落ちる。
「私が言うのも何なんだけれども、そう、ありがとう! 私はずっと十の姫にお会いしたかったんだ」
陽光の穏やかさで、きらきらしい満面の笑みを浮かべたアルヴィス=セルトベルク=フォン=エスティカリアはミュヒレイザ=アイリラ=ド=リーガルトの両手を取った。表情はそのままに言葉だけが異質な響きで、
「だから意味がないと言ったじゃないか」
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