王になるには男の性が!
うたをかなでる詩人をころしたのはだれですか
扉をひらいたからなのか
窓をしめわすれたからなのか
そもそも風をおこしたからなのか
水面をゆらすのはだれですか
わたしを忘れたのですか? ひどいですね。
あなたはわたしを殺したのに
あなたをうしろから追うのはだれですか
やさしく解きほぐすひつようが ほんとうに ありますか

―お針子ラティとアマゾネス―
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「あぁエミラティア、あの子はわたくしの幸喜、わたくしの誇り。わたくしの唯一。あの子には女学者として持てる全てを与えたわ。……どれほど皇国が厭おうともあれは皇国のもの」
静けさばかりに満たされた小さな屋敷で、誇らしげなファイリス=ミラ=シルドは彼女を訪ね来たイェイン=ターナスにそう宣言した。
「皇后の御子など取るに足りない、次代の――時代の国皇」
「……そりゃあまた随分な金の卵ですね。それならなぜあなたはみすみす彼女を逃がしたんです」
「外に出ると言って聞かないものですから。でもね、卵を孵すには暖める腕がいりますのよ。だってあの子はかしずかれて育った子供ですから、必要でないはずがないでしょう?」
うずたかく本に囲まれた書斎の中、籐の揺り椅子に腰掛けて薄く笑った女の顔には影も濃く、
「わたくし、そうしていればあの子が帰ってくると思っていましたの」
◇ ◇ ◇
エミラティアは居城当時から政府中央にとって悩める存在であった。身分の低い女地理学者シルドが異例の側室入りしたのは最も遅い六番目。誰もが首をかしげる中、彼女は他の側室たちや皇后を差し置いて皇位継承権を持つ子を産んだ。国皇が彼女らの妬みやっかみから母子を庇わないことが更なる事態の悪化を招き、のちに正妃の皇子懐妊により事態は究極にねじれることになる。
だがエミラティアは死んだ。ありがたいことにエミラティアは『死んだ』のだ。
十皇女の館と共に消え失せた真相を知る者は少ない。
噂と騒動の現場――停車場に居合わせた政府高官は下官に緘口令を敷くことを命じ、取り繕うべく異国の貴人を迎賓室へと接待した。呆然と立ち尽くしたリーガルトの娘が兵に連れられて――引き立てられていく。
しかし、緘口令に意味はなかった。
エスティアナの語学勉強に付き合うイェインはその噂話を皇宮内の書閣で聞いた。
「おい。さっきそこで小耳に挟んだんだが、亡者の姫を街で見かけた貴族がいるらしいぞ。それを停車場で騒いでたって言うんで、居合わせた高官が泡を食って止めに入ったらしい。どう思う?」
「まさか。しかしまあ……あれはなにぶん都合の良い病死だったからな、勘ぐりたくなるのも分からんでもない。それよりもあれから数年、なぜ今更そんな噂がたつのか――」
アルヴィスだ。
確証なく確信を抱き、疲れた顔でイェインは木の葉さざめく窓の外を見やる。
「あーあ、こりゃあ観光はできそうにねえなあ……」
「……今、なんと言いましたの?」
母国の俗語交じりにぼやけば、怪訝な七皇女に向き直った。
「ああいえ、外は風が出てきたようですね」
「そうじゃありませんわ、違いますの。そこのお前今なんと申しましたか。いいえ……妹が都合の良い病死などと――国府を口さがない噂話で愚弄するのはわたくしが許しませんよ。なんと無礼な」
「こ、これは七皇女……! 失礼をいたしました」
教科書代わりに開いたままの書籍が風に繰られた。怒りをあらわにするエスティアナに男らが非礼を詫びる室内へ、皇国に冷気をもたらすこの時期特有の季節風が流れ込む。開かれた扉が閉じた。慌てて畏まる司書へ、鷹揚に手を上げてみせた入室者の顔は寒々しいまでにやはり柔和で。
「いいえ。口さがないなどとんでもない、なあイェイン」
イェインは静観する。自分を巻き込まないで欲しい。エスティアナは目を見開いた。
「アルヴィス、さま……」
「それは口さがない噂話なんかじゃなく確かな話ですとも。なにせ私自身がその生き証人。ああでもこれも貴女にしてみれば無礼になるのかな? とんだご無礼を」
いつも彼女に向けられていた夢のごとく優しい微笑が何一つも変わらぬまま――形造りは同じにも関わらず――もはや常人には理解できぬほど鮮やかに、瞬き一つで嘲りに変じて見えた。
「でもね――」
瞠目するエスティアナに降る、笑みばかりの男の声は歌うような響きで彼女にそれを告げる。その声も眼差しも、ずっと彼女のものであったはずだった。彼女のためだけに用意されていたものなのに。
吹聴してまわる噂の発信源を押さえない限り緘口令に意味はなく、確実に輪を描く速度で広まっていく。基本的に笑って相手にされない波紋の中、東宮シルディオは明らかに狼狽した一人だった。
連なる。もはや水は見えない。
◇ ◇ ◇
ミュヒレイザは半日経ってもラティアリーズの前に現れなかった。
いつものように入り浸って駄弁り、仕立屋ルディッサを後にするファルトを見送るべくラティは仮縫いの終わった衣装を傍らに置く。
「お品はあと少しです。もうすぐ本縫いに入りますから、そこまでくれば後は力業ですね」
「ああラティ。君の力量は疑うべくもないけれど、君の小さな手が苦労に塗れるのは僕の望むところではないよ。仕事を担うこの手のなんと健気なことだろう!」
「ファルトさん、働くことは食べることなんですから嫌がったらお腹がすいてしまいますよ」
つぶてのように言葉を連続するファルトのために扉を開けながら、ラティは空を仰ぐ。
「今朝からいい天気ですけれど風が、出てきましたね」
――ミュヒは来ない。リーガルトに帰参したか、はたまた取り込まれたか。
ならば今日が永訣にふさわしい時だ。全ての過去を清算すべき時だ。
後ろ手に鈴の音を聞きながら偽りの客人を正面から見上げる。雨と共に現れて、ラティを好きだと言い、シルドのために道化の役をこなしてくれた異性だった。
「ファルトさん」
「おやおや、なんだいラティ。そんなふうにかしこまられては、ねずみの心臓を持つ僕は緊張で倒れてしまうよ。ほら、愛らしくその笑顔を見せてくれないかな」
「ファルトさん、ミラ=シルドはお元気ですか?」
「ラティ……誰かなそれは」
「演劇はもう終わりです、終わっていいんですよ。ずっと退屈だったでしょう? 密偵か、監視か施しか――私にはあなたが真実誰であるのか、あなたの気持ちがどこにあるのか知るべくもありません。けれども時は十分に流れました。もう、十分です」
『ファルト=ド=シーレイン』の指を取る。
「どうぞ全てを忘れて健やかに、ラティは帰りませんとお伝えください」
「いつから……いや、なぜ今それを仰る。それで帰れるはずがないでしょう」
「ねえファルトさん、嫌な予感がするのですよ。じきに取り返しのつかないことが起きる、そんな気がしてならない。甘言を弄する帝都の人間がそちらに伺いませんでしたか。帝国を利用しようとしてはいけない、あれを利用なんてできません」
おののき――排除の宿った揺れる眼差しを向けられるのはこれが初めてではない。いつもいつも思うのだ。何がいけなかったのか。いつだって間違えないでおこうと心に刻みつけているのに。何が。
「貴女は何をご存知でいるのです」
「帝国から風が吹いている。私はそれを知っています。それだけです」
言葉を費やすことがひどく億劫だった。包帯の上から手首を掴み、笑む。
ラティの考えではこの男が驚くということは明らかに時間がないことになる。やはりシルドと帝国に接触があった。馬鹿なことを。独白する。
「……馬鹿なことを」
風が雲を払うものか呼ぶものか吟味している時間もない。いずれにせよ風とは大火を呼ぶものだ。
「お別れです。大丈夫、これまでと何も変わらないのですから」
――知っているだけなのに。なぜ追われる。
いつもいつも思うのだ。
価値などない。
◇ ◇ ◇
例えば葡萄が酒となるように。
異国から入り込んだ優男へ、時間を加えた先にあるものを彼らは知った。
「お前が始末をつけろ」
冷静さを失した無慈悲のままに、ルドニスの主は彼に命じる。
「全てを火に隠せ」
「馬鹿な、今一度冷静になってお考えなおし下さい。ミュヒレイザが守秘義務を怠るはずがないでしょう! 貴方が信じずに誰が信じるのです――だいたい陛下が、王がなんと仰るか」
「陛下は昔同様見て見ぬ振りをなさる、問題ない。そのような問題ではない」
「……正気の沙汰とは思えませんぞ。風がある。火などつければ風下の街が、消える」
「かまわん。それとも、お前も地下でミュヒレイザに付き合うか?」
何がかまわないのか。街が消えることか正気を失することか。
彼さえも捕らえるよう兵に命ずる指先に、ルドニスは頭を振り柄に手をかける。
「下がれっ!! どうなされました、貴方様の誇りはいずこに消えたのです。どうぞお考え直しを……っ!」
朦朧と激怒するミラルド=ハイン=ド=リーガルトは執務用の大机を薙ぎ、大理石の上に敷かれた絨毯へ叩きつけられた硝子製の蜀台が凄惨な音を上げる。
「ここにある……! お前には聞いてもらう。我らの不始末は我らが蹴りをつけなくてはならんのだルドニス。例えこの一件で我が一族が滅びようとも――これが大貴族リーガルトの大儀だ。皇国のっ! 私とてミュヒレイザが国を売ったとは思っておらん。思いたくもない。しかし歴史ある我が国の皇族方に、このようなことで帝国風情に傷をつけさせてはならぬ!!」
ルドニスは柄に手をかけたまま、唖然と三十年来の主の顔を眺める。
「決して感づかれぬよう夜陰に乗じて火であぶれ、それでも死なぬなら確実に殺して証拠諸共火に燃やせ。もとより下賎な死人、動く屍をよく知る人間。一人残らず、灰に」
「……閣下」
「ルドニス、お前だから頼めるのだ。リーガルトについてきてくれ。――頼む」
硝子の破片散らばる上質の絨毯に、こぼれた油が染み渡っていく。
夕刻を迎えても冷たい風がやむことはなかった。
まるで殺人狂が潜んだような城内の奇妙な静けさに、笑って身の丈より大きな窓を開き放てば、風は踊ってアルヴィスの前髪をなぶる。
「錯綜しているねぇ。なるほど、存外したたかなものだ」
「……だから誰のせいだと」
イェインは諦観する。
まとめてしまえばこんな男を便利に使ってみようとした皇国の落ち度だった。政略結婚まではまあいい。しかしそれ以上を期待することは――ご利用の際には事前の計画をお大事にと述べるよりほかない。合掌である。
『でもね、私はその存在をお聞きした時からきっと他の誰よりも十の姫にお会いしたかったのですよ七皇女』
時は熟し、なるべくしてエスティアナは切られた。泣き出しそうな顔でうつむいた七皇女の横顔に過ぎったものは暗く熱い氷。嫉妬の色だ。
「なあイェイン」
「なんですか」
「色々やったけど、どこが出て来ないか賭けようか」
「……若」
「こわいなあ。――やることがないんだよ」
窓の外を見たままの主の口元が酷くこわばっていることに、彼が気づけるのはこれより随分先のことになる。
<かわいそうに>
音なき心からの慈しみの声は誰に伝わることもなく風に消えた。
◇ ◇ ◇
月は細く、闇は濃い。したしたと路地を伝う足音に、初めに気づいたのはラティではなかった。夜陰に潜む女は武装した男達が行く先を確認して背後に合図を送り、やれやれとつぶやく。
「四組ね、薬足りるかしら」
気息を整えながら瞑っていた瞼を開いて寝台を降り、衣服を整え肩にかかった髪を背中に落とす。夜は久しく静かだった。
ラティアリーズの持ち物は数えるほどもない、身体さえあればそれでよかった。下準備は整っていた。しかし、この先のことはよく分からなかった。いつだってそうであったので気に止めるほどのことでもない。
毛織物の上着を手に取ってラティはそっとがらんどうの家を出る。
空を見上げれば沈黙が身を切るように冷え渡っている。音もなく扉を閉じ、闇のしじま、かすかな足音に振り返った。軍人の赤茶けた瞳が見開かれている。
誰かに命を疎んじまれるほど恨まれている。その現実。
死んでもいいと、思われている。その現実。
ラティは眉根を寄せ、深くうなだれた。
「私が、不快ですか」
男の肩が僅かに跳ねた。そうではない、いつだって傷つけたいわけじゃない。
「ごめんなさい、本当は分かっています。……人とは殺されるために生きるのかもしれませんね」
病に、獣に、時に。人に。
ルドニス=ド=ガゼラは無言のまま鞘走る剣を構え、微動だにせず、動けば切ると雄弁に語る瞳へそれでもラティは笑みかける。
「守りたいものがあるなら、駄目ですよ。今殺してはいけない」
「……」
「どれほど憎かろうが鬱陶しかろうが、エミラティアを殺してはいけません。この一瞬が帝国の筋書きということ、分かりますか」
筋書きという言葉にルドニスの眉根が寄った。殺すなと訴えるには平坦な声に、ひるむ心とは反対に彼の眼差しが強まる。
「――!」
纏わりつくような気配だった。複数名――あずかり知らぬ事態と、容赦なく投げ込まれた物にルドニスは大いに揺れた。リーガルトがこの娘を殺しに来る理由は分かる。汚名を着るのはリーガルトの役目でなくてはならない。しかし――
――硝薬!
火薬の技は国の秘術である。海を越えた東方より伝えられ、今はまだ威力も弱く実践投与はままならない。それを惜しみもなく使うということは明らかに。とっさの判断でエミラティアを引き寄せ腕に囲い、戸口の影に庇う。
「同業者か。っツ――ご無事ですか」
目を丸くする娘は一瞬呆け慌てたように頷き返した。充満する爆煙を避けるために身をよじり、ルドニスの庇護の下、思い出したようにはにかむ。
「……私は貴女を殺しに来た、それをお忘れなきよう」
抱き起こしながら続ける。
「中に人は?」
「いません。窓という窓も中から押さえがしてあります、頑張りました」
「はやく火を消しな!」「なんだよあれは。くそ、信じらんねえ!!」わあわあと騒がしくなる周囲に混じって見知った声が飛ぶ「ラティ!? 無事なの?!! ラティ! こら、リロっ」「ねーちゃんどこだよっ! 返事してよ!」「危ないぞ坊主!」
溜息交じりに納得し、男は剣を鞘に収めた。成すべきは決まった。自身の娘ほどの手を握る。
「上等です。決して傍から離れぬよう」
追い立てるよう狭い路地に突き立った矢と共に、第二の硝薬が投げ込まれる。
右か左か。その手を引いて、取り外した長衣で包みながらあえて矢が飛来した方向へ走る。
「わざと右を空けてやがる。殺す気満々だ――おっと」
視界に飛び込んで来た敵影に抜剣し、護衛対象を背後にやるや振り下ろした。
剣戟。
かみ合う刃に息を呑み、「! あなた」ラティは背後からルドニスの着衣を引く。予定調和の到着だった。
「ファルトさんっ」
「ティア様!」
「なるほど援軍か――いかん! 坊主後ろ!!」
軍人は娘に頭から被せかけていた長衣を、ここぞとばかりにその胸元までを引き下ろす。
ファルトの緩んだ顔が強張ったのが一瞬であったのならば、首を狙い振りかぶられた凶刃――背後を確認する間なく、彼が経験の動きで身をよじり襲撃者の腹を突き抉ったのもまた瞬時のことであった。双方の生死を別ける血飛沫が舞う。その間にルドニスは襲撃者の片割れを切り伏せる。
「悪くない腕だがつけられて来たなお前。行けるか」
血に汚れた剣を払い、進行方向を睨む。
「肩をかすっただけだ。シルドの者として援護する」
「よし。……矢が途絶えたな、一気に抜けるぞ」
殺戮から覆い隠す頭の長衣はそのままに、軍人は娘の肩に手を置く。
◇ ◇ ◇
『絶対に殺さず攻略して捕縛しろ。ああソラン、君のことだ。いいかい毒薬の携帯は不許可だからね! いいね!』
命令だった。
「一組攻略」
峰打ちで伸びたサリアディートの密偵兵――二人の矢の撃ち方に痺れ薬を嗅がして足元で転がしながら、都合のいい高所、緑の目が夜には目立たない赤毛を捜し当てる。
「あーいたいた、どうせ問題ないか。さて最後の組はどこに行ったかな」
剣すら抜かず拳打のみで対象を叩き伏せた彼は、後ろ手に縛り上げた三者の内、手ごろな位置の頭をはたく。
「起きろ」
腰に帯びた水筒から海水を顔面に浴びせかける。
「とっとと起きろ」
薄目を開いた男の短髪を掴み上げ、軽く揺す振り、うめき声に頷いてみせた。
「痛いよな、痛くしてるし。開放されたきゃ質問に答えろ、お前サリアディートの者だな?」
「我らを、そうと知っての狼藉か……! なのれ……名乗れ異邦者がっ!!」
「名前?」
冷笑するイェイン=ターナスは前言通り暴力を行う手を離した。ぐしゃりと地に落ちた頭に続く、無防備な首を殴打する。
「寝てな、恥知らずの狗が……さて、と」
首を巡らす。
「嫌な仕事だ」
「何をしているって、そうですね――働いています。嫌な仕事だ。貴女もまだお休みにならないのですか?」
「こんな夜更けにどんなお仕事ですの?」
回廊の中央に立ち、進行方向を防ぐ七皇女が放つ悋気の気配をものともせずアルヴィスはその横をすり抜ける。足音が追いかけてくる。
「先ほど船に待たせてある部下から伝令が入りましてね、港近くで無視できない規模の乱闘騒ぎが起きているとか」
「……乱闘、さわぎ」
「やっぱり放っておけないでしょう?」
エスティアナは疲労の影を落とす儚い優しさを浮かべた顔に、申し訳なさで息を詰め、
「だから私の兵を仲介にやりました」
裏切りの言葉に押しつぶした悲鳴を上げた。胸元で手の平を握る。
「なぜ……?」
「エスティアナ様?」
アルヴィスは立ち止まった彼女を、期待を込めて振り返る。
「人としてあるべき、当然のことだからですよ」
「……そんな、お疲れになった顔をなさっているのに。寝て下さい……っ! どうぞお眠りになって、気になさらないで宜しいじゃありませんか。あなたがお気になさることではありませんわ、あんなもの……放っておけば宜しいじゃありませんかっ!!」
「ああ、姫。こんな夜更けに大きな声を出しては、他の方がびっくりしてしまいます」
アルヴィスは笑いの止まらない顔で――儚い優しさを浮かべた顔で――絹の上着を脱ぎ着せ掛けてやる。彼にはエスティアナという存在が興味を感じる以上に、いっそ愉快でたまらない。見事に不思議で怪奇だ。どこまで単純に生きていけるかの見本のような。
ある日突然異国からやって来た美貌の青年に優しくされれば恋に落ち、周囲が笑えば自分も笑って、惚れた男の関心がその実生きていた妹に向けば住民を巻き込んだ刺客騒ぎを起こす。駄々をこねる。
イェインは言った。『世間知らずのお姫様』
「で、私は何を放っておけばよろしいのですか?」
肩で息をする七皇女は、こんな一言でもう、何も答えられなくなる。
◇ ◇ ◇
「リーガルト、東宮後ろ盾であるアルレニーデ皇后、……国皇陛下、推測の域は出ませんが恐らく皇太子妃候補筆頭も」
「ティア様どうされましたか?」
数度切り結んで路地を脱したシーレインらは、廃れた馬房の軒先の下、ぽつりと漏らされたラティの考察に目を向けた。
「……七皇女でいらっしゃるな。刺客の心当たりですか」
問うルドニスに頷いて肯定を示す。
「私は剣豪でも怪獣でもありません。いくらなんでも人が、多すぎる」
軍人貴族である彼もおおむね同感だった。暗殺としては人が集まりすぎなことに、確実に一組二組の動きではない。重ねて言うならばどんぱち騒ぎすぎだとすら思う。
言われて改めて自覚する。
夜気に混じって熱気覚めやらぬ煙の臭いが流れてくる。風下ではさらに酷いに違いない。硝薬の威力は弱いとはいえ、火が無事に消し止められたのか定かではなく、人々は深夜にも関わらず騒がしい。
騒ぎすぎたのだ。暗殺事項を他派閥間で頭寄せ合い話し合うはずもない。
帝国の筋書き。全てがエミラティアの言葉通り、だった。それでも――
瞑目するルドニス=ド=ガゼラは、苦く頭を振り、建物に寄りかかるエミラティアを渾身の力で突き飛ばす。貸し出していた血の滲む長衣が舞い落ち、驚きに満ちた娘の顔半分を絶妙に隠した。
彼の理由は十皇女の抹殺ではない、皇国を守ることだ。
「貴様何をっ!」
ファルトは転倒し地に叩きつけられた娘へ駆け寄ろうとした身体を一心で押し留め、その凶剣を鞘ではじいた。競り勝つ。ルドニスの剣は、狭い路地での戦闘より格段に一振りの重さが増している。
彼の理由はエミラティアを守り、シルドの屋敷に連れ帰ることだ。
「抜かせはせん! 下がれシルド!!」
腹部への撃蹴、畳み掛ける柄の殴打をこめかみに受けたファルトの眼球が涙混じりに赤く染まる。抜剣できぬまま、ふわりと彼の胸に圧し掛かったラティ――エミラティアの身体を抱き込で、背中からしたたかに倒れた。
「っぁ! ファルトさんっ、だいじょう――やめて下さい!!」
悲鳴が上がる。振りかぶった得物を下ろすことのできなかったルドニスは、ファルトの鳩尾に昏倒の一蹴りを放ち舌打ちする。
「現状の意味分からなくて、軍人風情がここまで考えてきました。帝国は貴女を殺した皇国の醜聞が欲しかったのですね。ちゃっかり情報の操作が行われている。しかしそれならばもう……意味がない」
ゆっくりと上体を起こすラティが最も恐れていた言葉を、ルドニスは冴え冴えとした口調に乗せる。
――お針子の失踪。深夜の不審火での焼死程度ならどうとでもできたろう。
「ここまで騒げばどの道同じこと、暗殺未遂で同じもののできあがりだ。ならばむしろここからは貴女の生が決定的に邪魔になりましょう。ご遺体は必ず隠します、汚名はリーガルトがいかようにも」
剣を握る大きな手はラティアリーズを守ってくれた手だった。皇国――エミラティアを守るために同士をいささかの迷いもなく切り捨てた手だった。
死人のために血が流されてしまった。擦り剥いた手の平に小石が食い込んでじくじくと痛い。
こんなことを望んだことなど、一度だってない。
奥歯をかみ締める。
「痛みはありません。ミュヒレイザは殺させません。貴女以外を殺めない。これで、宜しいですか……?」
――ミュヒが強くて真っ直ぐなはずだ。
へたり込んだままどこかが脱力しておかしさしか込み上げなかった。涙はなかった。腹ただしくて悲しい。あるいは泣き叫んで、たすけて、そう言えたらどこかで何かが変わっていたのかもしれないと思えた。後ろから嗤って絡みつく腕だってきっと振り払えたはずだ。
死んで欲しいと思われている、その現実。
氷を抱いたように頬が熱い。身体がとても痛い。ファルトが痛んでいる。
――血と煙のにおいがする。きっとカーディスの人々は心配している。招待した晩餐は楽しく過ごせただろうか。
矛盾ばかりで。
覚悟など少しもできていなかった。その先を見上げる勇気が欲しい。
「……人とは、殺されるために生きるのかもしれませんね」
だからその怒鳴り声が、ラティには異世界語のように聞こえたのかもしれなかった。
「よろしい訳ねえよ、切られれば誰だって痛いに決まってるっ!」
見開いたままのアイスグレイに、白刃の影が過ぎる。危な気なくルドニスと声の主との間に剣花が散って、倒れた衝撃に乱れたわんだとび色の括り髪を風が巻き上げた。
咄嗟に間合いを取り直したルドニスは構えなおしたが、すぐにその切っ先を下げる。
「! 貴殿は……」
「エスティカリア帝国軍人イェイン=ターナス。我が主アルヴィス皇太子殿下の命により、騒動鎮圧の助太刀に参りました。ご無事ですか」
黒い目が意識を失ったファルトに寄り添うラティを確認し、手が差し伸べられる。
「エミラティア皇女」
包帯をいつの間にやら失った左手首を、一方で白刃を鞘に収めながら力強く掴み上げられる。
「イェインイェイン! そっちっ、上上!! ごめんなさいねー、一人逃げられちゃったあ!」
女が一人駆け込んでくる。イェインは頭上を見上げ、ラティの顔を下げさせた。
「すぐに終わらせるから、目をつぶってればいい。――伝言です」
『帝国は貴女を守る』――末尾の余韻も消えぬまま、イェインは彼自身を標的として投じられた短剣を鞘を使って弾き落とし、乗じ屋根より飛来した剣の使い手を受け流した。その勢いを殺さず上体をひねり、剣の入った重い鞘で顎を打擲する。瞬きのうちに敵影を撃沈させたその鮮やかさ。
抜き身であれば首を一刺し――壮絶に命を奪っていたことが明らかで、
「これは……強いな」
サリアディートの騎士は投げやりに額へ指を当てるしかない。
神と帝国は十皇女を殺すことを良しとしなかった。それだけのことだ。
◇ ◇ ◇
煌びやかな調度品の中で、両国首脳の接見は実に粛々としたものとなった。
背の低い形ばかりの卓を挟んで腰掛ける両者の表情は、その年齢と同様、大きく隔てられている。
池の水は冷え込むだけでは氷になることはできない。大気に熱を奪われ、温度が下がりきったところで――風のさざめき、落ち葉の着水でもいい、波紋の名の下に一気に凍りつくのだ。
若者が老人の手前、のほほんと味わっていた茶器を皿に戻した行為は、ちょうどそれによく似ていた。
「昨晩はお疲れ様でした、詳しい話はもうよろしいでしょう。つきましては私から評議の提案があります。お聞きいただけますか」
膝の上で指を組んだアルヴィス=セルトベルク=フォン=エスティカリアは、物腰柔らかさと嫣然を混在させた優男は、サリアディート国皇を見つめる。
提案でなく要求。依頼ではなく念押し。
ジェルリド=ラッセルディーン=アーザー=サリアディートは鷹揚に頷く。
「聞かせていただこう」
「まず前提条件としてこちらがお願い申し上げたいことは、小国輸出品の関税を二割以上の減ならびに――」
「……お待ちを。輸出入は商会の領分であり我々には不可侵のこと、残念ながら不可能だと申しあげたい」
「それは貴方が奔走するべきことであって、私が考慮することではありません。貴国はギルファニードを飼っておいでなのですから、どうとでもなさればよろしいではありませんか。――続けます、関税のお願いに比べればこちらは大したことではないでしょう。現在一日三便となっている連絡船の入港を五便まで許可頂きたいのです。提案は以上の二、詳細はこちらの文書をご覧下さい」
この上なく丁寧な手つきで帝国側近が金の箔押し羊皮紙――和親公約の文書を差し出せば、卓上、金の受け皿に乗ったそれをジェルリド王は頑迷な面差しで射る。
アルヴィスは指を組みなおす。
「さて昨晩の事件を鑑みれば、貴国の未来への懸念はもはや小国としても拝見しているのが辛いほどに明らか。貴国は重要な局面に立っているようだ。僭越ながらこれらのことを受け入れてくださるならば」
まっすぐにぶつかった両者の双眸、鼻にしわを寄せた国皇のそれが蒼にそらされ、海の色が弧を描く。
「十番目の姫君エミラティア=リーズ=サリアディートを皇国から我が国に招き入れましょう。平和の証として彼女を私の妃として迎えます。――帝国との和親を」
重鎮ばかりの会談室。
のちに歴史書に刻まれることとなる申し出に、ざわりと動揺が走った。
接見が終了し普段にも増して渋い顔で退室したジェルリドに、気を揉んだ七皇女が喰いかかったのは実に間が悪かった。弱り顔の近衛を押しのけエスティアナは詰め寄る。
「! 陛下!! 教えてくださいませ陛下。まさかとは思いますけれども、今の会談でアルヴィス様にはどなたを……。お願いです、答えてくださいまし!!」
「……お前ではない」
煩わしいと訴える目は会話を拒否していた。棒立ちとなった彼女はしかし、首を振る。
「そんな、ではわたくしは……なんのために………! 嫌です、いやよ。お願いします、彼が好きなのっ。初めてなの。お父様!! 一生のお願いです、お願いですから陛下のお力でどうにかっ」
「黙りなさい」
「いやですいやです、どうしてエミラティアが選ばれるの。どうして生きてるの。だってわたくしの方がずっと彼に優しくしていただいたわ。わたくしの方が彼を愛しているわ!」
「喧しい……っ!! 少し、黙れ。――いいかねエスティアナ、あの男はお前に相応しくない。優しさを身につけた蛇蝎のような男にうつつを抜かすのはよしなさい」
生まれて初めて受けた恫喝にびくりと震えて立ち止まった娘の、頭を撫でる。
「じきに私の言葉の意味が分かる時が来る。お前は帝国に嫁がなくて良い」
白い花の顔に涙の線が引かれていく。
『しかしあなたは、ご自身の娘御がそれほどまでに恐ろしかったのですか?』
◇ ◇ ◇
住民同士の結束が固く、シレン=カーディスが指示を出しやすい場所へ外出していたということも相俟って、パン屋の店舗兼住居をはじめとする周囲家屋は小火の被害で済んだ。
家から人を遠ざけるために催した、宴の途中で退席したラティは命を盗られかけていたわけだが、そんなことを知りもしないはずの彼らはしかし、傷と泥に汚れて帰宅した彼女へ小言の山を贈ったし、子供たちは盛大に泣きついた。
崩壊はすでに始まっている。いつまでこの生活を続けられるのかすら分からない。
そんな訳で今日ばかりは仕事を休み、後片付けと家族孝行に勤しむラティであるが、元々が国府の暗殺騒ぎとあって軍人が事情聴取だとしゃしゃり出てこないことに少し安堵していた。
「ラティ、ラティ、ラーティっ!! ちょっとこっちにおいでな、今すぐにっ!」
「はぁい!」
シレンの声に大きく返事をし、煤に汚れた窓拭き用の雑巾をバケツに戻してから振り向けば、室内に続く戸口から顔を見せたリロが手招いている。
「ねーちゃん、ばーさんがよんでるよっ」
「知らせに来てくれたんですかリロくん、ありがとう大丈夫ですよ。すぐに行きましょうね」
前掛けで手を拭きながら急行した先には、憎々しいほど華やいだまぶしい笑顔が待っていた。男は抱き上げていたサシャを床に下ろす。
「シレンさんどうしま――失礼しましたー」
「やあラティ」
相変わらずの有無を言わせない空気作りとシレンの視線が踵を返すことを許さず、しぶしぶ向き直れば、全ての元凶は昨晩の恐慌から救い出してくれた赤毛の部下を連れていた。会釈する。少し仕事が速すぎはしないかと自分に分かるだけ眉をしかめた。
飽きもせず双方の爽やでない笑顔が対面し、ぶつかる。
「息災のようだね。さっそく遊びに来たよ」
「それはどうもいらっしゃいませ。ところであなたの目は節穴か何かなのですか、これをどう見たら息災にって――うやっあの、ちょっ、なにごとがおきて……っ!」
腕が腰に絡んで抱き上げられる。唐突に高くなった視界と、頼りない足場が怖くて艶やかなプラチナブロンドの頭にしがみつき、瞬間に離す。驚くべきことにそれで体勢を崩させないほど、アルヴィスの腕は小揺るぎもしなかった。
「と、とてつもなく恥ずかしいので下ろしてください。今すぐ」
「照れなくていいよ、私と君の関係じゃないか――さあ、今すぐ結婚しよう。もれなくイェインも付いてくるよ」
ラティが白くなったとして誰が咎められるだろうか。同じく凍りついたサラが歓迎の茶器の乗った盆から手を離し――そうになったところでイェインが救い上げる。
「うおっと! もったいない! ……若」
「ああそうか。もしかして約束の話も忘れてしまった?」
従者の重低音な呼びかけに殊勝な態度でラティを下へ降ろして、けれども腰に手を回したまま彼はその目を覗き込んだ。救出した紅茶一式を商品棚に置こうとしたイェインは、寄越すよう促すシレンに手渡す。
『その足で逃げなさい』男は言った。
「エミラティア、迎えに来たよ」
「……! あなた」
「記憶喪失のエミラティア。大丈夫、不安だろうけど私がついているからね。すみませんカーディスさん、少しラティをお借りできますか?」
「むかしむかし三年ほど前。病に伏しがちだった十の姫は療養に向かう途中、賊に馬車を襲われた。国皇は顔も分からぬほど壊された一行の酷い死に様に大々的な葬儀は行えず、また姫が奇跡的に生き延びていたことを知らずにいた。一方、傷心のあまり記憶を失いふらふらと皇都へ戻ってきたところを下町の住人に保護された姫君は、一介のお針子として生計を立て始めた。そしてある日運命的に出会った異国の青年と恋に落ち、やがて愛の力で記憶が戻って『いや実は僕も皇太子なんですよ』でめでたしめでたし」
「頭は大丈夫ですか?」
「無事だとも。まあ、こういう頭の悪いことになっているから頑張って覚えて」
ぽん。
「……」
半笑いの顔でラティは肩に置かれた手を払い落とし、御者台に声を上げた。
「止めてください。止めなくても降ります」
白い手が無言のまま走行中の馬車から降りようとする肩を掴んで座らせる。
「こらこらこら待ちなさい、都合上仕方ないんだよ。ほら」
無造作に投げてよこされた、右端中央に割り印のある高価な羊皮紙。怪訝に表題を見て、ラティの顔色が変わった。読み進めてさらに悪くなる。
「帝国の皇国の和親公約文書だ」
「見れば分かります。……この内容はなんです」
「見れば分かるよね。ははは、どうだい中々の具合で人身売買が立派にまかり通っているだろう。割り印、押印済みだ。意味が分かるね」
「ああ、ここ数字と綴り間違えてますね。インクと羽と訂正印をください」
すかっと取り上げられて唸り声を上げる。
「十から七に変えるだけじゃないですか。こんな、弱みと武力にものを言わせて、こんな一人勝ちみたいな和親、恥ずかしくないんですかっ! 恥ずかしいでしょう!! 実際に」
アルヴィスは目を細め言葉を引き継ぐ。
「領土を侵すことはできても、帝国が海を越えてこの利権の多い土地を安定して統括するのは至難。かえって他国への穴になりかねない、だから戦争などしかけない。――やっぱり全て君が悪いんじゃないか。私が恥ずかしがる必要はないな」
「……この上、因縁までつける気ですか。受けて立ちますよ」
「サリアディートは君がいないから弱みを握られ、君が国府にいないから連中はこれに気づけなかった。君さえあの席にいればこんなことにはならなかっただろうよ」
そんなものは嘘だ。知っていたとしてもやはり皇国は多少の痛みより確かな安全を選んだろう。ラティが不満なのは帝国に損失がまるでないということの一点であり、揺れる馬車の中じりじりと睨みつける。アルヴィスはこれを柔らかく受け止め、
「因果なものだよ。君には災難だけど私は『こんな結婚嫌ですねえ』『まったくですねえ』って言い合えるとても気が合いそうな、一番私と結婚したくなさそうなお嬢さんと結婚したかったから凄く満足なんだ。これからよろしくね、奥さん」
陽光の笑顔で言い切った。
「喧嘩を売っているのですか」
「心外な。なあイェイン、本当だよな」
一言一句本当なだけに始末が悪い。
あさっての方向を見たまま御者台のイェインは冷や汗を拭う。このまま物言わぬ石になりたかった。
「……残念ながら、嘘偽りない真実です」
「ね」
「了解しました、喧嘩を売ってるんですね」
「ひどいなあ。いいかい前向きに考えてごらん、寝食に困らないし私はこれでも帝国では敏腕で通っているんだよ。一説ではイェインより剣の腕だってたつし、顔だって悪くない。そして何より私は自分のものは大切にする。私は、君を守るよ」
『すぐに終わらせるから、目をつぶってればいい。――伝言です。帝国は貴女を守る』
夜にかざされた抜き身の白さが脳裏をよぎって、膝の上で拳を握った。思い出したように右肩の打撲傷が痛む。
「駄目ですね。ちょっとぐらぐらしてしまいました。その言葉は少し、困ります」
「そして何より私は自分のものは大切にするよ。私は、君を守る」
「……私の感動を多用で汚さないでください。ところでこの馬車はどこへ――?」
「まだ二回目なのに。加減が難しいな……。大丈夫もう着くよ、君が今一番気になっているはずの場所だ」
大きく揺れて止まった場所。紗を開ければリーガルト邸が横たわっていて、思わずアルヴィスに目をやる。門兵との取次ぎを終えた馬車がゆっくりと動き始めた。
「遠慮がないことは知っていますが……ここのお宅には昨夜殺されかけたところで、少々難易度が高くはありませんか。せめて恩人のシルドの方から行くとか」
「そっちは部下に行かせてあるからいいよ。どうせ偽名の奉公人を心配しているんだろう? ならこっちでいい。君には時間がないんだから」
どうやらラティアリーズでいられる時間は少ないらしい。
一晩中叫んで声が割れた。
鉄格子を殴り続けて手が破れた。
謝り通しで心が消えた。
案の定、リーガルト邸で彼らは招かざる客を演じることとなった。地位に伴う礼儀のみで扱われる感覚を心地よいと感じる人間がいれば、かの人にはとても良好な環境であるに違いない。
弾んだ呼吸で現れたミュヒレイザはその姿を確認するなり、跪き頭を垂れる。
「ご無事でしたかエミラティア様! よかった……本当によろしゅうございました」
ラティは息を呑んだ。ミュヒレイザの頬が、赤黒く腫れていた。
「ミュヒ! あなた怪我をしてるじゃないですか。なぜこんなに酷い姿にになっているのですっ、なにが……っ」
同じく膝をついて肩に手を置き、頭を上げさせる。近づけば如実に分かる薬品の匂いに青ざめる。
「いけません、貴女が膝をついては」
「私が私の意思で行いました。それよりも、ミュヒレイザこの傷は何事ですか?」
「何も。何もできなかっただけなのです。我が師より全てを伺いました。かの」
ふらふらとリーガルトの収集品<絵画>を眺めているアルヴィスを茶色い双眸で射る。
「かの方のおかげでわたくしも一当事者に近い場所にいますが、これほど心が捩れたことはない。貴女の命を摘み損ねた師にも勝てませんでした。しかし――よくぞ、お戻りくださいました……エミラティア様」
万感の込められた声にラティの肩は揺れた。ミュヒレイザの表情が陰る。
「お戻りに、なるのでしょう?」
「ねえミュヒ」
「はい」
いつだって間違えないでおこうと心に刻みつけているけれど、今この瞬間の誤りは許せない。屋敷に足を踏み入れた時から言おうと思っていたことを、懸命に一つ一つ拾い集めて。
額を近づけ、目を閉じてラティアリーズは言葉を探す。
「エミラティア様?」
「流れが、私を巻き込みました。だから留まっていることはもうできません。でもね、こんなに近くても私はあなたになれないのです」
「! ――それは」
「聞いてください。私はあなたのように剣を扱えません。逃げた私にはあなたのように理不尽へ抗うことができません。あなたのように誠実にほほ笑んだり、リロくんに剣を教えてあげることもできません。あなたは私にはできないことがたくさんできる。全てあなたが路の中、己の手で得たものです。すごいですね」
彷徨う茶色い目を見定める。
「他人に嘘をつかず、まっすぐで自分に嘘をついている。そんなあなたが私は好きだから、あなたを『ミュヒ』と呼ぶのですよ。ですからミュヒレイザ」
「エミラティア様、ちがいます。違う」
違う違うと繰り返す頭を抱いて、ラティアリーズは笑った。
「あなたはあなたを生きてください。私はこのままではいられないけど、せめて私の存在にかけてあなたを皇国に殺させはしない。その先は自由です。あなたの足で立ってあなたが生きて」
切なく立ち上がると<エミラティア>はゆっくりと瞬いた。
「アルヴィスさん、まだ何か用があるのですか」
金の頭はまだ絵を見ていた。
「うん、あるよ」
振り返ったその顔に違和感を覚える。
「武人の屋敷にしてはいい絵が揃っているなリーガルト。相応しくない、誰の趣味だ」
違和感の出所が分からなくて、ラティはその礼儀を知らない言葉と共に眉根を寄せた。
「当主です……。確かに武人には相応しくない趣味をお持ちの方ですから」
「同じように君は、ラティには下町の暮らしなど反吐が出るほど相応しくないと思っていた。なぜか。彼女には高みにいて欲しかったからだ」
「……否定は、いたしません」
「忠誠を誓った彼女は君にとって可能性そのものだった。彼女ならやれる――皇国を見返せる。己に不可能なことが可能な唯一の同姓だった」
「否定は、いたしません」
「アルヴィスさん!!」
何を言っているのかと我慢の限度を越えたラティは声を荒げた。
アルヴィスは軽快に笑ってみせたが、柔らかさとは無縁の眼差しが侮蔑と呼べるものに彩られていて、イェインは目を瞠る。
エミラティアが親愛を込めて言葉を選んだことを、男が無に帰そうとしているとしか思えない。それを突きつけてミュヒレイザをどうしようというのか。
さらに反論を投げつけようとするラティの口を手の平で塞ぎながら、アルヴィスはミュヒレイザを見下ろす。
「身の程知らずだね女剣士、なかなかどうして矜持が高いと見える。お前なぞが彼女に成り代わってもらえるはずがないだろうに」
「はい」
彫像に変じたような声。
「分かっていてそれでも縋るか、どいつもこいつも救いようがないな。興味深い……。いいだろうミュヒレイザ、一度しか聞かない。それでもなお、お前はエミラティアになれるか?」
「貴方に問われるまでもなくこの身はすでにエミラティア様に属するもの。私はリーガルトに誓って国皇陛下に嘘を申し上げません」
女剣士の返答は間髪を容れずにを体言したものだった。すでに力なく蒼白となったラティから手を離し、エスティカリア皇太子は口角を吊り上げ、
「良い答えだ」
その手を差し伸べる。
「ならば来るか、帝国に。彼女の帰る場所は皇国ではなく私の国だ」
まじまじと差し出されたものを見上げ、やがてミュヒレイザは鮮やかな嘲笑でそれに応える。
――その、すでに所有したかのような口ぶりが気に入らない。
居住まいを正し、頭上に礼をとる。
「いいえ、貴方にはついて行きません。わたくしはエミラティア様の国に参ります」
彼女の理由は二年前の冬から、エミラティアにこそある。
「なるほどね、君らしい良い答えだよ女剣士」
「だって」と苦笑を伴って返り向いた瞬間、アルヴィスはラティから初めての暴力を受けることになる。もちろんイェインは静かにそれを黙認した。
「そんなの、ずっと知っていました……っ。私は三年あなたと傍にいたのですよ、頑固者のミュヒ!」
◇ ◇ ◇
鷹揚さはいろどり。王者が持つべきもの。
何人たりとも王を超えられぬ、超えてはならぬ。
見出した者が真実の王であることなど許されるはずがない。
「しばらくぶりだな……エミラティア、健勝そうでなによりだ」
「はい」
「……もう二度と会わぬと思っていたが、それも仕方なきことか。再びこうしてまみえることになった。エスティカリア皇太子がお前をお望みだ。帝国に行ってくれるな。……後始末は、心配せずとも良い」
「はい。全ては陛下の仰せのままに」
「――そうか」
わたあめのような毛質のお針子はもういない。人の手で入念に梳きつけられた髪は豊かに波打ち背中を流れていた。
コッペパンのような革靴を履くお針子はもういない。贅を凝らした華奢な靴がつま先を彩っていた。
衣装の裾をさばき、サリアディート十番目の姫は深く腰を落とす。
「不義ばかりで申し訳なく思います。十七年間、至らぬこの命を生かしていただいたご恩を忘れることはございません。遠く離れた海の向こうから、いつまでも限りなき幸福をお祈り申し上げております陛下。どうぞご自愛を……」
大聖堂の鐘の音も遠く、静まり返る謁見の間には国皇と彼女、そしてファイリス=ミラ=シルド以外の入室は許されなかった。
「お母様、シーレインなる方に重ねてお礼をお伝えください。お体をお大事に」
別れの時だ。
惜しむべからく時間は早々に過ぎ去っていくものであり、リーガルト邸訪問より猶予はおよそ一週間しか与えられなかった。
『わしらは知っていたよ、三年待ってようやく来た迎えだろう? まさかこれほど大きなお迎えが来るとは思わなんだけどな。行けばいい、辛ければいつでも帰ってくればいい。いつでもここにお前さんの場所がある、シレン=カーディスは帝国だろうが皇国だろうがラティアリーズをここに入れるよ。ま、当たり前のことだがの』
船上の人となったエミラティアは手袋をはずし、ロッド=カーディスから餞別としてもらったそれを膝の上で撫でる。足音には振り返らなかった。
「フライパン……?」
「そうですね、フライパンです。私の宝物です」
笑い含みに「へえ」と隣に腰掛けたアルヴィスはカウチの背にくつろぐよう深くもたれかかった。長い括り髪が緩んでビロードの上に広がる。
「皇国に、未練を残している顔じゃないな」
「……」
「ねえラティ、国皇は君を憎んでいなかったと思うよ。その証拠に命は取られてない、護衛だってつけていた」
「……嘘までついて慣れないことをしなくていいです。ミュヒは偶然、私と馬が合って仲良くなってくれただけなのですから」
「むしろ君の命を救おうとしたんじゃないのかな。あのまま城に残っていたら、きっと君は殺されていたよ。継承権にはそれだけの利権がある。……つらいかい?」
傷口にざっくりと刃物を突きたてて、恵み深い言葉で縫合する。よくあることだ。
隠された真実など欲しがってはいけない。
このままずっと横顔を観察されているのも癪であるので、必要以上の笑顔で隣を見上げた。
「いいえ」
形よい眉をひょいと上げ、顔を背けた男はくつくつと笑う。
「それに私、一年に一度は帰りますから」
「……それ、誰が決めたの」
怪訝な顔がラティを向く。
「住むに居心地が悪くても帰ることになりますし」
「それも誰が決めたの」
今度こそ明るく笑ったラティはフライパンの柄を握る。
「リロくんとサシャさんと私ですよ。ロッドさんにも不埒者はこれで殴れといただきました。ほらアルヴィスさん、条件でしょう?」
くたりと表情を緩めたアルヴィスは、自身の束ね髪の毛先を摘まんで目を落とし、
「その鬱陶しい髪を切らせろ、秩序を乱さなければ何をやろうと私は干渉しない。だったっけ。もちろん覚えてるとも。言いだしっぺのラティが、私と世間が気に入るように切ってくれるんだよね」
「……そこについては再検討を受け入れて下さるなら、今すぐ話し合いに応じますが」
「面倒だ。どうせ先は長い、君が敏腕理容師になるのを気長に待ってるよ」
ひらりと髪を投げ捨てる。そうして両者の間、拳二個分空いた距離を縮めようと腰を浮かせば、すかさずエミラティアが同じだけ距離を取る。
「……何の真似かな?」
「そっくりそのままお返しします。何の真似ですか」
「あのねエミラティア……」
外見も中身も地位も付属に過ぎない。守ると言われることよりも、その一言でよかった。
エミラティア。
この海の傍で生まれ、育ち、生きてきた。生きている。
屠られたくなどなかった。――多分、ずっと。よく分からない振りをしていたけれど。
息を潜めて、生を謳歌して、待っていた。
策のためだけに徒に、土の中で死んでいた彼女を起こした人間にこの重みは分かるまい。
だから言うのだ。
「勝手に触らないでくれますか。お金を取りますよ」
彼女の理由は、皇国のためではない生き方を探すことにある。
<第二章『お針子ラティとアマゾネス』(了)>
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