愚者はいらない
 馬鹿はいらない
 不器量はいらない
 不器用はいらない
 立ち振る舞い、覇者となれ


『十番目の姫君』
―エスティカリア帝国―



<ゼルト歴>
 1418年 ジスティックの攻防・エスティカリア建国
 1439年 エスティカリア帝国成立・建国の王アルヴィス1世戴冠

 1473年 ディオス1世即位
 1480年 カサディー国滅亡
 1490年 ジノ公国滅亡
 1497年 イーレン国滅亡
 1501年 帝皇和親公約(ライアガードレイド条約)締結

  ◇ ◇ ◇

 カーディスの子供らの心は温かい。しがみつく小さな手の平は熱かった。
「ねーちゃん、さみしくない?」
「……おねーちゃん」
 サシャの次から次へと零れ伝い落ちる涙を拭い取りながら、損なわれることのない彼らの持つ熱にラティは圧倒されそうになる。
「リロくんやサシャさんと約束しましたからね。つらくなったら逃げ帰ってきます、ね」
 少年とその妹は<姉>と慕う娘の前掛けを掴み、(かぶり)を振った。
「そうじゃないっ、さみしくないの?」
 思いを傾けてくれる少年へラティは殊更に笑んだ。ラティアリーズ=シルドはここに置いて行く。だから淋しくなどない。
 こんなものは別れに含まれないのだから。

 「行って来ます」と告げて城に入り、出航の今日、埠頭(ふとう)に立つ彼女は納まりの悪かった疑問を対面する人物へ投げた。
「これがあなたの自由だと言うのなら私は何も言いません。けれどもどうしても、聞きたいことがあります」
「なんなりと。わたくしに答えられることならばその全てをお答えいたします」
「サリアディートの騎士であることをあれほど誇っていたあなたが、なぜ……?」
 これだけは、船が出る前に聞いておかなければならなかった。確かめるつもりも否定するつもりもない。しかし聞いておかなければならない。ミュヒレイザが分からない。
 女剣士は瞬いて、エミラティアの背後に控える皇都に双眸を投じる。
「……わたくしは、貴女が皇国のためにならないことをなさるとは思えない」
 ミュヒレイザにとってエミラティアはいつだって皇国に最良の人間だった。王よりも東宮よりも大貴族よりも何よりも。
 皇国のために生まれ、死を偽り城を出たのもそうならば、こうして他国に渡る理由すらやはり皇国のためで。始まりから今まで何もかもそのためにあるような人物を、守りたいと思うことに迷うはずがなかった。本物の存在を。
 ミュヒレイザはリーガルトなのだから。
「今は確かに、そうかもしれません……私はこの国が好きですから大切にしたい。でもねミュヒ、いつかは皇国のためではない生き方を探してみたいとも思っているのですよ。どんな生き方ができるのか、何を愛せるのか。それはまだ分からないのですが……」
 十皇女は瞬いて、ミュヒレイザの背後に控える大海原に双眸を投じる。
 時が静かに波打っていた。
 そうですね、と涼やかな目元を和らげたのは軍人貴族だった。
「ならばその時、わたくしはここへ帰りましょう。――リーガルトとしてこの身ある限り、皇国と共にありましょう」

  ◇ ◇ ◇

 馬車を開かれた先に差し伸べられた手の平がある。面紗越しの日差しと長旅で蓄積された疲労に目を(すが)め、エミラティア=リーズ=サリアディートは静かに呼吸を置く。乗り換えのための下車だった。婚約者の手に同じものを重ねれば、その先に続く顔がふわりと緩む。
「いらっしゃい、ようこそエスティカリアへ」
「お招きありがとうございます。――はい、来ましたよ」
 ミュヒレイザのみを道連れに、一週間の海路と陸路の旅が終わった。

 帝国の東西に果てしなく広い国土は南北もまた同様に広がる。遷都の経験のないゆえに国の中心部は遥か北に外れて存在し、南から上陸した一行は否応なく大陸を横断するはめとなった。帝国を貫くアルディータ河を遡る水路はともかく、陸路は悪路となりえるのか――駿馬の引く馬車の旅はエミラティアに予想通りの腰痛と睡眠欲と、予想外の学習の時間を与えた。教師役を買って出たのはアルヴィスであったが内容を要約するならば、
『あーそうだったね、皇帝だったね。ついつい忘れていたよ。帝国皇帝のことはもう氷像くらいに思っておくといいよ。うん氷だ。何をしてもされても相手は水の固まり、一己ではなく全体――場の空気に合わせておけばいい。しょせん顔見せだしね。ここで機微を働かせるのは至極意味がない。ところでラティ、君、チェスはできるのかな。それなら――』
 一時が万事このような具合であり、意味がない様でいて実のところ非常に油断ならないということである。
 氷とは水になれば蒸気にもなる、そういうものではないのか。捉えどころのないもののことではないのか。
 エミラティアはアルヴィスに「はいはい、できますよ」と頷きながら史書を繰る。馬車の揺れに合わせて、ふとその指が止まった。
 ジスティックの攻防。
 エスティカリアは何もない場所から頭角を現した国であった。
 かつて一人の騎士によって国取りが行われた血戦のジスティック山脈、その麓。全ての始まりにして終わりの場所を未だ都に据えておくことは、どこか歴代の皇帝の人間らしい気位を感じさせる。皇国のライアガードレイドが開かれた都であることに対し、初めて目にした帝都カイゼリアは山間に隠された印象を受けた。活気よりも整然、賑わいよりも華やかさ。海がなく山ばかりの景色の中、行きかう人々の生活に陰りがない点だけが同じだった。
 広大な都の北端に位置した山間に佇む城は荘厳で、見上げれば背後に控える(いただき)の白い山々がけぶる様子とあいまって実に調和の取れた――城のために世界を動かしたようにすら思える、景観を望むことができる。
 いよいよ帝都に入り、行列を率いる馬車から群衆押し寄せる公道に笑むラティは、先ほどから抱き続ける不満をぶつけてみることにする。
「アルヴィスさんちょっといいですか」
「もちろんだとも、私は馬車を降りるまでは君の先生だ。何でも聞いてくれていいよ。ちなみに私の愛犬の名前はジェイと言うわけだけど――」
「……この絡まってる手を今すぐに離していただけませんか? 今すぐに」
 五本の指が四つの指股に入り込むありえない手のつなぎ方。
 ほほ笑みあう佳人らはその笑みでけん制し合う。
「そこはラティほら、国民に我々の仲のよさそうなところを見せておいた方がいいかなあという私の絶妙な配慮じゃないか」
「外から見えものですか……!」
「見える人間もいるかもしれないじゃないか。何せ君は記憶喪失の上、愛の力で皇国に戻った物語級のお姫様だよ。観客が多い、よかったね人気者だ」
「そうですね、では私も配慮して足を出しましょうか。(かかと)が尖っていますから丁度いいですね」
 にこにこにこにこ。
「わかった、離そう」
 笑うエミラティアは口を開く。
「腰に手を回す必要もありません」
「これは失敬」
 苦笑したアルヴィスは結局、宙に浮いた手でその肩を叩いた。
「君もいい加減、事前策を講じるようになってきたか。良い傾向だ――笑顔に凄みが出てきた気がするよ」
「そういうものは、とても悪い傾向と言うのですよ……」
 沿道の終わりが見えた。
 整列する兵の中央を行き、跳ね橋を抜け、飾り馬車は城門へ吸い込まれていく。
 これよりの第一の予定は皇帝との謁見である。

  ◇ ◇ ◇

 ――この感じ。
 主に続くイェインは軽く肩に力を入れる。馬を下りればいよいよ帝国に帰って来た気分がする。軽やかなくせにその実重い空気を胸に取り入れ気合を入れ直していれば、何だかんだで皇国では羽を伸ばせていたのだなあと気づく瞬間である。
「おおっ、お帰りなさいませ若!!」
 帰城した皇太子を待ち構えていたセルディアス=ルド=ユィーマン老侯爵は、涙混じりにその白皙の両手を握るや上下に振り何度も頷いてみせる。
「……何事かなセルディアス」
「分かっておりますとも、分かっております。もはや何も申しますまい……っ。若、爺は嬉しいですぞ!! 今までのらりくらりと避けて来られたことを、よくぞご決意をなされました。イェイン、お前もよくやった! 先ほどちらりと拝見したところ、何ともまあお優しそうな方でいらっしゃる。慈愛と豊穣の女神ボウタのような方なのでしょう。実際にお会いになって若を選んでくださるとは……まったく感謝の念にこの爺は耐えませぬ」
「限りなく失礼千万だねセルディアス、出かけのことを根に持っているな……。別にかまわないし彼女が気の毒なのは事実だけど、そんな事実を言いに来たわけじゃないだろう? 陛下のお目通りも終わっていない帰りたてほやほやの私に用はなんだ」
「おお、そうでしたな」
 老爺の低い言葉にアルヴィスの眉間が毛筋ほどの皺を寄せる。
 イェインのそれはまたより深く。
 ――この感じ。
 帝都に帰って来たな、と思うわけである。

  ◇ ◇ ◇

 見慣れた栗毛の侍女に導かれながら見慣れない回廊を歩いていた。
 他から見れば問題のない光景はラティにとっては大間違いで、当人にすればなおさらに違いない。
 改めさせられた裾を引く衣装の重さに閉口しながら隣を見上げれば、青い硝子の耳飾りが目に留まる。アッシュブロンドの髪を柔らかく結い、従者として控えめな衣装を身に纏う貴族の女の目は鋭く厳しかった。
「ミュヒ、先ほど呼ばれていましたが……その姿はアルヴィスさんの指示ですか?」
 肯定が返ってくる。
「油断をするなと、まずは欺いておけと言われました」
「あの人もお芝居の好きな方ですからね、しかし――そうですか」
 ミュヒレイザには申し訳ないが、ここは帝国の中枢であり諸悪の根源の住処である。先人の忠告を無碍にするのは愚かであり意味がない。
 乖離と二面性。ここはそういう国だ。
 旅の間に与えられた必要最低限の事前知識は、ラティにそのような印象を抱かせた。
 いよいよ荘厳なだけではなく豪奢となっていく内装の中、彼女は再度口を開く。
「言い忘れていましたが……あなたに、お礼を」
 不思議そうな顔を向けられることが不思議だった。
「私は私がここに来たのは、何よりも流れの中にあって行動するためだと思っています。私は皇国で何もできませんでしたが、でも今はきっと、そうじゃない。少なくとも亡霊でない今は、しなくてはならないのです。――だから私にはできないことができるあなたがついてきてくれて、とても心強い。私独りよりもきっと多くのことが、あなたとなら」
 ――できる。
「御意」
 足を止めて、世にも珍しい着飾った女剣士は破顔する。
「今初めて、本当に初めて……本当に女で良かったと思いました。この姓のおかげでわたくしは貴女について来ることができた。……剣を持ち続けます。何があっても、何を奪われたとしても」

 城内の長い道のりを越え、侍女――ソラン=ネーデはひときわ重厚な二枚扉の前で足を止めた。向き直って丁寧に腰を折るが、その奥の緑の目は笑っている。
「謁見の間にございます。これより先わたくしは立ち入ること適いません。ここでひとまず御前を失礼いたします、サリアディート第十皇女殿下」
「――はい」
 二人の近衛が恭しく開いた扉の先には人々に混じって既にアルヴィスの姿が、そしてその奥――最も高い場所にエミラティアの視線を否応にも引きつける存在がいる。
 一言で表現するならば『つめたさ』。冷めている、冷然、冷ややか。――無慈悲。
 抽象を形にした男が悠然と玉座に身をゆだねている。ディオス=アルゼルカイン=フォン=エスティカリア。
 歴代の皇帝が築き上げた国土を、己が一代で倍以上に拡大なさしめた――エスティカリアを有史上稀に見る大帝国に伸し上げた非情の皇帝である。また己が国土に与えることを何事も惜しまなかった賢帝でも、ある。
 大陸の覇者を目撃したエミラティアの背筋は伸びた。そしてそれ以上の高揚した何かに心を突き動かされ一歩踏み出し、訳も分からぬままに彼女は笑んでいた。(へつら)いではない。一拍をおいて、城特有の時が積み重なった空気と絶対的強者が発する張り詰めた空間に足を踏み入れる。
 儀礼通り衣装の裾をさばき、膝を着き、その場で深く――深く礼を取る。
「お初におめもじかかります。私はサリアディート皇国が第十番目皇女、エミラティア=リーズ=サリアディートでございます。この度の恐れ多くも雷名が天下に轟くエスティカリア皇帝陛下のご尊顔拝謁叶う本日を、心待ちにしておりました」
 顔を上げる許可は下りない。エミラティアは微動だにしない。
 白く、何もかもが凍りついた冬の大瀑布を思わせる空気を震わせたのは、衣擦れだった。動かない皇女へ大理石に反響する乾いた足音が一歩、また一歩と近づいてくる。気配が重い。頭上に落ちる影すら重さを持つようで。
 ミュヒレイザが発する痛いほどの緊張の波が遮断された。本人の意思によるものかそうでないか、彼女には判断がつかない。
 指先に顎をすくわれ圧倒的に薄い蒼が無為にアイスグレイを射抜いた。皇帝の重い剣が衣服に鳴り、肩から落ちる冴える色のゆるい束ね髪がラティの頬をくすぐる。
 ひどく見覚えのある顔だと思った。
「ふむ……図太さばかりの十人並みに見える。――アルヴィス」
「はい」
 長衣の裾を翻し(きびす)を返したディオスは、己が世継ぎを睥睨する。
「帝国に説明できる、これでなくてはならん理屈はあるか?」
「彼女は私が探し出しました。十分な理屈です」
 当たり前として紡ぎ出された短い返答に、ディオスは表情をアルヴィスそっくりにほころばせ、「ならばお前の勝手にしろ」溶けるように凍てついた。戻る。
「御意に」
 帝国皇太子は胸に手を当て一礼する。
 ラティはこの茶番を受け止めかねていた。
 いかにも帝国然としていると感じられた以外に、膨大な質量を持つ虚無じみたものが空洞に過ぎる衝撃があった。ひどく見覚えのある、知っている。けれども真逆を行く場。
 同じだ。驚きに値するほどに。齢を重ねているかそうでないかの違いしかない。
 ディオスは既に素知らぬ様子で武官や側近を伴い沈黙の退に着き、異国の皇女に手を振るう。
「忘れていた『許す』。――俺も暇ではない、下がれ」
「畏まりました。後は私が引き受けます」
 柔和なままに一礼する太子を顧みることなく皇帝は退室した。

 許しを得て顔を上げたエミラティアは、緩慢に姿勢を正しながら偉丈夫と呼ぶに相応しい背中を見送る。わらわらとアルヴィスの周囲に人が群がって溶け始めた空気の中、
「エミラティア様」
 ミュヒレイザの声に促されて見やれば、その隣に立つ老爺が目じりの皺を暖かく深めた。乾いた手を伸べる。
「ご遠慮なさらずどうぞこの爺の手をお使いくだされ妃殿下。悪くない――よろしい出来でございましたぞ。私は帝国侯爵位を預かりますセルディアス=ルド=ユィーマンと申す者。以後お見知りおきを」
 はいと憑き物の落ちた顔で表情を崩せば笑みが返ってくる。
「ご丁寧にありがとうございますセルディアス様。悪くないとは我が身に法外な評価、痛み入ります。四日間の馬車の旅と同じほどに、今のたった数分の出来事はこの身にこたえました」
 出会いの印象がどうとかそういう話ですらなかった。多分にしてどれほど格好の良いことをやってみたとしても歯牙にもかけられていない。逆も然り。聞くことを必要とされていないからだ。あの場でエミラティアは個体ですらなかった。
 ――生き難きはどこでも。それでも。
 刻みなおして、
「ラティ。こちらへおいで」
 今しがた婚約者から夫へと変わった男の呼ばわる声に「はい」と返事した。

  ◇ ◇ ◇

 「じゃあ覚えてね」と軽々しく言い渡された言葉は浅く多岐に及んだものの、肝心の後宮事情が――当人の悪意だとしか思えないほど巧妙に、すっぽりと抜け落ちていることに気がついたのは奇しくもそこへ向かおうとしている最中のことだった。
 実を言えばエミラティアは後宮という場所をよく知らない。
 サリアディートのそれが参考になるだろうかと呼び起こしてみたものの、ひたすら陰湿な場所であるというのが三秒足らずで結論となってしまった。これはいけない、と思う。
 陰湿なら陰湿なりにやり方というものがある、それを知らない。なおかつ前提条件からすでに偏見もいい場所にある。
「……ミュヒ」
「どういたしましたか?」
「後宮とはどういうところなのですか?」
 先導役を除いて、主従の空気が微妙に硬化する。
「皇妃や妾の生活空間ですが……いえ、申し訳ありません。わたくしは武人ですのでお役に立てる知識の持ち合わせがない」
「ありがとうございます。……何もかも期待するのはいけませんね。しかし人が暮らしている場所には変わりないのですから、その心積もりでいることにします。仲良くできれば越したことはないのですが」
「仲良く、ですか……」
 怪訝な様子のミュヒレイザであったが、エミラティアとしては人が居ればそれでよかった。人は人だ。アルヴィスに好意を持っている女性が居ればなおのこと、単純に人質生活を謳歌できる。動きやすくなる。
 しかしエミラティアは読み誤っていた。恐らく何もかもを。

 皇太子の妾は現在総勢八。皇帝のそれとはまったく領分が異なるらしく、ソランによって引き合わされた八名が全てだった。
 紅い衣装が目にまばゆい長身の美女はアン=ディーガと名乗った。
「貴女が噂の皇太子妃殿下でいらっしゃるのですね。まあ……かわいらしいのですね」
 面会者は拍子抜けするほど好意的で、それはアンばかりではなく妾たちには一様に敵意を見出すことができない。
 いっそ不気味なほどに。
「そんな、とんでもありませんよ。どうぞおかまいなく……」
 困り顔のエミラティアに「まあ」とアンは頬に手を当て憂いを顔中に広げる。
「……可哀想。いやだ、なんだか本当にそう思えてきたわ」
 一体なにがですかと、ラティは果てしなく困惑した。
「あんなのと夫婦におなりなるのでしょう? 確かに見ている分には極楽だけど――」
 あんなの呼ばわりされている帝国皇太子。薄皮一枚に騙されている人間がこの界隈にはいないらしい――喜ばしいことだとラティは好意を持つ。
「いえいえ、私たち、仮面夫婦ですから――あなた方の生活を騒がせるつもりは指先ほども神とあなた方と私に誓ってありませんよ。どうぞ今までと同じよう、平穏にすごして下さい」
「そんな……! これまでと同じ生活なんてとんでもありませんわっ」
「? しかし……」
 妾たちは各々感謝の言葉と笑顔を唇に乗せる。
「貴女のおかげであたしたちは、ようやく邦に帰れます。この日を皆、ずっと楽しみにしていました!」
 皇女殿下の笑顔が凍った。

 私は国の平穏のためにここへ来ました。わたくしも左に同じです。あたしは一族の存続のために。和平の証として。当主の出世のために。右に同じく。ご機嫌取りのために。生まれた時からそういうことになっていて。

 悲壮な境遇を晴れ晴れと口にする彼女らは本当にうれしそうで、エミラティアに口を挟ませる隙はない。
「なんでも現皇帝陛下からの習慣で、正妻を娶ると相手国に礼儀を払って妾を全て帰してしまうことになっているらしいのです」
「わたくしも初めからそのつもりでここにまいりましたが、思った以上に数年とは長い物です。しかも殿下はああいう方ですからなかなか正妃をお決めにならないし……。――やきもきと、ずっと今日を待っておりました……本当です」
「……そうですか」
 道理で事前に何も言わないはずだと打ちひしがれ沈みこむ気持ちを、涙を呑んでひたすらに耐える。とても「帰らないで下さい。見捨てないで下さい」と言える状況ではない。彼女らは心からこの状況を喜んでいる。
「あたしたちももっと早く出て行ってよかったのですけど、せめて貴女のお顔を拝見してからにしようということになりまして。しかし、その――」
「いいえ、もう何もおっしゃる必要はありませんよ……」
「ほら、アン言ったじゃない。やっぱり嫌味よこの状況」
「でも八人も居たのに『そして誰も居なくなった』じゃ、余計にあんまりじゃない。あたしなら薄気味悪いわ」
 そして誰も居なくなった。確かにここで連続猟奇殺人でも起こったのだろうかと疑りたくもなる。
「その、殿下もうっかり恋をしそうになるくらいには、顔がいいのですけれどね。ご本人と長く知り合ってみると、顔の良さだけではどうにもならない現実がそこにあると申しますか……」
「そうです妃殿下、顔がいい事実だけは動かしようがないのですから、そのように気をお落としにならないで下さいまし……。良い所がない訳ではないのですから」
「……金色のストリスクなんて言われてるからどんな男なのかと思えば、本当に顔だけはいいのよねえ。私、その違いにここに来た初めの一週間くらいは見蕩れちゃったもの。やだ、初々しいわ」
 他愛のない陰口はやがて夜伽の――猥談に発展していく。
 静かに顔色を青くしたミュヒレイザは主の柔らかな横顔を見やった。皇太子妃世話役を一任されたソラン=ネーデが茶器を並べる。

 陰湿どころか竹を割ったようにすがすがしい後宮は、エミラティア=リーズ=エスティカリア来訪一日目にしてまさしく清々しくなった――なってしまった。いがみ合うどころか、いがみ合える人間がきれいさっぱりと居ない。ギスギスのしようがない。アルヴィスが教えなかったはずだと思う。
 重ね重ね礼を述べて辞去した妾たちは、午後になる前にはおおむねその姿を消してしまった。ラティは与えられた真新しい一室でおとなしく疲れた身体をなぐさめる。
「とても気持ちのいい人たちでしたね。すっかり静かになってしまって、なんだか少し寂しくなりました」
「……わたくしはどことなく安堵しておりますが……」
「ミュヒはそう思いますか? 確かに考えようによっては揉め事が一切なくなりましたから、長い目で見ればそうなのかもしれませんね」
「……」
「ああ、そうでした。アンさんたちのお話でまるで分からない所があって、あなたに聞こうと――『いけるけど、あれがないから物足りない』って何のことか分かりますか?」
「………その、子供がいない……と。そういうこと、ではないかと……」
「アルヴィスさんの子供が欲しいのですか? アンさんたちが?」
 不思議そのものの顔でこちらを見られてもとても困るのです、とはとても言えず。
「……申し訳ありません、わたくしには貴女のお役に立てる知識の持ち合わせがないようです」
 やはりミュヒレイザは彼女らが居なくなったことに安堵を覚えるのであった。
 新しく紅茶を淹れ直すソランが声を上げて笑う。
「ともかくも、殿下の人柄がすこーし分かる場所ですよねえ。同じ女として恥ずかしくなるような女性はいなかったでしょう? 例え顔だけでも、その顔についてる目には人を見る目があるのかもしれませんねえ。ねえミュヒレイザ様?」
 そしてかつて彼女を謀った人物と、こうして共に生活をする奇縁もまた、覚えずには居られない。

  ◇ ◇ ◇

 ――この若様はどうするのだろうか。
 主は不在の間に溜まりきった決済審査待ちの書類を捌いている。数行を読み――この時点で話にならないものは即投げ捨て、それなりに形となっているものを部下に回し、そうして彼らが合格ラインを出したものを――百あったものが十ほどに減って、初めてアルヴィスがじっくりと目を通して審議するのだ。それはイェインが宮仕え始めた頃から何一つ変わらない作業であったが、どの書類も似たようなものに思える彼にとってはなかなかに浅薄な通過の儀式として目に映る。
 帝都巡回を早めに切り上げて執務室に顔を出したイェインに声がかかった。
「いい所に来たねイェイン、紙で鳥でも作ってこの山をどこかに飛ばすんだ。よく飛んだ優秀なやつから回収して私に渡して欲しい、最優先で見るよ」
「……」
「殿下、戯言はおやめ下さい。紙の山も一月かかってここまで育ったのですから」
 不服気に怜悧な側近が声を上げる。
「それも仕事だ。――分かった。緊急度と体系別に分けることはできているから、各々の内容をさらに絞り込んでくれ。私が許す。……なんだこの『ギルドにおける組織体系のあり方について抜本的見直しの請願』って、そんなもの国府の知ったことか」
 投げる。
「風で紛れたのではないですか? ――承知。どのみち通常業務に戻るには一週間はかかる見通しです、お急ぎ下さい」
「急ぐとも。ついでにお前たちが馬車馬のように働けばその半分で終わるさ。平和な紙切れを相手にしていられるのもあと少しのようだしね。……過ぎ行く時間は大切にしなければ」
 目を通しながら羽ペンをインクに浸して、裁可の証として名を記す。判を押す。次を手に取る。流れのような動きを止めずに口だけを動かす。
 書類の束を抱えた側近は当然のように頷き、
「馬になるのは御免被りますが、左様でございますね。もう少しこちらが落ち着いているときに造反すればよいものを――まったく連中も気が利かない。とは言え本格的な粛清は越冬してからになりましょう」
 イェインは思う。
 ――この若様はどうするのだろうか。
 アルヴィスもまた当然のように笑って、
「春か。――良い記憶のあった(ためし)がないな」
 思うのだ。
 ――あのお姫様はどうするのだろうか、と。

  ◇ ◇ ◇

 ――さすがの彼も仕事に一区切りつけた頃だろうか。
 深夜、煌々と燃料を消費して灯りを得るラティは書き付けの手を止めた。下町暮らしではまずできなかった贅沢さである。地形図を含む書籍を重ね、机の端に追いやって文具を片付ける。足元の裁縫箱と繕い途中の外套を手に取った。寒い場所に『お嫁』に行くのだからと元職場から貰い受けた代物だった。真実を伝えたのはカーディスの面々のみだ。
 完成はしていない。針を手に繕い物を始める。

 ――さすがに今夜はもう寝ているだろう。寝ていると、いい。
 深夜、薄暗い殿廊を進みながらアルヴィスは後宮に足を踏み入れる。静まり返った場所に何となく違和感を覚えて笑い、すぐに細くこぼれる光に気が付いた。歩みを速める。
 透かし彫りの扉を開いて、アルヴィスは呆れたよう光の先へ肩をすくめた。ほのかな色の目がこちらを向く。
「こんばんは」
 針を動かす手を止めてエミラティアは、ふと笑みの調子を変える。
「いえ――お帰りなさい、ですね。遅くまでお疲れ様です」
「君もね。まったく、疲れてるだろうにどうして寝てないのかな?」
 手近な場所にある椅子を持って傍に置き、剣を外しながら腰をかける。傍らにある夜着に上着を重ねただけの姿は漠然とした頼りなさを感じた。
「何となく、あなたが来るのではないかと思ったので待っていました」
「へえ。まあ新婚初夜だし、ね」
 足を組んで小さく笑う。
「後宮の方々に会いましたよ。邦に帰れると喜んでいらっしゃいました。――私は、あなたを少しは信用してもいいのでしょうか」
「少しは?」
「ええ、少しは。この国の中枢を間近に見て思いました、あなたは存外まともなのではないかと。……やはりおかしいですね」
 立ち上がり背中を見せたラティは片付けに入る。「あなたは本当に思ったとおり、手順を誤らない人です」
「手順くらい正しく踏めなきゃ施政者としていい所がないじゃないか」
「あなたにはそうなのかもしれません。けれど裁縫には臨機応変さを求められる事の方がずっと多いものですから、その正しさが私には『くらい』と言うには難しい――とても」
 裁縫道具一式を机に乗せて、穏やかに向き直る。
 アルヴィスは目を細め、
「私は君こそ呆れるほど平静で、呆れるほど表情が変わらないと思うけどね。深夜に敵陣で男と二人きりだよ、もう少し頬を染めて緊張とかしてくれてもいいのに」
「狼狽することに価値が見出せませんが……」
「傷つくなあ、私が喜ぶのに。しかし――まったくだ」
 伸びをして勢い立ち上がった。剣を手にすることは忘れない。
「ここで寝ていきたいと言ったら、君は怒るんだろうな」
「フライパンの出番ですか?」
「いいや、今夜の所はしまっておきなさい。――仕事が立て込んでてね、一週間はまともに顔を合わせることもできないと思う。それだけ言いに来たんだ、じゃあね」
 手を振って扉に向かえば、背中に視線を感じた。
「何かな? 泊まっていってもいいの?」
「……いいえ、おやすみなさいアルヴィスさん」
 随分と暖かな響きの言葉に再度ほほ笑んで、思い出したよう歩み寄る。捕縛対象が後ずさろうとする前に腕と頭を捉えて、頬に口づけた。
「ああ静かに。ラティおやすみ。夢を見ないといいね」

 夜の静けさに夢を捨てて、けれども朝が来ることを忘れてはいけない。