もしも――
それでも――
なんと価値のない

―エスティカリア帝国―
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私の名をジェイディストレイと言う。無駄に仰々しい名だが実際、我が主は私をジェイと呼ぶしその名で呼ぶ者は皆無と言っていい。ゆえに君もこの名を覚える必要はないと思われるのだが。
「ジェイディストレイあなたはとても優秀ですね。……ここで、待っていてはくれませんか?」
律儀に呼びかけ覗き込むのは、眉を下げる――いかにも困ったという顔をした娘だった。先ごろ我が主の妻となった私の監視対象である。
「お願いです。あなたと居るととても目立ってしまうのですよ。あなたを放ってどこかに行くのは忍びありませんし……」
君に私の追跡を退ける力などない。おとなしくしていればいいのだ。
「あなたはとても可愛いですから、ジェイディストレイ。ね?」
……。
私は主の忠実なる従属――下僕である。
◇ ◇ ◇
初めての謁見が間近に迫っている。
細い金髪を細い指で掻き、見よう見まねの舌打ちをする。再度、城の樹木林をぐるりと見渡した彼はその柔らかい癖毛の娘を発見できた時、心の底から安堵の息をついた。木陰の下なにやら不審気な様子で幹に向かって、膝を突き合わせている娘の身なりや物腰は落ち着いている。顔立ちからしても十中八九、城勤めの女中か何かだと判断する。
偉大なる皇帝の城は、最大限に開かれた城なのだ。
「そこの女、ここで何をしている」
向けられた瞳には雲がかった空の色が潜んでいた。穏やかな眼差しは一切のやましさを含んでおらず、初見で彼女を不審だと思った彼は既に消えていた。会釈する娘は立ち上がる。
「こんにちは」
「む。で、お前はここで何をしているのだ? 勤めはどうした?」
己の恥を積極的にさらす気にはなれない。回りくどいとは思うものの、彼はこの女を城に帰さなければならなかった。
「今は特に何も。少し、道を探していました」
一気に脱力して溜息をつく。
「……。お前も、僕と同じか……」
道を探していた、つまり迷っていた。そう言われれば穏やかと言うよりは田舎臭いと言えなくもない。
「……帝都に来てすぐなのか?」
「三日前になりますね。――あなたはここに詳しいのですか?」
三日前! 話にならなかった。
「私は右も左も分からないものですから、少し城内を探検していました。とても広くて複雑ですね。わくわくします」
お前は僕かと、うろんな横目で見やる。女は理屈不明の笑顔を浮かべ、一つ頷いた。
「よろしければご一緒しませんか?」
「?」
「あちらの方に、皇帝陛下のいらっしゃる建物があるらしいのです。けれど私一人で行くには所在ありませんし……」
「いく!」
文脈を遮るよう言葉に飛びついて、慌てて取り繕うべく腕を組む。胸を張り、
「いいぞ、ついて行ってやる。女、運がいいな!」
「まあ、よかったです。ついて来てくれるのですね」
幼い線の頬を上気させて、彼は駆け寄り腰元にすがり付いた――否、身長差の都合上そのように見えるだけであり、目的は寄り添うことにある。手を引く。
「そうと決まれば急ぐぞ。僕は暇じゃないんだ」
「それは大変ですね、じゃあ少し近道して行きましょうか。今日の成果でこの辺りには詳しくなりました。――こちらですよ」
女が足を踏み出せば一頭の獣が追従する。先ほど彼女が膝を突き合わせていた相手だ。賢そうな顔つきの垂れ耳の犬。二本足で立ち上がろうものなら、きっと彼よりも背が高い。
「おい、なんだこの犬は?」
「ジェイディストレイと言います。可愛いでしょう」
「ふうん、大きいな。じゃあお前は?」
高い位置にある和らぐ顔を見上げる。女はにこりと瞬き、
「ラティです」
まっすぐに見上げたことを後悔して、根負けし顔を逸らす。恥の一部を晒すことにする。
「……フィオだ」
「ではフィオさん。行きましょうか」
笑みと前屈みとなった女の手が差し出される。
草木を分け入り、花壇を飛び越え、壁を乗り越え、洗濯物を横切り――駆け抜ける。
女は犬を連れてそれをドレス(とかろうじで呼べるほどの代物であるが)でこなしたのだから、中々の運動量と言えた。道なき道を行くこと数分。近衛や軍人のたむろする区域まで来た頃には彼の息はすっかり上がっていた。「つきましたよフィオさん」つないだ手を離す。
「急ぎました、大丈夫ですか? 間に合いますか?」
「大、丈夫だ」
「偉いですね。あ、いえジェイディストレイが、ですよ」
何とか息をついてフィオは犬を見やり、同行者を見上げる。
「礼を……言う。お前は平気か……?」
「はい。ご丁寧にどういたしまして」
穏やかさは一層膨らみ、目元が和やかだった。伸ばされた指先が彼の肩に乗る木の葉を拾い上げる。
「私はこれ以上立ち入ることができません。短い間ですが、これでお別れですね」
「そうだな」
彼がその手を握り取っていたのは、流れた時間が思いのほか楽しかったためかもしれない。摘まれた木の葉が離され落下していくことに、一抹の寂しさを感じたためかもしれない。
突然子供に引っ張られてつんのめり、ラティは驚き顔を上げる。
「びっくりしました。……どうしましたか?」
「む、ここで会ったのも何かの縁というやつなのだろう。ラティ、いざとなればジスティック辺境領を訪ねてくるがいい。僕が世話をしてやる、安心して頼れ!」
娘は笑っている。ゆったりと少年の手に手を重ねて、
「そうですね。また会えたその時は、よろしくお願いします」
「うそじゃないぞっ」
「はい、嘘だとは思いませんよフィオさん」
「本当なんだからな!」
三回念を押して、歳若い執事が駆けつけた時には既に、ラティは立ち去っていた。
フィリオール=ロア=アジスティック=エスティ――皇帝親族エスティ家長子は「遅いぞ」と腰に手を当てる。
「坊ちゃま! まったくどこまで出かけられていたのです。レイモンド様がご心配なさっておいでですよ」
「坊ちゃまと呼ぶな」
「坊ちゃま。初めての登城をお楽しみなさっていたことは存じておりますが、貴方は方向感覚にいささか乏しいのですからむやみに散策などなさらないでいただきたい。お時間ぎりぎりです」
あさっての方向を見ているフィリオールの耳を掴み、こちらを向かせる。
「痛いぞシザック! 不敬だ」
「わたくしは旦那様から、貴方への教育的指導のお許しを頂いておりますゆえ。さあ行きますよ」
<坊ちゃま>を引きずっていく。
「しかしよくお時間までにお戻りいただけましたね。どなたにご迷惑をおかけしてきたのですか? 我々も散々お探し申し上げましたのに」
「知らない」
怪訝な顔で見下ろす。
「名前――愛称以外知らん。お前と違って親切な、虫も殺せなさそうな顔をしたラティと言う女中の世話になった。そうだ、ふわふわした髪のそんな女が辺境領に来たら世話をしてやるんだぞ! 約束したからな」
「何をなさっているのですか……。あまり勝手なことばかりしていると大きくなれませんよ」
やれやれと首を振れば、子供は案の定とてもよく騒いだ。
◇ ◇ ◇
昼下がり。
「お戻りならない」
お約束いただいた時間になっているのに、と女剣士が室内を歩き回る姿に呆れ顔のソランは二段重ねの皿へ視線をさ迷わせる。生ハムを挟んだサンドイッチにスコーン、リンゴのタルト、アーモンドを使った焼き菓子、チョコレート、果物――そうそうたる顔ぶれの中から焼き菓子を選び取り、ほお張る。つまみ食いとは得てして美味なものである。
「大丈夫よ。優秀な護衛がついてるし、あの方を殺して利を得ることが今はまだ何もないじゃなーい。あ、これおいしー」
「しかし所詮は狩猟犬でしかないだろう」
二つ目はリンゴのタルトにする。
「じゃあ探しに行けばいいんじゃない?」
軽薄な物言いにミュヒレイザは眉根を寄せ、腕を組み指先で二の腕を叩く。ソランの差し出すタルトに首を左右に振ってから、柄に手を置いた。
「行く」
「やだ食べないの? おいしいのに」
「そうですね、いい匂いがします。茶葉はダージリンですか?」
割り込んだ声より先に犬が入室する。垂れ耳犬はてってと歩いて受け皿の水を二口ほど舐め、隅の定位置に腰を据えた。日の射す石段を登り姿見せた主人に、出迎える者は表情を崩す。
「ごめんなさいミュヒ、ソランさん。予定より遅くなりました」
「お戻りになられましたか、ご心配いたしました」
「散策中にエスティ辺境伯のご子息が迷子になっている、と小耳に挟んだので探してお送りしてきたのです。ジェイディストレイのお手柄ですよ」笑み交じりに言う「あの方の血縁にしてはとても良い子でした。そっくりの金髪で、私をお屋敷で雇ってくれると言ってくれましたよ。いざと言う時の就職先ですね」
「貴女がそのようなことをなさる必要はありませんが……しかし辺境伯とは大物ですね。――お召しかえの準備はあちらに」
「そうですね、やはりこの姿のままでいるのは駄目でしょうね」
スカートの裾を引き上げる。
帝国皇太子妃が毛織物の衣服を身に纏っているのは少々問題である。何事にも見栄えというものがあるものだ。
「じゃああたしは、お茶を淹れておきますからね」
魅力的な提案に頷いて、衣服から衣装へ改めるため主従は奥に下がる。身体の物理法則にしたがって、貴族のドレスを一人で脱着することは不可能への挑戦である。
ファウンデーション(ファーズィンゲールおよびコルセット)を身につけ親のかたきのようにウェストを絞り上げ、絹の衣装を幾重にも着込む。その程なくした頃であった。
「……舐めた真似をしてくれる」
どす低い声が空気の分子を轟かせたのは。
顔を見交わした二人――主にラティがあたふたと戻ってみれば、形相を一変させたソランがそこにいた。侍女姿の女はなぜか皮手袋をはめており、その手で摘んだ半欠けの(断面は刃物で切ったのか真っ直ぐである)苺ジャム入りチョコレートを、口元だけの笑みで睨み据えている。
「ど、どうしましたか? チョコレートに何かされたのですか?」
そんな馬鹿な、はラティである。
「妃殿下、そこのお菓子食べちゃあ駄目ですよ」
「はい?」
つかつかと歩み寄り、甘い芳香を放つその裏側を眼差しにかざす。茶色い滑らかな表面に小さな一点――まさしく針先ほどの穴がぽつりとあいている。女剣士が息を詰め、たちまちの内に剣呑な空気を帯びた。
「これはね、三流がやる、とてもとても分かりやすい薬物の注入痕ですよ」
欠けたチョコレートに穿った小さな空間、その中に存在する極小の内容物をとろりと揺する。白い斑の床に赤い染みが落ちた。
ソランの緑の目が爛々と輝いていた。「シアン化合物」
「――通俗的に言うならば毒劇物、ですね」
「いいえ猛、毒です。さーてどちらからの悪意ある贈り物でしょうか、これっぽっちでは服用しても死にはしませんけどね。あたしがいますから」
「……貴様」
震える声と抜剣の気配を睥睨し、女は次瞬、酷く楽しげに声を上げて笑った。
「キミ、あたしを誰だと思っておいでなのかな。あたしね、裏側では『千人切り』の名に劣らぬほど有名な毒物の使い手なのよ。ソラン=ネーデなのよ」
「あの、ソランさん?」
困惑した呼びかけを受けるかのように、柔らかく溶け始めた菓子を握りつぶす。
イェインがアルヴィスに仕えた始めた時には、雨あられの頻度で起っていた暗殺事項が曲がりなりともあられ程度にはなりを潜めたと言う。その事実と現状の溝が彼女のプライドに抵触した。
「このお菓子ともども全部一式、あたしが用意したんです。このあ、た、し、が! 勝負を挑もうと言うのかしらねぇ……なんて身の程知らずにいまいましい……!」
「あの、ソランさん……?」
自称毒物のエキスパートであるソランの指示により騒動の片付けが行われ、事態は公にせずアルヴィスにのみ内々に伝えられることとなった。こちらはエミラティアの提案である。
慎重な手つきでポットへ湯を注ぎ、蓋をして蒸らす。
「えーっと恐らくご察し通り、あたしの前身は可憐な暗殺者です。ちなみに薬物調合に超一流なので、得物はもっぱら毒劇物でどうぞよろしく。もちろん暗殺も毒で行います、それにともなって解毒も得意です」
ミュヒの頬が引きつる。
「なぜここで侍女などしている」
「それはもちろん殿下に雇われたからね。そもそもあたし、暗殺依頼で城に来たんですけどね、殺すには惜しいほど格好良かったからしばらく様子見てて……。そしたらあの、イェイン=ターナスがいたんですよっ。あの!」
頬を染めたかと思えば興奮し、書物に登場する英雄が実在したかのような口ぶりであった。ラティが首を傾ける。
「イェインさんは有名な剣士なのですか?」
「『千人切り』の『赤毛のイェイン』裏通りで知らない人間いませんよう! 超有名ですとも! もう知ったその場で即、侍女志願しました。憧れの人と同じ職場で働ける幸運! 素晴らしいわ!!」
その場の光景が違和感なく目に浮かぶのはなぜだろう。
およそ半刻前が嘘のように瞳を輝かせるソランに、苦笑する皇太子妃と溜息するその護衛は太子付き密偵を送り出し再度席に着く。
とんでもない暗殺者がいたものである。雇うアルヴィスもアルヴィスである。
さらにあの人のよさそうな剣士が裏側の出で、なおかつ千人殺した経歴を持つという情報にいたっては扱いにすら困る。(誇張もあるだろうが)とんでもない部下もいたものである。
「その話どこまで信じていい?」
「どこも、信じたい場所を信じてればいいのよー。――ね、妃殿下。若ってば心広いでしょう? 気が向いたら優しくしてあげて下さいね。あたしお給料分の仕事はしますから、今後一切お食事に関して憂慮の必要はありませんよ。殿下ってばナイス雇用! お給料に懸けて曲者は断固阻止します、めためたに」
心機一転、真新しい華奢な陶器に湯気立ち上る紅茶が揺れてテーブルに置かれる。果たして飲んでもいいものだろうかと頭悩ませる女剣士の隣、手に取り口つける人物が居る。
「そこまでしなくて、いいです。ああ、おいしい。今度はミントティーですねあとは……」
「ローズマリーとのオリジナルブレンドです。いけるでしょう? あたしってば調合は得意ですからねっ」
「はい」と笑って、誰に言うでもない様子のラティは独白する。
「しかしソランさんがそういうことならば、やはり警告なのでしょうね。漸進派に暗殺を仕掛ける宮中とは穏やかではありません」
相槌を打つ。湯気を見つめる表情に狼狽が見当たらず目を細めた。
「もったいないことをします……。食べ物をなんだと思っているのでしょう」
「エミラティア様、論点が少し」
注釈を入れるミュヒレイザである。
怒るべき点はそこではない。確実に。
「だってミュヒ、全て捨てられてしまったのですよ。なんて無駄なことをすると憤ることは自然なことです。シレンさんなら烈火のごとく怒りますよ!」
危惧するべきは周囲であって本人ではない。エミラティアを些末事でわずらわせるのは本位ではなかった。少なくともミュヒレイザはそのように考える。ならばこれでいいのだろうとソランに目をやる。
「それで、処遇は」
――料理人の。
女は返答せず、ただ笑うのみ。
耳打ちされた報告にアルヴィスは顔色を変えなかった。執務室で黙々と羽ペンを走らせる手を止めぬまま、一言「首を刎ねろ」
「深度はいかほど」
馴染みの部下へ言葉を続ける。
「最浅。ソランへ最終的に菓子を手渡した者――工作した者、それに繋がる者。現場の者は私に何かしようとするほど愚かではないよ、料理人が居なくなるのも困る」
「は。畏まりました」
黙礼した密偵が消え、執務室に紙を繰る静かな音ばかりが満たされた。ややあって眼鏡を外したアルヴィスは一通の書状を持ち、会談の席へ向かう。
「お早いお戻りを」
セルディアスの声と共に他数名の視線が背中を刺す。振り返って机の上、紙の束を指差す彼らに軽くうなだれた。
「……善処しないこともない」
「して下さい」
◇ ◇ ◇
ユィーマン老侯爵の報告によれば、彼が海を越えている間になにやら国境で小競り合いが起きたらしいということ。
辺境伯――国境防衛のために設けられた辺境領と呼ばれる地域を統治する高官であり、大公に類する権限を有する者である。
レイモンド=ロア=カルガルト=エスティ。
帝国北の峻険――地図を俯瞰すれば、国境の役割も果たす天然の国防要塞ジスティック山脈の谷間、辺境領を統括し、齢三十六になる彼はその称号を持つ者の中で最も皇帝と近しい血統の持ち主であった。
「つまり、報告すべき事象がないほど現状はまったく膠着していると言っていいでしょう。敵方より目に余る行為はなく、完全に凍りついています」
事の発端は、麓の小川で砂金が見つかったという噂。小川は山脈に繋がっていた。
確信のない利にも人は群がる。治安維持に奮迅する帝国軍人がそれを切った――切ってしまった人間は国外の人間だった。
「そうか、つまらんな」
真実つまらなさそうに飽き飽きした声音に、レイモンドは苦笑する。
「かの国が目障りであることは事実。そして今となっては山脈がわずらわしいのもまた事実。帝都の読み通り、隣民同士の小競り合いで緊張感を高めての開戦――その運びとなる模様です。隊は山越えを考慮して本軍から一万、辺境軍で五千ほどと予想しますが……さて、春にはどれほどとなりましょうか」
室内に発言権を持つ人物は三名。その一人であるアルヴィスは口を開いた。
「それは我が軍に換算して延べ一万五千となる規模の動きが、国境を越えてあちら側で今現在確認されているということですか?」
「仰るとおり。――まだ三月以上もあるのに気の早い連中でしょう?」
「あそこは本陣が国境より離れていますからね、全てが前倒しになっているのでしょう。ならば勝敗は兵站の制圧で簡単に蹴りがつきそうだ。短期決戦が望ましく、持久戦に持ち込めるなら直のことよろしいかと――彼らはジスティックの恩恵に甘え、後者の算段はついていないでしょうから脚本の改ざんが容易い」
上座に頬杖をつく皇帝は無言で頷く。辺境伯に。
「対アガサス王国、因縁の対決というやつですね。ここを沈められればエスティカリアは大陸にこれ以上求められるものがなくなる。そうでしょう義兄上、二世のサリアディートでのご活躍は辺境の土地で聞き及んでおりますよ」
流し見られて微苦笑するアルヴィスは肩をすくめる。
国の勢力は必然、二分するように作られている。急進派――強硬の皇帝は武を担い、漸進派――穏健の皇太子は論を担う。武威と凪ぎ、有体に言うなら鞭と飴。それぞれ演じる役割は違えどその実目的は一つしかない。
「この度のご成婚おめでとうございます」
「これはどうもありがとうございます叔父上」
一礼する。
「皇国との和親、近年では比較的大きな流れですね。貴方が建国の王の名を与えただけはある、と言うところでしょうか」
「興味はない――ところでレイモンド、それはなんだ?」
不意に射すくめられて、辺境伯の傍らに立つフィリオールは薄い蒼の色に背筋を伸ばした。
レイモンドは微笑する。
「私の息子です。今年で八つになりますので連れて参りました、以後お見知りおきを」
皇帝は微笑う。
「辺境を継ぐ者か。つまらぬ血を持って生まれたものだな」
言葉の紡げない子供の代わり強張らぬ顔で頷いて、「全くですね。覇を統べる者の傍でそれを見ていることしかできないのですから、決して」
ディオスは哂う。
「遠路よりご苦労、下がっていいぞ。夜を遊び、よく休んで行け」
「御意」
「お前もだアルヴィス、下がれ」
濃度の異なる同じ蒼の目が交錯する。
「はい。――しかし単純な話、この戦は大陸の覇者が悪役を演じることにもなりかねませんね。役割上一応の諫言をしておきます」
「俺の理屈は変わらない、如何に効率よく殺して配するか。教えたはずだが?」
「それはもちろん存じております。アガサスが難癖をつけることで己が死期を早めていることも、ね。御前を失礼いたします」
効率の良い死。惜しみない支援。侵食する言語と通貨。豊かさ。
アルヴィスは胸に手を当て、朗らかに腰を折る。
よくできた世の中である。
「まったく、よくできた理屈です陛下」
――許しがたいほどに。
背中を見せた彼に地を這う低い笑い声が追いつく。
「そうだな、回避する方法がないわけでもあるまい。今夜の宴を、楽しみにしておこう」
どうする? 歪んだ蒼は問う。
退室した足は違和感を抱えたまま執務室に向かわなかった。硝子のないアーチを描く石組みの窓から空を見上げ、気づいた時には壁を殴るための腕を振り上げていた。押し止まる。
彼の物と誰かの物、そしてもう一人――重なる足音は一つ。
書類と共に利き手の白手袋をはずし投げる。掴み、抜き払う切っ先。
「――残念、後方はさらに逃げられない。相手をしてやろう」
気配ぶれた方向に銀剣をかざし、「……今の私はたいそう気分が悪い」
「だとよ、狼藉者」
どうするもこうするもない。彼は彼の役割を果たすだけだ。
抜かりないセルディアス派遣のイェインに事後処理を任せ、後宮へ足を伸ばしたアルヴィスは「精が出るね」人気のない裏手の廊下でソランを捕まえた。
「あら、若じゃないですか。太陽も高い時から何しに来たんですか? 妃殿下ならいらっしゃいますよ。呼びましょうか」
「息抜きしに来ただけだよ。――報告を」
雇い主をさかりのついた十代のように言う、移動する部下の斜め後ろをついて行く。
女は無人の一室で乾きたてのシーツの山を片付けながら、ようやく口を開いた。
「そーですねえ、眠れてないにしては行動的な方だということでしょうか。お勉強熱心ですよ。ここに来てから城内の散策をしなかった日はありませんし、ジェイを可愛い可愛いと言ってお世話もしてくれますし」
「知っている」
「その成果として辺境伯の息子と接触、さらに貴方を『漸進派』と口にしています。ちなみにこれは今日の出来事ですからね」
布の山は分類され、並べ置かれていく。整然と正しく。
壁にもたれ掛かるやアルヴィスは前髪をかき上げ、柔らかに笑った。
「もうばっちりと、色々ばれてるんじゃないでしょうかね。殿下が行動制限させてくれないせいですよ。あたしのお茶をお気に召していただけたようですから、今夜にでも安眠効果のあるものでもお出ししようかと思っていたところです」
「ほどほどにね、私も君の淹れてくれる紅茶は好きだよ。――未遂の件は」
「ざっと検分したところ膨大な量の中で、細工された菓子が五つほど見つかりました。妃殿下は警告を込んだ挑発と解釈されていましたが――あながち間違いでもないでしょうねえ。ただし貴方への、ですが」
「シアン化合物だって?」
「限りなくそんな気配がする。まだ精密に調査したわけじゃありませんから、殿下に確定と言うのはよしておきましょう」
これですよとポケットから取り出した小瓶。肩を浮かした帯剣するアルヴィスに溶けたチョコレートと苺ジャムを見せ、不意にくつりと笑う。
何が起ってもおかしいとは思わない。
「怖い顔。あたしを処分しますか?」
「私は無駄というものがこの上なく大嫌いだから、八つ当たりはしないよ。……咎人なら殺しはするが処分はしない」
特有のねじれた答えが返ってくる。けれどもやれやれと息をつき、
「それって一聞、あたしの処分はしないって言ってるようにも聞こえますけど、犯人は公的な処分なんか問答無用で、ぶっ殺すって言ってるようにも聞こえるんですけど」
「いやだなあソラン、邪推だよ。最初の方を採用しておきなさい。彼女は中にいるのかな?」
肯定を示して仕事に戻るべく踵を返した。
「若。上着の袖のところ、血、ついていますよ」
◇ ◇ ◇
いつか、リロが犬を飼いたいとせがんだことがあった。
その希望は結局、住処が飲食店ということでシレンの猛攻勢を受け断念することになってしまったのだが。カーディスに宛てた到着の知らせを書きしたためた長い手紙の最後に花を挟む。
言葉に引きずられ表れた、共にすごした三年間を共有する人をなつかしく思ってラティの目はふと垂れ耳犬を探した。
「?」
ジェイディストレイがいない。
「先ほど外へ出て行きましたよ」
剣の手入れを怠らないミュヒレイザは、その手を止めて半開きの扉に顔を向けた。
「アルヴィス殿下がいらしているのではないでしょうか。敷地内に人が増えたような雰囲気がいたしますが」
「そうですか……さすがですね」
笑って窓の外に目をやれば、平穏極まりない緑の庭園が揺れている。造られた見事な穏やかさ。息をつき、背もたれに体を預けてとろとろとまぶたを閉じる。
さても後宮暮らしとは暇を持て余すものである。夜を避けて昼にまどろむことが増えた。
不気味な肉と骨を断つ音と心騒ぐ血の臭いと――鮮やかなまでにいとも簡単に蘇る記憶。時間を追うごとに整合性が失われていく。繰り返されて、見開き諦めの溜息をつく。
緊迫感にも似た切迫感と。
――あれがシレンさんなら? リロ君なら? サシャさんなら? サラさんなら? ロッドさんなら?
選択肢がないこと、強いられること。
冬が差し迫っている。剣を止めるために剣を握らないでいる方法があるのだとすれば、それは今しかない。
史書を紐解けばエスティカリア――カイゼリアはかつて山を挟んでアガサスの一部であり、建国の王が国家として独立させた土地である。およそ一世紀、アガサス王家は忘却することなく今を生きているらしい。
――限りがある限り、できることがある。
『意見』をすり合せる必要がある。
「ミュヒ。船で使っていたチェス盤、どこへしまったでしょうか?」
「ラティ届け物だよ」
腕をまくった男は片手に持つ書状を振ってみせた。予想された人物の声に顔を向け、立ち上がって出迎える。
「お手紙ですか? どちらからでしょう」
その足元に纏わりつくジェイディストレイに両手を差し伸べ呼び寄せて、有能な狩猟犬の額をなでながら、苦笑を浮かべるアルヴィスを見上げる。
「サリアディート――リーガルトからだね。君たち宛てだ」
「ありがとうございます、忙しい中わざわざ……何だか申し訳ないですね。休憩ですか?」受け取って、決意に自然、指先に力が篭った。
「――アルヴィスさん」
声に含みが生まれる。広げられた盤上遊具に視線を投じた彼は全てを了承し、片眉を上げ芝居がかった仕草で肩をすくめる。
「いいよ。一戦交えようかラティ? ――正しく私はそれを認めないだろうから」
“半刻、時間を作ろう”
現在、戦績は五勝四敗一引き分け。船上の勝負、城での勝負。いずれにせよハンデを主張するかのよう男の手が本を手放すことはなかった。非常に腹ただしいのは言うまでもない。
奪われた憤りではなく、失うかもしれない恐怖。
多分にしてアルヴィスは理解しない。同調しない。
先手――エミラティアは白手を動かす。
「人が死ぬのは嫌です。凍え飢えるのは、嫌です。……悲しむのは見たくありません」
本を持たない手が黒手を動かす。
「ふうん? まったく誰に聞いたんだろうねえ。戦争が怖いかい? 人の殺し合いが」
「怖いです、とても。そこでリザさんやシレンさんやリロくん、サシャさん、ロッドさんが死んでしまう。死んだらもう戻せない。誰も。私はそれを許容できない、ずっと後悔する」
「不思議なことを言う、君が大切にしたい人間は死なないよ。対岸の人間だから」
「対岸ではない。人はどこにでもいるではありませんか」
白手。
黒手。
「目を閉じていれば終わっている。すぐに慣れるよ平和な国のお姫様」
「嫌だ嫌だと駄々を捏ねたいのではない。……私に、機会をください」
「君が大切にしたい人間は、和親公約が守ると保障する」
白地に切り込む一手に、きり返す。
「お願いです。この国で生まれたあなたにできなくても、この国に属する私にはできることがある」
青さの増した瞳の色が、エミラティアを別人のように思わせた。
頬杖をついた首をゆるゆると振る。
「ラティ、帝国に楯突くのはよした方がいい。国は突き進む。君へ許しを与える権限が私にあるものか」
「許しが欲しいのではありません。そうではなくて――」
白手。
「エミラティア」
ゆすぶり、誘い込んで取る。アルヴィスの駒運びには無駄がない。
唇をかみ締めるのは悔しさによるものではなかった。心が怖気づいてしまわないように、柔和な顔を見据える。
「あなたが私をここに連れてきたのではないのですか。あなたが私に身体と名前を与えたのではないのですか。――明晰なあなたなら今を予想できたでしょう。そのために連れてきたのでしょう?」
「明晰? それは嫌味かなラティ」
穏やかに哂う作り物じみた顔。
「あなたと私は違う、私は嫌味など言いません」
「私と君が違う。当然すぎるほど、まったく同感だよ。しかし人を殺せぬ肩書きだけでは何もできまい、諦めろ」
むっと眉根を寄せる。
「なぜ、あなたは今になって手の平を返すのです。――壊れられては困る。サリアディートが人と物の流に生かされているのなら、エスティカリアは武と畏怖によって生きている。あなた方は傷を恐れることがないのではなく、既に恐れることができないのではないのですか。それでも、国土が無限に広がり続けることなどできないと知っているから。神ではない。国を持つのは人なのだと、あなたは知っているから」
限りがある。
焼き尽くした火炎は、消失するか飛び移る火種となるしかない。
だからこそ停戦役――寒暖材として立ち回るのではないのか。
「この国には私がいる」
「あなたはとても優秀です。けれども今回のことに、あなたではアガサスと交渉できない。帝国の人間だから」
「殺しを最小限に抑えるために、そのために私がいる。君の手は必要としない」
アルヴィスはクィーンを使ってルークを落とす。
「避けて通れる惨劇ならば、私は避けて通りたい。あなたの秩序を悖ることは決してしない」
極めて劣勢な進行状況であった。迷った末に、キングを逃がす。
「皇帝はそうなることを望んでいるね。君がアガサスの地で死ぬことは、今のこの国にとってとても有意義な死だ」
迷いなく黒駒がそれを追撃する。
頭を悩ませていると肌をなぞる寒々しい気配に顔を上げた。
「私は君を守ると言ったはずだが? 分かるか、君の首が帝都に放り込まれた瞬間大炎上となる。私は泥沼報復戦争の道具とするために、サリアディートくんだりから君を連れてきたわけではないよ」
「……小娘が歴史の流れをどうにかしようというのです、それ相応の代償がなければ嘘ではありませんか」
防御に徹した白手。それを物ともせず――
「自虐的だね。――さあどうしようか。チェックメイト寸前、約束の半刻はもうすぐだ」
「アルヴィスさん。私は浅学ですが、軽んじているわけではない。死はとても恐ろしい。――だからこそ思います。現状は本当に大多数の誰かが望んだことでしょうか。何かきっかけがあらば止まることができるのではありませんか」
駒を掴み、膝の上で拳を握る。
もっと他により良い言葉があるのではないか。我ながら稚拙に宙を噛むようだと思えてならない。いや、そもそも説得する必要もないはずで――しかし理不尽かつ不思議な舌は言葉を留めおかない。
「切り刻まれる以外の選択肢がないのならこれを是正したい。それはとても悲しい。ただの私にはできずとも、豪奢に染まった私の生まれと所属は可能性でしかないのだから」
「狼の威を借りて、食われることを望むのか。人身御供のようだな」
蒼は純度の高い疑問符のみを浮かべていた。
「わたくしがおります」
不服気な介入者――鞘ごと剣を外し置き、ミュヒレイザは静かに膝を折る。
「お話中失礼いたします。しかし――その御手がお望みになる物を掴み、その眼差しがほほ笑まれるものを守ることがわたくしの剣たりえるもの。聞き過ごすことはできません。皇太子妃殿下のお命、この剣と誇りを賭して必ず貴方の下へお返しすることを誓います。エミラティア様に枷はない」
「ラティ?」
「望みます」口の中で悔恨と羨望の音を転がす。
一手。
時に恐ろしいほど流れを変えることがある。女剣士の助勢を受けて急に迫った一戦を脱するために盤面上を思索する。
「王駒が取られてならぬ理屈が私には適応されない。私は無為、私は公約の半券。透明で些少な私の肉体的価値などそれだけのもの……ゆえに無茶がききます。私は知りたい、見たくない。それには、声の聞こえぬこの場では余りにも遠いのです。――行きたい」
雨のような沈黙が降りる。沈黙とは重要なものだ――そう思えるのはなぜだろう。
あるいは言葉にするから何もかも安くなってしまうのだろうか。使い古され、磨耗していくのだろうか。
「白、g3のナイトをf3へ」
怪訝に眼差しを向ければ、唇を結んだアルヴィスが曖昧な顔でこちらを見ていた。腹の上で交互に組み合わされた指――人差し指にぴらぴらと促され、戸惑った末言われた通りに白手を動かす。
間髪の入らぬ黒の返手。
「同ナイトで黒e5のポーンを取って」
指が止まる。
盤面が、開けている。
「あなた……」
「皇帝の意思は国の意思。どの道受け入れるしかないのだから、覚悟は僥倖となりえるかもしれない……。試されることを恐れないその無謀と、節度ある傲慢で君の生きるべき色を掴み取っておいで。生きて、帰っておいで」
じわじわと膨らむ感情の四を、選別しきれない。
「私は手出しを禁じられるだろう。君が望み、また宣旨が下されてしまえば手の出しようもなくなるだろう。太子の名において命じる――殺しが嫌だと言うのなら、何を失ってもアガサスから命だけは持ち帰りなさい。いいね」
「はい」頷き、眉尻の下がった頬の上がった顔で、その人に問う。
「アルヴィスさん。上にあって下にあり、決して動かないものってなんだと思いますか?」
「? ……政治」
――この酷い人が、名を呼ぶから。
ジェイディストレイを見て、ミュヒレイザの変わらぬ顔を見て、アルヴィスの変わらぬ顔を見る。
泣き笑いのような顔になってしまったのは、仕方のないことだ。
「あなたは……本当に、本当に手順を誤らない人です。――とても困りました。この勝負私が預かりますから」
白の王駒を持つ。
「今のなぞなぞは一体何なんだい? 答えはないの? もしかして生殺し?」
「答えはあなたの中にあるのですよ。禅問答な感じで捉えておいて下さい」
「……あのね、ラティ」
◇ ◇ ◇
煌びやかな夜会の席でその柔らかく波打つ髪の娘を発見した時、フィリオールは心の底から驚愕した。思わず一口大の果実を取り落とし、執事シザックに不興を買う。この構図は何か間違っているとしか思えない彼であるが、今は些末事にすぎなかった。
エスティカリアの奇人、帝国皇太子アルヴィス=セルトベルク=フォン=エスティカリアの隣に立ち、大粒の真珠と黄金で彩られた誰よりも豪奢な、地上に広がる幾重にも重なるピンクベージュのドレスを身に纏う者。陽の気を撒き散らすあれは誰だ。
ふわふわとした髪の両サイドのみを緩やかに後ろで結い、真珠と小粒の宝石のいかにも手の込んだ髪飾りで飾るあれは誰だ。
「シザック……あれっ。――あれ!」
「……失礼なことを仰るものではありませんよ坊ちゃま。あの方は先日の条約で皇太子妃殿下となられた、サリアディートの姫君でいらっしゃいます」
「坊ちゃまと呼ぶな。そうじゃないそんなもの僕も知っている。だってお前、あいつ……っ」
「にぎやかな席で教育的指導が必要ですか?」
怖い。
「……『ラティ』っ。僕を道案内してくれた、ほら昼間の女だ!!」
「……やれ、私の息子はどこで何をやっているか分からないねえ。フィオ、なんだって?」
主の声にシザックの表情が半笑いに引きつる。しかしそれは玉座に程近いそこに座る者のみが使用可能な扉が開かれることによって、すぐに改められた。
ワルツを奏でていた楽団が、金管楽器で歓待の旋律を紡ぐ。
宴もたけなわとなり入場を歓迎される者など、国にただ一人以外ありえない。
『偉大なる皇帝陛下に栄光と忠誠を』
誰もが斉唱する祝福の言葉。勿論彼らも例外ではなく、頭を垂れぬ者などありはしない。ありえはしない。
冷然王ディオスは冷やかにそれらを見渡し、己が世継ぎに歩み寄った。
「……さて?」
足音を心得て唯一穏やかに背筋を伸ばした双眸を細めるアルヴィスに、「ラティ」促され顔を上げるエミラティアへ偉丈夫は斜めにかまえる。愉快だと笑みを刻む唇と、対照的な薄い眼差し。
予定されたその全てに、エミラティアはしずしずと礼儀を払う。
「謹んで、お受けいたします」
「エミラティア=リーズ=エスティカリア、我が帝国に歓迎しよう。限りある未来に恩寵あれ!」
決して怒鳴ったわけではない声は、殊更大ホールに良く響いた。
<挑み給え 憐れみ給え 今はまだ色無きもの>
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