その上には
墓場があり
産屋があり
嘘つきがいて、真実を探す者がいる
その紙切れ一枚の上には神のみがあらず
もしも とは かくも素晴らしい響きだろうか!
天を見上げ 求めよ
あるいは私は この素晴らしき神の手の平を探求する者なのだから
(1486・9 海上にて ギート=クライドc)

―エスティカリア帝国―
|
母の表情が、ひかえめに華やいでいたことをよく覚えている。
その人と出会ったのは九歳の秋のことだった。
「ああ君、君は世界が円によってできているとは思わないかね? 海を見ていればおのずと分かる、これは真理だと思わないかね。いや、みなまで言うな。分かっているとも世界は動くのだよ。ああ、ぼくはとんでもないことを知ってしまった……! あのぴかぴか光るヤツはただじっとしているのだよ。世界は動くのだよ! ……ふむ。ところで君は誰だ? 見かけない顔ではないか」
シルドの屋敷――母の書斎、母の籐の揺り椅子で当然のように足を組み、振り向きざまの開口一番まくしたてた、継ぎのあてられた外套に袖を通す齢五十八の老人は、皺だらけの笑顔を浮かべ、明朗に不可解だった。
「ぼくはギート=クライド。セルディ=ド=シルドとは学友であり金蔓という間柄だファイリスの娘。世界は繊細なリネンの織物よりもずっと矛盾しているようで、その実、神の腕は確かだぞ。国の要など所詮は糸紡ぎ、御手には敵うまいよ」
目を丸くする一国の皇女の手によろしくと重ねられた手の平は、緩やかに時代を刻んだ幹のようだった。
最後に会ったのは十三歳の春。
その年の冬、ファイリス=ミラ=シルドの師であるところの老人を乗せた船が、難破した報が舞い込んだ。
ぶ厚い八冊の書籍の塔に埋もれながら、エミラティアは書閣を目指し回廊を歩いていた。視界が狭い。よっこらせと抱えなおしたそれらは、海を越えて持ち込んだ数少ない彼女の持ち物であり、頭に収めきれなかった知識の集合体である。
アルヴィスに与えられた煌びやかなドレスも髪飾りも華奢な靴も、今は必要ではなかった。ソランに借りた濃紺の膝下丈のドレスと黒い靴が、エミラティアを自由に歩きまわらせていた。
手にした幸福は柔らかな毛糸に包みバスケットに入れて、戸棚の奥へしまっておくことにする。
確かめるべきことがある。
ギート=クライド著、『とんでもないことを知ってしまった!』で始まるや否や計算式で埋め尽くされる、頭のねじが緩んだような書きつけの真偽。
今は知ることが何よりも重要だった。
回廊を独りうろうろするお姫様の姿に、イェインは城内の薄情さか彼女の無用心さか――おそらく両方だろう、呆れの溜息をひっそりと落とす。
『見てろ』
――ご注文に姿を隠す制約はない。……ないはずだ。
犬の代役だとしても短すぎる言葉はこういう時に困る。
見てろ対象の本日五度目のたたらを踏んだ後ろ姿に、やれやれと首裏をなでて彼は口を出すことにした。
「そこ、段差がありますよ。足元お気をつけ下さい。一人で何をなさってるんですか」
手も出すことにする。振り返るエミラティアの肩を支える。返ってきた会釈に、必然、揺れる本の塔を慌てて押さえた。
「これはご丁寧に、どうもありがとうございます。――イェインさん、お久しぶりですね。お元気そうでなによりです」
半歩ずらされた返答はどこかの誰かと似た匂いがする。
危なっかしい荷物をエミラティアの腕より取り去れば、彼女の手に土台となって残された一冊があった。日に焼けた皮の表紙をした装丁から察するに、個人の書きつけのようである。彼が手にした本の山にも同様の物が四冊、さらに学術書らしきお堅い空気を放つものが三冊。胸中肩をすくめる。
「大丈夫ですよ。今は、一番安全な時間ですから」
唐突な返答だった。怪訝な様子のイェインに、ラティは困ったように眉根を寄せた。
「皇帝陛下に名を呼んでいただきましたから、役目があります」
図らずも眉根を微動させてしまったのは、差し出された両手のためだけではないだろう。
「イェインさん。その、それらは私に必要なものです。返して下さいますか?」
「……おれは物取りですか。運びますよ、だいたいお付きの人間はどうしたんです」
「ミュヒにはお使いに行ってもらいました。衣服に剣に、手紙――必要なものはたくさんあります」
「剣?」
女剣士は柄まで唐草文様の刻まれた、いかにも見事な銀の得物を腰に帯びていたはずだ。航海中に手合わせしたからよく覚えている。急ごしらえの剣など必要ない。
「ええ、ほんの飾り物に」
このお姫様が持つつもりかと嘆息する。
「――それは、あまり感心できませんね。剣を持つだけで切りかかってくる馬鹿もいる。それが惨めであればあるほど」
「ええ。ただそれは衣服のおまけに漏れなくついてくるものなのですよ」
「……何を着るつもりですか何を」
イェインの知るスカートドレスに、剣は漏れなくついてこない。
人生を幾度繰り返せば、読み尽くすことができるだろう。
夏は涼しく冬は暖かい。良い休憩所だとしか認識しない彼では読み終える時など来るはずがない。
天井画を取り囲むよう屹立する、縦横無尽に広がる本棚に囲まれた円形の室内。そこに続く奥まった閲覧室はどこからともなく細く光が注ぎ、書閣にふさわしい眠気を誘う静寂があった。歩き回る物静かな足音を意識の端で聞きながら片目を開く。黒い瞳に映るものは本の山ばかりで。
ヴィオラスティー=ガルマン著作『そのはて』
『ジーン=クックの世界よもやま話』
『天と地』
『動くべきは』
『セルラ大陸古今東西昔話』
いぶかしむ双眸は何度も瞬く。
童話と論文と――水と油が入り乱れている。ゼルセウス司書の視線を痛いほど浴びながら(女と逢引していると勘違いされているに違いなかった)、頼りない背中を眺めていると追加の二冊と共にエミラティアが席に着く。
『ガウセシア式論述書』
学術書。
『無恥と女王』
――……小説?
装丁がいやに毒々しく、革製品に片寄る高貴な趣味を持った倒錯野郎御用達の春画くさいのは気のせいだと思いたい。
もはや無法地帯である。
よほど困惑がにじみ出ていたのか、ラティは笑って『動くべきは』を手に取る。
伺う顔が彼を向いた。
「イェインさん」
「おれも、本を読みに来たんですよ」
リラックス体勢かつ、紙の切片すら持ってないが。
空の手を『気にせず』の意を込めて振り、
「本を読みに来ました。奇遇ですね」
「そうですか……、――そう、ですね」
苦笑を含んだ穏やかな相槌に、やはりイェインは図らずも眉根を寄せてしまう。
慣れずとも良いことはあるはずだった。
太陽、月が動くように星もまた動く。
天が動くは神の御業――これを意識しなければならないのは、教会の僧と船乗り、暦を司る者であり、誇り高い学者たちである。
すでに時代は大海へ双眸を向けている。未知なる大陸は何処かに存在し、そこには新たな人々が生活を営んでいると信じてやまない目を。
神の奇跡と太陽の絶対を妄信的なまでに信じる教会の者は認めようとしないが、大陸伝いの航海で時間を浪費する船乗りたちは気づいている。
北の一点に決して彼らを惑わさぬ星が存在することを。
早急に精密な星図と羅針盤が、彼らの導き手となる必要を。
そして、海をこよなく愛するギート=クライドの研究の一つに天文学があった。
『余計な世話だ。思うことを知ろうとすることが、何かおかしいかい』
「導入疑問点一致」
『閃くことができても的確に観察する目がなければ、それはただの酔狂だな』
「金星の軌道及び満ち欠けに対するアプローチの一致」
『役立てるための研究なぞしたことがない。友の数人にうまい酒を飲ませてもらえれば十分。船室でいい寝床を譲ってもらえればなお結構』
「一部星図数値一致」
書き付けと書籍を並べ見るエミラティアは、符号を指で追っていく。
「各惑星の公転半径、公転周期への見解一致」
『いいかね―――不便だと思える研究者はとても幸せなことなのだよ』
知ることを躊躇しないその老人に憧れた。恐ろしく透徹した目は何もかもを、エミラティアすら写し取り透察した。
『白いな――しかし濁っている』なんと痛烈な言葉か。
回答を得られる疑問だけで、生きられることほど幸せなこともない。
知ることだけにすべてを注ぎ、生きることができたその人。国主よりも神をよほど尊んだその人。
ふと顔を上げた。呆れた色をした目がこちらを見ていた。
「どうしましたか?」
「いえ。何を唱えてるんですかとか、首が痛くならないですかとか、時間が消し飛んでいるみたいだとかは言いませんが――疲れてはいませんか」
「……甘やかしてくれるのですか。あなたは、あなたは不思議な人ですね。当たり前である以上に私が知る全ての人と違う気がします」
三年過ごした彼女の居場所で、貴族の称号を好む人間は一人たりともいなかった。
あきらかに支給物ではない腰に下げた黒鞘の長剣を見る。酷い違和感と落差を覚えた。紙とインクの匂いに満たされた豪奢な場と柔らかい墨色の双眸に、だ。
人の目を持った、刃を研ぎ澄ました雌伏する狼が、その左手に蛇を飼う。
「なぜ、ここにいるのか聞いても?」
「……ソランか。くだらない話です、賭けをしていて負けた」
「アルヴィスさんですか」
頷く。
「酒場の前が仕事場でした。持ち物を賭けた一対一の鍔迫り合い。勝てば全てを手に入れ、負ければ全てを失う。暮らしには事欠かないだけの稼ぎが十二分に得られました」
ラティは言葉に耳を傾ける。
「つまらない渾名もそこで。そんなこんなでやくざな若の登場です。当時まだ貴女と同じ十代。おれも二十やそこらの若造で、女子供には剣を向けることができなかった」
何とも微妙な沈黙が降りる。
「はあ」
「……」
「ええと」
「ほとんど問答無用で切りかかって来られたんです。カイゼリアにはね、貴女の所の女剣士みたいなのがいくらでもいるんですからね」
困るんですよね、とつぶやいた顔は達観していて。
思い至ってしばし、ラティはぽかんと絶句していたが、やがて限界を超えた。あさっての方向を見ている剣士に背を向け、口元をきつく押さえて肩を震わせる。
つまり、そのなんだ、男装の麗人と見間違えた、と。
「そ……それは大変な、勘違いでしたね。―――ッく」
想像ができて溜まらず声を上げそうになるが、場所を考えてどうにか堪える。イェインは瞠目した。
「ご、ごめんなさい。ふ……っ。あの長い金髪の、素晴らしい相乗効果ですね。分かる気がします。あなたは」
「――今、貴女が年相応に見えました」
口元を広げた書き付けで覆いながら声を殺して笑うエミラティアは、ばつ悪く潤む速度で表情を静止させたが、取り繕う必要はないのだとすぐに相好を崩した。
「イェインさん」
「失礼を。出すぎたことを申し――」
エミラティアは首を振って静かに手の平を結ぶ。
「あなたに確かな鞘があることがよく分かりました。この灰汁の強い城内にあってそれはとても稀有なことなのでしょう。多分に先は長いのですから、また、お話して下さいねイェイン=ターナス」
「ええ、それはもちろん仰せの通りに」
紙一枚を隔てて、けれども偽りのない笑みを通わせる。それ以外にやり方を知らない。
「ここではこれが限界か……」
ラティは全ての本を閉じた。イェインは双眸を開く。
「私はずっと星は美しければいいものだと思っていました」
「はあ……おれも大体そんな感じですが」
独白に対しても律儀に返答する剣士に笑みかける。
海は当たり前のように塩辛いものであり、世界の大きさなど考えたこともない。
『さてな。誰にだって己に与えられるものへ疑問を持つくらいはできるのではないかね? ――馬鹿者が……君はそうして人の目を凝視する』
――ギート=クライド。
確かめるべきは終わった。あなたは正しかった。ならば――。
「イェインさん、殿下の御名を持っていますか?」
手渡された羊皮紙には、走り書きされた文字が刻まれている。
本紙を所持する者に下記の権限を委任する。
秘匿書庫の閲覧、有識者との接見、皇太子執務室の入室。
<帝国皇太子の名において>押印。
「若から貴女に、とお預かりしているものがそれならば」
必要なものが不要なものの中に確かにある。意識して緩慢に苦笑を上らせる。敵わないなと思う。
「調べたいことがあります」
◇ ◇ ◇
『<良い>度胸試しだよ。僭越ながら、どの程度の育ちをなさってきたか知るに手っ取り早い』
ユィーマン侯爵の言葉は信じられないほど分かりやすかった。
だから邪魔をしてはならない、手助けをしてはならない。皇帝の意思と異国の皇女を。
『白と出ればよい手駒として国に置けばいい、黒と出れば筋書きを書くよい墨として使うことができる。どちらに転んでも帝国にとっては使い勝手がよい――ということだ。そう黙るなイェイン』
誰しも顔の裏にひそむ真実がある。
『私の騎士を一人、同行に押し込むことができた。余分な障害は排除できるだろう。お前もいらん手出しをせず、若に従っていることだな』
「イっェイーン!」
人にまぎれ城内の食堂で夕食をとっていると、いつものようにどこからともなく甘い声が聞こえた。男は背筋を強張らせ鶏肉のクリーム煮とパンを抱えると、いそいそと立ち上がる。ダンッ、とテーブル左側に腕が横切った。じゃあ右から行くよと体を反転させれば、交錯するよう酒の満たされた木杯が同じくテーブルに叩きつけられる。
「……なにか?」
いよいよせり上がってくる諦めと、大衆からの好奇の視線に負けて彼は座りなおした。ソランの手首を引く。
「イーちゃん好き!」
「やめろ」
「やだ痺れるわーかっこいいわー。ね、それ飲んでいいわよ。奢る」
「飲んだが最後、気がついたら朝までお前と寝てそうだからいらない」
失礼ねえと言う年齢不詳の女は、細い腕に不似合いな木杯を持ち上げ傾ける。
「薬なんか入ってないわよ。栄養剤よ」
「そうかい」
お決まりのやり取りを交わして、やわらかく煮崩れた肉をそら豆と一緒につつく。拳が丸ごとすっぽり収まる杯の中身を一気に飲み干したソランはしかし、顔色一つ変えずに緑の目を笑みに歪めてすすすと擦り寄った。
「ねえ、イェイン。それでどうだったのよ。何を話したのよ」
「誰と」
「だってね、あたし頼まれたのよ。『服を貸してくれませんか』って、これって一人で行きたいってことでしょう。二人きりになりたいってことでしょう」
答えになっていない答えに、濃紺の侍女服を着たお姫様を思い出したイェインは軽くため息をついた。
「……本当に行かせるやつがあるかよ」
「ここにいるわよ。いい具合に女剣士もいなかったしいいじゃなーい、あたしだって暇じゃないのよ。――ねえ人切りがお姫様と何話したの? 主人の妻を寝取る家臣、何このすけこましっ! 殺したいわー」
「怖いことを言うんじゃない。お前が聞いて楽しいような話はしていないよ」
唐突に思い出して、体現されるそれを取り繕わなかったことに冷や汗をかきかき、横目で窺えば爛々とした眼差しがある。
「いや、何でもないから」
「あなたのそういうところ好きよ」
胸倉を掴む。
「教えなさい」
「いやだ」
『内緒ですよ。私も利用しているんです、いつか――』
けれどもこれが最後になるでしょう。娘はそう言うとイェインに不透明に白く笑顔を見せた。
誰しも身の内で真実を飼っている。
◇ ◇ ◇
天高い陽の元をジスティック辺境領へひた走る、七名で編成される騎馬隊がある。
深夜。月が西へと落ち始めた頃、帝城より駆け出でた一行は小高い丘の上に出るやゆるゆると歩みを止め、騎乗したまま最も小柄な内一名が外套を翻し図面を開いた。
左目のない男――キース=マクレイズという、が後方より指し示す。
「前方がセルジア峰。左右に広がりますのがイアル岳、ケド山。その下がリドアニア湖。アガサスはセルジアを南東に越えることになります。現在地はここ」
風にはためく図面を丸と囲む。
「ガイジス山、下りの六合目というところでしょうか。次の山岳を越えれば今夜の目的地――関に」
「よく分かりました。馬は?」
「次の水場で休ませます。貴女こそお疲れではありませんか」
図面を折りたたみながら、一行の主であるリーガルト卿が<従者>は微笑した。
「ありがとうございます。しかしやはりここは急ぐことにしましょう。――卿、それでよろしいですか?」
ミュヒレイザは頷き返す。非常に居心地悪く。
「ティアさん」
はいと振り返った娘に馬を横付けて、黒髪の青年は果実の砂糖漬けを一つ自身の口に放り込み残りを袋ごと差し出した。勢い受け取り、瞬いて見下ろす。
「食べて下さい」
「……いいのですか?」
下手をすれば砂糖菓子はなまじの酒より高価なものである。
「『顔色があまりよくないので、甘い物を取った方が良いですよ。よろしければリーガルト卿、その他の方々と一緒にお召し上がり下さい』ということらしいです。何で俺が通訳せにゃならんのでしょうねえ」
肩をすくめたラズーリ=ケイシーを一瞥し、礼を述べるティアにライナス=レイは一礼した。
「すみません、愛想のないやつで」
「そんないいえ、これは私物なのでしょうか……。あ、おいしいです。凄く」
「もういいか。後ろの両人は」
「俺らのことはどうぞお気遣いなくマクレイズ殿。商会の馬は使えますよ」
水筒を煽っていたギルファニード商会員、バッセとジラルの明朗な合いの手に頷いて、キースは手綱を操る。
「そのようだな。――行きましょう」
動き始めた集団に続く彼女の従者にミュヒレイザは並んだ。
葦毛の馬またがる両足には黒の軍靴が。従騎士に相応しいレイピアを帯び、厚手の外套の下には彼女が見立てた蒼色の少年用の軍服を着こんでいるはずだった。
黒のリボンで束ねられた波打つ髪が風に揺れる。
騎士は声を低くする。
「――エミラティア様」
「……」
「……ティア、帝国兵は」
「『実行できぬは見て見ぬ振りを』とも申します。ここは一つ、大人の振りをいたしましょう。はい、どうぞ」
満面の笑顔で唇に直接手渡された砂糖菓子はしみわたるように甘く、上等なものだった。
「おいしいですか?」
「はい――いえ、そうではなく。ティア」
「気をつけなければならないのは、古来より帰路と相場が決まっています。何よりも今は彼らの助けが必要ですよ」
彼女もまた二つ目を口にしてから、外套のポケットに砂糖菓子の袋ごと手を突っ込む。白の王駒を握る。
正義に駆られた、あるいはどこにでもある皇国の皇女として扱われるのだと承知している。
昨夜、引き合わされた三名の騎士たちは「お供を仰せつかりました」挨拶もそこそこに一様に跪いた。「ご存知ですか」
「現在の気候のジスティックといえど山頂付近では夜には睫まで凍てつき、日が出れば霧に覆われ、昼には雪による照り返しが肌を焼きます。馬上は揺れ続け――場合によっては荒れた岩石群、水の中を通過していただきます。持ち物は最小限、お召し変えもままなりません。貴女がなさろうとしていることは、冬の行軍なれば兵士の半数が死に絶える難所をお行きなることなのだということ、まずご理解下さい」
念押しじみたキース=マクレイズの口上は、彼らが生きたエミラティアをアガサス王国へ送り届けるためにあるのだと言外に告げた。どれほど抗おうとも、後悔しようとも、何をしなくとも。
もっともエミラティアとしても、否定の証拠を持ち合わていない。
しかしこれだけは言える。
「大丈夫、何も心配はいりません。全てが流れのまま滞りなく水に誤りはない」
――抗う必要などない。
『我々は貴女をお助けし、お連れいたします。されど峻険ジスティックの風光明媚たることも、また貴女の助けとなりますよう――願い奉ります』
眼下に広がる一面のエメラルドグリーンの湖畔には白く可憐な花々が寄り添っている。その水面に、青空と両翼にそびえる雪かぶるとんがりが逆さまに映りこむ艶姿。
息を呑むほど丹精な景色に両目を細めた。
◇ ◇ ◇
ティア=ローラン――従騎士。
この度の作戦執行中におけるエミラティアの身分である。
『遠征は非公式なものです。帝国の皇太子妃は加わりません。帝国の騎士もいません。――そうですね、アガサスは良い馬の産地だと聞きます。軍馬の買い付けを行いましょうか。身を明らかにする物――有体に言うならば帝国の紋章は携帯せず私服での同行を。荷物の底に書状を持てるだけの衣装を準備してください』
そしてと言葉を区切ったアイスグレイの目はミュヒレイザを見つめた。
『ミュヒレイザ=アイリラ=ド=リーガルト。あなたの名前を、私に預けてくださいますか?』
辺境領に到る中間点に関所は存在する。煌々とかがり火の焚かれた城内を不寝番の兵が粛々と持ち場についている一方で、奥深い場所から酒宴に興じる兵の歓声が聞こえてくる。
髪をほどいたミュヒレイザは、深い寝息をたてる従者である主の毛布を肩まで引き上げ、そっと息をついた。
戸口に視線を投げる。ごく微かな戸を叩く音に、剣を押さえながら物音を立てないよう注意を払って応じると、意外なことに黒髪の青年騎士の姿があった。
「マクレイズが呼んでいる」
明日の予定を話し合う席を持つと言っていたなと了解を示す。
「すぐに行く」
髪を縛りなおし、上着を羽織る。暖を取るための火が易く消えないように調節してから、再度エミラティアの寝姿を確かめ真鍮の鍵をかけた。暗闇の中、石畳に靴が鳴る。
ライナスは口を開いた。
「妃殿下は」
「良く眠っておられる」
「そうか。――リーガルト卿」
エミラティアに与えられた役割上の呼ばわりではない響きに、姿勢を正した。外套の下、柄に指を這わす。
「何か」
「あなたは、彼女を逃がした方がよい」
どちらともなく立ち止まる。かなたから響く浮ついた声が周囲を満たした。
「あるいは郷里に帰られよ」
「……何のつもりだ」
「今回を切り抜けられても次はないかもしれない。その次は。――あの城の業深きこと」
ライナスは視線を逸らさない。表情を揺るがせない。
「死ぬぞ」
「死なぬ。私が、殺させはしない」
「あなたが」
空隙の時間だけ睨みあってしばし、ミュヒレイザは笑んだ。
「不愉快だな。しかし感謝する」
この者の真偽は定かではないが、三騎士たちの中に派閥が――直属の飼い主が異なるらしいことが分かった。
収穫である。
「行こう。私も今夜は早く休みたい」
◇ ◇ ◇
かつてアルヴィス一世は、アガサス軍一万にわずか三千の兵で相対したという。
アガサスは広大な平原によってなる国であり、機動力を主とした戦略を得意とする。脚の速さで隊列をかき乱し、本軍を仕掛ける。勇壮なる彼らは白兵戦を最も得意とした。
アガサス側ジスティック山脈麓でもつれ込んだ戦闘は、山岳へ持ち込まれ――誘われ、優勢であったはずの彼らの身動きはしかし、ほぼ封じられた。五日間の戦闘を制したのはアルヴィスの軍であり地の利を生かした軍略であった。
今からおよそ百年前。侵略戦争の先駆けであるこの蛮勇時代、一武将に過ぎなかったアルヴィス=エスティは一国の王となったのである。
裏切り者の王と呼ばわる者はすぐに絶えた。
隊列を組めば人の足で十日以上。乗り継ぎ飛ばし、早馬ならば二日。
羊を飼ういくらかの集落を抜け、渓谷に流れる水流を渡り、風や足場に翻弄されながら――エミラティアがいることを考えれば十分な速さで、一行は堅牢な城壁に囲まれた辺境領へ足を踏み入れた。
その間二日と半日。
「いやはやお疲れ様です。ここからなら一両日でアガサスに出られますよ」
バッセの言葉にラズーリは頷き、馬を下りたミュヒレイザを促した。
「どうしますか?」
「そうだな、幸いまだ日も高い。各自明日の明日の出発まで好きに振舞い、鋭気を養うといい」
馬の腹に寄りかかってぐらぐらと揺れている――立ったまま半分眠っているエミラティアに、各人の視線が集まった。
「それが良さそうだな」
キースである。とうとうずるり、傾いた身体をライナスが支えた。
「!! ほわっ、な何事が――あ」
至近距離から平らに見つめる眼差しに、エミラティアは狼狽する。
「ライナスさん寝ていませんよ。これはその、目を閉じて到着の感慨にふけっていたと言いますか」
「分かりました、お気をつけを」
「……はい」
消え入るように頷いた。
「じゃあそう言うことで、商会組は宿を取ってくることにします」
ジラルは笑い含みに耳まで赤いエミラティアに声をかけ、女騎士に向き直った。
「夜は酒場レイファンまでどうぞ。商人のたまり場です」
「ああ、世話をかける。――では、こちらはこのまま城塞へ目通りに向かいましょう。非公式といえど無視はできない」
辺境領は建造物に高低の差が少なく、山肌にしがみつく印象を抱かせる石造りの街だった。水槽に沈んだ皇都のようだと城壁を見上げるエミラティアは思う。
にぎにぎしいのだ。
宣戦布告の行われていない現在(さすがにある程度の検問規制は行われているが)峠街としてぎっしりとした賑わいを見せている。馬を連れている人間、荷車も少なくない。
徐々に幅広くなっていく商店の立ち並ぶ大通りを、手綱を引きながら見渡していると隣を歩くラズーリが笑った。
「すごく不思議そうな顔してますよ。どうしました?」
確かめるよう顔面をペタペタと触る姫君に、さらに笑いをかみ殺し、問いを重ねる。
「皇都――ライアガードレイドだって派手な場所でしょう? いいですよねえ、剣術大会」
「雰囲気がよく似ています。人と車が行き交って、雑然としているところが特に」
ああ、と男は了解の相槌を打った。
「懐かしいので?」
一拍を置いて、問われた一言は予想外にラティの心の臓を轟かせた。
通りを駆け横切っていく子供の集団を知らず目が追う。
「……そうなのかもしれませんね。あ、毛糸。良い物ですね、色むらがありませんよ。そう言えば来る途中で羊をよく見かけました」
すでに道幅は一隊列を組めるほど広くなっていた。雑談を止め騎乗する。
人の速度で歩を進め、広場めいた石畳の空白地帯に行き会った。目と鼻の先にある城塞に遠慮しているのか人通りはごく僅か、出店すらないだだ広い土地である。
向かって西に狭くなる通り、城壁より高い建造は城以外になく、木造の建物はないに等しい。
馬にまたがるティアは、立錐の余地もなく整列する人の塊――その一部になった気分がした。太陽に見下ろされている。
「普段はここらにも出店があるんですけどねえ。ずいぶん早い自粛だ」
ラズーリ=ケイシーの声は星座の講釈じみていた。
「そもそも布陣地なので、仕方ないのかもしれませんが」
「見事なものだな」
彼女のものではない、サリアディート語の呟き。
跳ね橋の守り手に取次ぎを申し出ると、いくらも待たされることなく一行は城内に迎え入れられた。
ミュヒレイザの独り言がひどく耳に残った。
見事なものだな。
戦を予期する場所でさえ、人はこうして暮らしていける。
人だけが。
通された場所は人払いの済まされた城主の私室であった。
毛足の長い絨毯と品のよい調度品が数点あるだけのいかにも武人らしい室内を、婦人の肖像が彩っている。何とも不思議な気分がした。
ティアは思わず不躾に足を止めかける。
プラチナブロンドの豊かな髪、白皙を彩る蒼い瞳、この世の全て許容する微笑。
既視感覚える美人画。
出迎えを受けた一行を代表して口上を述べたミュヒレイザに、レイモンド=ロア=カルガルト=エスティは朗らかに応じた。
「ジスティック辺境領へようこそ。私も昨日帰城したところなんだがね、これほど早くこちらに来るとは思っていなかったよ。疲れたろう?」
「いいえ、些少なことでございます」
レイモンドは小さく笑んだ。
「それは結構なことだ。私ももう歳かもしれないなあ」
見誤ることなく蒼い目が娘を捉えた。
軽口を叩いたその顔をがらりと変えて、城主はエミラティアへ丁寧に腰を折る。
「ようこそおいで下さいました妃殿下。内密の行幸ということでこちらにお通しさせていただきましたが、ご無礼ございませんか」
「はい、勿論。今はリーガルト卿が従騎士ティア=ローランとお呼び下さい。夜会には楽しい時間を過ごさせていただきましたレイモンド様。――ご厚情ありがたく頂戴いたします」
「承知しました。ではティア、と」
ふと甘やかに目を細めて彼はエミラティアを見つめた。
「こちらの検問に問題ない。ではアガサスのそれを抜ける術はお考えで?」
「はい」
「相手を考え、相手を頷かせ、相手から帰還する方法を考えておいでで?」
「はい」
「相手とは誰で、何人いるのか考える必要があることは?」
「理解しています」
「ではそれで得られるものと失うもの、理解しておいでですか」
エミラティアは唇をほころばせた。
「困りましたね。――では半分、とだけ」
◇ ◇ ◇
「例の暗殺者、口を割らせる前に死なれました」
イェインの報告に、文書に目を落とすアルヴィスは眼鏡ごしにちらりと視線をよこした。
「いつの奴だ」
「五日ほど前の」
「ああ、あれか。初めから弱っていたしね、仕方がない。――いいよ」
弱らせたのは誰だと思ったが口にはするまい。
平常、彼が訪ねる頃には皇太子執務室には人気がなくなっているものだった。茜色の陽光が窓から差し込む。
窓越しに同じ色に染まるジスティック山脈を仰いだ。
「関所を通過したと報告が来たとか」
「そうだね」
「……ユィーマン殿が騎士をつけたと聞いて、安心しているのですか」
「いいや?」
文字を書く音が止まった。生まれたそのひやりとした静寂に舌打ちしたくなる。
「――お前は安心できるのか?」
「いいえ」
不服気に立ちすくむ部下に対して、アルヴィスはトントンと机に爪を鳴らし注目を促した。頬杖をつく。
「いいかい、面倒だが方法はあるんだよ。どこの誰が何をそそのかして、何がそのきっかけとなったのか。考えることができればそう難しいことじゃない」
「……世の中には予測不可能というものがありましてね」
「ない。人の意図が絡む場合、必ず兆候はある。意識を遡ることができる。そういうものはただの予想外と言うんだ」
どこまでも傲慢な。六年間で変わることはないし、そしてきっとこれからもそうなのだろう。と、確信させる声である。おのれ! と、たまに毒づきたくなる声である。
流れるように書き付ける音が再開された。
「我が国の民が大陸で大暴れしている帝国に切られた。許すまじ、戦争だ! アガサスは立派だね」
「……」
「そもそも彼らはこの国が気に入らない。そりゃあそうだ、かつての臣民の国だからね。海を越えて皇国にまでちょっかいを出し始めたとなっては、相応の覚悟でいよいよ我々が止めねばなるまい。正義に溢れる良い国ならば、そう思うのかもしれない」
なんだろうこの嫌味に満ちたちくちくとした言葉は。
アガサス王国は侵略戦争を嫌う。広大な土地を広げることも欠けさせることもなく今を生きている。侵略を悪とするならば、正義を重んじる国だということになるのだろう。
嘲笑は一蹴する。
「いくら王が糞真面目な人間だとしても、こんなもの、本気で実効する国は存在しないよ。第一あれだ、聞いていて恥ずかしい。――ラティは商会の人間を連れていたのだろう?」
押されるように頷いた。
「ええ、そのようですね。リーガルト、騎士三名、ギルファニード商会員が二名で……」
昔、利益のない殺しはないと言ったのは誰であったか。
しかしこちらは思い出せる。『利益がないからの殺し』というものがあるとすれば、それは商人の言葉だ。
「……和親条約」
「そう言うことだ。まず押さえるべきは、ギルファニード」
ミュヒレイザが人を殺しそうな顔をしていた。バッセとジラルは蒼白の表情でそれらを見守る。
――こんなことなら、連れてくるのではなかった。
「お嬢ちゃん、何だって?」
「ギルファニード三世に会わせて下さい、と言いました」
十分に酒の入った酒場中の男たちが、しゃがれた声で爆笑した。男はティアの姿を上から下まで視線で撫で下ろし、さらに笑う。
「騎士のお嬢ちゃんが、商会の王に何か用かい」
「騎士ではありません、従騎士です。氏がこの街の近くにいることは分かっているのですよ」
「あ?」
剣呑に眼光を鋭くする男に一歩踏み込む。
「一流の商人は、拠点からまったく動かない者か、商談に応じて世界中を飛び回る者の二つだと聞きます」
ライアガードレイドのパン屋には商人がよく訪れた。
愚痴には二種類あった。
『主人はまったく動かないくせに、俺ばかり働かされてるんだよ』と『これから報告に上司を追って行かなきゃならないんだ。じっとしていてくれれば楽なんだけどねえ』
「商会の主は後者。砂金を追って来ているのでしょう? 教えて下さい」
ここを押さえなければ、次には行けない。
|
|