書を持て 風を待て


『十番目の姫君』
―エスティカリア帝国―



 夜とはまったく不可思議な時間である。
 とはギート=クライドの言葉であった。死の予感に震える人々を毛布の中へ押し込め、東の狭間に聖者は光明を愛おしみ、恋文をしたためる若人の正気を奪い去る。そもそも夜とは移り変わらない――否、黎明は忍び寄って来るものだ。まるで惜しむようにぎりぎりまで福音の裾を見せず、いざ現れれば神々しいまでに白い陽光は悲鳴を上げるように色を変え運動を続け、分かりやすい推移に人は誰もが心を打たれ――酔狂な人間はやがてありがたみを疑う。わざとらしいのだと、煩わしいのだと。分かっているから背中を押さないでくれ。
 夜が来て、朝が来る。物事は起こる。突き動かされるように。怒り、興り、はまり込み、流転してゆくもの。完膚なきまでに形を失い、それでも圧倒的な質量は確かになにがしを押しつぶしてゆく。
 例えばそう、過去の記憶などがそうだ。どれほど時を重ねても失われない人の最も根本となりえる心臓への引っかき傷にも似た細く長く厚く盛られた肉の追憶は、きっと恐らく、誰にでもある。今を彩る肉の傷。癒されることなどもはやない色素の沈着と成り果てたそれをふとした拍子に視界に入れ、痛みを思い出し眉ひそめるか醜いと眉ひそめるか。動かされる。手の入れようのないものに。
 エミラティアは大別するなら前者であった。アルヴィスは後者の典型なのであろうと推測されるが、あるいはあの白い体躯に傷など作ったことがないのかも知れない。作ったところで残されていないのかもしれない。何しろ変態である。アルヴィスである。
 しかし買いかぶっているのかもしれない。
 かくしてエミラティアは日差しの降り注ぐ窓辺を覚えている。窓枠に切り取られた四角い格子(こうし)状の影、本の匂い、インクの匂い、爽やかな香りのするみかんの葉、座り込んだ半身に染み入る石畳のざらついた感触は衣服越しにひやりと冷たい。シルドの屋敷母の書斎であった。空を見ていたのは太陽を見ていたからだった。七日間、眩いものを無心に見つめつづけた彼女の肩を叩くたおやかな手の重み――振り返れば慈愛を浮かべた細面は白く、同時に苦悶する青白い影が逆側に刻まれている。
 この顔が恐ろしかった。どうにかして綻ばせたくて仕方がなかった。
「分かりましたかティア」
 「分からない」は母をより一層悲しませる重要な言葉なのだとエミラティアは心得ている。あまりに同じ場所の記憶が多いため年月は判然としないが、掘り返されたものは子供の指が天の頂にあるものをしめした。
「太陽が、うごいています」
「他には」
 庭の立ち木を指差す。
「まえにお母様におしえていただいたあの鳥――ええと、ひばりがいました。鳥も木々も影法師がうごいています。だから今はうんとみじかくて。そして雲はきまって<にし>から<ひがし>へ。うごかないものは一つだってありませんでした。――どうしてなのでしょうか」
 積み重なっていく至極満足そうな笑顔、頭を撫でられる感触に胸が熱くなるほどほっと安堵する。「どうしてなのでしょうか」は母の好きな言葉であった。疑問を見いだせる賢い人間におなりなさいとは口癖であった。賢さの定義は疑問を見いだせることらしかった。
 ――これで、お母様はだいじょうぶ。これで、あすは宮に行くことができる。
 宮から屋敷へ、事あるごとに呼び戻され行き来することを許されるのは――他の皇女たちと違うのは――なぜだろうか。答えは出せず無知のままでいるが『なぜなのか』と母に求めるのは機嫌をひどく損ねることになる。一度試して経験済みだ、あの時は夕食が砂か粘土のようであった。なのだとすればこれはもしかすると『国皇となる貴女が考える必要のない、些少なこと』というやつのことなのかもしれない。母は一度答えたことを二度繰り返したがらない。どうだろうか。いや父が自分のものを彼女に与えるとは少し、ものすごく考えづらい。彼は一度たりとも彼女の頭を撫でなかったし、褒めなかったし、なだめなかったし、ましてやああしろこうしろと命令をしたこともなかった。口を利く機会をいただいたこともないのだから疑問を差し挟むまでもなく当り前である。
 ゆえに褒賞になりえないのである。理由がない。彼のものを彼女に与える理由が、ない。
 疑問は疑問のまま、しかしながら課せられたことさえこなしていれば周囲の人間――今で言うなら母は悲しまなかった。それでいいと思う。今は。侍女たちや他の貴族たちも早々に帰ればさほど眉をひそめない。ただ父のことはよくわからない。
 父は、何もせずとも悲しまないのだろうか。
「ティア――エミラティア」
 呼ばれて見上げる灰色の瞳。水気を含んで痛々しく歪む――母はしばしば泣きそうな顔をした。そうした時決まって彼女を抱き寄せ抱きしめるのだった。
「お願いですエミラティア、わたくしを置いてどこにもいかないで下さい。あの人はわたくしを裏切りました。信じていたのです、光明であったと。愛おしいエミラティア、強くおなりなさい――貴女の血はなによりも青い。矜持など裏切りにしか使われぬ……あさましいもの、浅ましいのです……ティア」
 速い速度で響く心音に耳をすませる。この音は悲しくなる、だから。
「おかあさま、わたしの血は」
 赤い。だからこれほどにも忸怩(じくじ)たる痛みを持つ。
 続けるべき言葉は横たわる矛盾に溜飲を下げ、飲み込む。書物によれば責難とは常に矛盾であるらしく、「こんなこともできないのか」とは「こんなこともさせられないのか」であり「くだらない」とは「お前も例外ではない」である。母は己を浅ましいと貶めている。抱擁する腕は震えていた。
 抑揚に乏しい面皮に付属する唇が開かれる。衣服に爪をかけ、窓の外を見た。震える母から目を逸らすために。
「かえってきます。かならず。皇国(シルド)がたいせつなのですから」


 小さな文机の上、時を示すにも一役を買う蝋燭のともす灯りは上等無比の羊皮紙に刻まれていく文字を照らしている。ティア=ローランが握る羽ペンは緊張を抱きながら今文末を綴ろうとしていた。
<――アガサス王国リュベック=ルファイン=ディ=アガサス国王陛下におかれましては、何とぞよろしくお願い申し上げ奉ります>
 署名。
『エミラティア=リーズ=サリア――』
「あ、あああああ!」
 悲鳴と共に羽ペンの先、流麗を装った筆跡が無残に伸び崩れてゆく。なんたることだ後もう少しだったのにと悲しく思いながら書面に改めて目を落とし、どうにも文面が泣きにすぎてしまっているような気がした時にはもう我慢ならなかった。
「もう……物思いに耽りながら字を書くからですね。まったく。こんな文面のせいです!」
 どっちだ。目頭揉み解しながら責任を転換する。
 こんなものを押し付けられ読まされた日には鼻に付いて嫌がらせの一つでもしたくなるに違いない。例えば書状など知らぬ存ぜぬと言い放つとか。
 酒場から本日の宿に戻るや否や食事もそこそこに書き始めたのだが、うまくいっていなかった。
 一枚目は途中で内容が朝顔の観察日記のようであると気づいたので二つに裂いて廃棄した。二枚目は比較的序盤で誤字を生み勢いのまま暖炉に投げ込み、そして此度三度目、文末に己の名前を間違う体たらく。なさけない思いで高価な羊皮紙をまじまじと見つめ、よしこうなったからには余白に可愛らしいうさぎでも描いてしまえと羽を走らせたエミラティアは、戸を叩く音を耳に拾う。
「どうぞお入りください」
 うさぎうさぎと動かしていた羽を止める。
 一礼して入室したのは予想通りミュヒレイザであった。彼女はラティに分かる程度にうっすらと不平を表情に乗せ、数通の書状を携えている。背後に人影を連れていた。
「できましたか! 速いですね、お疲れ様です」
「はい、馬具や刀剣の類の依頼書作成は慣れた作業なので。とはいえこちら――ギムスティ殿にはご尽力を賜りました。どうぞこちらに。紹介します、フィリオール様が執事シザック=ユーマイエ=ギムスティ殿です」
 ティアは客人に笑み、椅子から腰を上げながら後ろ手でさりげなく文書――うさぎの上に本を乗せた。手のひらを結び姿勢を正す。
「はじめまして、ご紹介に預かりましたリーガルト卿の補佐の任を預かります執事ギムスティでございます。この度は夜分に、しかもお忙しい中申し上げにくい話ではありますが、我が主フィリオール=ロア=アジスティック=エスティ様がどうしても今夜、貴女とお話をなさりたいと仰っていまして……ティア=ローラン殿?」
「こちらこそお初にお目にかかりますギムスティ様、従騎士ティア=ローランでございます。もちろんどうぞお客人をお招きください、歓迎いたします」
 シザックは几帳面な笑みを返した。
「ローラン、宝剣……御伽噺でございますね。ご配慮ありがとうございます。ではここへ、フィリオール様」
 彼は道を開け丁寧な仕草で入り口を示した。ミュヒレイザが一歩下がる。父親譲りのプラチナブロンドの少年は腑に落ちない様子で入り口を、ついで室内を見渡す。不躾とも取れる仕草は彼が心底疑問を持っているのだと悟らせた。宿泊する主人の<従者>が控えるための部屋。質素ではないが簡素な<小部屋>は間違っても一国の皇太子妃が泊る場所ではないと常識が訴えている。砂糖は砂糖、塩は塩。入れ物を間違えてはいけないのだ。
 ついにフィリオールの蒼の視線が笑顔の従騎士を捕らえた。轟然と眉をひそめ、への字に口をつぐむ。ティアは前へ出ると節度ある距離で膝を折り、子供の顔を覗き込むように見上げた。相対して朗らかである。
「こんばんは、ご指名にあずかりましたティア=ローランでございます。私にお話なのですね? どうされましたかフィリオール様」
「シザックに言ったように……はじめまして、とは言わないんだな」
 瞬き、次いでうなだれるように視線を落とした『ティア=ローラン』は、わずかばかり眉をハの字を描き困ったような顔を上げた。
 彼の父親が彼を甘やかす時によくやるあれだ。
 思った瞬間、彼は、頭が真っ赤になるのを感じた。自分の『見る目のなさ』に失望する。シザック=ユーマイエ=ギムスティが彼の頭の中を覗き込むことができたならば、さぞ明快な失笑を漏らし嬉々として課題を上乗せしたであろう。が、あいにくフィリオールは本気であった。本気で彼は失望し、ふさぎこむではなく下がった感情を攻撃性へと変化させたのである。
「フィリオール様?」
「エミラティア皇太子妃殿下におかれましてはご機嫌麗しく! なあラティ!! 僕は知ってるぞ。はじめましてなんて貴女には言えないよな、だって善人の皮が大切だもの。善人だもの。今だって人を騙して似合いもしない剣など持って正義の使者をやっていらっしゃる。子供には笑って嘘なんてつけないよなぁラティっ」
 瞳だけがぎらぎらと光を増し、周囲は影に落ち窪んでいく。解き放つ言葉が天井を打ち絨毯に跳ね返りバラバラと飛び散っていく。
 ――繋いだ手のひらは柔らかく温かかったはずだった。
 時間など関係ない、その手だけでよかった。一秒、一瞬、暖かな目の管理下で伸ばされた指先が触れればそれだけで。
 瞠目するアイスグレイの瞳に苛立ちが募る。
 自分の『見る目のなさ』に失望する。
「だったら、どうして僕を謀ったのですか! 僕は、僕は……もっとちゃんと貴女を知っていたかったのに。優しい人だとうれしかったのに! 馬鹿にしないでください、僕だって王の血に繋がる貴族です。そんな、機嫌を取ろうとする顔は、やめてください……っ!」
 おろおろと両手をわさわささせていたエミラティアは、ティアは、ラティは、力が抜けていくように固まり押し黙った。沈黙のまま押し問答のように視線を交わし、やがてフィリオールが折れる。いつかの再現であるように思われた。
「……なんとか仰ったらいかがですか」
「フィオ君……なんとか」
 間髪を入れぬ返答に少年の頬へ朱がさした。顎を上げ、睨みつける。じわりと染み出しそうになったものが許せなくて、さらに睨む。エミラティアは慌ててフリルタイを解きフィリオールの目元に押し当てたが、さらに距離を縮めてこようとはしなかった。辺境伯令息である彼が従騎士を名乗る者の手を振り払うこともできず、拳をきつく握ることで時間をやり過ごそうと耐える。
『だから貴方は子供なのです。受け流せばいいでしょう』と左斜め上方から執事の冷ややかな視線が突き刺さっているような気がする。経験的に。どうしょうもなく不愉快であったが、同時に波が引いていくのを感じた。
 白い絹が去った。開けた視線の先に朗らかな笑顔の出迎えがある。
「フィオくんフィオくん、今のが人を馬鹿にするということですよ」
「……っ!」
「ああ怒らないで下さい。嫌な思いをさせてしまいましたね」
「だから……っ」
「お久しぶりですねフィオくん、いつかは楽しい時間をありがとう。私もあなたと会えてとても楽しかったです、素直な良い子、あなたのくるくる変わる表情は見ていてとても楽しかった。ですから『ラティ』は嘘ではないのですよ。だってあれは私が最も好む渾名ですから、呼ばれてとても嬉しいもの。だから嘘ではないのです。――私はさっきみたいな馬鹿なことを言った覚えがありませんよ!」
「皇太子妃、なのでしょう。だったら、はじめから、渾名など。しかも一人、あんな格好であのような場所に……!」
 みすぼらしいドレスで。供の姿すらなく。
 膝を突いたままエミラティアは視線をはずさず、しかし伏せ気味の顔に眉を伏せていた。しょげた表情でフィリオールを伺っている。
「――……フィオ君は厳しいのですね」
「は?」
「私は道を知りませんでした。人を騒がせず城内の林道を自由散策するためには、裾を引きずる衣装では動きにくかったのです。汚してしまうでしょう? だから、まあいいかな、と。……あの時は特に私は何でもありませんでしたし。いいえ、言い訳ですね……」
《人を騒がせず》
 反芻する、人を騒がせないために。
 ああそうかこれが答えだ、全部繋がる。至極納得した。ほらみろと心臓が高らかに高揚し、同時に違う場所から誰に対するものかの判断もつかぬ罵倒する声が聞こえる。シザックが怪訝な様子で肩に置いた手を払い落とした。
「……サリアディートは帝国を、ずいぶんと侮っておいでのようだ。我が国が貴女に礼節を持って授けた地位へ見合う礼儀もお持ちでいらっしゃらない」
「フィオくん……」
「御生国で当たり前にあったものはここでは全て人の手から委ねられたものであるということを、全く理解していないとしか思えない! 失礼するっ」
 シザックの顔を見ないですむように憤然ときびすを返し、戸外に控えていた供と護衛を連れてフィリオールは去った。
 凍りつく室内が白々しく残される。


 シザックは猛烈に頭が痛かった。気分も悪かった。舌は咽に張り付いて呻きが漏れるばかり。暴走を始めた主人兼教え子へ声をかけなかったのではない、かけられなかったのだ。あまりの馬鹿馬鹿しさに凍りつくのは不可抗力であると言えるかどうか知らないが(多分言えないだろう)失態としか言いようがない。予定外――予想以上だ。
 第一の不理解は子供の子供たる資質。これは後で彼がしっかりきっかりあと五年はかけて押さえつけ言い聞かせればいいだけのこと。例え今どれほど恥をかかされたとしても、我慢できないほどではない。……多分。前はもっと酷かった。だから決して「明日からどうやって可愛がってやろうこん畜生」などと考えてはいない。……多分。
 第二の不理解は――これが最もいやらしいのだが、曖昧極まりない現状である。砂糖が塩と言い張り、言い張れるだけの突出しない白さで、また高貴なる砂糖の<金言>をひっくり返せる塩などありはしないのがいけない。これが国柄の差だと言われてしまえばまったくもってややこしく面倒くさいことになるだろう。ただし自国の貴人――奇人は棚上げ保護とする。
 第三の不理解は総合的に鑑みて茶番劇場を続けるべきかやめるべきか、判断できるほど彼が異国の皇女を知らぬことであった。
 となるとやるべきことなど一つである。
「……大変申し訳ございません。わたくしの教育が行き届かず、使者殿には多大なるご不快を……。我が主に代わり伏してお詫び申し上げます、申し訳ございません」
 平身低頭、首筋をさらけ出して深々と下げられた頭へため息混じりにミュヒレイザは許しを投げ投げ寄越すことにした。絹地のタイを握り締め、立ち上がったエミラティアが半泣きの顔で彼女を見つめているのだ。視線の一点集中する場所が痛い。
「よい。面を上げなさいギムスティ殿。子息の仰ることも一面真実……なのだと思われます」
 彼女とてエミラティアには見合わぬものに袖を通して欲しくないし一人歩きなどもっての外だと思う。先ほどのように辱められるなど論外である。思うが、柄から手を離し再度横目で確認すれば、ぱあと表情を明るくし、そうそうと嬉しそうに頷いている彼女の主がいるものまた事実なのだった。
「は。慈悲深きお言葉痛み入ります」
 謝罪と感謝を口にしながらも戸口を塞ぐ絶対位置を占拠しているあたりに執事シザック=ユーマイエ=ギムスティの意思がみえる。彼は垂れた(こうべ)を上げきらず会釈よりも深い位置で静止させ「その慈悲にどうか一つ言葉を重ねさせていただきたく」
「なにか」
 平らかな声はミュヒレイザである。しかし相手も同じくらいに平坦に口を開いた。
「歴史開闢以来エスティカリアは実力主義だと謳い、またそれを信じる者も多くございます。しかし、そんなものは幻想――いや、犬の餌ほどの価値があるばかりの儚いもの。強者が絶対たる強者ゆえに与えることができた毒薬です。帝国の位は、むしろ貴国のものよりもずっと血なまぐさく重く、ゆえにかような考えを抱える上位貴族は少なくない『我が上に立つは我が上神聖なる父母である』」
 つまりご主人様は絶対かつ尊厳溢れた人間でなければならない、の意である。情に通じ、位に見合わぬ行いなどしてはならない。絶対とは何なのか、尊厳とは何なのか、見合わぬとは何なのか。抽象的過ぎるゆえに明文化できる者などおらず、各人の理想が先行する。
 つまり鼻持ちならない。
「辛酸でいらっしゃる。狙いがどうであれこちらも使ってしまえばよろしいではないのですか。覆せぬ脚と剣を持てばいい。……謳に感謝した者もあろうよ」
「それは貴女が誠の騎士であるからでしょう。善良なのですよ。――ともかく、背後にはお気をつけ遊ばしますよう」
 皮肉混じりに命の忠告。二度目である。どうにも帝国の人間には頼りなく見えて仕方がないらしい、あるいは人心掌握の類なのかもしれなかった。意図せず微苦笑したミュヒレイザはシザックの塞いだ戸口を見据え、
「なるほど。しかし追わなくてよいのですか? きっと彼は今とても寂しい思いをしていますよ」
 再度、眉尻の下がってきたエミラティアのための言葉をつむいだ。居住まいを正したシザックはふと笑みを刷いた。異国の皇女が演じる従騎士へ。
 女剣士は双眸を細める。
「あの方がああやって喚いてまで望んだものは、もはや永遠に手に入りますまい。根っからの聞かん坊でしかも自己保身に富んだ方です、放っておくのがいい」
「子供とは慈しまれるべきもの……そのようなことを言うのは関心できません」
「それです。貴女のそれがフィリオール様にとってまったくよろしくない」
 歳若い執事は断言する。
「フィリオール様が欲しいのは己自身が自由に好き勝手できるそういった貴女なのですから。今のは取り消して下さい、できればあの方の目の前で」
 いきなり謙虚の衣を脱ぐどころか床に叩きつけんばかりに豹変され、そうか、こういう人なのかとぽかんと見やる。
「はあ」
「皇太子妃などという雲上人である優しい貴女には、坊ちゃまは甘えられないということです」
 おどけるように肩をすくめた執事の目から急激に温度が下がった。
 薄い唇が酷薄に願いを告げる。
「わずかでいい、お時間をいただきたい」


  ◇ ◇ ◇


 同時刻――月は天高いが仕事は終わらぬ。
「失礼いたします。書記副官メイヤただいま戻りました。ご所望の名簿がようやく上がってきましたよー!」
 今春エスティカリアの奇人付きに任ぜられた新人の声量は徐々に増し、最後の方には張り上げざるを得なかった。
 優雅極まる室内が場末の酒場と化している。
 やれこの書類を見ろ、いえ見てくださいお願いします。やれ議会進行案に目を通せ。やれもう内容の確認はいらないので取り合えず判を押してくれ。やれ目通り願う人物がいる。やれ俺、来月結婚するんですよ! あれ、朝も言いましたっけ。机を取り囲む側近と書記官が形成する壁の中、笑顔を絶やさぬアルヴィスが埋もれている。
 右から二番目の箱に置いて。不要だ、要するなら直前に見る。ふざけてるのかな? 状況を見て言え夜だぞ。そうかそうか、じゃあ隣の部屋で祝杯といこうじゃないか夜だし。アルヴィスは各人をなで斬りにしながら、片手でペンを持ち、分厚い壁の隙間から従者へねぎらいの意味を込めて逆の手を上げてみせた。
 さらに何気ない仕草で椅子を蹴ったことで、足元で寝そべっていたジェイディストレイが鼻先を向け追従の姿勢をみせる。今にもとんずらをかましそうな皇太子殿下に怜悧な側近は睥睨をくべた。口癖は「戯言」
「戯言もほどほどになさいますよう。わたくしの目の前で脱走などさせません、ご着席をなさいませ。メイヤ扉をふさいでいなさい」
 主におすわりを言い渡しながら押し付けた麻のひもで束ねられた羊皮紙。己が運んできたものと見比べ「あれ」とメイヤは眉を持ち上げた。双方供にまず名前の羅列があり、次項からつらつらと文字が並んでいる形式が非常に似ている。
「……なんでもう持ってるんですか?」
「いい質問だ。私には友達が多くてね、彼らが頑張って我先にと教えてくれたんだよ。君は目がいいね。バティアス、読め」
 独り言なのに、と恐縮して彼女は強張った笑みを浮かべた。執務室の主に一礼し、ユィーマン老侯爵へ会釈を加え、涼やかと言うより狡猾な目元が印象的な、まもなく四十路に突入するであろうアルヴィスの側近バティアスへ手渡す。後は仕事へと埋没していくことになるわけであり、彼女は直属の上司に指示を仰ぎに戻った。
 長い足で絨毯を踏みしめバティアスは輪を越える。主の書き物を影で邪魔しない位置で静止した。
 名簿には五位一奴百主の名が連なっていた。
 五位一奴とは帝国内を地形や河川、文化などを加味し大雑把に王(北)のセルゲイ、東のリドニア、西のコレンド、最西のジュニエール、南のミアマス、そして新帝地(属州)の六地方に区分されることを言う。また、百主とは諸侯を筆頭とし、地方領主まで合わせるとどれほどいるか把握したくなくなる土地持ち貴族を指し、『百』は単純に多いことを意味するので実際には百よりは少ない、はずだった。国府に繋がりを持ち得る有力貴族当主は現在総勢二十四、内、諸侯十一が含まれるものの中央政府皇帝直轄領に与する公爵位相当の者は除外される。帝国は巨大だった。
 斜めに読んで整頓するこの男の名をバティアス=レイバン=カリファツィールという。後ろ暗い噂の耐えない人物であった。
「読み上げます。希望はございますか?」
「渋っている者から」
 アルヴィスはまがい物の名簿二号を確認しながら、別件の文書によれた署名をしていく。淡々と紡がれる九つの名にふんふんと頷きながら、最後に小さく噴出した。我慢していたのだ。
「ゼーゼマンの理由はいいな、娘と妻の疾患による心労か。あの冷血が涼しい顔をして書いたのだと思うと笑える」
「ものの道理を分かっているつもりなのでしょう。耳の良いことでは有名です」
 エミラティアの巡業をさしている。
「さてね。ああ、ジュニエールで是の返答を寄越したつわものはいるかい?」
 バティアスは即答した。
「ありませんね。ジュニエール地方は夏の干ばつの影響で軍を出すに心もとない。遠方でもありますし自然、返答はぐずぐずと遅れるものかと思われます。むしろ今現在拒否を申し立てた諸侯領主が三名というのは驚異的でしょう。できるはずがないのですから。他は――国境沿いばかり、現在交戦中の領主達でございますね」
 五位一奴百主の名はつまり、返答であった。従軍するか否か、もしくは可能か不可能化と言い換えてもいいだろう。何事にも都合と言うものがあるのだ。
 アガサスとの交戦に備えた軍作りが始まっていた。侍従武官府へ近隣から順に次々と返答が舞い込んでいる。
『王が諸侯に領地の保護をする代償に忠誠を誓わせ、諸侯も同様の事を臣下たる騎士に約し忠誠を誓わせる』今時お決まりの政を布くエスティカリアにとって、絶好のご機嫌伺いの時間の始まりである。
「尾は振ればいいというものでもないよ。国府の流れを読んでもらわないと」
 アルヴィスは手を止め指先でペンを回転させる。点々と書類にインクが飛ぶ。
「皆躍起になっておりますよ、度し難いことです。先着の名簿の名は全て確認いたしました。それからですね――」
 面倒だと顔に書きながらしかし口角を持ち上げ、
「ブルットス卿が兵を率いて今にも帝都(こちら)に駆け込んで来そうな具合のようですね。前のめりになっていてとても気持ちが悪いと現任官から注釈が――ああ、殿下に新しい妾を献上する予定もあるそうです。よかったですね」
 正妻を娶ると同時に礼儀によって解散させられるエスティカリア後宮であるが、その後の規制はない。宗道上の決まりによって妻は一人と限られるものの女を囲った皇帝も少なくないものだった。
 アルヴィスは満面の笑みを広げた。
「馬鹿を言うものじゃない、私はラティをこの上なく愛しているから他の女性の管理はできないさ。アルヴィス皇太子殿下は八歳以下の男児にしか興味がない変態だとでも返答しておけ。励んでいるか? ともな」
「そんな変質狂の主人は不要です。ブルットスでもあるまいに」
 皇太子殿下とその側近を取り囲んでいた輪が一歩引いた。「ご歓談中失礼いたしますぞ」割って入るユィーマン老侯爵に幾人かが助けを得たりと場所を譲る。
「どうしたんだいセルディアス?」
「若君、話のついででございます。こちらもご一読を。技術部からの奏上にございます」
 セルディアス=ルド=ユィーマンが「読め」と言ったからには、読むべき紙切れなのである。ざっと目を通した彼は優男の表情のまま無言でバティアスへまわす。
「ああ、技術学者とは面倒な生き物ですね」
「いかようにいたしますか、若」
<対人、対物においてまたとない機会、我らに硝薬実験参加の権を賜りたく――>
 アルヴィスはしばらく黙っていた。珍しくつらつらと考えているようで、ペンの動きが鈍い。セルディアスは見守る。
「――決めた。掻き集めろ。技師も薬も、全てだ」
「では各諸侯にも打診いたしましょう。今この手の者は多いはず、喜ばれますよ」
 打てば響くようにバティアスは手持ちの報告書から顔を上げ、草案の手配を配下に命じた。
「ではわたくしは陛下へその様に。失礼いたします」
 老侯爵は足取りも軽く退室する。夜気に冷ややかな廊下、すれ違いざま彼は子供のようにはしゃいだ顔で赤毛の男へ目配せをする。
「若はまったく何を考えておいでなのだろうな」
 イェインが何かを言う前に背中が横切っていく。聞かなくても分かるので問題はない。
 この時代、各国の技術学者が競い合うように開発に勤しむもの。『薬』と呼ばれるものが必要で、武の皇帝を介さなければならないもの。 切る、絞める、殴る、刺す、焼く――生物を痛めつける方策がまた一つ、東方遠来よりもたらされた技術によって増えようとしている。誰もが試したくて仕方がない。どんなことができるのか、どれほど強くなれるのか。技師らはこぞって夢中にうつつをぬかす。
 扉の外、身辺警護担当時間のイェインはやれやれとため息をついた。
「……まったくだ。何考えてんだか」
 それは一見、あらゆる者に対し死ねと言っているに等しくあらゆる者に対して利便性を約束するに等しい。
 放棄していた思考を取り戻し捏ね繰り回していると、にわかに執務室が別種の喧騒を帯びた。まんじりと見守っている間に口をあけた扉から垂れ耳犬が涼しい顔をして出てくる。
 音がどっと溢れ出た。「もうやめだやめ。白魚のような手が痛い、休憩させてくれなきゃ明日から引きこもるよ!!」「戯言を。ご自分で言っていれば世話はありません」「じゃあせめてここに署名を……っ!」「だから言ったじゃないですか、扉を外張りにしましょうって。毎回外から壊してもらわないと開かない感じにすればいいんです」
 押さえ役であるセルディアスが不在になった後のお約束である。一日の大半を仕事につぎ込んでいるくせに、まるでくたびれた様子のない朗らかさで男は言った。
「イェイン待たせたね」
「本当に待っていただけですよ、立っていただけです。どちらへお行きになりますか?」
「情報部で休憩だ。酒と果実が欲しいな」
 侍女たちがばたばたと準備に向かう様を目の端で追うこともなく主従と一頭はアルヴィスを筆頭に歩き始める。
「イェイン決めたよ。私は少し強欲になろうと思う」
 前を見据えたままとんでもないことを口走った。
「これ以上なにをどこを!?」
「失礼な私は謙虚だよ。でも、あと少し」
 アルヴィスは親指と人差し指で少しの量を物理的に披露してみせる。


  ◇ ◇ ◇


 前言通りシザックは座るのも時間が惜しいと戸口の指定席を譲らずに、困惑を呈したエミラティアへ「長い前口上となりますが、まずフィリオール様について」口火を切った。
「執事とは名ばかり、わたくしの実務は坊ちゃまの教育係でございます。と申しますのも『遅くにできた子供ほど可愛い』とはよく聞く話ですが我が主人レイモンド様も例に漏れず……ご本人は「大胆不敵の人間になって欲しかったんだよ」などと笑っておいででしたが、失礼を承知で言ってしまうと、辺境伯と宮廷侍女――身分違いでようやく結ばれた奥様との間に授かった御子がよほど可愛かったのでしょう」
 救いであったのはフィリオールが不満を抱いていたことだった。何をしても怒られることがないという現状に『これはおかしい』『不満である』と癇癪の形をして周囲の人間に知らしめていた。これらを言葉で形にできるようになったのはごく最近のことであるが。
「ただ、奥様はそのためかとても謙虚――恭謙(きょうけん)なお方。ともすればご自信の御子を『様』づけでお呼びになられそうなもので、フィリオール様に完全に萎縮なさっておいでです。ご当主二人がそれでは立ち行くはずもございません。旦那様も能吏でございますから、ご自身ができないのならと二年前わたくしを登用なさいました。フィリオール様を時期当主となさるのならば当然の判断でしょう」
 話の腰は折られなかった。
「――しかしまだ、幼いのです」
「当然でしょう」
 近づく核心にミュヒレイザは頷いて促す。
「精神的に未熟と言い換えてもいい。『ラティ』さん、坊ちゃまは貴女に母性を見ている節がある」
 真面目な顔で話を聞いているエミラティアに視線をぶつけた。
「これは良くない兆候です。貴女はいつ何時どのような目に合うとも知れない身。子供とは慈しまれるべきものだと仰るのならばどうかお願いします、フィリオール様に傷を与えないでいただきたい」
 女剣士の纏う空気が荒立ったがシザックは一顧だにしなかった。静かな声が響く。
「……あなたは私が死ぬことを前提として話をしているのですね」
「そうです」
 ミュヒレイザの腕を押さえながら、ティア=ローランは慎ましい笑みを零した。
「それは、さすがの私も傷つきます。死ぬつもりはありませんがフィオ君はよい子です、知人が亡くなってしまった時にはきっと悲しむでしょう。けれどもそれは心に血の重みを知るよい機会、当主となる者にとって悪いばかりではないはずですよ」
「それはいよいよをもって母親代行をおやめにならないということですか」
 苦言を呈した男に娘は軽く瞠目し、にこにこと頬を持ち上げる。
「あなたは優しいのですね。……フィオ君にとってこれ以上ない大きな味方です」
 エスティカリア帝室に傾倒しても良いことはない。利用されるか裏切られるか――行き着くところはそんなものだと思っておくのは、彼にとって一種の自衛に過ぎない。辺境伯に仕える者なのだ。
 だがしかし――
「口を開けば何か余計なことを言ってしまうかもしれません。ですから、気が向いたらで構いませんのであなたから伝言をお願いできますか? ――今私は皇国のリーガルト卿が従騎士です大目に見てください」
 なんとなくシザックはこの娘を物乞いのつぎはぎに準じる哀れなものに思えた。教会で与えられた着古された衣服、路傍で拾った襤褸布、大通りで盗んだ煌びやかな布。複雑に組み合わされたいっそ惨めな己だけの着物は帝都に飼われた人の匂いだった。
 同じ方法では勝てないだろうに、とシザックなどは思う。
「どうぞお母様の涙を拭えるくらい強い男の子になってください、と。それからこれが特に重要なのですが、あなたの執事は私へ死にそうだからあなたと仲良くするなと言うくらいあなたの最大の味方ですよと」
 前言を撤回する。
「……うちの教育方針にけちをつけないでいただきたい」
「みかん、白いところまで取って食べますか?」
 嫌に唐突に真面目な顔である。
「――……貴女はそうなさるのですか」
「そうですね、どちらかというと。しかし皇国では生よりも料理に使われることの方が多かったです。お肉と一緒に煮たり、小麦に練りこんで焼いたり、飲み物に浮かべたり、お酒にしたり……知っていますか、すっぱいみかんの食べ方」
「ジャムにでもしますか、わたくしは食べませんがね」
「ああジャムもいいですね。砂糖があるのなら中身を砂糖漬けにしてもいいでしょう。私の考えでは自分で育てたみかんならどんなものでもおいしい、なのですがそれもいいです。喜んで食べますよおいしいものは好きです」
 いっそ戸惑っているのように。あるいは脳内で順序立てて話されているのか、ゆっくりとした真摯な声は途切れがちであった。小賢しくまどろっこしいから苛立つのだとシザックは言い聞かせる。
「回りくどい話は結構、詩集の類から教訓を見るのは億劫です」
「ああ、ではこう問えば良かったですね。みかんを食べる時、白いところまで取って一個分差し出されるか、いつか必ず実のつく苗を貰うかどちらの方が嬉しいですか?」
 一番離れて欲しい場所――みかんからどうあっても離れるつもりがないらしい。ここで無視をするのはやはり不敬に問われるのだろうかとシザックが半ば本気で考えていたところ、内容は勝手に進展した。
「私なら後者です。どちらも貰ったものという点に違いはないはずですが、どうしてでしょう。みかんを食べることに、ある種の戸惑いがなくなります。いえ戸惑いと言うのは少しおかしいですね、より積極的になれると言い換えましょう」
 大真面目に独り合点し、
「自分で育てるからでしょうか、しかし木を育てるのは何よりも土地です。聞いた話ですが栽培に当たっては土と気温、日光が全てだといいます。条件が整わないのなら相応の人の手が必要になるわけですが、これは条件――土壌の改良であって人の手がみかんの木本体をどうこうするというわけではないと思うのですね。だから本来自分でできることなどとても限られてくる」
 シザックは表情を揺るがせないに勤めた。そうか、こういう女性だったのかと歯切れの悪い思いで見つめる。小賢しいのではない、学者の知り合いに多い種だ。口を挟まなければどこまでも自分の世界に浸る迷惑な人種、どちらにせよ性質が悪く、夜も遅いのでシザックは機会を待つことにした。
「でも育てたのです。と言うのも――昔、古い話です、小さな苗を育てたことがあるのですがね、ひょろひょろと木というよりは枝で……枝はたわんで細く頼りないくせに一つだけ実がつきました。私不思議で」
「糖を蓄えられるはずのない果実ですね。お食べに?」
「もちろんです、とてもすっぱくて渋かったですよ。おいしかったです」
 過去を見る亡羊とした双眸が訴えかける。終着点が見えた――気がした。面倒な話であるが前後をくんでやればいいのだ。苗とは世に接する己、土壌とは社会、果実とは成功。今なら象徴学か心理学の権威に敬意を払える。自分で開拓して骨など折りたくない。
「わたくしが、フィリオール様に<白いところを取ったみかん>を与えているだけにすぎないと?」
「逆です。あなたは優しいからフィオ君に苗を与えた。良い結果を出させることに尽力して、だからこそ彼が育てた実をことごとく挿げ替えているように見える。……やりすぎ、ですよ。市場で厳選されたみかんは甘いでしょうが蒔くことのできる種を得ることはできないのですから……ギムスティさん」
 己の弁を婉曲に伝えるための比喩。意外と意気地がないのかもしれない、とシザックは評価した。第一にしてエミラティアの弁を成立させるためには、彼女がみかんと同程度に無害でなければならず、一遍の悪意もあってはならない。みかんは人に噛み付かないが人は容易く人に噛み付く。見極めている間に貴人は怪我をする。責の行き着く先は無論執事の彼である。
 男が辟易としていることに気づいているだろうに、娘はいつもの表情で椅子に腰掛けいっそ前のめりになっていた。やはり図太いのかもしれなかった。
「簡単に言いましょう。私が死ぬ予定はあと四十年後くらいです。お土産はアガサス産綿花のハンカチーフにしますからね」
 とても、いらなかった。しかも、思っていた着地点と斜め四十五度の地点でずれていた。


「伝えられる箇所だけ見繕っておきます」と訪問者が辞去した室内は再び羽ペンの走る音に満たされている。小さな文机にはエミラティアが、応接机ではミュヒレイザがそれぞれ明日に備えていた。
「ねえミュヒ、あなたの一番古い記憶は何ですか?」
 蝋で封をしながらミュヒレイザは(たわむ)れに近い問いに、蜀台の炎がつける複雑な陰影で小さく微笑む。
「あれは、三歳の誕生日だったように思います。直系である母もまだ存命で盛大な生誕祭でした。父が百合の花とリーガルトの剣を授けてくださる誉れ高い日でもありましが、わたくしは目の前に置かれていた白い立派なケーキに夢中で……はやく食べさせてくれないだろうかとそんなことばかりを考えていました。子供じみたひどい記憶です」
 意外だと沈黙の次、押し殺し笑う主人を中心に穏やかな空気が生まれていく。
「なら私のはもっとひどいですよ。母の小言を聞きながら早く終わらないだろうかと上の空で母越しに窓の外を見ていたんですからね。今でもよくあの青さを覚えています。ああいった時ほど美しいのですから困ったものです」
 同じく意外だと沈黙の次、こちらは含み笑いを浮かべた。よくある話であるがエミラティアに該当するとは思っていなかった。
「後でお叱りを受けませんでしたか?」
「そこで悟られないようにするのが私の得意技なのですよ」
 手を止め向き直り、胸を張る。
「得意技ですか」
「はい! こう、視線をうろんにするとですね。いい感じにどこを見ているのか分からなくなるみたいで……。ね、得意技でしょう。最近では使える機会がめっきり減ってしまいましたが」
「確かに」
 くつくつと咽をふるわせるミュヒレイザは見事な銀剣を鞘ごとはずした。実用剣よりも刃自体細く柄が太めの造作である。十字に刻まれた紋は盾の上に交わった二本線、一本は剣を意味しもう一本は腕を意味する。リーガルト本家の略式紋章。
「正直言って、これが、役に立つ日が来ると思っていませんでした。そんなものなのでしょう」
「大切に大切に持っていたではないですか。十分です」
 そうですね、とリーガルトの女は静かに頷く。
 終止符を打ち、満面の笑みでエミラティアは羽ペンを置いた。労働の対価という意味でも実用という意味でも尊い羊皮紙を両手で掲げる。
<――アガサス王国リュベック=ルファイン=ディ=アガサス国王陛下におかれましては、何とぞよろしくお願い申し上げ奉ります>
 署名。
『エミラティア=リーズ=エスティカリア』
「できましたー! やっと眠れます」
「お疲れ様ですエミラティア様」
 後片付けをしながらそうだそうだ、と彼女は暖炉にくべる前にうさぎの絵を見せてみることにした。
「き狐……ですか」
「……」
 失敗作を焼きながら、なんでもないのですよと微笑む。

 夜が来て、朝が来る。
 朝がくる。


  ◇ ◇ ◇


「ラズーリ、ライナス状況は」
 早起きな宿屋の主に悟られないよう、普段よりさらに低いキース=マクレイズの声が路地に落ちる。彼が現場に残らなかったのは最年長であることと、左目がない目立つ風体をしているためであった。分かっているものの昨晩ベッドで寝られた身分は羨ましい、ラズーリはうらめしい思いを隠さずに伝えることにした。
「大丈ー夫です、問題なし。俺達が寝ないで張っていましたらからね」
「そうだな、若いから大丈夫だ。あちらで差し入れのようだぞ」
 気がつけば隣から忽然と姿が消え帝国皇太子妃手ずから具沢山のパンを受け取っている黒髪の青年騎士がいる。
「あ、ずりー」
 ラズーリは詳細を報告し差し入れの催促に向かった。
 この暢気な一幕を見下ろす目があった。男は宿屋の窓際に腰を下ろし、クルトンの浮いた温かなカップ――クリームスープを運ぶ口元を笑みに綻ばせる。長く見つめすぎていたことは十分承知していたし、何より隠れるつもりもなかったので意思を持って上げられた男の右目とかちあった時、彼は深く考えることもなく会釈を返した。
 男の名をギルファニード=キステという。
 しかめた眉すらも美しい女秘書が彼を呼んだ。
「ギル行儀が悪い。食事はテーブルで食え」
「ごめんね、まずいからいらないや。それよりメルディ外にお客様、食事は中断。寒い中待たせるわけにもいくまい?」
 世界をまたにかけたギルファニード協会の頂点であり原点の頭を、腰に手をあて秘書ははたく。
「だったらまず顔を洗って(ひげ)剃ってそのボッサボサの髪をなんとかしろ! まったく、私はお母さんじゃないんだぞ」
「うん、それもそうだねメルちゃんは愛人だものね」
 世界をまたにかけたギルファニード商会の頂点の姿だった。


 商会は宿を一つまるごと貸し切っていた。えらく美人の秘書と名乗る女性に導かれ、ギルファニードの取り巻きに監視されながら三名(エミラティア、ミュヒレイザ、キース)が通された部屋で出迎えたのは、なめらかに浅黒い肌が印象的な快活な男だった。ミュヒレイザの見立てでは年の頃はかろうじで二十代に足をつっこんでいるほど。実際にはもう少し多い三十三である。
 秘書と取り巻き、身辺を固めていた護衛すらも退出する。ここでキースがミュヒレイザに耳打ちをし彼らに続いた。
 ドアが閉ざされた。
 にこりにこりと馬鹿みたいに陽気なギルファニードは、暖炉の前、室内に似つかわしくない奥の総ビロード仕立ての上等な椅子から立ち上がるや否や貴族式の挨拶をする。
「これはこれははじめまして騎士殿、お噂は部下よりかねがね伺っております。拙はギルファニード商会代表三代目ギルファニード=キステ、しがない商人でございます」
「ミュヒレイザ=アイリラ=ド=リーガルト」
 ギルファニードは皇国の懸命な爵位に絡め取られている。居丈高な名に頷き、準男爵であるキステはうやうやしく椅子を譲るしかない。
「こちらへどうぞ伯爵令嬢、遠路よりよくぞおいでくださいました」
「エミラティア様こちらに」
 商人を無視した女剣士は右手を差し出し、宙を滑るように誘導し自身は後ろに下がる。赤い椅子に軍服を着た娘がゆっくりと腰を下ろした。ギルファニードは芝居じみた仰天で双眸を見開き、大きく息を吐いてから微苦笑する。
「はて、従騎士ティア=ローランと聞いていましたがねぇ。拙はお芝居には混ぜていただけないので?」
「混ぜません。はじめましてキステ準男爵、私の名を聞きたいですか?」
「いいえ、商売がたきの名を知らぬほど落ちぶれてはございませんとも皇女殿下。……本当に生きていらっしゃったのですねえ」
「ええ、幸いなことに」
 下と上、双方の笑顔が衝突する。
「どうぞお座り下さい。私は話をしに来たのですから」
「剣を持って来て話合いも糞もあったものではないような気がいたしますが――もちろんそうしますよ、ここは俺の部屋だからね。借金のお申し込み、賄賂取り引きとか愛の告白ならギルファニード商会までお気軽にどうぞ! 年中無休で受け付けていますよ」
 手綱を持つなら犬があんたを引っ張ることだってできるんだぜ、とギルファニードの目は確信している。どさりと長椅子に身を沈めた彼はふと思い立ったように言った。
「あ、飯食います? まずいんですけど」
「食いません」
 いっそ犬のような無邪気さで。

 でしょうねーと言いおいて、ギルファニードはヒスイの指輪がはまった右中指周辺を眺める。
「嫌な感じはしてたんですよね、金にならなさそうだなあって。俺の部下は世界に数多く居るけど多大な迷惑をこうむるのだろうなあってね、ほら案の定だもの。貴女が来た」
「皇国が戦火に巻き込まれればどの道商売はしにくくなりますよ」
「知ってます? 商会の始祖がサリアディートの国皇には借りがあるって、だからこそ蜘蛛の巣の張った義を重んじ俺達はあんた方を守ってきたんですがねえ。損をするのはいつだって弱者ですよ」
「守るとはこれいかに……共存の間違いではありませんか? 癒着の始まりは東方貿易の始まりだと聞いていますよ、皇国の海軍がそちらの商船を護衛したと。――国の後ろ盾がある商家は他国においても強くなりました」
「おいおい、貴女の中でいつから皇国の権勢が衰えていないんだ」
「あなたの中ではいつから皇国の権勢は衰えているのですか」
 エミラティアはゆるゆると頭を振った。
「いけませんね、これではただの擦り付け合いです。失礼を」
 一応、事前にシザックから辺境領の状況と経緯を聞いてはいる。聞いてはいるが役人目線であるだけに、『いつ、どこで、なにが起こった』のガチガチ三段論法で世論のどうだとか人情だとかが明々後日に放置されているので、実際に起こった流れを今一つ把握しきれていない部分が多い。
 辺境領で砂金が洗濯女、羊飼いに見つけられたという噂が流れた。以前から疑惑のあったものの真に金山ならば国の大事、山と川は封鎖され兵士が配置された。益を求める多くに混じってアガサス人が来た。兵士が切り殺した。
 解せない部分も多いがこれでどうしてそこまでアガサスが怒り狂える。人一人の命が軽いと言っているのではない、重いと怒るならば尚更なぜ国を挙げて動く。
「つかぬことを聞きますが、ここにいらっしゃる前は皇国でお仕事を?」
「もちろん剣術大会の季節ですからね。毎年、前後から拠点は皇都に固定するな」
「ではどこで砂金の話をお聞きになったのですか?」
「逆ですねえ、俺はまず戦争の話から聞いた。きな臭いってね」
 ――ならばあらかじめ火種があったということだ。
 煙はくすぶっていた。多分、もうずっと前から。百年前から?
 なぜ、どうしたことか関は通じている。
 誰に聞いたのか知りたかったが情報源の保護は重要なことだ、尋ねても教えてもらえるはずがない。長く沈黙するのは憚られたので次の質問を落とす。
「皇国を出たのはいつですか」
「第十皇女殿下が実は生きていたという話を耳にはさんだ頃……でしたかね」
 武器商でもある男は当然、誰にでも取り仕切れる皇国の祭りは途中であっても早々に辞去する、もしくはできるだろう。胸中で疑問がもたげた。皇都ライアガードレイドは港町、船はいくらでもやって来る。帝皇和親公約の情報が早急に海を追うことは可能である。
 ――追う?
 あれ、とエミラティアは左斜め上を見上げた。なんだか計算がとても合わないような気がしてきた。時の流れは一区切りできないが歴史の流れとなると話は別である。公約は間違いなく一区切りに値する出来事であるのにも関わらず、何を語るにしてもまるで出遅れている。
 根本的に何か思い違いをしているのだろうかと不安になる。具体的に列挙して上げることはできないがもやもやと事象に霧がかってきていることが証左だ。
 物事は割りと単純にできている。深くなるのは憎悪や愛情や――ややこしい人の感情というやつだけで、上滑り取り巻くものは気に入らないから排除するとか欲しいから略奪するとか恥ずかしいくらいに底が見える。
 和親公約よりも人が分かりやすく、相談しやすく、困るものとは何であるか。あの時、何が起こった。

 ――流れ込む人も物も繰り返せば惰性となる。けれどそれも。
 夜と海の狭間に炎の色が踊って見える――まもなくだ。

 エスティカリアの貴人が海を越えサリアディートへ上陸した。国の同士の交わりに準備期間がなかったとも思えない。さらに時間は繰り上がる。
 嘆息する。
「……アルヴィスさんですか」
「あの非人間がどうかしましたか?」
 ひどい言われようである。
「あの人がサリアディートを訪朝すると知ってあなた方は恐慌したのですね」
「おお、やっとそこまで話が来ましたか」
 カウチにだらしなくもたれていたギルファニードが脚を組みなおした。渋面になる。
「別に人間一人怖がったりしませんけどね、やーな男だと思いませんか。帝国の皇太子殿下が業界でなんて呼ばれてるか知ってます? 『揚げパンの穴』ですよ、笑えるくらいお似合いだ」
 腕をまで組んでうんうんと頷く。
「うまく手早く揚げるためにはなけりゃ困るんだが、実際に食べる時にはいらないよね、っていう。ほら、穴があるだけ勿体無い気がするじゃないですか。しかもあれでまだ舞台裏でこそこそやってるだけだっていうんですから、嫌味だと思ってなきゃやってられませんよねえ。あのツラなら女をやってればいいっつーに」
「お嫌いですか?」
「え、貴女好きなんですか?」
 混ぜ返されてしまった。
「ええ、はい。揚げパンはおいしいから好きですよ」
 にやにやと笑みを刷く男は一瞬目を丸くして、にやにや笑いを一段上げた。
「俺、いつか言ってやったことがあるんですね『飼いならそうとしてるみたいだけどな、坊やさん、俺達からしてみればあんた揚げパンの穴なんだぜ』って。そしたら何て言ってきたと思います『いいね、それ。花や月に例えられるのは聞き飽きているんだ。揚げパンはおいしいから好きだよ』ですよ! 連れの女はきゃーきゃー言うし俺は馬鹿みたいだしたまりませんよね。同じことを言った貴女も、ふふ――どうしようもないのだな」
「それは災難でしたね」
「朝からやる気のない返事とはつれないこと、さすがです。でもいいですか、俺達商人は欲しがる人間に望むものを提供するのが生業。だから、邪魔を、してはいけないんですよ? 恨まれてしまいますからね」
「恨む……」
「俺達は本来、お客様に対しては絶対的に親切です。今だって貴女の話を聞いて質問に対して答えを差し上げている。従順で純朴なかわいい従属だ。ただねえ、お客様って貴女一人じゃあないんだなあ。それでもって俺達にとってお客様はお金を持っている神様みたいな人のことでしてね」
「はあ。では商人は神様の僕として利益が出れば何をやってもいいのですね?」
「当たり前でしょう。貴族じゃあるまいし」
「そうですか、私にとってもありがたい素晴らしい心がけです。ではそんなあなたに一つお知らせを――ミュヒレイザ」
 こんなものがあるのですが、とエミラティアは受け取った古い書き付けをテーブルへ滑らせた。臙脂色をした装丁は角がよれ、表題は初めからない。
「……悲しい話ですが私の名と命に負い目を持つ人物がいるのですね。彼らは皇国で融通の利く一廉(ひとかど)の人物でして、例えばそうですね、一定個数の不買運動をしてもらうとか検閲を厳しくして出荷回転数を減らすとか不正商人と裏で癒着している大臣の取締りを強化するとか色々できるようでして、私最近むしゃくしゃすることが多いし八つ当たりに最適だしどうしようかなあ、と思ったり思わなかったりするのですが、どうしましょうか」
「……どうもしないでよろしいんじゃないでしょうか」
「どうしてですか」
「かわいそうじゃないですか、ギルファニードは無くならないのに徒労をさせちゃ。決まっている。もう商人は駆逐できないんですよ、例え今ここでリーガルト令嬢に俺が殺されても商会員を皆殺しにしても。俺達が築いていた地脈は残り、誰かが再構築する。俺達は――」
「あ、それでこっちなんですけど」
「聞けよ」
 はらり、書き付けは開かれた。
 男の怪訝な眉が跳ねる。
「ギート=クライド!! あんたどこで手に入れたんだ、すげえっ! あの爺さん船に乗せてやっても酒に酔わせても絶対中身は見せてくれなかったんだよなあ」
「私はどうあっても、あなたの頭脳と契約が欲しい。でも」
 区切って本を取り上げる。
「あ、けち臭いぜ。俺の身体が欲しいって言ったばかりなのに!」
「誤解を招く言い方はよして下さい。でもって言いましたよ! まだ迷っている最中です。私は砂金事件の顛末の詳細が知りたい。あなたは偽りなく話してくれますか?」
 ギルファニードは瞬く。
「あれ、知らなかったのか……? だから俺のところに来たんだと思ってたんだが。まあいいか。あれな、俺のところに来た依頼だよ」
 エミラティアは心臓の音を聞いた。軋み、首に頬に熱がくゆっていく。
「砂金が出るって言うのは本当だ。前々からありそうだっていう話はよく聞いていたんだが、エスティ辺境伯がうまく立ち回っていたみたいだな。立ち消えもみ消し、いつの間にかなかったことになっている。場所が場所だから」
「能吏だと聞きました」
「能吏だろうとも。強力な庇護の下もう何年も宝は土の中、もったいない話だ。そこへアルヴィス皇太子殿下サリアディート出立の報が舞い込んだ――俺、隣国、敵国、商売敵一斉にあの揚げパン何をやらかすつもりだとおろおろ。だがこう考えた奴もいた。帝国の頭脳が一人減っている今、だったらもう起こしちゃえばいいんじゃねーの。開き直った然る強欲なお方は俺に金で命じた。俺は二つ返事で頷いた」
「砂金を……起こしたのですね」
「噂を流させたのは俺じゃないけど、必要ならしただろうね。果たして舞台は整っていた。深夜、兵に金をつかませ地質調査と証して男を一人送り込んだ。名前はなんだっけな……そうだ、ガント・イセドア」
 膝の上で拳を握り締める。男、としか聞いていなかった人間の名だった。
「借金にまみれたアガサス商人だ、俺の元部下。命をやるから帳消しにしてくれと志願してきてね、今後女房子供には関わらないと念書にまで判を捺さされて参ったよ」
「もちろん、帰りの交通費(わいろ)は支払われなかった……」
「それもあるが切られたのは、いざ逃げ出されると困るんで酒と薬をしこたま仕込んだからだろうなあ。あいつ剣を持ってたから喚いて死ぬには十分な状況だ。帝国兵は優秀だからね、さて人間が一人死んだ。いよいよ砂金は夢物語ではいられず血の匂いのする現実へ大変身。俺の仕事終わり、ご清聴ありがとうございました」
 なんと、言えばいいのか。
 あめ色をしたテーブルの木目を数えながらエミラティアは曖昧に口角を歪める。舌が張り付いて動かない。罵るのは簡単だった。人道的に心が救われ何かをなしたような気分にさえ浸れる最善の行為。
 悪行だと、愚かだと、せりあがったものを飲み下す。汚泥をかき出すべく今すぐにでも咽を掻き毟りたい衝動を押さえるためさらにきつく拳を固める。意気地のない自分は大嫌いなのに、かくも容易くエミラティアはこける。
 人に殺されることが恐ろしい。
 ――我慢してあげた。
 人が殺されるのが恐ろしい。
 ――助けてあげた。
 人を殺させたくなどない。
 ――労わってあげた。
 いつだって最も恐ろしいものは湧き上がるように突出する。見えていなかったものが見える瞬間ほど恐ろしいものはない。
 愚者め愚者め愚者め! 罵り散らかし心を静めていく。もう違う、ここは墓の下ではないのだからなすべきを行わなければ誰も救われない。自分さえも。期待し待つだけの己はあれほど後悔したではないかと叱咤し、それでもやはり顔を背けたエミラティアはせめて後ろを振り返らないように努めた。
 せめて、人を侮辱しないように。侮辱してもっと醜いものへ成り下がらないように。
 息苦しさが緩んでいく。
「戦争は、誰が望みましたか」
「俺が望んだ。他の誰かも望んだ。いっぱいいるな」
「回避を望んでいる者はいますか」
「貴女が望んでいる。他の誰かも望んでいる。いっぱいいるだろうな」
 ギルファニード=キステは冷静な男だった。彼は自分と彼の部下だけの味方であり、金塊に仕えている。なんて迷妄しない生き方だと憧憬に近いものを抱く。
「これはあなた言うようにギート=クライドの書きつけです。彼は私の(せんせい)の師匠でした。シルドの家が研究を援助していたのですね。この人は、すごかった。千金を掴んでいたにも関わらず何も知らぬ子供のような顔でいつだって世界を追いかけていることができた人物です」
「だろうな、国の学者でもこうはいくまい星図を鼻紙寄越すみたいに投げやがった」
 諸国を放浪していたのは植生と岩石鉱物の区分を調べあげた地図の製作が目的であった、とシルドでは推測されている。空も地も神の慰撫。神を尊んだ老人による奇蹟をなぞる行為。読む者が読めば、文字列はあっという間に莫大な財産へ化ける。奇蹟の施しの一片に触れることができる。今、エミラティアはこれを盗もうとしている。
「ギルファニード=キステ私を助けて下さい」
「払うものがあるのでしたら、ギルファニードはいつだってお客様の味方ですよエミラティア様」
「その為に人を裏切って下さい、と頼んでもですか」
 にこりにこりと馬鹿みたいに陽気なギルファニードは、軽く首を傾げる。
「貴女が人を裏切るのであって、拙は拙の神に従うだけですから。一枚岩などないものです。同じことが貴女にも降りかかることがあるのだと貴女が理解をしてくださるのなら喜んで」