《企画二次会場部屋》



■海上余話


『航海初夜・読書』

 エスティカリア帝国船は徴収した力の結晶とも言える巨大な武装帆船であった。整然と屹立する四本のマストへ見事に組み合わせた白の横帆と縦帆が美しく、曲線美を描く船体は黒い――優美で無骨な船である。
 夜、篝火(かがりび)に灯された船内は賑やかだった。船の主から一律に祝酒を振舞われたためだ。耳を傾ければ陽気な声が歌声とともに響いてくる。
 取り引きの成功は喜ばしいものであるらしかった。加えて海の上、護衛船に囲まれた本船はまさしく夢幻の城、高揚するに十分なのだろうと十二分に察せられる。ミュヒレイザとイェイン、ソランを供に船内を散策した夕刻、皆折り目正しく異国の皇女エミラティア=リーズ=サリアディートへ一礼に伏し、中には感謝を述べる者さえいた。
「申し訳ございません……皆、若がご成婚なさることが面白くて仕方がないようで」
 当人よりもミュヒレイザへ気の引けたイェインを、面白おかしくソランが継いだ。
「あの方その手の話を今までどれだけ握りつぶしてきたと思います? まさしく蝿叩きのごとく! 物語のごとく! いえ、あたしだって詳しくは知りませんけどね、どーいう訳か最終的には向こうからなかったことにしてくれるんですよねえ。だーかーらっ――! なにすんのっ」
「基本的にはこちらの方が強い、ということらしいですよ。もったいないから安売りをしたくないそうです。これは男が何を言ってるんでしょうねという話ですね」
 イェインはソランの脇腹を少々力強く小突いた肘を戻す。
「基本的にですね、何を考えているのか理解するのに苦労する方です。おれはします。ですが貴女は当事者です、直接尋ねてみてもいいのではないでしょうか。もしうっかり弱点がみつかった時にはおれに教えて下さい。貴女に尽くしますから」
 それいいですね、とラティは笑った。
「……どのみち皇女殿下のお部屋は若のお隣ですしねー」
 それいつ決まったんですか、とラティは凍った。
 道理で部屋が大きすぎると思ったのだ。


 食堂での和やかなそれでいて緊張した晩餐を終え、道中同じくしてラティはアルヴィスと一室にいる。やはりと言うかなんと言うか、隣と言うよりも扉で区切られた一部屋――実質二部屋を二人で使う按配になっているらしかった。廊下に面した扉のある方をアルヴィスが、奥の不便な方をラティが使う。……部屋割りを決めた人間は今すぐ出頭するように。
 失礼します、と護衛が去った室内は静謐に切り取られている。アルヴィスの身辺は<皇太子殿下>の肩書きに反して妙に容易く、人がない。見張られていない。ラティはこんなにも身軽でいいのだろうかと明後日の方向に心配になったが思い直した。カーディス家の朝食にもこの男は単身でやって来たのだ。
 暖炉の炎がはぜた。
「料理は口にあったかな? 一応、皇国のものに合わせたつもりだけどね」
 アルヴィスはタイを緩めながら書をあさる。入室して奥の壁一面が書架になっている。
「はい、とてもおいしかったですよ。魚料理はどれも好きです」
 自室に移動するのも忘れて物珍しく見渡す。見渡す量の背表紙から判断するに、もしも航海の余暇を潰すためだけに用意されたのだとすればとんでもない書籍の無駄遣いであった。正直に言うなら入手経路の豊富さに驚嘆を覚える。
「ギブリオ、ジーン=クック、ドローシア、ゼネー」
 どきり、心臓が跳ねた。
 ぎぎぎとカウチにもたれかかったアルヴィスに向き直る。
「君には選択肢が二つあるな。一つはこのまま奥に引っ込んでこれらの書籍を無視すること。はたまたもう一つ――」
 一対の蒼が書架を見上げる。
「――……あの、邪魔をしてはなんですしお借りして」
「ほら、こちらへ」
 ひらひらと差し招ねかれた先に仰天してしまう。
 『こちら』男が腰掛ける新緑色のカウチの上、その傍らへ無造作に置かれたもの。
「なんでこんな場所にヴィオラスティ=ガルマン自記筆の束が……っ!」
「さっき見つけた彼の忘れ物だ。これは私が読もうと思っているんだけど、いいよ――おいでラティ見せてあげよう」
「すみませんお邪魔します」
 覗き込むよう隣に腰掛ける。文字のにじみ具合、羊皮紙のこすれ具合、まさしく本物である。ビオラスティ=ガルマンはこの船に乗ったのだ。そして旅をした。
「エスティカリアも後援に力を入れていたのですね」
「持っているだけでは価値がないからね、必要とされるなら金も船も使わなくては還元されない」
 アルヴィスは項をめくる。文字列を目で追う。アルヴィスは項をめくる。文字列を目で追う。

 過不足なく、ゆっくりとゆっくりと静謐な夜がふけていく。
 「はい、おしまい」と東の陽光に区切られるまで。





『航海二日目・剣戟演舞』

「ターナス殿、剣のお相手をお願いしたい」
 ミュヒレイザの低い声は海原(うなばら)に包囲された甲板で実に良く響いた。
 ポーンを握ったまま、思わずラティはアイスグレイで女剣士を顧みる。甲板で紅茶とチェスを繰り広げていた対面の相手――アルヴィスの頬杖に隠された口角が持ち上がった。
 海風に当たっていたわずかに青い顔のイェインはしばし沈黙したが、助けが寄越されることがなく、鋭角な双眸からは逃れられないのだと悟ると往生際悪く譲歩を求めた。
「あーっと、得物(えもの)はぼくと――」
「真剣でお願いする」
「……おいおい」
 まいった、と顔全体で表現し(つか)に手をおいたイェインは一つ、深く瞬くと小さく息を吐く。
「ソラン! 薬はあるか!!」
「そりゃもちろんよう」
 よしと頷いて男は顔色を変えた。青白い方向に。
「いいですよリーガルト卿、おれでよければお相手しましょう」


「剣戟だ! 決闘だ! 従属二人が遣り合うぞ!!」
「俺は男!」
「女に賭けにゃあ海の男じゃねえっ」
 きったはったと掛け声が飛び、金が鳴る。あっと言う間に船内は活気付いた。
「何だかイェインさん顔色が悪くなっていませんか……?」
 くい、と袖を引かれて身体が傾く。引かれた先、盤面を崩しテーブルに身を乗り出したアルヴィスに非常に嫌なものを覚えたラティは男の口を焼き菓子で封じた。押し込まれたものをもぐもぐとやり、紅茶で飲み下しながら曖昧に眉根を寄せる。
「酷いなラティ、雰囲気の欠片もないじゃないか。こういうことをする時はもう少し恥らいながらにして欲しいと私は思う」
「すみません、ついうっかりと。いけない手ですね。どうしましたか?」
「決まったことだよ。どちらに賭ける」
「ミュヒレイザに全てを」
 今度こそはっきりと、アルヴィスの柳眉が意思を持って寄せられた。
「なに言ってるの」
「イェインさんも強いですがミュヒも強いのですよ。かっこいいのですよ」
「アマゾネスが強いどうこうなんてどうでもいいよ、違うよ」
 この賭け事の甲乙は武の長短で決まるのではないのだろうか、と疑問を隠さずにいると真面目な頷きで肯定された。「では」と言い募ろうしたラティをアルヴィスは海へ逃がしながら蒼で撫でる。
「嘆かわしい。君は自分がなんでここにいると思っているんだか」
 わざとらしい溜息でやれやれと(かぶり)まで振られる。
「ラティ君は、根本的なところをやはり理解していない。いいかい、賭けるということは投げ打つということだよ。人に委ねるということだよ。ご自由にどうぞということだよ」
「そんな三つも同じ言葉を重ねなくても……」
「君は他人の財布で買い物をするかい? 他人の剣で戦うのかい? 他人の皿からものを食べるのかい? いけないなあ、私は許さないよ。今すぐ訂正したまえエミラティア!」
「訂正ですか」
 さて、この人は一体なにに腹を立てているのだろうかと時間と言葉を遡り、ラティは一つ仮説を立ててみた。
 甲板では今まさに対峙しあった者達の剣が抜かれようとしている。
「ミュヒに賭けたこと自体はあなたはどうでもいいと言った。ならば賭けたもののことなのでしょうが……」
 光をはじく銀と鋼の切っ先が交わる。
「賭けたもの、そのものだよ。全てとは冗談じゃないな」
「どうしてですか? 支払われるものとして私は言ったのではありませんよ、心のありさまを答えたのです。ミュヒレイザは強い、と私は自慢した」
「また答えがずれた。君はこの船に乗ったのだろう?」
 ティーカップを手のひらで包み、ラティははたと真顔になった。ひらめいてしまった。
「あの、アルヴィスさん」
「言ってみなさい」
「私の身柄はすでに帝国に属するもの、ゆえに全てを賭けると言うのは私が私自身をどうこうできるものではない以上不当な越権行為である――そういうことでしょうか? なんですか、堅いことを言うものではありませんよっ。ミュヒレイザは私の同郷、剣を振るうを得意とする者。私が応援しなくてどうするのです」
 錐揉(きりも)みした剣戟にわっと一際大きく人々が沸いた。ミュヒレイザの剣が受け太刀のお手本のようなイェインの剣はじき返された瞬間だった。珍しいなと瞬く。
 リーガルトの剣は受け太刀を好まない。生き残ることを目的とした剣は殺すよりも流すを得意とした。触れ合わせず、滑り込み、切る。あるいは距離をとる。
「ラティ」
「はいアルヴィスさん」
「君は、誤解をしている」
「していますか」
「している。いいかい、君がここにいるのは帝国が望んだからじゃないよ。私が、そうしたからだ。だからねラティ、往々にして君は私に属しているんだよ。ゆえに君の身柄は君のものじゃないんだ。これは重要なことだよ」
 面食らったラティは考えている間優男の顔を見つめ続け、うんと頷くと再度視線を合わせた。
 つまる所こういうことではなかろうか。

『お前は俺のものだ』

「なんだか睦言みたいですね」
 見解を述べる。
「すこし、困りました」
 アルヴィスは豆をくらった鳩のように目を丸くした。給仕をしていたソランが思わず明々後日の方向を向き「みたいって!」肩を振るわせる。
「ラティ……」
「はい?」
「……そっちのレーズンの焼き菓子取って」
「あ、はい。どうぞ召し上がれ。おいしいですね」


 剣は双方共に強かった。より強いのは男の剣であった。野次や煽りが飛び交う中イェイン=ターナスの剣はおおらかに、踏み込まれた剣をなぎ払う。ミュヒレイザの双眸の強さが増す。
 見守る者の背筋が伸びた。
 銀剣がひるんだ隙をついて黒皮の手袋が剣の首を掴み、ひねり、女剣士の首筋に剣が押し当てられる。鋼に映った己の像を発見し敗北者は咽をならした。蹴り上げようとした足さえ踏まれ封じられていた。
「……参りました」
 剣は直ちに黒鞘へと戻される。向けられた一礼にイェインは会釈を返し、次いで確認をすませると「よし」胸を撫で下ろした。
「よかったです、怪我はないみたいですね」
「突然の申し出にも関わらず本当にありがとうございましたターナス殿」
「おれこそ感謝しますよ。剣を触って船酔いが幾分さめたような気がします」
 女剣士は顔をしかめた。
「……触って、とは手厳しいこと。しかし納得をしてしまう自分が悔しいです……」
 もう一度一礼して、人ごみを掻き分けながら椅子から立ち上がったエミラティアの元へ向かうミュヒレイザにイェインは苦笑した。かすり傷を負った頬がひりひりと存在を主張している。
「ようニイちゃん、やるな!」
「儲けさせてもらったぜ助かるよ」
「女に刃物をむけるとは不逞野郎だぜ。ったく」
 冷やかしを適当に受け流しながら、ソランの姿を探す。細い手がぶんぶんと人垣から振られた。
「イーちゃんこっち!」
「誰がイーちゃんだ」
「はい、どーぞ。ご所望のソランさんお手製のお薬ですよ」
 軟膏壺を受け取る。
「悪いな」
「まったく、格好悪いったらないわ。切られてるんだから切り返せばいいじゃない」
 イェインは肩をすくめた。
「これは、切られたんじゃない当たったんだ」
「はいはい、どーせ女だからでしょー」
 イェインは苦く笑った。





『航海三日目・午睡』

 昼食後、本を読みながらラティはとうとう限界を突破した。帝都の人間を悩ませる船の揺れすら揺籃のごとく感じられるあたり末期症状である。
 書架を避ける穏やかな日差しがこれに拍車をかけ、取り落としてはいけないと借り物の本を置く。ひどく眠たかった。頭の片隅で申し訳ないと思ったがそれすらも凌駕する眠気。うつつと見渡せばアルヴィスと共有する室内には今、誰もいない。ミュヒレイザすら気遣いのひざ掛けを彼女に被せ掛けてから「ごゆっくりとお過ごし下さい」退室した。
 ――ここはやはり静かだ。
 柔らかな毛皮貼りの長椅子に抱き込まれながら、ほんのわずかのつもりで瞼を落とした。

 人の音がしない場所は不安になる。
 航海三日目にしてようやく根底からラティの意識は途切れた。


 途切れ、次に見開いたラティのアイスグレイは伸ばされた指を目撃した。眼球の直前で白い指は困惑したように震え静止する。やわく拳の形に握りこまれる。
「アルヴィスさん……?」
「眠っていなさい」
 夢うつつにそっと前髪をからめ額に触れられる冷たい感触が怖い。心が静まり落ち着いていくことが、怖い。
「馬鹿だね、何も怖くないよ」
「でも」
「怖くない。ここは静かだろう? 君の場所だからね」
 目の上に手のひらが乗り、おぼろげな視界が奪われた。暗さに眠りを誘われ「これはまずい」と躊躇なく跳ね起きる。寝てはいけなかったはずだ。
 身を起こすため付いた手のひらが、柔らかい足場に沈んで体が傾(かし)ぐ。影が去り、意識に上った周囲の相違する様子にラティは仰天した。書架が消えている。椅子の数が減っている。柔らかいのも当然、体がどこまでも沈みこんでいきそうだと錯覚する場所は航海初日に与えられた寝台の上。
 エミラティアの船室であった。
「……なんで私、移動しているんですか」
「眠るときは寝台を使うものだよ」
「……誰に運んでいただいたのでしょうか」
「君を心配した人間の手で」
「アルヴィスさん」
「何かな」
 泳ぐ目でラティは首をすくめた。
「お手数をおかけして申し訳ありません……お布団までかけていただいたようで、ありがとうございました」
「ああ、うん。まったく真面目だね君は」
 アルヴィスは小さく笑う。
 周囲の人間が働いている時に眠りこけている人間のどこが真面目なのだろうかと、首をかしげた。





『航海最終日・あなたは海を知っているか?』

「五日目ともなるとさすがにそろそろ陸地が恋しくなって参りましたね。エミラティア様、冷えませんか」
 早朝。一心に海面を眺める主の肩に、ミュヒレイザは言葉と共に上着を着せ掛けた。
「ミュヒは疲れてきましたか?」
「逆です。潮風も波もかまわないのですが怠惰でいけません。身体が鈍りそうで不安になります」
「おとついの剣戟は見事でしたよ、格好よかったです」
「ありがとうござます。しかし世は広いと思い知りました。わたくしの剣は、もう少しやれると思っていたのですが」
 エミラティアは海から甲板に視線を移し、ミュヒレイザを見上げた。
「あなたは海を知っていますか?」
「皇国海軍の船へ同行したことは幾度かありますが、知っていると胸を張れるほど存じては……しかしいつでもここは広大ですね」
 倦むほどに広大で怠惰な存在は神代の時を思わせた。ただそこに横たわるだけで、生かし、殺し、揺り動かす。ル・ゼータの抱擁。
「はい。私もまさかこのような形で船に乗るとは思っていませんでした――美しいです。見ていても、上に居ても変わりませんね。この蒼さはどこからやって来るのでしょうか」
 見上げる空も青かった。
「水に顔を映すようなものなのでしょうか。でもそれでは濃紺の海に説明がつきませんからきっともっと、何か不思議なことが起こっているのですよ。月が赤くなることと一緒で私の不思議で知りたいことの一つです」
「知りたいとお思いになる貴女ならばきっと、お分かりになる日がきます」
「ミュヒ」
 女剣士の穏やかな目元にエミラティアは笑んだ。
「本当に、不思議なことは私が今ここにいることなんですけどね」
 潮風に髪が揺れた。




「……なんか違いますよね。こう、おれが思ってる感じと」
「お前の言う『こう』とはやっぱり静かだということだろうね。まあ女性だからね、この海を制してやると無謀に思ってみたり一人で無駄なことに感傷的になったりしないんだよ」
「そんなの性別関係ないですよ。彼女あれで初めてなんでしょう?」
「初めてと言っても内陸育ちの私たちと違って海育ちだ。ライアガードレイドは港町だよ」
「そりゃそうですけど……自分がものすごく餓鬼みたいな気がする」
「そう? 私は自分が実は感性豊かなのだと感動しているところだけど」




<内容内訳>
■読書:『ラティとアルヴィスのほのぼの』
一室に二人、夜を明かして一冊の本を読む関係はほのぼのと言えるのか……枯れてはいませんか。
■剣戟演舞:『鬱陶しいアルヴィスをあしらうラティ』
そんな訳で口説かせてみましたが直球であしらわれています。
■午睡:『無警戒ラティに接近するアルヴィス』
「うっかりときめいてしまった」と感想を頂くなど一番反響のあった小話です。
■海:『ラティが初めて海を見た感想はどんなものですか?』
非常に反応薄いです、芸人にはなれませんね。

■何てことはない余話


『イェインの何てことはない労働環境』

 昨夜は酷かったな、と彼は遅い来る睡魔に両目をしぱたかせた。不逞(ふてい)のやからが一晩で三人。一度に全部が現れれば一眠りすることもできただろうが、一人独房へ突き入れ、一人警邏へ引き渡し、一人は捕縛を助太刀し――している内に夜は明けてしまった。一体何をすればここまで恨みを買うことができるのかと雇用主に思い馳せあくびをし、厨房へ顔を出す。動き回って腹が減った。
 白い服をきた料理人たちの朝はすこぶる早い。城の貴人たちのためにパンを焼き、菓子をこしらえ、肉をさばく。毎朝、毎昼、毎夜。自分の口には決して入ることのない料理の為にご苦労なことだと今更ながらに思い、朝食の準備に駆け回る下働きの一人を捕まえる。
「何かあるか?」
 イェインの顔は城内の者にはよく知られていた。悪い意味で。
 ん、と顎で示された先には上質の残り物が今まさに廃棄されようとしている。どうもと頭を下げ、硬くなったパンをナイフで切り適当に肉だの野菜だのを乗せ、もう一度どうもと言った彼は適当な場所を陣取り、半分眠った目で一口ぱくついた。
 二口目でうまさを感じ、三口目で完食する。

 嫌悪と好機の視線の中、三度目「どうも」彼は厨房を去った。途中、椅子に足をぶつけてうずくまる。
 比較的顔見知りの男が言った。
「馬鹿だな、目がついてるんだから前見て歩けよ」
「……おれもそう思う」


 彼の主、アルヴィス=セルトベルク=フォン=エスティカリアの朝は早い。と言うよりも彼は主が眠っているところを見たことがなかった。夜の間に起こったことを報告するべく私室を訪れると、いつものように侍女に囲まれながら寄ってたかって衣装を整えられている。
「失礼します、イェインです。若、昨晩の件ですが……」
「へえ、そうなの。トライラントは君にそんなことを……紳士の風上にもおけない男だね――覚えておくよ」
 きゃっきゃと話が弾んでいた。「そうです、ひどいのですわっ。いやらしい」「もー殿下ってばまた覚えておかれるだけでしょう? ミゼラが本気にしてしまいますよ〜」「そうですわ、紳士の風上にも置けませんよ! もうっ」
「まだ若いからね、紳士と呼ばれるにはまだまだ早いね。すごく残念だけど」
 心の底から適当なことを言ってるよと桃色の空気を生暖かく見守っていると「私も暇じゃないからなあ。まったく朝は眠たいし、嫌だねえ。でも、覚えておくから。ああイェイン続けて」垂らした長髪を慣れた手つきでくくりながらアルヴィスは促した。「君たちもご苦労。また後で」粛々と女達が礼を取り退室していく。
「昨晩は三人切りだったそうじゃないか。今日、明日あたりものすごく怪しいな。絶対大口のやつが来るよ」
「耳のお早いことで。そんなわけなので、殺されないようにお気をつけ下さい。おれ、新しい就職先まだ見つけてませんからね」
「就職!」
 声を立てて笑う太子に、肩をすくめる。笑いごとじゃない。
「だったら尚更職務怠慢はいけないな、私を殺させないようにするのもお前の仕事だろう?」
「……怠慢してないからズタボロなんですけどね! もう五日です。おれは修行僧か何かですか。不眠で悟りを開くつもりはありませんよ!!」
「そっか、不器用だな。……うまくやれば教会に再就職できたのに」
 哀れんだ目である。かわいそうなものを見る目である。そんなものいらないから休暇をくれと訴えかけてみたくなったが、意味がないので自重した。
 死なれては困る。彼の沽券に関わる何よりも先立つこと。
「――で、本日の仕事はいかように?」
「うん、いい返事だ」
 にこりと笑んで続ける。
「喜んで良いよイェイン、今日はたっぷりと『休暇』を過ごしてくれ」
 真っ先に考え付いたのは邪魔者の存在であった。
「ソランは?」
「……お前も苦労するな。大丈夫だ、それも私の方で預かるよ。正真正銘一人で休暇」
 確認事項について二、三口を開いて散会する。


「確かに、そうかもしれない」
 不器用になっているかもしれない。
 いきなり休めと言われても困るわけで。これじゃあ仕事が好きみたいじゃないかと頭をふってみたが、『休暇』だから、と帝都に放り出されてしまった彼は事実途方にくれていた。さすがに酒場には行きたくない。かといって眠ってしまうのも駄目だ。今それをやると間違いなく前後不覚になる。
 白昼、天下の噴水前でデカイ図体の剣士がぼうっ座り込んでいると紛れもなく不審者のようであるので、イェインはぼちぼちと適当に歩くことにした。
 路地裏を選んで歩き喧嘩を殴り潰し、不意打ちのお礼参りを返り討ちにする。晴れやかな気分で少し空白に考えて、なんでやっぱり仕事みたいなことをしてるんだろうと思わず天を仰いだところ外套の裾は引かれた。
「おい、ちょっと……」
 大きな布を頭からかぶった子供、であった。
 いかにも貧しそうな痩せた少年が懸命に彼を見上げている。
「なんだ坊主、こいつらの中にお前の親でもいたか……?」
「いねえ」
「だったら上げ前でも盗まれたか。殴られやがって……よし、懐のもの持って行っちまいな」
 うんと頷き伸びた酔漢から財布を抜いた少年は、従順にそのままを彼に差し出した。
「いらん」
「おっさん、強いか?」
「見てわからねーか?」
「そうか強いな。だったらあっちにも殴りがいのある悪党はいるぜ」
 行こうと裾を引くので、しゃがんで小突く。
「馬鹿だなお前」
「なんだよっ」
「おれが正義の味方みたいに見えるのか?」
「こんな小汚い正義なんているか」
「おっと、正直な餓鬼だ。だったら欲張るんじゃない。おれの小間使いになっても、お前を子分にはしてやれねえんだぜ。分け前が欲しいなら他所をあたんな――そいつらに顔を見られたらお前、殺されるぞ」
 ぐっと唇をかむ頭をぐりぐりと押さえつけた。
「こう言った方が分かりやすいか? そこで伸びてるお前の仲間と、仲良くしとけ。騙したいならもっと上手くやんな。おれはタダ働きはごめんだね、なにしろ高給取りだから」
 うるせーと駆け去った子供にやれやれと腰を上げる。空になったポケットに手を突っ込んだ。
「……手癖の悪いやつ」


 彼は二日、言われたように休暇を帝都で過ごした。


 二日目の夜――頃合じみてきた夜、忍び寄るようにして城に舞い戻ったイェインはその者の背後を取る。
 振り返られる前に切り捨てた。どさりと大理石に死が転がる。

 『大口』は弱かった。

「イェイン=ターナスただ今帰りました。生きていますか?」
「や、お疲れ。休暇はどうだった?」
「財布をすられました。あとは、果物屋のおばちゃんに『昼間っからブラブラしていやだよこの放蕩モン!』と怒られたくらいでしょうか……理不尽です」
「人生そのものじゃないか。素晴らしいね」
「おれの人生は理不尽ですか……」
「で、たっぷりと休憩できたことろで明日からちょっと出張してもらいたいんだけど」
 なるほど、理不尽だった。





『何てことはないアルヴィスとラティ』

 垂れ耳犬はわしわしと額を撫でてやると迷惑そうに両目を眇めた。
 人のような表情の変化に驚き、ついでラティは笑みを広げる。
「犬が好きなのかい?」
「生き物を自分の手で飼ったことがないので、好きか嫌いか言い切ることはできませんが――柔らかくてかわいいです。感情豊かですね」
 城で飼われている犬だけあって毛並みは美しく、瞳は理知的で非の打ち所がない。
 隣で膝を折ったアルヴィスは代わって愛犬に手を置いた。打って変わって甘えた表情になる垂れ耳犬に、ラティはきらきらと表情を明るくした。
「ほら、アルヴィスさんが撫でている時の方がずっと穏やかな顔になります。区別がついているのですね、とても賢いです」
 そんなものかな、と咽元をくすぐりながらアルヴィスは含みのある顔で相好を崩した。
「では君は怖くはないのだね」
「はい」
「――本当に?」
 質の違う青が見合わせる。
「……怖がって欲しいのですか?」
「ジェイは狩猟犬だよ。……血に濡れた獲物を銜えることもあれば、厳然と命のありかを教える。時には主人の身を守るために対象を襲うことも、ある……」
「言葉の調子がおかしいですよ! なんですか、その地獄の番犬を語るみたいな口調はっ。ジェイディストレイひどいですね、勇敢であるように人が教えたのでしょう? だったらできることを褒めなければいけませんね」
 ジェイディストレイは勇敢ですね良い子良い子と再度かまい始めた娘に、アルヴィスは「だからね」と立ち上がった。

「コイツはこういうこともできるんだよ。――ジェイ、おいで」
 犬を従え、「どこに行くんですか!?」ラティの手を掴んで、園庭へ足を向ける。
 日差しと緑の溢れる敷地に出たアルヴィスは目を細め「見ててね」とテーブルセットにラティを腰掛けさせた。
 お約束の「おすわり」「お手」「おかわり」から始まって「伏せ」「待て」を披露していくジェイディストレイ号に感嘆の声を上げるラティは優秀な観客であった。
「凄いです! ジェイディストレイ賢いです! どうして言葉が分かるのでしょうか。ああ、本当に賢いのですねっ!」
「これを持っていてね」
 手渡されたものは小さく裂かれた干し肉であった。
 アルヴィスは離れた場所で垂れ耳犬を伏せの体勢で静止させ、ラティの隣に戻ってくる。
「君がやってごらん」
 呼び寄せるための指示は三種類ある。足音をたてないように戻る、ただ戻ってくる、走って戻ってくる。
 ラティは三番目を選択した。打てば響くようにジェイディストレイは尾を水平にして駆けて来る。膝元で理知的な目で彼女を見上げた。
「……おすわり」
 犬はすました顔でおすわりをする。
「伏せ」
 犬はなんてことはない顔で伏せる。
「立て」
 犬はもちろん立ち上がる。
「……〜〜〜!!!」
 あ、頭を撫でたい、撫でて良いだろうか――撫でよう。驚かせないようにゆっくりと手を差し出し、差し出された(おとがい)に我慢しきれなくなってわしわしと首筋をまぜた。
「賢いです、賢いです! はい、これをどうぞっ」
 嬉しそうに尾を振って食べてくれたことに益々の感動を覚えるラティである。にこにこにこにこなでなでなでなで零れ落ちる笑顔で撫で続ける。どれほどそうしていただろうか、思わず母語で呟きを漏らした。
「……かわいいですね」
 万感のしみじみとした声音。頭上にコホンと咳払いが落ちた。
「ラティ」
「はい」
 視線はお座りから伏せの体勢へ移行したジェイディストレイ号に釘付けである。
「ラティ?」
「はい、どうかしましたか」
 だらりと全身を楽にする垂れ耳犬から――自分の前でくつろいでいてくれることが嬉しかった、目を離せない。
「ラティ、あのね」
 三度、呼ばれた方向へようやく顔を向けると、アルヴィスはこれ以上ないほどの笑顔でこちらを見ていた。
 思わず目をまるくする。
「……なにがそんなに不服なのですかアルヴィスさん?」
 あなたのジェイディストレイはこんなに賢くてかわいいのに。
「笑顔なのに不服だと言われてもね」と皇太子殿下はふい、と横を向く。
「いいかいラティ」
「はい」
「それができることは、私にもできるんだからね」
 真剣な表情を図りかねている間に手をとられ、白い男の手が姫君よろしく重ねられる。
 見覚えのある構図に虚をつかれた。つい先ほど、このような光景をラティは確かに目撃した。本当についさっき。
 空白の頭でこの人は一体どうしてしまったのだろうかとぐるぐると考えて、やっぱりありえて欲しくなかったので払拭するべく言葉を放った。
「……アルヴィスさん」
「何かな」
「私は、ここは『おかわり』と言うべきなのですか……」
 にやり、悪い顔の左手が右手に重なった。
 重なり、握られ、引かれる。

「これで私は『良い子』と盛大に褒められなければならないような気がするのだけど――ラティ?」

 垂れ耳犬はあさっての方向へあくびをした。




『つづき』


 ▼ラティ は アルヴィス につかまった!

  逃げられない!
  たたかう
    フライパンでなぐる
   →ミュヒレイザをしょうかん
    イェインをよぶ
  どうぐ





 ラティは誰の助けも呼ばなかった。もちろんフライパンで殴らなかった。節度ある淑女なのだ。
「いいですよ」
 にやり、悪どく笑ったラティは背伸びをする。
 プラチナブロンドの頭髪にその手を置き、固まった男に小さく笑いかける。
「良い子ですねアルヴィスさん」
 凝固し、沈黙したアルヴィスからの手からするりと自分のものを奪還する。あ、と目で追うアルヴィスの頭をもう一度撫でた。
「良い子です」
 うつむき、男はやれやれと微苦笑した。





『ソランの何てことはない日常』

 ここ最近の<顧客>の部屋を滑り出たソランは朝の空気を肺に取り込んだ。ああ寒いと体を揺すりながらあくびをする。
「……ったく、こういう時は宮勤めってのは不便よねえ」
 以前、住んでいた場所は自分のため以外に働く必要ない場所であった。ああ帰りたいなあとブツブツ言いながらイェインのねぐらに近づくにつれ足音を殺していく。
 イェイン=ターナスの激務は知っている。顎で使われ、適当に扱われ、それでも信を得ている馬鹿者。
 イェイン=ターナスの剣を知っている。強く、情けなく、でもだらしがない愚者。
 彼を思う時ソランは不思議と気分が高揚する。どうにかしたくて仕方がなくなる。明け方、いつものように仮眠を取っている赤毛の男を見下ろした。己が手の中のものと見比べて、微笑む。
「今日はちょっと、虫の居所が悪いし……どうにかしても構わないかしら」
 振りかぶり首を狙って振り下ろした腕を勢い掴まれる。骨に響くような不協和の拘束と不機嫌な黒い目に見上げられてソランは思わず頬を染めた。
「良い訳あるか……っ! おれが何をしたって言うんだ。とりあえず、持っている物を捨ててくれ、頼むからっ」
 毒濡れナイフ。
「捨てちゃうわっ! 衰えていないのねえ、イーちゃん好き!!」
「勘弁してくれよ、おれさっき眠ったところなんだぞ……」
「そ。あたしはさっき起きたところだわー」
 本気で立腹し始めたらしい気配に、双眸を歪めてソランは顔を覗き込んだ。
「例の顧客にあたし、売ったわよ。薬」
「……」
「お金、たくさんもらえたけど、まーた死人が出るわねえ」
「……分かった、若にはおれから伝えておく。出て行け」
 痛みに負けてナイフを手放し、緩んだ拘束からソランは上体を起こした。
「ねえイェイン」
 剣士は夢うつつに浸っている。
「あなたってば本当にしぶといのね。素敵だわ」
「お前よりましだと思う。お前を素敵だとは思わんが――もう少し、身持ちを堅くしろ馬鹿女」
「馬鹿に馬鹿と言われるほどむかつくこともないわ〜。イェイン」
「……なに」
「ありがと」

 幾分気分が晴れたので浮き足立って自室に下がった。ソラン=ネーデを雇用しているのは帝国ではない、アルヴィスその人だ。彼女の仕事とはアルヴィスの気まぐれそのものであり、毒物の研究でもある。どこそこの人間が毒殺された、入手経路は分かるか。などと言った見当違いなことを尋ねてくる官僚もいるが、まったくのお門違いというもの。ソランにできるのは人を殺す毒を作り、その毒を中和することばかりで、同業者の邪魔立てまで含まれて居ないのである。
 自室に並べられた植物群。初めて彼女の部屋に足を踏み入れた者は皆一様に、意味が分かろうと分かるまいと『見事ですね』と誉めそやす彼女の自慢の品々だった。
 赤い花に水をやる。この花の根は乾かして粉末状にすると手足をしびれさせる薬になる。
 青々と茂った草に水をやる。この草の葉は干して燻すと頭をおかしくする薬になる。
 白い花に水をやる。この花は美しいから水をやる。
 匂いの強い香草に水をやる。これは摘んで吊るしておくと気が落ち着く薬になる。
 全て平等に水を与え終え、ブリキの容器を置いた。窓の外をみる。
「そろそろ働かないとだめかしら」
 日は昇る。
 アルヴィスが本格的に動き始める時間であろう。逆らいたくない。
 ああ、あたしって真面目だわ。と彼女は自室を後にした。
「イェイン=ターナスと次に会えるのはやっぱり夜なのよねー」
 でももしかすると、アルヴィスの周囲をうろついているともっと早くに会えるかもしれないのでやはりソランは働くことにした。





『アルヴィスの何てことはない一日』

 侍女はアルヴィス=セルベルク=フォン=エスティカリアの前に茶器を置いた。文字を目で追いながら湯気たちのぼるそれに手をかけたアルヴィスは口元に運び、水面を乱すことなく、何事もなかったように皿に戻した。
「ソラン、駄目だ。なってない」
 書類を繰る。
「まだ湯気にロルック(毒草の名)の匂いが混じっているよ。こんな不出来で半端物じゃあ金を払っているのが勿体無いと思ってしまう」
「あーそうですよねえ……すみません。あたしも今一つ消せてないかなあと思ってたんですよね。難しいなあ」
「やっぱり温かいもの、いや紅茶と言うべきだな――淡い香りを楽しむ物への使用は難しいんじゃないかい?」
「そこを何とかするのが『プロ』というヤツじゃないですか! 新しい毒物への可能性は探さなくては見つかりません。そうですねあたしの理想としては当事者が知らない間に絶命できる毒というものなんですけどね、これは言わば魔法のようなものでいいですか若――」
 部下の研究と成長を微笑ましく見守ってやるのも良き上司の仕事であるので、適当に相槌を打ちながら聞いてやることにした。
 書類を繰る。
「そんなわけで微小な匂いはどうしたって消えません、だから最終的な紅茶毒の落としどころとしては香りの段階でヌナ(毒花の名)あたりを使って対象者の嗜好を強烈に引いて口にせざるを得ないみたいな感じに持っていくのが良いんじゃないかと思うんです! でもそれがまた難しいわけですよこれが、ほら今度は匂いや味に整合性がなくなってくるんですよねぇ不味い紅茶なんて本末転倒もいいところで下手すれば相殺し合って致死量の計算が狂ってしまいます。均整の取れていないものなど美しくありませんわ。ああ、じゃあリドー(毒草の名)でも使えばいいのかしらあら案外良いかもしれない――若!」
「はいはい、頑張ってきなさい」
「はい!」
 と歯切れのいい良い返事にアルヴィスは茶器を指差す。
 書類を繰る。
「どこかに消える前に普通のやつ淹れてくれ。死なないやつ」
「ではソランオリジナルブレンド五番を一つ」

 ソランは退室した。
 以前相談したことの続きとは言え、事前に「今から毒入り紅茶を出しますから、ちょっとみてくれませんか?」などと彼女は言わなかった。もちろん寸前で止めるつもりでいたし、いざとなれば中和薬は持っている。
 紅葉する頬に手のひらを当てる。
「ああ、すてきだわ……」


 剣士はアルヴィス=セルトベルク=フォン=エスティカリアに命じられ探してきた資料を重ね置いた。椅子は無人であった。
「……逃げたな」
 遠くからイェインの名を呼ぶユィーマンの声が聞こえる。
 さて、今日はどこにいるだろうか。厨房か、(なか)園丁か、侍女らのところか。最近の気に入りである温室はそろそろ飽きてきた頃だろう。
 今すぐに行ってもまず間違いなく見つからないので、イェインは呼び声からとんずらすることにした。


 絵師はアルヴィス=セルトベルク=フォン=エスティカリアの対面に座った。硝子張りの天窓から覗き込む晴天は頭髪に一層の輝きを持たせ輪郭を白く縁取っている。まさしく生きる描画物は永遠に静止しておくべき存在であった。
「久しぶりだな」
「はい。お顔を見えるのは如何ほどぶりでございましょうか」
「いつものことながら私の一つにしか用のない君らしい発言だよ。『如何ほど』とは言っても、どうせ君の家にも私はいるのだろう?」
「おりませんとも、あれは貴方様であって貴方様ではない。そこでふんぞり返っていらっしゃる貴方様もまた、わたくしにとっては貴方様ではありません」
「絵画は主観ありき情報の典型だと自覚するなら、まったくもってもう少しまともに描いてくれてもいいだろうに。評判よくないんだよなあ、皆私の顔をこき下ろす」
 年かさの絵師は口角を歪ませた。
「もう少し高貴な振る舞いを見させてやれば宜しいではありませんか。僭越ながらこの目に焼きつけることができればまた一つ私の貴方が完成するというもの」
「駄目駄目。嫌だよ、この間も絵で酷い目にあったばかりだからね」
「ほう」
 三割増肖像画の顛末を拝聴する。
「後援してやったのですが……それはそれは、随分と勿体無い心遣いをなさったものですね」
「それはどうだろうか、あれほどの短期間であの内容を描けるのだから腕は悪くない。加えて市井の絵師をやっている者だというならまず間違いなく多くの邸宅に出入りしているよ」
「申し訳ございません、政治の話は耳ざわりが悪くて嫌いでございます」
「ああ失礼、政治と言うより情報源と言うべきだと思うけどね」
「確かに真なる絵師は真実以外を口にできませんがね――筆が、色が、カンバスが、語るものが多すぎる。それに引き換え貴方様のお口から出る言葉はまやかしか人を動かすものばかり。ただでさえ言霊は色の表面に張り付いて見るものの心を惑わします。こざっぱりした絵の貴方様では実のお顔に違和感を感じ、逆もしかり。ご自信の不徳のいたすところでは、評判が悪いのもいたし方ございますまい」
「おお、いきなり手厳しいなあ」
「黙っていることは得意ですが嘘は苦手ですから。わたくしは貴方様とはお話したい――だからこそいつも申しているのです、野を歩きなされよと。拾って御手にとってみるのが宜しいでしょう」
 蒼の目は弧に歪む。
「それはやっているよ。今は時間があまりないけどね、それでもやってる」
「貴方様に触れた幸福な者はおりますか?」
「さあ、どうだろうか。幸福とはいかなる形をしているのか……そこが難しいところだな」
「おやおや謙遜をお覚えになりましたか! これはめでたいこと、次の肖像画はきっとうまくいくでしょう」
「では言質をとった君に描いてもらうことにしよう。幸福な絵を頼むよ」



 アルヴィスは回廊を歩く。誰も居ない後宮を一瞥し、両眼を細めた。





『三割増に施された肖像画とその行方』

「おや、これはこれは……。ご機嫌いかがですかな」
「こんにちはユィーマン侯爵」
「このような場所でお会いするとは思いませんでしたぞ。さても良い日和でございます、冒険ですかな?」
 濃紺の衣服に身を包む娘は朗らかに「はい」と頷く。
「ならば少しばかりこの爺とも遊びませんか。ここだけの話、少し良いものがございます」


 目元を穏やかな皺で刻んだ老人は手ずから甘い湯気の漂う茶器を差し出した。熱せられた茶色い飲み物を両手で包み、希少品のそれを恐る恐る口にする。
「わ、甘くておいしいです」
 まろやかな味覚の刺激にラティは表情を輝かせた。さほど古い話でもないのに感慨深い。
「それは良うございました。わたくしは下戸でしてな、爺には似合わぬものですがこういった嗜好品にはこっているのですよ。お気に召したのでしたら後で侍女に持たせましょう」
「ありがとうございます侯爵、後宮の皆で楽しみたいと思います。私もそうですが甘いものが好きな者がいるのですよ、とても喜ぶでしょう」
 ミュヒレイザの顔を思い浮かべながら、よい土産ができたと満足する。セルディアスは白い口髭をしごいた。
「ほう、左様でございましたか。若も今ではすっかり興味を失ってしまったようで相手をしてくれぬのです。嗜好品など一人で楽しむのはつまらぬもの、いくらでも持っていってくだされ。お安い御用です。他にも色々とございますぞ、ご覧になりますかな?」

 種々の砂糖菓子や食品を試食させてもらった後、セルディアス=ルド=ユィーマンの計らいにより舶来物のあれやこれやを見物させてもらう運びとなった。帝都――ここにあるということは交易地であるサリアディート・ライアガードレイドでもかなりの確率で見ることができたのだろうが、生憎ラティは贅沢品の類にさして縁がなかった。先ほどの美味なる飲み物も人生二度目の珍事である。
 数々の端正な家具、数々の陶器、数々の絵画、数々の美品――ユィーマン侯爵の持ち物は当人が誇るだけあって全てが確かなものであった。最高級の木材を使用した飴色の飾り棚に並べられた硝子細工を覗き込めば、歪みもせずアイスグレイがのぞき返してくる。
「この水差しは(みどり)が見事ですね。皇国ユネイの作ですか?」
「それは――はい、左様でございますな。これはライムの水を作るのに具合がいいのです。夏場に重宝します」
「涼し気で趣がある良い使い方をされているのですね。あら……――これは?」
 ふと足元に転がるそれ――真新しいカンバスに描かれた白金の尾に気が付いた。見覚えのあるプラチナブロンドの尾は重なり合った他の絵画から一部顔を覗かせている。気づいたのは恐らく必然であった。
 隣から笑み混じりにセルディアスがひょいと顔を出した。
「おや、先を越されてしまいましたな。やはり妃殿下には興味を引かれるべきものでしたか……うむ、愛ですな愛」
「愛、ですか」
 視線で促され、まるで『もう不要であるけども捨てきれないもの』を装っているくせに、見過ごすことはできない何かで訴えかけてくるそれ――絵画群の下敷きになったよくに磨かれている金の額縁に手を添え選び取る。あまり大きくはない。

 その衝撃を、どう説明したものだろうか。

 わくわくといった表情でこちらを見つめる老侯爵に、
「その……色の上手な絵ですね」
「うむ」
「アルヴィスさんの――」
 ラティは眉根を寄せながら読み解こうと懸命になる。
「……カンバスがまだ新しい、ということは――ああ、ええと、ご兄弟でしょうか。いらっしゃると聞いたことはさらさらありませんが、髪の色や目の色が無視できないほど似ています」
「ふむ、それはそうでしょうなあ」
「でなければ全然別の方――他人の空似の肖像であるか、絵師によるアルヴィスさんの新たな一面を模索するための哲学的探究心の賜物ですね。ほら顎と首のぎりぎり境にあるほくろがありませんしできれば別人の方向で固めていきたいです心穏やかで居られますね本当にもう誰ですかこれ」
 まくし立てる。
 純白の衣装に埋もれ、金に彩られている絵の中の貴人は本人を――内面の話にまで及ぶ必要もない――知っていれば不気味に映った。流れからも場所からも認めざるを得ない、これはアルヴィス=セルトベルク=フォン=エスティカリアなのだろう。精悍かつ美麗華美であることは間違いないのだが、ふにゃけた笑みが消え失せたことの違和感がすさまじい肖像画である。
 ラティは考えを改めた。
 こんなものがまだここに残されていることこそが不気味なのだ。
 ラティは考えを改めた。
 残されてしかるべき何かが起こったのかもしれないではないか! それだ!!
「アルヴィスさんに何かあったのですか?」
 老爺は肩をゆすって笑った。
「何もございませんとも、記憶障害も公認拒否も。若は道化の絵だと申して捨てておしまいになりましたが」
「格好良さだけを問うなら、こちらの方が格好良いですね。断然」
「そうですか、良いものだとお思いになりますか。うむ。全てを包み込む愛ですな」
「愛ですか」
 怪訝に言葉を切る。
「しかしユィーマン侯爵、この絵は少しおかしいですよ」
「ほう。少しで済みますか」
「あの人の顔ならば写し取るだけで芸術になってしまうのに、これはまるでただの絵です。内側がない……本当に肖像画だったのでしょうか、とても本人を目の前に描いたと思えないのですが」
「もちろん肖像画でございますぞ。簡単なことです、絵を描くからじっとしていろと若に申したところでなるはずもございません。黙らせるのも面倒なのでつい先日こっそりと絵師を呼んで描かせたのですよ。少し恐ろしくも思いましたがこれも僭越ながら親心と言うもの」
 つまりサリアディートとの政略結婚で使われる予定のものだったのだろう。
『一番私と結婚したくなさそうなお嬢さんと結婚するよ』
 声を思い出す。
「……少しで済みましたか」
「済みますとも。わたくしは若君の爺ですからな」
 老爺は誇らしげに胸を張った。
 ラティは頬を持ち上げた。
「でもやっぱり変です。だってほら、アルヴィスさんはこんな人に媚びた顔はしませんからね。あの人が笑っている時はきっと本当に愉快なのですよ。きっと。格好良くなくても潔いのはあの人の方だと思いますし、私はそういうところが嫌いじゃありません」
「ほっほ、愛ですな愛」
 セルディアスは娘の頭上を越え視線を投げた。
「――だそうでございますぞ、若!」
「興味深いなあラティ」
 甘く伸びやかな声に、ぎし、と背筋が凍った。
「ああああアルヴィスさん」
 顧みれば質量を伴った現実がそこに立っている。
「ふーん、へー、ほー。私が格好良くないんだって? 不気味だって? ひどいなあ」
「でですから最後にとりつくろ……いえ本音をもらしましたよ! ふ二つ目はそもそも言っていませんっ」
「言ってはいないけど思っていた、と。へえ逆らうの。いいよ、後でじっくり話し合おうじゃないか。それよりも今はセルディアスだ。なんでそんなすっかり忘れていた懐かしいものをまだ持っているのかな、捨てなさい」
 アルヴィスは笑顔のまま腰のものをはずす。
「良いではありませんか。このような面白いものまた何かの折に使えるに決まっています。って、あーっ!!!」
 小ぶりの銀剣は切っ先からまっさかさまに落ち、男の肖像――顔をさくりと貫いた。
「なんと勿体無いことを! まだまだ楽しめたものをっ」
「ついうっかり手が滑ってしまったよ。いやあ制御できない動揺は怖いねえ、ねえラティ?」
 直立不動で頷くラティを、哀れな肖像の蒼い目が見上げていた。





『姉、弟、私』

 皇宮西の一角にエミラティア=リーズ=サリアディートの館はある。最低限の僕と暮らす病弱な皇女を訪ねるのは見舞いの品ばかり、客人は皆無に等しく華やかな宮にあって場はいつでも静かであった。
 しかしながらその日は違った、その日を境に違っていくことになった。
 こげ茶色の頭髪は空を掴む鷹のようであり、青くわずかに緑を帯びる瞳は草原を映した水面を思わせる。そのどれもが齢七になる少年によく似合っており、彼の柔らかさと真っ直ぐさを表しているように思えた。
 エミラティアは驚愕のあまり言葉を失っていた。

 国に熱望された皇子・東宮シルディオ=ラッセルディーン=サリアディートが一人の忠実な騎士のみを連れて極秘裏に第十皇女の館の扉を開いたのである。


 小さな、それでいて巨大な変化を伴って一年が無事に過ぎ、春、エミラティアは十二になっていた。心底来ないで欲しいと思ったのは初めの一ヶ月までだった。
「姉上姉上、こんにちはっ。今日は何をしているのですか?」
 午後、いつものように無人の室内に開け放たれた窓から滑り込んだ声は弾んでおり、机に向かっていたティアは破顔する。なるたけ節度を弁えた声を出すべく振り返るまでに表情を整えた。
「こんにちは。午後はお母様の課題をしていました。少し趣向の変わった課題で一冊図鑑を作っているのですよ」
「どのようなものですか? ぼくも見てもいいでしょうか」
 言っている間に、騎士の手を足場に東宮たる弟が窓をよじ登ってくる。もしも彼の無数にある侍女や教育係、まして正アルデニーデ皇后が目撃したものならば卒倒ものだろうが、こういった秘密事こそが最近富に手足のしっかりしてきた弟を楽しませているのだとティアは知っている。ドレスの裾をさばきながら窓際に駆け寄って出迎えると、色と香りの束が鼻先に突き出された。
「外はすっかり春ですよ。どうぞティア姉上」
 訪問の際の習慣じみてしまった色とりどりの野花の贈与。笑顔で差し出されたものを笑顔で受け取ることのできる両手にある確かな重み。大切だとティアは思う。嬉しかった。
「確かこれはすぐには枯れないんですよね。長く飾れるんですよね」
「はい、そうですね。ありがとうございますシルディオ。よく覚えていましたね。ああきれいです。――でも」
 登ってしまえば後は窓枠からひらりと飛び降りるだけの弟へ、苦言を告げる人のように眉根を寄せてみせる。
「窓は入り口ではありませんよ。いけないのですよ」
「はーい、ごめんなさいっ。姉上姉上、お作りになっている図鑑ってどれですか。見せてくださるのでしょう」
 はやくはやくと急かされてティアはあたふたと参考書籍で溢れた机に戻る。水差しから机上の小瓶に注ぎ貰った花束を挿してながら、片手で表紙を開いた。
「散らかっっていますが……ええと、はい――これです。植物図鑑をつくるのが趣旨なのですが私の好きなように作っていいとのお達しなのです。ですから」
 項をめくる。
「あ、ぼくがいつか差し上げた花ですね。こっちも」
「シルディオのくれたお花は不思議なものも多いですから、調べていてとても勉強になりました。それからこれがほら、今日のものですよ」
「ほんとだ!」
 シルディオは押し花や細かな文字で彩られた羊皮紙を見つめる。神話の欄にあるいびつな妖精の挿絵が姉らしいと彼は笑った。
「あいかわらずですね」
 視線の先を追ってティアは含羞(がんしゅう)する。
「ひどいです、……下手だと言いたいのですね。想像上のものを描くのはどうにも苦手なまま成長しませんね。もっと上手に描ければ楽しいのでしょうねえ」
「そんな、今のままで十分だと思いますよ。姉上は絵描きではないじゃないですか。それにぼくは姉上の絵が好きです」
「まあ。うまく言うようになったのですねシルディオ。情報の提示方法として絵も欲しかったのですが、そうですね――ありがとう」
 照れた弟に席を勧める。国に無二の少年と一緒に居られる時間はあまりに限られている。
「どうぞ座って下さい。お茶の一つも出せなければ大切なお客様を帰せません。この間、エスティアナお姉さまからおいしい焼き菓子のお見舞をいただきました、食べましょうか?」
「はい、ではぼくからもこれを。昨日珍しいものを飲む機会があって、とてもおいしかったので持って来たのですが……甘くてすごくおいしいんですよ!」
 礼を言って受け取った包みは小さかった。
「へええ、お菓子に合いそうな良い匂いがしますっ。――ではこちらを二つと焼き菓子をお持ちして」
 二人で椅子に座り手作り図鑑を囲みながらいくらも雑談していない内に、年かさの侍女によって一式が運ばれてくる。
 見たことのない不透明な茶色い飲み物に目を見張り、味わい、和やかに感想を語り合う穏やかな時間。春の風が室内に流れ込んでくる。
「すっかり春ですね。――……ねえ姉上」
 窓を見るエミラティアにシルディオは堅い呼びかけを落とした。
「来週の東花(とうか)祭には」
「あ、それでしたら式典には顔を出すように言われていますからそのようにするつもりですよ」
「式典、だけですか」
 言いたいことの意味が分かって、いたたまれなくなる。
「あなたが苦しんだり悩むことではありませんよ……。大丈夫。ほら、私は病弱ですからね。社交界の空気は苦手なのです」
「姉上!」
「シルディオ、お願いです。言わないで」
「どうしてですか。ぼくは、あなたをこのような場所に閉じ込めておくのはいやです。本意ではありません。きれいな服も、おいしいものも、外に出ればたくさんあります。これ、おいしかったでしょう? 外の商人から献上されたものなんですよ。他の姉上たちは皆あたりまえのように持っているのに……!」
「シルディオ」
 怒ることもできず、諭すこともできず。ティアはすっかり困ってしまった。その響きが声に現れていたのだろう、弟の背筋が伸びた。
「ティア姉上、そのぼく、ごめんなさい……」
 歩み寄って膝を突き、肩に手を置く。
「ほら顔をあげてください。……シルディオ、優しい良い東宮になられましたね」
「――……だって姉弟です」
「そうです、姉弟です。だからこそ私はあなたを放っておけない。初めの頃、辛ければ恨み言の一つもこぼしたでしょう? でも私はあなたの姉上ですから、あなたを想うのです。これだけはやはり嘘ではないのですよ」

 心底来ないで欲しいと思ったのは初めの一ヶ月までだった。拒むことなど初めから無理であった。できるはずがなかった。
 例えば姉達の見事なドレスをサロンで垣間見たとき、例えば東宮殿下が父に笑みかけられていたとき、例えば弟が惜しみない慈愛に触れさせてくれるとき。
 かき乱されるたび花は確かに色づき、青く冷え込んでいくエミラティアの心を圧迫する。
『こんなものしかもって来れなくて、でも、ぼくは……あいたいと思ったのです』
 野花の美しさを初めて知った。花を摘むことの意味を初めて知った。
 なんと得がたいことだろう。得られる重みであろう。

「シルディオ。初めの日、うつむくあなたに私は言いましたね『信じられない』と」
「……はい」
「とても驚いてなんと口にすれば良いのかわからなかったからです。――でもね、今ならもっとちゃんと言うことができる。この一年間私はあなたが来てくれる日を信じられないくらい楽しみにしていたのですよ」
 ティアは頷く。
「罪悪はあなたにない。一片だってありません、何かの間違いで近寄ってきたのなら私が追い払ってみせます」
「姉上がですか……病弱なのに」
 笑顔がほころんだ。
「もちろんです、姉の手とは花を抱くだけに使うのではないのですよ」
 花が咲く。

 滅びることのない花がそこにある。





『アルヴィスと夢』
〜Allwise's Adventures in Wonderland〜

「――し……もし、どうしましたか? 大丈夫ですか?」
 揺り動かされて彼はむずがる目を覚ました。巨大な木の根元、木漏れ日越しに見る空は青かった。
 ぎょっと瞠目する。
「よかった、目を覚まされましたね。どこか痛いところはありませんか貴族様」
「……ああ、大丈夫だよ。すまないね」
 こちらを覗き込む少女から差し出された手を丁重に断り身体を起こし、真正面から見た顔にやはり見覚えがあった。とび色の髪を揺らして、アイスグレイの両目を暖かな気遣いに細め、お前のことなど知らぬと他人行儀に彼を丁寧に扱う手はしかし、どう差し引いて考えても小さい。
 縮んでいる。紛うことなく縮んでいる。
「ありがとう素敵なお嬢さん、助かったよ。こんなにも君のような小さな人に助けられるなんて大人失格だね」
「いいえ、そんな。通りかかれて良かったです。お怪我はなくて良かったですね――ああいけない。そうです、私、もう行かなくては。すみません、急がなくては。まだ寒いですからこんな場所で寝ていては、今度こそお風邪を引いてしまいますからね」
 彼を見上げる少女は小さな身体で一礼し、荷を抱えて港へ駆けて行く。
 やはりそうなるかと口角を持ち上げた。ぱしぱしと衣服から汚れを払い落とし、立て襟を正しながら少女が逃げ出してきた東を確認する。城があった。
 木の根元に穿つうさぎの穴を踵で埋め、笑いのとまらぬ顔で彼は歩き始める。
「いくらなんでも連れて帰るのはまだ犯罪だよなあ」


 少女を追って『パン屋カーディス』の見覚えのある煙突建物を通り過ぎ(どういうわけか建物の割に異常に扉が小さい。子供が身を屈めてやっと入れるか入れないか程である)いくらか歩き、黒い人だかりができるほどに人の溢れかえった港へ足を踏み入れる。
「おいしい果実酒はいかがですかー。お祭り騒ぎに暇を持て余したあなたに果実酒を販売〜」
 人だかりの原因――少年が船の前で戯言を張り上げていた。これまた見覚えのある顔であった。
「通行止め! 通行止めである! 嵐により本日の船舶は全ての通行を禁ずる。誰も通ることまかりならぬ!」
 彼は青い天を仰いだ。
「ふざけるなこの一週間海は時化(しけ)たことなんかねーだろうが!! 船が出せなくなるわけがないぜ」
「そうだ。だいたい皇国の人間ではないお前に海の何が分かると言うつもりだ」
「とっととそこを退きやがれっ」
「おいしい果実酒はいかがですかー。お祭り騒ぎに暇を持て余したあなたに果実酒を販売〜」
 斜に構えて見物する。
 かつて彼が鏡を覗けばそこにあった、この世のものと思えぬ鮮やかなプラチナブロンドに彩られた美貌の少年は蒼い目で人だかりを薙ぐ。
「海? 時化? 物事の本質を捉えぬ者だね――これが海に見えるのか。だとすれば何も見えていない」
「あの」
 少女が困り果てた様子で一歩前へ出る。
「あの、私はどうしてもここを越えねばなりません。いつになったら再開できますか?」
「さてね、君が君である限りここは通れない。だろうねえ。あの水は誰かがたくさん泣いてできているんだ。だいたい君は来るべき場所を間違えているよ。君の訪れを待っている人間が居るんじゃないのかい?」
「おいしい果実酒はいかがですかー。お祭り騒ぎに暇を持て余したあなたに果実酒を販売〜」
 売り子に耳元で叫ばれてうるさかったので、財布ごと支払う。
「金貨三十くらい入っている。毒入りはいらないよ」
「では、これとこれとこれは除けておきましょう。毎度どうも〜素敵なお兄さん」
 瓶は小さかった。『わたしを飲みなさい』のラベルに眉を上げる。
「ふむ、これは飲む以外になにか使い道があるのかい?」
「飲むと世界が変わるんですよ。ありがたい瓶なので居丈高なんです」
「なんで果実酒なのに黄色をしているの?」
「叫びたいからですよ」
「飲んでも大丈夫なの?」
「ええ、多分。っつーかそれ最後に聞きますか。ぐいっとやっちゃって下さい」
 飲み干すと、なるほど、確かに世界が変わった。目線がぐっと下がって目の前にとび色の髪をした困り顔の少女が立っていた。人だかりが彼らを取り囲んでいた。
「あの……お願いですから」
「お願いだよ。行かないで欲しいな」
 彼が声をかけるとびっくりした様子で少女は明確におろおろとした。彼は自分の頬に暖かいものが伝っていることを知っていたし、同時に姿ゆえの故意であることも知っていたのでどうということはなく、小さいというのは存外便利なものだと思った。こんなに簡単に動揺させられる。
「どどどどどうしたのですか……? ……なにが辛いのですか? どうして泣くのですか? 泣かないで下さい。辛いのですか? どうしたのですか?」
「君が行こうとする限りここは通れないよ。涙は止まらない。君は子供泣かす悪い人、困ったね」
「そんなに泣いて、ああ、泣かないで下さい。あの……引き止められるほど私はあなたを知りませ……ん? ……あれ? あの、あなた――どこかでお会いしましたか?」
「これから会うんだよ。さあ、あっちで君を呼んでいる。その足で逃げなさい」
「姫様! 姫様! 貴女の花が届いています。姫様どこですか!!」
 飛び上がった少女は踵を返して脱兎する。満足した彼は重たい籠を捨てて『わたしを飲んで』の一瓶だけ掴むとパン屋カーディスに引き返えし、不親切な子供用の小さな扉をくぐった。ドアベルが鳴る。
 何もかもが大きかったので少し困った彼は、背伸びをしてカウンターにそれを置く。
「どうしたことだろうねえ。酒が届いたよ。音はすれども姿がない、どちら様だね?」
「ほう届きましたか」
「こっちだよ。下。下を見てくれないかな」
 視線を交わした老人二人組みが彼を見下ろした。彼はなんで彼の下僕がこんな場所にいるのかと思ったが、便利がいいので良いことにする。
 白い口髭の老爺は商品棚から身を乗り出す。
「これはこれは、ようこそいらっしゃました」
「うん来たよ。これを何とかしてくれないかな」
「随分縮みましたな。はて、どれほどの大きさにお戻りになりたいのですかな?」
「そうだねえ、日常生活に不便しないくらいでいいよ」
「そりゃあ虫のいい話さね。あんたさっき子供を寄越しただろう」
 老婆が口を挟む。
「どの子供のことですか婦人?」
 老婆は刺繍の施されたハンカチを彼に披露した。目を細める。
「あの子、ここでぐずぐずしている間に連れて帰られてしまったよ。お前さんが適当なこと言ってここに来させたんだろう」
「急いで来たつもりでしたが……そうですか、連れて行かれてしまいましたか」
 彼は顎に手を置く。
「まあいいです。それよりせっかく苦労して持って来たのですからそれをお飲みになって下さいよ。結構いけますよ」
 それもそうですな、それもそうだね、老人二人は期待に膨らませ赤い杯を傾けた。
 みるみる相似の関係で小さくなっていく彼らに、腰に手を当て彼は笑みかける。
「ね、小さいって不便でしょう?」
「むむっ。小さい意味違いではないですか!」
「なんだいなんだい、若返るんじゃないのかい。飲んで損をしたね」
 次々と文句の出る手のひらサイズの老人二人組みを商品棚に乗せ、彼は「次に私がここに来るまでに何とかしておいて下さい」
「何とかと申しますが」
 扉に手をかけ肩越しに振り返る。
「もう一人くらい後で寄越しますよ。気をつけていないと、簡単に私に踏まれてしまう大きさでは不便でしょうからね」
「どーいう教育してるんだいあんたっ! 信じられないね!!」
「いやはや踏み潰されないよう頑張りましょうぞ奥様」


 たくさん歩いたような気もしたし、いくらも歩いていないのかもしれなかった。だのに逃げ水のようにあるいは月のように、城は一向に近づく気配がなく、彼はついに木立の道で立ち止まる。
「そこ、出て来てくれるかい?」
「呼ばれてどうも、いかがいたしましたか」
 赤毛の男が膝をつく。
「ここはどこなのかな」
「おれもここは初めてなので説明はちょっと……。でも道を見つけることはできますから、貴方がどこに行きたいかによるんじゃないですか」
「ふむ、まだるっこしいな」
「すみません、でもおれに道を聞くならおれのやり方に逆らってもらうのは困ります」
「可愛気もない」
「……いらないでしょう。気持ちの悪い」
 男は引きつり笑いを浮かべた。
「仕方がないねえ。お前は今、役割的にニヤニヤ笑いを浮かべながら消えたり出たりしないといけないはずだよ。笑うのはもういいから出たり消えたりしてみてくれるかな? すごく見てみたいんだけど」
「無茶振りはやめて下さい。できるはずがないでしょ! ――ご用件はなんですか」
 彼はパン屋での一件を伝えた。
「そんな訳で売り子を探して連れて行ってくれ」
「かしこまりました」
 彼は身振りを交えて探し人を伝えた。
「これくらいの背で、髪はふわふわととび色で、困っていてもずっとにこにこしているような彼女を捜しているんだ」
「ああ、それなら」
 男は指をさす。
「あっちと、あっちと、あっちと、あっちで似たような人を見ましたよ」
「適当なことを言うんじゃないよ。多いよ」
 男は彼の背中を押した。
「では、まずはあちらからどうぞ」

 一つの場所で、少女はお針子をしていたが泣き暮れていた。違う。
 一つの場所で、少女は彼が見たこともない服装(なんとスカートから生足の出る『セーラー服』とやらである)を着込んでおり、彼と非常に似た顔のこれまた見たこともない服装(『スーツ』とかいうものである)をした弁護士と組み、肉親(弟や姉達)と遺産を奪い合い、争っていた。これは少し愉快だったのでいくらか見物していたが、途中で弁護士といい感じになってきたところで嫌気が差した。こんなものはあの少女じゃない。
 一つの場所で、少女は館からずっと窓の外を見ていた。これは話にならない。
 一つの場所で、少女は殺されていた。殺した相手を殺しておいた。
 一つの場所で、少女は女になっていた。巨大なテーブルで一人紅茶を飲んでいた。

 気が付けばたどり着けなかった城だった。
 「あなた……」と少女――襟ぐりの大きなドレスを纏った女は驚き目を見張る。
「逃げ切れなかったんだね」
 彼が言うと、ふいと怒ったように女は視線をそらした。
「紅茶はおいしいですが、寄せてあげません。席はありませんからねっ」
「そうかい? だったら作るからいいよ」
 対角線上に座って頬杖をついた彼は笑む。
「髪が長くなったんだね、似合ってるよ。背も伸びた」
「あなたは背が縮みました、なんだか可愛いです。髪を切らないのですか?」
「嫌なことを言う。君が切ってくれるんじゃなかったのかな」
 女は黙り込んだ。
「もう、できませんね。ここではあなたと何もできない」
「それはどうかな女王陛下」
 立ち上がり、顔を上げた女に手を差し出す。
「一緒に行こう。私が君をここから出してあげるよ」
「私は待っていなくてはいけません。私のためのバラが届くのです」
「茶会のためのバラを摘むなど無意味だよ。本当にバラを愛でて茶を飲みたいのならバラの横で茶会をすればいいんだ。――さあ、行こう! 君の騎士は君の幸せだけを祈っている。白いバラを赤く塗り替えることだってできるさ」
 それに、と彼は言葉を切った。
「子供泣かすなんて、いけない女性のすることだよ」

 手と手を取り合って、走る。女は途中で何度も何度も城を振り返った。
「女王陛下!」
 女の騎士が追いすがる。
「!!」
「どうぞ、貴女の御心のままに!! 何も気になさる必要はありません、貴女に枷はありません。貴女のなさることに間違いなどありません。白いバラもやがて赤くなりましょう。わたくしは――貴女の剣はわたくしである限り永遠に貴女の城と共にありましょう」
「私は、ずっと、あなたに言わなければならないことがありましたっ。私はあなたに感謝を!! 本当に想っているのです……!」
 破顔一笑、騎士は深く(こうべ)を垂れた。


 煙突建物を通り過ぎそうになった彼は急停止し「ここで待っていて」バスケットにパンとワインを手に帰ってくる。
「何ですかそれ?」
「お弁当だよ。作ってもらっていたんだ」
 海が近くなった頃、どこかで子供の泣き声がした。
「どこで泣いているのでしょうか……探さなくては」
 乱れた呼吸で女は周囲を見渡す。彼は泣き声の出所を知っていたが特に何も言わず、『わたしを飲みなさい』の小瓶を差し出す。ことさらに子供を装って見上げた。
「たくさん走って喉かわいたでしょ? のんで?」
「なんですか……? どうしました? ……そんな純粋な目で見上げても駄目ですよ。手遅れですよっ」
「のんで?」
 うっとなった女は「……では一口だけ」子供の押しにとことん弱かった。
 黄色い果実酒が喉を通ったのを確認した彼――子供の口角が不釣合いな笑みの形に歪む。一欠けらのパンを口に放り込むと同時、女――娘の背をいつの間にやら前方に控えていたプラチナブロンドの青年に向かって押し出した。
 彼が望み操作した閉幕の始まりである。
「!? どうしてっ、たた大変です! 服が余りますっ。……ぬ、ぬげぬげる……っ」
 目を白黒させながら引きずる衣服に足を取られながら娘が振り向いた先、子供姿はなかった。水溜りだけを残して泣き声が消え失せる。
 背後から巻きつく長い腕に、娘はぐっと息を呑む。
「やっぱりこの大きさが一番だね。ほっとするよ」
 緩んだ胸元の衣服に男の白い指が伸び掴み「探した。やっと見つけたね」
 苦笑混じりに青年――彼はずり下がるそれを引き上げる。
「ああ、いけないな。そんなに簡単に肌を許しては、嫉妬してしまうよ」
「誰が許しましたかっ! ちょ、離してください。変態です、変態の人がここにいますよ!!」
「いやだなあ、隠してあげてるのに。動くと脱げるよ」彼は笑いの止まらない顔で娘を抱き上げ「さ、変態と言われたことだしね。ご期待に添える場所に移動しようじゃないか」
 娘は暴れなかったが大人しくしても居なかった。
「あなたも少しくらい恥ずかしがって下さい!! なぜ私ばかり恥ずかしがらないといけないのですかっ。正気に戻って下さい。でないと――そうです! きっと困ることになりますよ」
 娘は必要以上の笑顔を披露し、どこからともなくフライパンを取り出した。振り上げる。


「――し……もし、どうしましたか? 大丈夫ですか?」
 揺り動かされて彼は目を覚ました。柔らかなカウチの上、天窓から日差しのこぼれる空は青かった。
「……ラティ?」
「アルヴィスさん、疲れているのなら寝台を使って寝た方がいいです。もっとぐっすり眠れます。私はあなたのようにあなたを運べませんから――あの、自分で移動できますか?」
「できない。嫌だ」
「なんですか、我がままを言ってはいけませんよ。もう大きいのですからちょっと頑張って下さい」
 波の音に耳を傾けながら眠たふりをするアルヴィスに、ラティは溜息する。
「仕方がないので私の上着を貸してあげます。貸しですからね。風邪を引いてはいけないのですよ」
 すっぽりとかけられたものは取り繕われた上着と言うより――準備された裏張りのある布団のようで……
 暖かった。





 入室の許可を求める扉を叩く音がして、アルヴィスは目を覚した。
 いつもどおり人払いの済んだ西日の差し込む帝国皇太子執務室、「入れ」声を投げると赤毛の男が一礼して入室する。
「失礼します、イェインです」
「ああお前か。妙な夢を見たよ」
 顛末を聞かせると、イェインはたいへん微妙な表情をして見せた。
「成長が楽しみだよね。意外と良い身体をしているのかもしれない。うん」
 あのアルヴィスが、夢を語り、お姫様の身体について四の五の言い、それを彼に打ち明ける。
 知らず息をつめていたことに気づき無理やりにでも解凍する。
「……ああ! ああ、まだ眠たいんですね。なるほど、寝ぼけているなら仕方がない」
「正気だよ。一度一緒に風呂に入ればはっきりするんだけどなあ」
 呆けたイェインは、一拍置いて、盛大に表情を引きつらせた。
「どどどどどどうしたんですか!! 大丈夫ですか! いま医者を……っ。いやそんなことより疲れてるからだって言ってください、おれの健康状態が大変なことに……っ。現実逃避してるんですよね。こんなに長く椅子に止まったことなんてないから発狂しているんですよね!?」
 恐慌状態になった従者を放って、アルヴィスは茜色に染まるジスティック山脈を見やった。
「本当に妙な夢だ……ならばこれもまた、夢、なのかなあ」


 しかし今度はいくら待っても『何か』から目覚めることはない。




<内容内訳>
■イェイン:『イェインの日常を覗きみてみる』
非日常が日常と化しているイェインです。気の毒。
■アルヴィスとラティ:『投票結果がダントツだったので』
イェインの日常とか書いてる場合じゃないと思ってあわてて書き始めました。
■ソラン:『普段ソランは何をしているのか』
サボりまくっています。指示待ち体勢を貫く侍女です。使えません。
■アルヴィス:『アルヴィスだらけの話』
一身上の都合により本人のモノローグは書けないので、外から輪郭付ける形で書いてみました。ソランはもう少し怖がるべきだと思います。
■肖像画:『例の肖像画を見たラティの反応はいかに』
ラティよりも「老侯爵侮りがたし!」な話に……。実際問題、誰よりドン引きしていたのはラティではないかと。
■姉、弟、私:『サリアディートに居たころのラティ』
きっと、それなりに幸せだったと思います。
■初夢:『アルヴィス殿下の初夢』
投票者様に「気になる」と言われ続けたお話でした。すみません、こんな話でした。アリスもやっちゃうアルヴィスは「なんか黒い、なんかエロい」が皆の合言葉です。