日本の近代的な学校制度は、1872年(明治5年)に当時の政府である太政官から「学制」から始まる。これは国家の手によって国民の全てを対象とする教育制度の成立を図ろうとしたもので、学区制をとった単線型の学校制度であった。しかしながら、小・中・大が8・6・3年ずつという制度は国民の生活からかけ離れたものであったので失敗に終わった。
その後明治12年に「教育令」で、生活の実情に合わせた3・3・2を取り、複線的な学校体系が確立されつつ、「教学聖旨」で知識だけでなく仁義忠孝を重んじるようになった。13年には「教育令」が改訂され、教育を国(文部省)が統制するようになり始める。明治19年、「学校令」によって学校教育は統一的に再編され、尋常小学校4年が日本で初めて義務教育が制度化された。
明治23年には「教育勅語」が出され、教育と天皇制の結びつけ、国家のための教育の色が濃くなり始める。天皇からのお言葉という形で伝えられたこの勅語は、第1段落で、天皇の「臣民」が君子に忠誠を尽くし、親に考を尽くしてきたことによって、天皇を中心に日本の「国体」が守られてきたことを強調し、教育の根本もそこにあると指摘しています。そして、第2段落で、親孝行、兄弟の友情、夫婦和合、友人同士の信頼、自制心、博愛の精神、学業・職業を通じた啓発と修養、公益の促進、国の憲法・法律の遵守、非常事態における国への奉仕を説き、こうした行動を通じて皇室のいっそうの隆盛を支えるよう求めています。第3段落では、こうした教えは古今東西に通用するものであるから、天皇・臣民が心をひとつにして守っていかなければならないと説明しています。
数々の改正を繰り返し、明治40年にはそれまで4年間の義務教育が6年間になり、初等教育においてある程度制整備された形となった。
大正時代となると、中等教育・高等教育の拡充が進められる。大正6年から、内閣の一機関として"臨時教育会議"設けられ、中学や高校のシステムが改正され、大学においては官立の大学以外も認められるようになってきた。そして大正デモクラシーに表されるような大正自由教育の波が広がる。
大正から昭和初期は戦時下の教育に入り、国家中心の軍国主義的教育が強化された。昭和16年には「国民学校令」が出され、『錬磨育成』、国のため、皇国への教育を盛り込むようになってきた。そして今まで続いた尋常小学校が国民学校に変わった。
戦後の日本の教育改革は、米国GHQの元、教育の機会均等と民主的な教育原理に元づく根本的な改革を勧告された。昭和22年、日本国憲法が施行され、その第26条に(「全ての国民は法律の定めるところにより、その能力に応じて等しく教育を受ける権利を有する」)国民の権利として教育が挙げられた。これに続き、教育基本法・学校教育法が定められ、今までの勅令主義から法律主義へと変化していった。また戦前の複雑な体系を単一化し、誰でも能力があれば上級学校へ進学できるよう6・3・3・4の単線型に改められたり、男女共学が認められるようになった。
昭和27年まで占領が続き、復興に力を注ぐ。
昭和30年代は経済成長と人材育成を図る方向で、昭和37年には高校進学率が65%になり、中央教育審議会の答申で教育の質が問われるようになり、昭和46年の「四六答申」では段階的に改革できるような先導的試行という形がとられたが、当時は受け入れられなかった。
昭和59年から62年まで、第三の教育改革と言える「臨時教育審議会」が内閣総理大臣の諮問機関として設けられ、毎時依頼の教育を総括しこれからの教育についての改革案を練り、1)個性重視の原則、2)生涯学習体系への移行、3)変化への対応(国際社会と情報化社会)という教育改革の基本視点を示した。
また平成8年には「ゆとり」のなかで「生きる力」をはぐくむことが中教審の答申の中で言われるようになった。