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大学

◆ペルージャ大学&外国人大学(2002.9.26)

 古都ペルージャは、落ち着いた雰囲気の大学都市である。ローマから北東方向へ、急行列車で1時間半。直通列車の本数が少ないので、待ち時間に余裕のない時は、「フォリーニョ」からローカル線に乗り換える。交通の不便さが幸いして、イタリアの町にしては観光客であふれ返ることが少ない。
 列車は、丘の麓の「ペルージャ駅」に着く。そこからバスで急勾配の坂をくねくねと上って行く。周囲の風景が遠くまで見渡せるほど登りつめると、旧市街の広場に到着。
 サッカーの中田英寿選手が、日本からセリエAに移籍し、初めて所属したチームが「ペルージャ」だった。この町を舞台に、日本車スバルのコマーシャルが作られた。車はアーチをくぐり抜け、石畳の道路を縫って走る。中田が、町の人と挨拶を交わすシーンが印象的なCFだった。
 その中田もペルージャからASローマに移籍し、今シーズンはパルマで活躍している。2年前にここを訪れた時には、背番号7の「NAKATA」のユニフォームが通りのショップに飾ってあったが、すでにそのユニフォームも消え、日本人観光客が激減した。

    落ち着いた環境を求めて集まる、国内外の学生たち

 ペルージャには「ペルージャ大学」と「ペルージャ外国人大学」の2つの大学がある。人口のほとんどが、学生ではないかと思われるほど、若者たちが通りを行き交う。この町で3人の学生と話した。
 1人目は「フォリーニョ」から「ペルージャ」行きの列車に乗り込んだ時、私の座席の向かいに座っていたクリスティーナ。彼女は薬学部の学生で25歳。とても美しかった。
 「卒業したら、ミラノに住んで薬局で働きたい。ミラノにはボーイフレンドがいるのよ。今は両親といっしょにフォリーニョに住んでいる。毎朝この列車で通学しているの」
 2人目は、ペルージャ外国人大学を探している時、道を尋ねたハイティーンの学生ミハマ。
 「私は外国人大学の学生よ。今から広場に行って、友達と会うの。大学は教会の裏側の路地をまっすぐ進むと、見えるわ。時間があるから、教会まで連れて行ってあげる」
 彼女は私の横に並んで歩き出した。
 「どこから来たの?」と彼女にきいてみた。一目で金髪に染めているとわかるストレートの髪は、シャープな顔立ちと不釣合いなほどエキゾチックだった。
 「パレスチナよ」
 「わざわざイタリア語を学ぶために?」
 「そうよ。ここに来て、まだ8ヵ月だけど。私の国は少々危険なの」
 彼女の案内で教会まで歩き、最短コースで外国人大学まで辿りつけた。大学の入口には、立ち話をしているグループが幾つもあった。さすがに外国人大学である。たどたどしいイタリア語が飛び交っている。大学の建物は立派だが、交通量の激しい通りに面しているため、学生たちは玄関先の歩道にたむろし、話し込んでいた。
 同大学は、イタリア語教育を専門に行っている。日本人の姿も2、3人見かけた。入口脇のオフィスに入ると、コース別のパンフレットや申込書などが置かれていた。年配の女性スタッフは、手早く資料を用意してくれた。
 「大学の説明は、ここに書かれています。詳しい説明が必要でしたら、後で聞きに来てくださいね。まもなく昼休みに入りますから」
 校舎からは、掃き出されるような勢いで、学生たちが出てきた。

     イタリア料理は、学生食堂でも美味

 外国人大学の裏手には、もう一つの大学「ペルージャ大学」がある。10分ほど階段や坂を上ったり下りたりしながら、同大学のキャンパス内に入った。こちらも昼休みが始まったばかり。そこで、学生の列ができている学生食堂に、先に立ち寄ることにした。
 ここで、3人目の学生、ジャコモに会った。
 「この列に並べば、部外者の私でも食事できる?」
 最後列の彼に尋ねた。
 「学生証がないと、ちょっと高くなるよ。それでも良かったら、どうぞ。ビュッフェ形式だからね。パンと水は自由にとっていい。タダってことだよ」
 ジャコモの後に続き、彼と同じメニューを選び、皿をトレーに乗せて行った。薄切り牛肉のタレ付きサラダ添え、トマトのタリアテッレ。タリアテッレはスパゲティが平べったくなったようなパスタである。彼は1.81ユーロ(220円)、私は3.87ユーロ(470円)を支払い、空いている席を見つけて、いっしょに食べ始めた。
 「どうして、ペルージャ大学を選んだの?」
 「ボクは南イタリアのレッチェの出身なんだ。レッチェもいい町だけど、もっと静かな環境で勉強したかったんだ。専攻は薬学で、25歳。あともう1年、ここで学ばなきゃいけない。薬草の研究が好きなんだ」
 彼は、イタリア人にしては珍しくシャイな感じの好青年だ。ジャコモは食べ終わると、「カプチーノ飲む? ちょっと待ってて」と言って、紙コップ入りカプチーノを2つ運んできた。これは無料ではないが、ご馳走してくれるという。イタリア料理は、学生食堂といえども美味しい。濃い目のカプチーノを飲むと、さらに満足感が増した。
 静かな学園都市の昼下がり。この町に憩う学生たちと過ごす一時は、楽しかった。
                                    「教育・施設」日刊中央通信社2003.3.20付

◆フィレンツェ大学

 フィレンツェ大学の創設は1321年、ルネサンス文化がまさに生まれようとする頃だった。フィレンツェは、ルネサンス発祥の地。ここには、イタリア各地から天才が集ってきた。画家のボッティチェリ、ラファエロ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、彫刻家のミケランジェロ、建築家のブルネッレスキなど、彼らの創造性は、メディチ家の保護のもとに、フィレンツェで開花したのである。
 現在、同大学の学生数は6万人。イタリアにある75大学のうち、7番目に学生数が多い。入学者数は、毎年約1万人だが、地元のトスカーナ州出身者は、3分の1程度。外国からの留学生も多い。教授713人、助教授714人、助手793人。学部は、法学、政治学、経済学、文学・哲学、教育、医学、薬学、理学、工学、建築学、農学の11学部である。
 校舎は町中に点在している。ドゥオモ(大聖堂)から400b北側にある大学本部では、講義は行われていなかった。その本部オフィスで、それぞれの学部の校舎を確認した。アントネッラ・マラヴィリアさんが、コンピューター上で学部ごとに色分けした地図を指し示してくれた。それによると、旧市街にある校舎は、法学部4、建築学部7、文学・哲学部6、理工学部1、教育1となっている。
 実際に通りに出て、大学の表示を頼りに歩いてみると、各校舎が威厳を放っていることがわかる。ドゥオモに一番近い「文学・哲学部」の校舎は、中庭のある古めかしい建物だ。庭に面したベンチで読書している学生がいたり、回廊を職員が歩き回っていたり、現在も機能していることがわかる。建物そのものが、歴史的建造物という感じである。入口が開放されているため、観光客も入ってくる。外観からすれば、記念建造物か公共施設か、または一般住居なのか、判断がつきにくい。
 校舎のほかに、大学付属の「博物館」が4つあり、それぞれが広大な敷地を占めている。
 その博物館を訪れてみた。1つ目は薬草植物園の「ボタニコ庭園」である。1545年にメディチ家が、ドミニコ派の教会から買い取った庭園で、当時から学術的価値が高い。内部には温室や池が配され、山岳植物コーナーなどもある。多分野に渡る植物が、自然の条件を損なうことなく育成され、見た目にも美しい庭園となっている。黄色の花をつけた「パキスタン麻」の美しさに目を奪われた。
 もう一つ訪れた博物館は、「動物学博物館“ラ・スペコラ”」である。こちらは動物の剥製が展示されていた。最後のセクションに、人体解剖の蝋人形の模型がある。各部位が本物そっくりに作られているのは興味深い。この種の模型は、ヨーロッパではウィーン大学とフィレンツェ大学にしか存在しない。
 同博物館の研究員サウロ・バムビさんから、模型を前に、解剖部位の違いの説明を受けたが、不気味さは漂っていなかった。蝋人形に「ヴィーナス」という名前がつけられているところが、いかにもイタリアらしい。
 言語学においても、同大学は重要な研究機関をもっている。英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、ポルトガル語、現代ヘブライ語、アラブ語、ロシア語、日本語、オランダ語が、年間を通して学べる。3ヵ月コースと上級コースに分かれている。
 詩人ダンテは、14世紀のフィレンツェの言葉で「神曲」を書いた。その言葉が、イタリアの標準語として使われるに至ったという「言語学の歴史」がある。その研究所が、ドゥオモの背後200bのところにある。まるで教会のような風格をもつ建築物である。それもそのはず、ルネサンスの天才建築家「ブレネッレスキ」がデザインしたものだ。彼はフィレンツェの代表建築「ドゥオモ」の巨大な円屋根を設計した。
 ルネサンスの香りに包まれ、歴史を遡れば興味が尽きることのないフィレンツェ大学だ。しかし、この大学でも、「構造改革」と「新校舎移転計画」が持ちあがっていた。大学スタッフのマラヴィリアさんは、新構造への改革について、次のように説明してくれた。
 「この大学には、それぞれ特徴のある学部があります。ところが、学生が2つの学位を取得することは困難です。働きながら、勉強しているという事情もあります。1つの学部に6年くらいかかり、2つ目の学部を出ると、28歳くらいになってしまいます。社会に出る年齢が高くなります」
 その点を改善するために、イギリスやアメリカの大学構造を導入しようとしているという。現在「アカデミック・イヤー」と呼ばれる導入期間の最中だ。実際に在学生たちは、複雑な構造の中で、勉強している。負担の多くなった学生からは、不満の声があがっているようだ。
 「毎年、入学者数だけは把握できますが、その後どのようなコースに進んでいるのか、あるいは留まっているのかわかりかねます」
 ルネサンスの歴史の重みが、かえって弊害とならないように、大学当局の運営の苦労はひとしおのようだった。
                                   「教育・施設」日刊中央通信社2003.1.20付

◆ミュンヘン大学

 欧州アルプス山脈の北側に位置するドイツ・ミュンヘンで、「ルートヴィッヒ・マキシミリアン大学」を訪ねた。通称「ミュンヘン大学」と呼ばれる。この大学の創設は、1840年。学生数44,000人、教授数800人、教官数3,000人、学部数19。「ルートヴィッヒ・マキシミリアン大学」を華やかに包む都市「ミュンヘン」に、オーストリア国境側から入った。
 ミュンヘンは、12世紀以来バイエルン地方の中心地として栄え、ドイツ宮廷文化が咲き誇った都である。学術と文化の香りは、ドイツ国内でもひときわ高い。この街に、イタリアのフィレンツェから列車で直行した。整然とした街並み、観光客が多くても気にならない通りの広さに、ホッとさせられる。
 位置的には、ひたすら北上し、アルプス山脈の山間を縫うようにして、オーストリアのチロル地方を越え、山脈の反対側のふもとに到達したことになる。移動時間は8時間。このルートは「夏」から「冬」に向かうほど、気温差のある行程だった。クーラーの利いた列車に、Tシャツ姿で乗り込み、ブラウス、セーター、ジャケットを重ね着しながら北に向かう。
 ミュンヘン・ローマ間は「ユーロ・シティ“ミケランジェロ号”」という国際列車が1日2本走っている。国境を越える時の「パスポート・コントロール」がなくなった今日では、イタリアとオーストリアとの国境の町「ブレネロ」で、列車はしばらく停止する。両国の車掌さんが交替するためだ。ちょうどこの辺りが「分水嶺」らしく、線路に沿った小川に、アルプスの清水がチョロチョロと流れ込んでいる。
 国際列車のミケランジェロ号は、停車駅が少ない上に、急行列車並の低料金のため、いつも旅行客で一杯だ。今年の夏も、イタリアの海を求めて、ドイツ人が大挙して南下した。背中に大きなリュックを背負った若者たちが、ゾロゾロと海に向かう姿は、まさしく「ゲルマン民族の大移動」という感じだった。リュックの下にぶらさげている「マット」を海岸に敷いて、彼らはそこで平気で寝泊りする。安旅の典型的なスタイルである。自家用車や特急列車「ユーロスター」で移動するドイツ人家族も多いが、安旅を目指す学生グループは、この種の急行を利用する。
 9月初旬のミュンヘン行き“ミケランジェロ号”は、ヴァカンスを終えて帰国するドイツ人であふれていた。長旅になるため、私は指定席をとった。向かいの席は、ハンブルクに住む32歳の女性グラフィックデザイナー、ヌンツィアトラさんだった。
 「長期休暇は必ずイタリアで過ごすことにしているの。仕事のことを忘れて、たっぷり楽しめるから。ミュンヘンでは、姉のアパートに1泊して、次の日にハンブルク行きに乗り換える。これが、お決まりの休暇の過ごし方ね」
 彼女は、イタリアの明るい太陽、開放的な民族性にたっぷり触れた後、デザイナーとして締切に追われる生活に戻る。ドイツ人も日本人同様、一般的に勤勉に働く民族だ。ただし、日本人と違う所は、長期休暇をきっちりとることである。
 ヴァカンスが終わり、9月中旬になると、今度は逆にイタリア人がミュンヘンに大勢やって来る。「オクトーバー・フェスト」というビール祭を目掛け、イタリア各地から続々と詰め掛けるのだ。
 アルプスの北と南で、全く異なる文化、言語、民族が存在する。それにもかかわらず、ドイツとイタリアの交流は、遠い昔から続いている。「西ローマ帝国」は5世紀にゲルマン民族の侵入で滅びた。10世紀には、ローマ帝国を復興させようと、オットー1世がイタリアに出兵し、ローマ教皇を助け、「神聖ローマ帝国」の皇帝に即位する。歴史的にも深い関わりをもつ両国だが、民族性の違いと同様、大学キャンパスの持つ雰囲気も全く違っていた。
 中央駅から2`くらい離れた「ミュンヘン大学」は、校舎内もその周辺もひっそりとしていた。事務室にはカーテンが下ろされ、休業状態だった。しかし、新学期に備え、手抜かりなく、事務室前のラックに、ガイダンスを含むインフォメーション書類が並べられていた。そして、図書室を利用する学生たちが、正面入り口から左側に続く建物に次々と吸い込まれていった。
 整然とした街並み、たっぷりとスペースをとった校舎、学術と文化を誇る都市だけに、環境は抜群である。
 この地方は1806年に「バイエルン王国」になり、ルートヴィッヒ1世がミュンヘンに古典主義の建築物を次々に完成させた。ギリシャ風神殿建築、将軍堂、凱旋門などが、堂々と建ち並ぶ。大学の施設も、美しく立派である。校舎の向かい側には、ルードヴィッヒ教会とバイエルン州立図書館が聳えている。1789年のフランス革命の年には、世界で一番大きく、美しい公園の一つと言われる「イギリス公園」が作られた。その公園が、大学の東側に延々と広がっている。
 学術環境に恵まれたミュンヘンだが、9月初旬にして最低気温9℃、最高気温20℃。市民は、革のジャケットか薄手のオーバーコートをすでに着用していた。自然環境を考慮すると、施設の充実は必要にして十分な条件である。
                                  「教育・施設」日刊中央通信社2002.10.20付

◆ローマ大学

 ローマ・サピエンツァ大学は、創設以来700年という伝統ある大学である。中心街に点在するキャンパスは、建物そのものが歴史的建造物であり、観光客が訪れる名所となっている。その中でも、一際存在が目立つのは、「サンティーヴォ教会」だ。
 欧米の大学には、特徴のある教会が、学内に建てられているのが一般的である。ローマは、カトリック総本山のお膝元。大学内の教会といえども、名建築が生まれている。
 「サンティーヴォ教会」は、建築家ボッロミーニによって、1660年に完成した。広々とした中庭、ゆるやかなカーブを描く外壁は、重厚で躍動感に満ちた空間を演出している。バロック建築の巨匠ボッロミーニの代表作である。
 この教会の正式名は「サンティーヴォ・アッラ・サピエンツァ教会」。ローマ・サピエンツァ大学の「サピエンツァ」という名称は、ここに由来し、賢明さという意味を表す。
 コロッセオの近くには「工学部」、ボルゲーゼ公園内には「建築学部」の校舎がある。工学部の建物は、サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会に隣接している。この教会にはミケランジェロの「モーゼ像」があり、連日観光客があふれている。工学部の裏手には、トラヤヌス帝の浴場が広がる。
 「講義室からの眺めは最高ですね」
 学年末の講義や試験を受けに集まった男子学生に、声をかけてみた。
 「そうなんだ。窓の外を眺めていると、いいアイデアが浮かぶんだ」
 崩れ掛けたような遺跡は、学生たちの心を和ませ、インスピレーションを与えているに違いない。
 そして、テルミニ駅北側には、広大な「統合校舎」がある。総敷地面積は44万uに及び、文字通り「大学都市」を形成している。ここには、イタリア・ファシズムを代表する近代建築群が並ぶ。ローマ大学に入学すると、こちらで教養時代を過ごし、古い校舎へと移って行く。
 この大学都市は1935年、ピアチェンティーニのプロジェクトをもとに完成した。キャンパス中央の建物には、図書館、大講義室、学長室などがある。この建物は、広大な池に面した、均整のとれたビルだ。外観はいかにも近代的だが、内装はローマらしく木目使いで、天井は高く、階段が異様に広い。コンピューターがオフィス内にあることが、不釣合いなくらい、クラシック調である。このビルの2階の広報室で、最新情報を入手した。
 学生数約139,000人、教官数約4,900人。大学都市の総敷地面積は439,000u、点在する校舎を含めると、総敷地面積は900,000uにも及ぶ。
 大学創設は1303年4月20日。教皇ボニファティウス8世によって築かれた。大学の歴史は、キリスト教発展の歴史と深くかかわっている。教皇ボニファティウス8世は、1300年に100年ごとの「聖年」を布告したことで有名である。
 ところが、この時代のローマに歴史的異変が起こる。1308年に教皇のアヴィニヨン補囚が始まった。ローマ大学創設後の100年間は、ローマ教皇不在のため、大学の経済状況が厳しくなる。その後、教皇エウジェーニオ4世の時代になって、やっと経済基盤が確立された。
 当初は神学や法学、特に法王政治についての研究がさかんだった。16世紀に入ってからは、人文分野への道が開かれ、新教授法が導入されている。18世紀に入ってから、工学、医学、哲学、科学の分野が加わって行く。19世紀にはウンベルト1世付属病院を併設。
 20世紀のファシズム時代に入ってから、付属病院のある地区に、大学の大規模な移転が行われた。1935年の学生数は13,002人、そのうち女子学生は2,435人、教授数は163人という記録が残っている。
 大学都市を訪れた7月16日は、新学年のためのオリエンテーションが行われていた。学生たちは、9月からのカリキュラムを作成するため、コース別に分かれたテント内で、説明を受け、必要なパンフレットを手に取っていた。
 大学内には、原始人類が使用した道具を集めた博物館がある。図書館には、複製された彫像がズラリと並ぶ。ローマの街全体が、現存する博物館そのままという感じだが、それに加えて、アカデミックな博物館を大学が所有している。ローマ市内には、趣向を凝らした様々な博物館がある。「ローマの都市国家建設の歴史」をたどり、「ギリシア・ローマ時代の古美術」を眺めることも容易である。歴史、美術、建築に限らず、ローマから学ぶことは多岐に渡る。
 冒頭に紹介した「サンティーヴォ教会」のすぐ近くには、2000年の時を経て現存する「パンテオン」がある。パンテオンは、キリスト教が発祥する以前の万神殿だ。奔放なエネルギーを放出する「パンテオン」の美しさは、見る者を圧倒する。この万神殿こそ、建築学上重要な意味をもつ。キリスト教以前のローマの歴史を建物一つが雄弁に物語る。立地条件、人々の暮らしに思いを馳せれば、興味は尽きることがない。
                                    「教育・施設」日刊中央通信社2002.8.20付

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