ホーム、著書、ローマ生活、南イタリア、サッカー観戦、
欧州紀行、通信事情、野外授業、大学、美術館、掲示板、自己紹介
![]()
![]()
◆上空からサッカーの試合を眺めながらローマ入り(2001.4月)
昨夜(14日)、スタジオ・オリンピコの上空からサッカーの試合を垣間見ながら、ローマ入りした。到着寸前に飛行機が妙な高度の下げ方をしたので、窓の外に目をやった。すると、ライトアップされたスタジオの内部が目に入った。アリタリア航空のパイロットは、きっとASローマファンに違いない。
空港到着ロビーでは、バールのテレビで、ユベントス・インテル戦を放映していた。空港の警備員たちは画面に釘付け。さずがイタリア。私も一緒に見入ってしまった。というわけで、中心街への移動が夜中の10時過ぎになってしまった。セリエAは本当に盛り上がっている。
今朝、ガゼッタ・スポルト紙で、全試合の結果を把握しようとしたところ、どこの新聞スタンドもすでに売り切れだった。こちらには私以上に熱烈なファンが一杯いる。ほかのスポーツ紙を読みながら、ローマはペルージャに引き分け、ラツィオはレッジーナに勝ったことがわかった。ところで、2位のユベントスのことはどうして小さい記事なの? 忘れていた、ここはローマだ。
ローマをホームにしている2チームの調子がいいので、ローマ市民は機嫌がいい。さあ、これからローマの生活が始まる。
◆春のヴァカンツァ(5月)
イタリアの春のヴァカンツァは、日本の連休とちょうど重なっていた。夏の長期休暇を前に、イタリア人も南へ北へと激しく移動する。「外国人観光客であふれる前に、出かけておいたほうがいいよ」。イタリア人からのありがたい忠告だが、イタリアに到着してやっと20日が経過したばかり。しかし、5月のローマの強い日差しは夏を思わせる。この時期の天候はとても変わりやすく、気温は朝7℃、昼間27℃という日さえある。1日のうちに冬と夏が同居しているみたいだ。
暑い時は「アフリカ」から風が吹いているし、寒い時は「ロシア」から風が吹いているという。灼熱の大地から運ばれる南風は乾燥し、容赦なく照りつける強い日差しを受けると、「果たして真夏の暑さに耐えられるのか」自信がなくなってしまう。
一方、北風が吹くと、5月でも皮のコートがほしくなるほどの寒さである。午前中にウールのコートやキルティングのジャケットを着て歩き、昼間はTシャツ1枚になるといった具合である。
春のヴァカンツァは、こういう時期にやって来た。期間が短いからといって、中途半端に休んでいてはいけないのだそうだ。「カプリにでも行っておいでよ。いや、フィレンツェのほうがいいな」と周囲で相談されて、ローマからフィレンツェに送り出されてしまった。
話だけ聞くつもりで、生返事をしていたら、旅行会社のカウンターに連れて行かれ、ホテルを予約されてしまった。というわけで、フィレンツェに滞在することになった。何しろ花の都のフィレンツェだ。ドゥオモの前に立つと、あまりの麗しさに、何回来てもいいものだと悦に入る。
せっかくトスカーナまで来たのだ。ついでに、もう少し足を伸ばしてみよう。フィレンツェから列車で西に向かった。フィレンツェは気温28℃で、「暑い」と感じながら古都を歩いていたが、列車で1時間くらい移動した町、ピストイアでは急に寒くなった。おまけに激しい雨と雷に見舞われてしまった。雨宿りしながら、通りを歩いていると、乗用車に水溜りの水を跳ね上げられ、ずぶ濡れだ。
「太陽が恋しい」。風の吹くまま、気の向くまま、イタリア半島を北上したり、南下したりの旅が始まった。ナポリよりもう少し南の町「サレルノ」まで行ってみよう。真夏に行くよりいいかもしれない。それにフィレンツェ駅の切符売り場で、ゴールデンウイークを利用して、イタリア半島を北上して来た日本人男性に会い、「アマルフィ海岸が良かったですよ」と熱っぽく薦めてくれた。旅で得る生情報は貴重だ。耳を傾けないわけには行かない。
私のお気に入りの海岸は、ジェノヴァ近くの「リグリア海岸」である。穏やかで美しい海岸だ。彼の話によると、リグリア海岸にも行ったことがあるが、そこと比較してみても、アマルフィはなかなかステキな海岸だという。わずか数日前の情報だ。こうなったら、行くしかないな。
フィレンツェからピストイアに向かう列車の中、早速彼から譲り受けたガイドブックを見て、南下計画を練り始めた。心はすぐにでも南下したいが、イタリアというのはローマ、フィレンツェ、ミラノ、ボローニャなど大都市以外は、列車の接続が悪い。ピストイアはひなびた保養地である。この時期に観光客はほとんどいない。効率よく町を一回りしてから、ホテルでゆっくりしていた。泊り客のほとんどがイタリア人男性で、それも「いい男」ぞろいなのだ。イタリアは北と南では、全く民族が違うのではないかと思わせるほど、髪の毛、目の色、背の高さなどがさまざまだ。従って、彼らの容姿も一様ではないが、そのグループの人たちは、とびきり仕立てのいいスーツを着ている。アルマーニやベルサーチとかの類だ。
フロントの近くで、彼らの話に耳をすましてみると、食べることや女の子のことは話題になっていない。顔には知性があふれ、お互いを「ドットーレ」と呼び合っている。彼らは医者だったのだ。病気にでもならない限りお世話にならない人たちと、保養地ピストイアで同宿でき、目の保養になった。これが私の春のヴァカンツァの始まりだった。
◆アパートへの引越(6月)
朝から完璧に家事をやっている。朝食の準備、洗濯、メルカートへの買い出し。トイレットペーパーや洗剤を買っていると、満ち足りる。これがローマで望んでいた生活だなんて、意外や意外。好きなときに紅茶を入れて飲み、メルカートで買ってきた魚介類でマリネを作って食べる。たったこれだけのことが、叶わなかったなんて、やっぱりホテルやペンショーネでの長期滞在には限度があるのだ。70日間は長かった。4月にアパートの契約を済ませていたが、部屋を明け渡してくれるはずの大学生が、いつまでも引っ越さなかった。待つ期間が長かっただけに、今は幸せを感じている。ちゃんと自分のスペースがあって、好きな時に自分のやりたいことができる。
昨夜はカレーライスを作った。アパートをシェアしている、オーストラリア人で英語教師のマリア、それにアパートのオーナーで、隣の家に住んでいるジャンニを招待した。人に作って食べさせてあげる。久々の快感だ。日本では、夕食作りはただ忙しいだけだったのに。
「さあ、食事は終わり」。彼らの話が、いつまでも終わらないので、仕切ってみた。
「お開き!」
「心配しないで、片付けは私がやるから」というマリア。
そうか、ここはローマなんだ。早くお風呂に入って寝ようという日本的感覚は持ち込まないことにしよう。紅茶を何杯も飲んで話に付き合い、寝付けない夜になってしまった。
新しいアパートでの生活に、すっかりなじんで来た。適応が早いこと。ペンショーネ暮らしの時に、テルミニ駅から地下鉄で一駅しか離れていない「ビットリオエマヌエ―レ2世」のメルカート通いを始めた。野菜、チーズ、パンは、もっぱらメルカートで調達していた。ある時ジャンニが、「ここのチーズは、美味しいよ」と教えてくれた。その大きなチーズの塊を抱えて帰った。あのチーズの味が忘れられない。チーズだけは、今のアパートからは少々遠くなってしまったけれど、同じ店に買い出しに行っている。
「パルミッジャーノ」というチーズ。まろやかで自然な風味だ。スパゲッティの上に降りかけて食べる定番のチーズだが、大きめにスライスしてかじると、「これぞイタリアのチーズ」という味わいだ。
食生活に満足すると、ローマの生活が輝きを増していくようだ。
ただいま、シックな書物机に向かっている。書き心地満点。このデスクは、私が気持ちよく仕事ができるように、大家さんが新調してくれたものだ。さあ、書くぞ!
机の前方にある窓を開けると、風とともに土の香りが運ばれてきた。雨だ! 久しぶりにローマで降る雨。パラッと降ったらおしまいになりそうだけど、乾燥している大地を潤してくれる貴重な雨なんだ。ローマの雨は、雷をともなったひどい雨か、こんなふうにパラリと降る雨のどちらかだ。
◆住人たちの好奇の目(7月)
文句なしに環境がいい。夜はとても静かで、本当にぐっすり眠れる。快適な環境だ。
「シニョーラ、あなたどこの階に住んでいるの?」
たった今、アパートの入口で、上階に住んでいる老婦人に声をかけられた。みんなほっといてくれないところが、ローマのいいところだ。
7月3日の午後から、やっと固定電話の番号が使えるようになった。アパートの部屋から好きな時に、電話と通信ができる。よかった、ヴァカンス前で。サバイバルしなきゃ。
イタリアって、本当に居心地いい。周囲に気を使わなくていいのが最高。わがまま放題に生きている人たちに囲まれていると、日本人はなんて控えめなのだろうと思ってしまう。そして、働くのが本来好きな民族ではないかと思えてきた。ローマの生活に入った途端、私は「働き者」の部類に入れられてしまった。
周囲のイタリア人たちから、毎日尋ねられる。
「今日はどこに行って、何をやっていたの?」
彼らは私の行動に興味津々なのだ。
「以前から日本人と話してみたかったんだ。でも、日本人は旅行者だってグループになっているし、話す機会がなかったよ」
住人からの注目度は日に日に増す。階下のサッシ屋の店主は、急に声のボリュームを下げてお客さんと話すようになった。
「2階の日本人女性が、原稿を書いているんだよ」
その声が、どういうわけか私の耳に届く。
◆ローマの海岸へ(7・23)
何事も過激な国だから、ヴァカンツァは徹底的に遊びまくっているよ、イタリア人のみなさんは。私も昨日海へ。ローマの中心街から40分で行ける「リド・ディ・オスティア」で泳いできた。ここの海岸は2度目。一仕事終えると急に泳ぎたくなる。昼下がりに一人で電車に乗って出かけた。
海辺でオランダ人の若者グループ11人と仲良くなり、いっしょに泳いで、しゃべって、食べて、楽しい一時を過ごした。
「私たち、どこに行ってもエレファントグループって呼ばれるのよ」
25歳くらいの金髪の女性が、そう言った。オランダ人は長身の人が多い。彼女も例にもれず大柄だ。彼らが群れをなすと、確かに象の集団のように目立つ。
帰りがけに「ありがとう、先に帰るね」と声をかけたら、砂浜に寝そべっていた全員が一斉に大声で「チャ〜オ!」。
ちょっといい旅気分を味わった。忘れていたな、この気分。ローマにきている旅人と一緒に過ごせば、いつでも旅人になれるんだ。
◆夏のヴァカンツァ(8月)
一度でもイタリアの夏を「美しい海」「明るい太陽」「陽気なイタリア人」とともに過ごせば、この国の魅力の虜になる。もはや魔の手から逃れることは容易でない。体の芯まで完全にリラックスし、頭の中は「明日」のことや「仕事」のことなど、ややこしいことは何も考えられなくなる。こうして1年分の充電がなされて行く。頭の中のラテン化は、夏に進み、働いている人が異常に見える季節である。
私も夏のヴァカンツァを1999年、2000年と続けてジェノヴァに近いリビエラ海岸で一人で過ごし、ヴァカンツァ中毒になってしまった。わざわざ東京からやって来て、軽く日頃の疲れを癒すつもりだった。しかし、それだけでは物足りなくなり、生活の場をイタリアに移してしまった。そして、2001年にはカラブリア州とシチリア島で本格的なヴァカンツァを過ごした。
地域性の違いはあるにせよ、イタリア人のヴァカンツァへの切り換えは見事である。大人から子供まで、朝からよく遊び、たっぷりの昼寝をし、夜もたっぷり騒ぐ。海岸では来る日も来る日もゴロゴロと寝そべったり、泳いだり、ビーチサッカーをしたり、カードゲームに興じたりして過ごす。たまに変化をつけるために、少し離れた海岸で釣りを楽しみ、山に登り、膨大な時間をかけながら楽しむ。食事に招いたり、招かれたりという同族同士の行事も加わる。
シーズン前の話題は、どこでヴァカンツァを過ごすか、ということに集中し、シーズン後はヴァカンツァは楽しかったか、どれだけ費用がかかったかという話で持ちきりだ。
◆ミケランジェロの「ピエタ像」(9月)
ルネサンスの彫刻家ミケランジェロの「ピエタ像」に魅せられて、20代後半からイタリア通いが続いていたが、ローマの住人となって散歩コースに組み入れた。飽きるまで眺めようと、今日もヴァチカンに出向いた。白い大理石の「ピエタ像」は、サンピエトロ寺院に入ってすぐ右手にある。座した聖母マリアが、ぐったりとなったイエスの体を膝の上にかかえ、うな垂れている。崇高な空気が、世紀を超えて流れる。その空気に触れたくて、サンピエトロ寺院を訪れるのだ。
しかし、今日のサン・ピエトロ広場は、いつもと様子が違う。巨大な広場には、聖歌隊の歌が流れている。ローマ法王がお出ましになり、神前ならぬ法王の御前で結婚式が行われていたのだ。数10組の新郎新婦が、法王の前に歩み立て、法王の手にキスし、法王から1組ずつ言葉をかけてもらっている。その様子が、広場前方の大型スクリーンに映し出されている。新婦の白いウエディングトレスが日差しを受け、いっそう眩しく輝く。結婚式のセレモニーが行われている間は、もちろん観光客は立ち入り禁止。
約1時間後、寺院への入場が再開された。世界中からの観光客とヴァチカン詣でのキリスト教徒で、広場のオリベスクからベルニーニの噴水まで、人があふれ返っている。まずセレモニー参加者が退場する。奉仕団体の人たちが、それに続く。それを待って観光客の入場開始となるが、どの方向に向かって歩いていいのかわからない。幾筋もの列ができ、渦巻状に列が動いている。それでも何とか係員の説明が聞こえる所まで進んだ。
「ここは入口じゃない。入口は反対側だ」
今度は広場を横切り、もう一度別の列に加わった。その列は、華やいだ空気の残る寺院内部へと吸い込まれていった。巡礼者を迎え入れる寺院は、広場いっぱいに集う人たちを泰然と飲み尽くす。ヴァチカンのお膝元で暮らすということは、時として「カオス」の中で生きて行くことを覚悟しなければならないのである。
◆ローマの生活が日常になる(10月)
ローマですっかり落ち着いてみると、イタリアという国の見え方が変わってきた。周囲の住人の存在が大きくなってきた。ローマで日本からの友人を迎えることが多くなった。雑誌の編集者とローマで会って、編集会議を開くことも珍しくなくなった。
自分の動きが止まり、ローマの生活が日常そのものになったのだ。アパートに住むと、ホテル代がかからない。その分だけ経済的に楽になる。しかし、サッカーの刺激なしでは生きて行けないほど、サッカー観戦の比重が日常生活の中で大きくなる。イタリアで半年が経過。
さて、ローマからのレポートを集中的に書こう。そして、ショートトリップを楽しむ生活に切り替えよう。
◆雨季に入った(11月)
ローマは雨季に入った。今まで晴れ渡った空を見てきたので、精神的に少々重くなる。ラツィオ・ユベントスのナイトゲームは、ロングコートを着ての観戦だった。それでも寒さがこたえた。クリスマスソングが町で聞こえる季節になった。
◆ホームシック(12月)
日本を離れて8カ月。急に帰りたくなった。観光客の姿はチラホラとしか見かけなくなった。本国が恋しい。日本でお正月を迎えることが、唯一の希望になった。
◆日本食ですっかり充電(2002.1月)
未来の都市東京から、歴史の舞台ローマに戻る。東京では仕事をしているつもりはなかったけれど、人に会ってイタリアのことを話すと、「それ、書いてよ」と次々に原稿依頼が入ってきた。仕事をするために、ローマへ戻る。人生ってわからないものだ。セリエA観戦も再開。
◆仕事と旅の日々(2月)
原寸大の楽しみ方ができるのがイタリア。小さなことを拡大して上手に楽しめるのが日本。それなのに、ローマでは仕事ばかり。どうなっちゃっているの。一区切りついたら、3度目の南イタリアへ行こう。ブーツの底からかかとに向けて移動し、レッチェからユーロスターでローマに戻る。真冬でも気楽に旅に出られるのが、南イタリアのいいところだ。
◆経済レポートにとりかかる(3月)
また一時帰国。週刊文春元記者で作家の六角弘氏から経済誌「エルネオス」を紹介していただいた以上、本格的な経済レポートができる態勢を整えよう。
◆ローマでの生活スタイルを変える(4月)
イタリアでついにビザが切れてしまった。ちょっと面倒くさいけれど、3カ月ごとに帰国して、2年目の取材を続けることにする。やっと仕事が乗ってきた。ここで降りるわけにはいかない。アパートから下宿に移る。帰国時のことを考えて、週単位で部屋を借りることにした。これで思い切って旅にも出られる。
◆スペインへ(5月)
スペインのセビリアへ。おかしなもので、ローマに住んでいるとイタリア以外の国に旅行したくなる。バルセロナで長谷クンと出会う。長谷クンのパソコンで写真を取り込ませてもらい、原稿を送る。彼にスペイン語の通訳を頼み、今後の取材計画を立てる。彼はヨハン・クライフのサッカー学校に通っている。テレビ朝日系のサッカー番組の現地中継で、スタッフの通訳をこなしている。サッカーにかかわる道が色々あることを知る。
◆2002W杯(6月)
W杯のために帰国。ライター仲間の佐藤クンが、「スウェーデン・アルゼンチン戦」のチケットを獲得した。私の名前を書き連ねて応募し、幸運にも当選したのだ。感謝、感激、雨霰! 日本に帰らずにいられようか。彼の「サッカー狂リスト」の上位にランクしている人から順番に書いて応募したところ、見事に当選。そうそうたるメンバーで宮城スタジアムに乗り込むことになった。私はイタリア代表チームが「日本入り」したニュースをローマで見た後、彼らを追いかけるようにして日本へ戻った。
というわけで、6月は日本でW杯に燃えた。残念ながらアルゼンチン代表は、私たちの目の前で散っていった。しかし、ヴェローンとアイマールが、同じフィールドでプレーをするのを見た。これ以上の贅沢なゲームはない。一生忘れられないゲームになった。
◆ローマからの移住計画(7月)
W杯終了とともに、ローマに引き返す。原稿依頼はあるものの、「ローマの取材は、もういいぞ」という連絡が編集部から次々に入る。近場のフィレンツェ取材へとシフトすることにしよう。2度3度と往復を繰り返しているうちに、思い切ってフィレンツェのアパートに移ることにした。
◆フィレンツェに引越す(8月)
1カ月契約でフィレンツェの町中にアパートを借りた。フィレンツェ大学のすぐそばだ。毎日せっせと大学に通う。ちょうどアカデミック・イヤーという大学改革が進行している。面白そうだ。大学施設のすべてが興味深い。
しかし、観光客に占領されたフィレンツェにいると落ち着きを失う。この町では、観光客相手の商売人を除き、イタリア人がヴァカンツァに出かけ、町から消えてしまった。英語とドイツ語と日本語が、朝から晩まで飛び交っている。
フィレンツェ在住の日本人の友だちもたくさんできた。それにしても、暑い! プールに行ったり、イタリアの東海岸の「リミニ」、西海岸の「フォルテ・デイ・マルミ」に泳ぎに行って、何とか真夏を乗り切る。
◆ドイツで過ごす(9月)
ミュンヘンに移動。イタリアの暑さにグロッキー。フィレンツェのアパートをはらった後、北に向かった。アルプスを越えた途端、今度は寒くなった。ミュンヘンでコートを買って寒さを凌ぐ。
ホーフブロイハウスでベルリン在住のジャーナリストと隣り合わせになった。政治から芸術まで、ドイツ人の彼はカバーできる範囲が広いと感心する。よい刺激を受けた。
2週間かけてミュンヘンからローマに戻る。北イタリアの山岳地帯は、スイスに似て落ち着いた雰囲気がある。
久々のローマ。「イタリアトヨタの奇跡」について本を書くことを本気で考え始める。取材期間や内容について具体的に検討する。それには新しい環境が必要だ。今回もアパートはすぐ見つかった。ジャーナリストのカルロ、彼の母親で女流画家の住むアパートで、間借りすることが決まった。フレンドリーな家族だ。10分おきくらいに、「エイコ、入ってもいい?」と、入れ替わり立ち替わり2人が私の部屋にやってきた。
「ビデオをいっしょに居間で見ようよ」
「写真を見に来て!」
「日本人の女の子を連れておいでよ」
「ピッツァをいっしょに食べに行きましょう」
「今からパーティーに行くけど、この格好ステキかしら」
「日本料理を教えて」
毎日賑やかだった。カルロは真夜中に原稿を書くタイプ。私は早朝型。居心地は決して悪くない。話も合う。しかし、ビザの更新はやっぱりできないまま。まもなく3カ月の滞在期間が過ぎる。
◆長期取材の準備(10月)
帰国して、ひたすら仕事。次回の渡伊で本を1冊書くには、長期取材の準備をしておかなくてはいけない。問題は資金。外国での出費はかさむので、とにかく日本にいる間に寝食を忘れて働く。現地で別の原稿に追われると、集中力が切れる。そうならないように、イタリアでの執筆に打ち込めるよう、東京ではひたすら稼ぐ日々。
◆いよいよ本の取材開始(11月)
本の取材と執筆開始。ローマのサラリーマンと同じ時間帯に動く。
通勤ラッシュの中をバスと列車を乗り継いで、イタリアトヨタに通う。
◆自動車業界の動きとともに(12月)
ボローニャ・モーターショーに行く。ローマを離れたついでに、チューリヒ大学、ベルン大学を取材。何とかシリーズ原稿のほうもこなす。朝から夕方まで、楽しいインタビューが続いている。しかし、寒いのは苦手だ。帰国はシンガポール経由で。ローマ〜シンガポール〜成田は、気温差30℃ずつ。クリスマスはシンガポール上空で迎えた。機内でスヌーピーグッズのクリスマスプレゼントをたくさんもらった。成田到着と同時にひどいカゼ。
◆日本でダウン(2003.1月)
お正月だけは日本で過ごしたいと望んで帰国したのに、高熱が続く。
遅い初詣。そして、またローマへ。
◆執筆に集中(2月)
トリノへ、カーデザイナーの取材に行く。−4℃という寒さには慣れていない。身が引き締まる。
これで取材終了。本はほぼ書き下ろした。
◆出版へ(3月)
出版に向けて帰国。出版社は中央公論新社に決まった。編集会議に続き、全体会議でパス。原稿を突っ込み、仮ゲラが出るのを待つ。出版までのスケジュールの細部を詰める。
またまた、渡欧。スペイン取材開始。バルセロナでアパートを借りる。長谷クンのおかげで、取材も生活もすべて順調。
◆塩野七生さんのインタビュー(4月)
インタビューのために、バルセロナからブリュッセル、そしてローマへ。塩野七生さんのインタビューを終え、最終原稿として送信する。ベルギーからドイツ、フランス、スイスへと移動しながら、新シリーズの取材活動に入る。残念ながらバルセロナは短期滞在となってしまった。
◆移動の多い今年度の取材(5月)
アイルランド、イギリス、フランスをめぐる。学校と美術館に照準を定めて移動している。
これが仕事半分、遊び半分の本来のペースだ。
◆序章などを書き加える(6月)
帰国して、本のまえがき、あとがき、リードの部分を書き加える。
出版社での打ち合わせが多くなる。
◆本のデザインが決まる(7月)
写真や図表を選び、編集部の名倉さんとアイデアを出し合いながら作り上げる。出版という創造活動はことのほか楽しい。1人の執筆活動から、複数の人数で編集し、さらに営業がからみ、出版界の本流へと加わる醍醐味を味わう。
◆最後の帯作り(8月)
東京にいながら、メールでイタリアとやりとり。帯の材料がすべてそろう。
本から手が離れたところで、ホームページ作りに入る。