隣の印度人から歌舞伎町の女王へ
(本能系歌手についての一考察)

 さて、今回は趣向を変えて(いつも変わってますが)、日本の女性ボーカルの一系列として脈々と受け継がれている本能系の方達についての一考察であります。
 題名の中の「隣の印度人」とは、戸川純(玉姫)様の名曲であり、「歌舞伎町の女王」は、言わずと知れた椎名林檎嬢の出世作といってもいいものです。共通点は、どちらも「女の血」を感じさせる、ウエットな雰囲気。

 とにかく夏の夜話としてお付き合い下さいませ・・・(なんかおどろおどろしい出だしだ)


玉姫様(戸川純 [先生])
 そもそも、本能系、ということの(あくまで私の)定義でありますが、ドライな奇麗事ではなくドロドロした現実を、恋愛にしろ世相にしろぶつけてくる歌詞、そして下半身に直接訴えてくるようなウエットな低い声質と粘着性の歌唱法、そして決してグラマーではなくスレンダーでもないが異性を魅惑するような体形に、何かに憑かれたような歌唱時の表情、そんな特徴を兼ね備えた女性ボーカルを小生は「本能系」と称しているわけであります。
 この辺は、とっても主観が入るのでとりあえずは前提として認めていただきたい。

 さて、戸川純さんです。なぜかこの方は、「先生」とつけたくなる、なんともいえぬ教祖的なカリスマがある。ゲルニカのことは実はあまり知らないのだけれど、何と言っても最初の衝撃的な出会いは「隣の印度人」でした。

 小生が学生時代に何気なく深夜放送(その頃はまだ、いかにも「怪しい」系が多かった)、それも何か明石家さんまが司会をやっていたちょっとお色気ありの番組だったと思う。その途中でゲストで出てきたのが純先生だった。なんか人の話を聞いているようないないようなよくわからない会話の後、突然曲は始まったのだった・・・
 (大体において、深夜放送のゲストなんてものは言っちゃ悪いけれど、中途半端なお色気系か、一生うだつが上がらないような演歌系くらいしか出ないものだから、私も多いに油断していた。) ところが、歌い出したら、慌てた。たんまげた。目が覚めた。そして正座した。曲の前の会話の雰囲気と歌が始まった後でのこの信じがたいギャップ。この曲は2分足らずの短いものであるが、この曲を聴いてから何かが変わった。

 確か、さんまもかなり驚いていたと思う。歌も歌だが、何よりもこの発散されるエネルギーはなんなのだ。そしてたったこれだけの時間でテンションを一気に上り詰めていくこの気迫は一体!! そしてこの「いっちゃってる」目は何!?

 これ以来、私の心の中では、戸川純さまは「先生」である。何を拠り所としてそう呼ぶかは説明できないが。

 それから程なくして、名盤『玉姫様』が出た。「先生」としか呼び名がなかった私にとって「玉姫様」という呼び方を知ったことがまず喜びであった。
 虫を中心とした自然をテーマにしているようにみえながら、それは単なる外面を覆うカサカサのキチン質であるに過ぎず、内面は(本人が意識しているか無意識なのかは不明であるが)現世への皮肉と肉体的な現実の我々へのつきつけのオンパレードである。「玉姫様」が女性の月のものを連想させているとして話題になったが、そんなことは確信犯であり問題ではない。それよりも、こういう「本能系」を受け入れる器の広さを我々が持っていることを認識したのが大きかったように思う。

 ちなみに『玉姫様』の中でのお気に入りは、タイトル曲はもちろんだが、「森の人々」も捨てがたい。バロック音楽の名曲「パッヘルベルのカノン」に歌詞をつけた「蛹化の女」も秀逸だ。
 しかし彼女の陶酔は、あくまで「虚構」上での高度な演技に過ぎない。これを見誤ると単なる「変な女」のステイタスしか残らなくなる。その点では、その後の純先生を支えきれるだけの大衆の準備は出来ていなかったため彼女が第一線から埋もれていったのは悔やまれる。

 それはそうと、妹の戸川京子さんは、今どうしているのだろうか。

女王様(椎名林檎 [嬢])
 戸川純の嵐がようやく私の中で無風になり、ノーマルな路線からも興味が遠ざかりつつあった30代中盤を超えようとしていた小生を、再び「本能系」の世界に引きずり込んだのが、椎名林檎嬢である。

 初めて「本能(曲名)」の生の映像を見たときには、まさに「玉姫様」が時空を超えて世紀末に再臨したような印象をもったものだ。しかも「コスプレ」という飛び道具でパワーアップしているではないか。「新宿系」という一言で片づけられていることに本人はあまり本意ではないようだが、これは簡にして単のいい表現だと思う。「渋谷系」とも「池袋系」とも「六本木系」とも違う、きれいも汚いも老いも若いもマルキンもマルビも(ちょっと死語っぽいね)ごった煮にしたような生命力を内に外にストレートに出すことに躊躇しない図太さは確かに「新宿系」としか言い様がない。特にこの声質はベリーグッドだ。抑制を効かせたときと絶叫したときとのダイナミクスレンジの広さもある。ついでながら、あの黒子がまた妙に魅かれる。これで二十歳そこそこというところが、こういう世界の神秘であり、希望でもある。

 「歌舞伎町の女王」は、実に暗示的な歌詞だ。子供を捨て男をとった歌舞伎町の女王である母を、やがて自分が女王として取って代わるというストーリーは、そのまま「血」というものの濃さと脆さを突きつけると共に、老いという運命的な現実を全女性の前に投げ出している、末恐ろしい歌だ。「ここでキスして」は、彼女がぎりぎりまで「普通の人達」に妥協しているような人口に膾炙した作品であるが、それは彼女独特の「ポーズ」に過ぎない。何のことはない、大衆が彼女のわなにはまっただけのことだと思う。大体、他の女性に興味が向いていることがわかっている男にしがみついて離れないような執念は、男としてはとても恐ろしい。

 タイトルが、妙に凝っているのも戸川純さんとの共通点だ。大体アルバムの題名から「無罪モラトリアム」「勝訴ストリップ」ときている。法律系の固い言葉にあいまいなカタカナ英語をかけあわせることによって、逆に善と悪の間で中ぶらりんな我々を皮肉っている。「罪と罰」などはその傾向の代表的な曲だ。だからといって、どちらが正しいどちらが悪いというような一元論的な言い方は巧妙に避けている。そんな基準など何処にもないという現実だけを訴えているのだ。

 私のお気に入りは、「罪と罰」「積木遊び」「浴室」「月に負け犬」といったところだろうか。「浴室」は、かなり難解だし、夢か現実化をわざとぼかしているが、背筋が凍るような歌だ。しかしながら魅かれてしまうのは林檎嬢の魔力であろう。

 この夏からしばらく長期休暇に入るらしいが、とても良いことだと思う。彼女の今の作風は強烈だが決して長続きするものでもない。世の中も一時は持ち上げておいて後でドスンと落とすのは目に見えている。ここで姿を消すのがベストだ。
 次のフェーズに昇華した女王様が再び表舞台に現れたときがとても楽しみである。

本能系、あれこれ
 なんといっても小生は男性であるからして、多かれ少なかれ女性ボーカルからは「フェロモン」というものを感じるわけである。(ここでいうフェロモンとは、本人が意識しなくても、また外観に関わらず微妙に感じ取れる性的魅力の意味で、いかにも媚びているといったようなことがあからさまに表れている昨今の用法とは異なります。)
 上で挙げた二人よりは濃くないものの、そういう雰囲気が漂う方達について。

 ということで、何人か挙げたいと思う。
 真っ先に思い浮かぶのは「Judy and Marry」のユキである。彼女は実年齢があまりはっきりわからない。それが一つの持ち味でもあるようだ。お世辞にもセックスアピールがうまいとも思えないのだが、彼女の声になんとも「引っ掛かり」を感じる男性は多いのではないだろうか。表向きの間口は若い女性に向いているが、実際のターゲットは実に幅広い層の男性なのではないかと思うのだ。きっとはまったら逃がれられないようなタイプである。私は「そばかす」で引っ掛かってしまった。
 次は、レベッカのNOKKO。最近レベッカを再結成したようだが、残念ながら個人的にはあまり喜べない。彼女の張りのある密度のある声が、残念ながらかつての勢いを失っている。そうなってはNOKKOの低空飛行しながら急旋回するような太いボイスが生きてこない。低音域から男性の中枢を攻撃するような「ラズベリードリーム」や「ロンリーバタフライ」のような曲はもう過去のCDからしか聴くことは出来ないのではないだろうか。
 後はどんどん列記すれば、斉藤由貴、森高千里、もちろん山口百恵さんも忘れてはいけません。そして実は、松田聖子さんも、実に巧妙な「本能系」であることは否定できないと思う。
 一方、中森明菜は色々な意味を含めて「本能系」とは認めがたい。歌が「本能系」でも、本人はしっかり冷めているのが「プロ」というものなのだから。


 いかがでしたか。今回は私の趣味をそのまま載せたようで申し訳ない感じですが、もともとそんなパブリックな内容でもなし、許していただきましょう。

 「本能系」という流れはいつまでも途切れることはないと思います。愛や夢や希望は確かに流行歌の主要なテーマではありますが、奇麗事であることは否めない。時々は常識的な感情を芯から揺さぶるこういった方達もいないと、芸能界にとどまらず社会のダイナミクスが維持できないと思うし、人間の欲望は抑えようと思っても抑えきれないものであるから。