討論の場等で、ある意見を発した人に対して
『その考えは間違いです。あなたは勉強不足だ。これこれの本を読んでちゃんと勉強しなさい。』等と言う人が良くいる。
自分は読書家であり、余念もなく博識であると言いたいのでしょう。よって自分は正しいと・・・・・・
しかし、自分の意見を述べられない人間が、他人の書いたものを読んでも意味は無い。
他人の書いた物を読むということは、自らが主体となって批評するために読むのではないだろうか。
従って、本を読んで書かれた事を知ること自体が勉強ではなく、思考し批評が出来て初めて身につくものなのである。
しかしながら、『何もない所から思考は生まれないのでは?』と反論される方も居るでしょう。
思考が無ければ批評も出来ない。思考の材料となるのは読書である事も事実である。
だがまさに、その『思考の材料を思考するのは自分である』という恐るべき事実を知っている人は少ないのではないでしょうか?
この何ものにも拠らない絶対的思考とでも言うべき思考の素地を私は倫理観と呼んでいる。
全ての善悪の基準はこの倫理観により思考されて、決定しているのだ。
倫理とは本来人が備え持っているもの。
他人から与えられた善悪の基準は道徳と言った方が良いだろう。(若しくは法律である)
その倫理に拠る所の倫理観に対して正面から向き合い思考する事によって、限りなく真理に近づいて行ける。
ところが(ここが難しい所なのだが)その真理には絶対に辿りつけない。
何故なら、真理が解ってしまえば思考する必要が無くなるからである。
思考せずに真理を知り得るのは『神』のみである。
逆に言えば、我々は神ではない。だから思考するのです。
さて、前述の通り絶対的倫理(真理)というものを人は理性としては知る事は出来ない。
出来る事は『感じる事』と『思考して近づく事』だけである。
誰かの本を読んで、『まさにその通りだ』と目から鱗が落ちる思いをされた方は多いと思う。
その時人は、真理を感じているのである。
そして、何故そう感じたのかを思考する。
こうして、感性と理性のフル回転により、自分の考えというものが作り上げられていくのである。
読書をする事によって物知りにはなるだろう。
(物知りと言っても、本質的にものを知っているという事ではなく、社会通念としての事実を知っているに過ぎないが)
だが、それらを鵜呑みにしていたのでは、それこそ『本を読んでいる』に過ぎない。
読書をして、肯定したり否定したりするのは一体誰ですか?
『これこれの本を読んで勉強しなさい』と言うのであれば、
私は「あれこれの本を読んで、批評し自分の考えを述べなさい」と言いたいものである。
但し、歴史的事実誤認に拠る意見など(例えばナチスのホロコーストを知らずに、ナチスを肯定するとか・・・)
に対しては『これこれの本を読んで勉強しなさい』と言うでしょうが。
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