昨今、『勝ち組、負け組』という言葉を良く耳にする。
経済的格差を意味するらしい。
それは、そのまま社会的格差となり、つまりは差別的な語である。
『いかに勝ち組になるか』とか、『今一度、学歴社会を問う』的な書籍の売り上げも好調なようだ。
勝ち組と呼ばれる人々は、自分の努力を正当化する上で『勝ち組』の論理を支持する。
要は自分の努力によって勝ち得た地位であるのだから、平等の精神にのっとっているのだと言う。
負け組と呼ばれる人々は、差別社会の再来だと考え、その裏にある学歴社会を批判する。
勝ち組からすれば、単なる負け惜しみにしか聞こえないだろう。

学歴とはそもそも、江戸時代の封建的世襲制度の崩壊により四民平等の名のもとに、努力さえすれば、
誰もが金と地位を得られるといった図式が建前としてあった。
確かにそれが機能したが故に、明治以降の日本の成功がある。
これだけ短期間のうちに近代化を成し遂げた国も他にあるまい。
だが現在、新たな世襲制度が形成されつつあるように思える。
それは学歴の世襲である。
学歴社会の中で成功し、『勝ち組』になった人々は学歴の重要さを理解している。
表向きは学歴社会を批判していたとしても、本音は逆で、我が子にはいい大学へ入って欲しいと願っている。
世のママ達が『お受験』で躍起になっているのを見れば明らかだろう。
学校側もエライもので、エスカレーター式に大学まで進める幼稚舎などを作り、
甘い言葉で『金持ちママ』達を誘惑しているのだ。
人より金を持っている家庭の子は、金で学歴を買える。
福沢諭吉は『天ハ人ノ上ニ人ヲ作ラズ』といったが、当の慶應がこんな事をやっているのだから皮肉である。

学歴は金により『世襲』される。
努力により学歴を手に入れられる、平等な社会が終わりを告げ、金持ちが金によって子孫に地位を与えていくという、
新たな世襲制度が形成されつつある今日の日本社会。
勝ち組の『努力により勝ち得た地位』という言い分も虚しく響く。
しかし、実際虚しいのは負け組みである所に本当の虚しさがあるのではないだろうか。

マスコミはこんな社会に一石を投じようと、躍起になっているが、当の彼らもまた学歴社会のエリートである。
社会を変えようと運動するにも、学歴が必要なのだ。
この学歴を辿れば、そこは金に行き着くのであって、このジレンマがこの問題を袋小路に導く。
(貧乏人の家庭から優秀な子が出る事もあるが、それはごく稀であろう。)
高学歴のエリートが学歴を批判するから、聴衆は耳を傾けるのであって、
学歴の無いものが、いくら訴えた所で単なる負け惜しみとしか受け止められない。
書籍の奥付などに、著者の学歴を載せるのは、まさにその為ではないだろうか。

私は学歴社会を肯定も否定もしない。
だが、確実に言える事は公平な社会など不可能であり、学歴という差別が無くなっても新たな差別が生まれる。
それは、封建的差別社会から学歴差別社会に変容したように。
差別とは自分を高く見せようとする為に、自分より下の人間を作る事である。
であるなら当然、他人と自分を比較しなければ、差別はなくなる。
社会としての差別は無くなる事はないだろう。
しかし、個人としての差別はいつでも無くす事は出来る。
人は社会の中で生きているというがその前に個人として生きている。
社会とは目に見えないものであり、且つ相対的な向きもある。
そんなものを信用するよりも、絶対的に存在する自分の絶対的な価値や考えを尊重すべきだ。
絶対的なものは動く事がない。どっしり、そこに腰を据えているのだ。
自分が『勝ち組』だとか『負け組』だとか言う事に大した意味はない。
自分の絶対的な価値の前で、それらは踊っているに過ぎない。
確かに、地位や金の前には、ある種の説得力を持って、民衆は耳を傾ける。
しかしそれは、絶対的な自分に対する支持ではなく、相対的な自分という宙に浮いたあやふやなものである。
そんな、あやふやなものに価値を見出せると本気で思うだろうか。
事実、土地の値段などはバブル期の十分の一に下落しているというのはザラだ。
相対的な価値がいかに信用の出来ないものかが解る、良い例である。

私は、『勝ち組』の論理を批判するつもりも『負け組』の言い訳を助長するつもりもない。
ただ、自分の絶対的な価値に勝るものは無いと言いたいだけだ。
自分の絶対的な価値を作り上げる為には、日々考える事をしなければならない。
絶対的な自分を作り上げる。
『勝ち組、負け組』の論理を克服するには、やはり『汝自身を知れ』に至るのである。



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