人生に於いて、考えるということは最も大切な事だ。
私は繰り返しそう書いてきた。
しかし、こんな話を日常の会話の中で言った所で、誰もまともに耳を傾けようとはしない。
「誰だって考えて生きているに決まってるだろ」と或る人は言う。
「あっそっ」と受け流す人もいる。
「そんな話つまらない」と受け入れない人もいる。
この手のことをまともに考えるなんて、人生にとってどうでも良いことだと思っているのだろう。
「考えているに決まっている」と言う人にしても、殆どの場合、考えているつもりで実は、判断しているに過ぎない。
その場その場を(或いは先を見越してかも知れないが)、いかに自分を有利に導くかという所で、行動の選択をしているのだ。
私は『考える』とは、真理に近づこうと努力することだと思っている。
そういう意味でこういう人達に苦言を呈している訳である。
それでも彼らは『考えている』と言うし、それ以上この問題について語ろうとはしない。
「そもそも『考える』とは何かを考えよう」
などと言おうものなら、『頭がおかしい奴』『ウザイ奴』『キモイ奴』というレッテルを貼られてしまうに違いない。
経験上それを感じているから、私は彼らに何も言わない。
努力と熱い魂を注げば、耳を傾けてくれる人もいるかも知れないが、はっきり言って面倒臭いのでしない。
モノグサなのである。
私はそれなりに本を読むのだが、『読む』という行為は興味が無ければ絶対にしない。
そこに居れば、嫌でも『聞かされる話』とは明らかに異なるものだ。
だから、私は『書く』事で伝えようとしている。
興味のない方は素通りして下さい。
考える事が大切だと考えるのは、考える事をしている人のみ考えることが出来る。
考えない人に考えることの大切さを、いくら説得した所で無意味なんじゃないかと最近思うようになった。
若手芸人を騙して罠にはめ、笑いものにしているようなTV番組が、高視聴率を得て世間話の中心にもなっているような、
そんな現代日本を見るにつけ、こんな投げやりな気持ちにもなってくる。
「人間は考える葦である」「我思う、故に我あり」「汝自身を知れ」
彼の偉人達は、一朝一夕にこんな名言を残したのではない。
私には、この言葉を素通りする事は出来ない。
だから考えるのだ。
何故って、それは『只の葦』にはなりたくないからである。
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