人生の選択肢。
人生の岐路に立たされ、数ある可能性の中から私は今の道を歩んでいる。
自分で選んだ道なのだから・・・・・私はそう思う事で覚悟を決め現状と向き合ってきた。
しかし、ふと思う事がある。
私は本当に選択肢を選び取ってきたのだろうか?
過去、現在、未来という時間軸の中で、選択肢を選び取る、或いは選び取ってきたのは『いつ』なのだろう。
過去。過ぎ去った日々。この時なのか?
現在。進行形の今。選択をするその時であり、選択をしてきたのも過去という今なのか?
未来。これからの道筋。選択の対象は常に未来なのでは?
我々は常に現在を生きている。過去を生きる事は出来ないし、未来はこれから訪れるのだから。
であるならば、選択は現在しか出来ない筈である。
本当だろうか?私の疑問はまさにこの部分なのである。
進行形の現在。現在とは行動をしているまさにその時。
つまり選択した事柄を行動しているのが現在となる。
そう考えると選択をしたのは過去という事になる。
だが、それも違う。何故なら過去もその時点での現在であるのだから。
未来はどうだろう?
まだ訪れていない未来は絶対に有り得ない。しかし、選択の対象は確かに未来ではある。
例えば、朝ごはんに何を食べようか考えたとしよう。
カレーパンにしようか?あんぱんにしようか?
どちらにしても食べるのは未来である。
現在できる事はどちらを食べるか決める事だけだ。
仮にカレーパンと決めよう。しかし、この時点ではまだカレーパンを手に取っていない。
手に取る直前であんぱんに替えてしまうかも知れないし、手に取っても食べないかも知れない。
何を食べるか、若しくは何も食べないかは、未来にならないと解らないのである。
そしていよいよ、その時がきて、カレーパンを食べたとする。しかしそれは、まさに現在なのである。
現在とは選択した事柄を行動しているその時。
ところで、いつ『カレーパンを食べる』と選択したのですか?
現在は只『カレーパンを食べている』というだけに過ぎないのだから・・・・・・・
きつねにつままれたような話だが、そうなのだから仕方ない。
では次に、行動の中に選択が含まれると考えてみる。
確かに『選択するという行動をしている』と考えれば一見すっきりする。
『カレーパンを食べようと考える(選択する)行動』のあとに『カレーパンを食べるという行動』がある。
しかし、これも少し変だ。
ゆっくり考えてみよう。
『カレーパンを食べようと考える行動』のあとに『やっぱりやめようと考える行動』が挟まるかも知れない。
『でも、やっぱり食べようと考える行動』→『う〜む、やっぱりやめよっかなぁと考える行動』
『あんぱんにしとけば良かったと考える行動』→『面倒臭いから朝ごはん食わないと考える行動』・・・・・・・・・・・・・
結局、『カレーパンを食べるという行動』その時まで解らないじゃないですか。
それでは、選択と行動は同時なのか?
しかしこれだと、『カレーパンを食べよう』と『カレーパンを食べる』が同時に行われている事になる。
『カレーパンを食べよう』というのは『これからカレーパンを食べよう』という事なのだから、
同時に『カレーパンを食べる』という事は普通有り得ない。
『食べよう』と『食べる』が同時であるなら、『食べよう』と言う言葉の意味が無くなってしまう。
文字通り『食べよう』が食べられてしまっているようなものである。
これらを同時に行うには、心と体をバラバラにでもしない限り不可能である。
どうしたって、時間軸としては『カレーパンを食べよう』→『カレーパンを食べる』にしかならない。
直前の『カレーパンを食べよう』が選択だったとしたら、選択は過去にした事になる。
もし、仮に過去を振り返って『あれが選択だった』とするならば、選択とは自由意志ではなく必然ということになる。
つまり、行動に対して、選択が決まるという逆転現象が起こる。
このように自由意志を持たない『選択』を果たして選択と呼べるのか?
やはり『選択は過去である』というのは可笑しいと言わざるを得ない。
さて、いろいろ考えてみたが、結局のところ私は自分の人生を選んで歩んできたのかどうか、正直解らなくなった。
選択しているのか?選択させられているのか?それとも、『ただ、そうでしかない』のか?
解らないから考える、しかし考えれば考える程パラドクスに陥る。
しかし、これで良いのかも知れないとも思う。
『成るようにしか成らない』というのは一見投げやりな言葉ではあるが、実は本質なのかも知れない。
因果律って考え方もあったっけ・・・・・・・・
どちらにしても、自分で考え、自分を信じて生きて行くしかない。
あとは野となれ山となれ・・・・・・・・
言い方はどうでも良いか。
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