義経ブームだからという訳では決してないのだが、先日鎌倉へ行ってきた。
寺社巡りというのが私は好きで、鎌倉へはこれが二度目となる。
好きと言っても参拝をしに行く訳ではない。
信仰心がないとは前にも書いたが、賽銭を入れて手を合わせるという儀式がどうも苦手なのである。
苦手というのはどうにも表現がおかしいが、実際どんな心構えでそれを行ってよいものやら解らないのです。
ポーズとしてそれらを行う事は出来るし、行ったこともある。
しかし、それは仏や神に対してというよりは信者に対する配慮というのが正確かも知れない。
死後の魂の行き場所というもについては、私自身明確な答えを出せていないのも確かだ。
こう書くと寺社へ行く資格がないと言われそうである。
だが私は、あれらの建築物、雰囲気、庭園の美しさ、そういった芸術性に惹かれてしまうのです。
あるお寺の参道を歩いている時、蝉や他の虫達の鳴き声に混ざって、山頂の方からお経が聞こえてきた。
なんとも不思議で幻想的な気分になり、その声に導かれるようにして自然と山頂へと歩を進めていた。
周りには誰もおらず、少し開けた場所に辿りついた時など、
(子供ではないが)神隠しにでも会うんじゃないかという雰囲気であった。
そんな感覚を抱きつつ登っていくと、天狗の像が現れたので、「成る程、ストーリーになってるじゃないか、この参道は」
と感心してしまった程だ。(神隠しと仏教とは関係ないが、そんな感覚を抱かせた事に対して)
物的なものに限らず、精神性に於いても、宗教から派生する芸術性(信じる者達がその敬虔なる気持ちで、築きあげたもの)
というものは素晴らしいと私は認めている。
だが、そこに『祈祷受付中』なる文言を見付けてしまうと、途端に私は惹いてしまう。
この参道に於いても、それらの文言に対して、「この参道を登ったら、祈祷して貰わないわけには行かないのでは?」
という強迫観念のようなものに駆られてしまい、ついぞや、途中で引き返してしまう始末であった。
私もまだまだである。
言葉は悪いが、例え宗教であっても、商売という側面も当然としてあろう。
あれらの建築物や景観を維持するには金もかかる。
私も少し寛容になってもいいんじゃないかと最近思っている。
祈祷をして貰うのには、やはり抵抗があるが、拝観料として賽銭を投じる事くらいは出来る。
信仰心が無くとも、感謝の気持ちとして、手を合わせ頭を下げれば良いのではないかと。
戻る