『無償の愛』とは使い古された言葉だが、私は寧ろ『愛は無償』であるべきだと思っている。
考えて見て欲しい。見返りを求める愛を本当の『愛』と呼べるのだろうか。
愛というと、とかく恋愛を想起させる。
しかし、恋愛でいう所の『愛』は対価を求めるものである場合が多い。
『愛する代わりに愛してくれ』という暗黙の了解の上で成り立っている。
従ってどちらかの愛が失われると破綻する場合が多い。
私が言う愛はこの手の愛のことではない。地球規模の愛や民族愛というのもあるが、これも複雑な関係性の上に
成り立つものなので除外としたい。
私がいう『無償でなければいけない愛』とは極めて限定的に言えば親が子に対する『愛』である。

「結婚もしないで将来どうす気だ」と私もよく親戚に言われるのだが、
これにはどうも『将来の面倒を子供に見て貰う』というニュアンスが見え隠れする。
つまり子供を『保険』として捕らえているのである。
子供とは、当たり前の話だが、自ら望んで生まれてきた訳ではない。
『両親の愛の結晶』などという表現もあるが、これは親の側の勝手な言い分である。
子供は一個の独立した存在であり、冷めた言い方をすれば親とは無関係に存在するのだ。
しかし、だからと言って勝手に一人で生きていけとは言える筈もない。
子供とは真っ白な台本を持たされた役者のようなものである。
最初は台詞もト書きもなく、何をすれば良いのか全く分からない。
親というのは、そんな役者のために時には台本を書く脚本家になり、時には演技指導をする監督になる。
そうして、一人前の芝居が出来るように育てていかなければならない。
だが、親と子供の関係と監督と役者の関係とで決定的に違うのは、子供は演じる舞台を選べないという事である。
つまり、親は強制的に子を舞台に立たせているとう点で責任があるのだ。

「ここまで育ててきてやったのに、この恩知らず」と親。
「生んでくれと頼んだわけではない」と子。
良くある、思春期の親子喧嘩である。
親は、この子供の台詞を絶対に言ってはいけない言葉だと主張するが、私は寧ろ逆だと思う。
そんな台詞を吐かせるのは、親の方に問題があるからだと思っている。
先ほども言ったが、親には子供を一人前の人間に育てる責任がある。
子供が悪態をついたり、不良となるのは親がこの責任を遂行できていない証拠である。
勿論、子供を育てるのは親だけではない。学校であったり、友人であったりもする。
しかし、親がきちんと責任を果たしていれば、少なくとも親に対する不信感だけは抱かない筈である。
私が言う所の『親の愛』とはこの責任のことである。
正しき事を教え、時にはただ成長する我が子に目を細めているだけでも良い。
子供が一人の人間である事を認めてやり、考えを理解してやり、また時には助言をする。
決して傲慢にならず、強制をせず、寛大な気持ちで見守ってやる。
そういうものが『愛』なのである。
『愛』を一心不乱に注いでやった時、子供は何かを感じる。
そんな中から『親孝行』の精神が芽生えてくる。
例え、そんなものが芽生えなくとも、嘆いてはいけない。
あるがままを受け入れるという覚悟があれば、見返りがなくとも諦めがつくだろう。
子供を作るということは、そんな覚悟の上に成されるべきだと私は思う。

ペットへの愛情というものを少し考えて見たい。
彼らは、彼らが『意図した』見返りを飼い主には決して与えない。
ただただ、無邪気なだけである。
にも関わらず、主人は可愛がり続ける。
それは何故なのだろうか?
そこに『愛』があるからだと私は思う。
しかし、相手が子供(人間)だと事情が変ってくる。
人間であるが故に見返りを求めてしまうのだ。
これは非常に邪まで打算的であると言わざるを得ない。
ペットに注げるような愛情。
御飯を食べている姿を見ているだけでも、可愛らしく思い、
寝ている姿を見ているだけでも、愛おしい。
そんな感情を自分の子供に抱いてやれたら、それは素晴らしい事だと思う。

最後にもう一度。『愛は無償』であるべきです。

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