大人と子供の線引きについて。
何をもって、大人と呼ぶのか?
又は、いつから大人になるのだろう?
法律的には成人すると大人と呼ぶらしい。
つまり20歳になれば、誰しも大人と認められ、同時に責任を持たされる。
しかし、責任を持たされた事によって大人とするのは、可笑しくないだろうか。
責任は持たされるものではなく、持つものだ。
ならば、責任を持つという決心をした瞬間から、大人になるといった方が正解なのかも知れない。
日本の成人式などを見ると、無責任で自分勝手な輩がやりたい放題しているのが解る。
彼らを大人と呼んでしまったら、本当の大人に対して失礼である。
法律は法律。刑罰の適用などをする為にはなんらかの線引きが必要であり、便宜上そうしているに過ぎない。
私はそれとは別に、『真の大人』とは何かについて考えたい。

責任を持つ決心をする。
確かにこれも大人の条件としては不可欠だろう。
だが私は、自己を知る事が先決ではないかと思っている。
自己を知る。つまり『自我に目覚める』ということである。
情報化社会と呼ばれる現代に於いて、実は自我に目覚めることは非常に難しくなったのではないかと思う。
TVの画面からは、あらゆる情報が流され、あらゆる答えが提供され、もはや自分の頭で考える事なく、
知識を身に付けていくことが出来る。
そこで得られる知識とは実は知識ではなく、単なる情報である。
単なる情報を知識だと信じてしまい、それ以上ものを考えようとしなくなる。
いつしか、それらの知識(情報)が自分のものであるかのような、勘違いを繰り返し、自分というものが形成されてゆく。
そうして形成された人間とは、つまり情報記憶装置でしかないのではないだろうか。
装置と成り果てた、これらの人間が自我に目覚めることはもはや困難だ。
彼らは死ぬまで、他人の思考、社会の思考に支配され、支配されている事にも気付かず死んでいくだろう。
こうした人達を大人と呼ぶか?
私には呼べない。かと言って好奇心旺盛な子供とも呼べない。只の装置である。
自我に目覚めるには、一度情報を遮断して、自己を見つめるより他はない。
自分の頭で考え、自分の頭で結論を出すのだ。
情報を遮断しろといっても、脱社会的な人間になれと言っている訳でない。
情報は情報として利用すればよいし、ある程度の情報は思考の道具として必要である。
但し、それを鵜呑みにするなという事だ。
一度情報を遮断して、考え、答えを出す。
それから、情報と自分の考えを照合すればよい。
そうしていく内に情報というものの正体も見えてくるし、自分の正体(=自己)も見えてくる。
それに気付き、冷静に善悪、正否の判断ができるようになった時、初めて大人になったと言えるのではないだろうか。

情報化社会に騙されてはいけません。
大人になれば、これらの嘘が見抜ける筈です。
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