イラクでまたしても邦人が拘束された。
かなりの重症を負っているという事なので安否が心配される。

ところで、アメリカとテロ組織との殺し合いは、いつまで続くのだろう。
そも、憎むべき相手を殺すとはいかなる心性なのか。
殺したいと思う相手は誰にでも居ると思う。
憎しみに対する最大の鉄槌は死であると考えるからだ。
ところが、この『死』というものは、実は誰も知らない筈である。
何故なら誰も経験した事がないからだ。
にも関わらず『死』が最大の鉄槌であると考えるのはいささか不思議ではないか。
もしかしたら、殺された側は痛くも痒くもないのかも知れない。
それ処か我々は『生』の辛さを知っているのだから、『死』によってその辛さから解放されると考えれば、
寧ろ救済された事になるのかも知れないではないか。
憎むべき相手に報復を考えるなら、その最大の報復は『生かす』事である。
『生』が長ければ長い程、それに比例して苦難も増えていく。
『自分が苦しめられた』と自認するのは『自分の生』があっての事である。
裏を返せば、相手を苦しめるには『相手の生』が無ければならない筈なのである。
にも関わらず、殺し合いという報復合戦がこれまで続くのは、どういう事か。
それは恐らく、自分を苦しめる相手を消す事によって、自分が苦しめられずに済むと考えるからであろう。
は〜ん。そういう事か。
でも、世の中そんなに甘くは無い。誰かを殺せば、さらなる憎しみを生むのである。
その憎しみが、新たな苦難として自分に返ってくるのだ。

苦しみから解放される手段は相手を『消す』以外にもう一つある。
それは自分が『消える』事だ。つまり自殺である。
テロ組織がやる『自爆テロ』などは、これらを同時に行うのだから、極めて合理的と言えるだろう。
実際、良く考えたものだなと関心してしまう。

これら、全ては『苦しみからの解放』という一元的な考えから起こった事である。
それらを行っているのは、一神教の国アメリカとイスラム原理主義者達であるという事実に注目したい。
多元的にものを考えれば、『苦しみ』もまた人生と考える事ができる。
『苦しみ』があるから、『楽しみ』もある。
辛いことが無ければ、楽しいことを楽しいと認識する事も出来ない筈だ。
一神教というひとつの根本原理を崇拝する人々は、そういう事が考えられないのではないだろうか。
『苦しみ』は受け入れられないものであって、排除しなければならない。
という考え方が根本にあるから、短絡的にその原因を消し去ってしまえと。
本来宗教とはそういう『苦しみ』の大切さというものを教えていた筈であるのだが・・・・・・・・・・・・

尤も、『苦しみから解放されたい』という考え自体を一神教的だと言うのではない。
そんな事は誰しもが思う事だ。
昨今、日本人の自殺者数は年間3万人を超すと言われているが、それらは『心の弱さ』からくるものなのだと思う。
頼れるものが無くなったとか、挫折から這い上がる気力が無くなったとか。
人生に於いて苦しみがあるのは解っちゃいるけど、耐えられなかったのだろう。
でも、一神教の人達は、そう考えない。
自分達が信じるものは『絶対』なのだから、それを否定するものは許さない。
もちろん、これは一神教の信者全てではなく、一部の過激な原理主義者に限られるのだけれど、
彼らにとっての死とは『心の強さ』というか、信じるものの強さという所にあるのだと思う。
だから同じ自殺(自爆テロ)といっても、発想が全く逆なのだ。

ひとつの絶対的な正しさというのは、もしかしたら或るのかも知れない。
それは、神かも知れないし、イデアかも知れない。
だが、それは教義として誰かから示されたものである筈がない。
何故なら、その教義を作っている者は確実に人間であるからだ。
「神からの預言である」という人もいるかも知れないが、
ではその預言を受けたのは一体誰なのか?
イエスであり、モハメッドである。と言ったところで、彼らの心の中を覗ける訳ではない。
であるなら、結局の所、自分で神なりイデアなりを求める以外にはないのである。
それは、つまり考える事だ。
『苦しみ』とはなんぞ。『死』とはなんぞ。と考えれば、敵を殺して満足を得るなんて事が起こる筈もない。
よしんば、殺す必要がある場合があったとして、そこには必ず『考え』が必要である。
ここでも我々は、『考える』事の必要を問われるのだ。
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