「正義は少数の側にある」
キルケゴールがそんな事を言ったと、何処かで聞いた事がある。
私もその意見には賛成なのだが、一般には理解され難いことである。
みんなが、「右へ行こう」と言っている時に、一人だけ「左にいくべきだ」と言えば、和を乱すことになる。
よって、多くの意見に賛同した方が上手くやっていけるというのが、大衆の考えだ。
多くの人は、辛いことより、楽しいことを求める。
当たり前だが、楽しい事イコール善いことではない。
善いことを至上のものとしている人間は、苦楽に関係なく善いことをする。
しかし、快楽主義者達にとっては、苦痛を受け入れるなんて事は耐えがたい為、
偽善的だとか理想論だとかいう詭弁を並べ立て否定しようとする。
大衆も楽しいほうが良いと思っているので、それに同意し、事実上『善の至上主義』を黙殺するのだ。

「いくら楽しくても、悪いことはしない」
と反論される方も居ると思う。
確かにその通りだ。私だって、人生楽しいほうが良いし、楽しいイコール悪とは思っていない。
しかし、そもそも私は『善』とは何か『悪』とは何かを問うているのだ。
『楽しくても、悪いことはしない』を言い換えれば『善いことだけを選んでする』とも言える。
その時の『善い』というのは、よくよく考えて見れば、自分の判断に過ぎないという事が解る。
そうであるなら、そもそもの『善』が解っていなければならない筈である。
そこの所が殆どの人、解っていないのである。
私がキルケゴールの言葉に同意するのは、その為だ。

では、『善』とは何なのか。
『考える』事である。
私が書いた他の文章をくまなく読んでいる方なら、恐らく『またか』とお想いになるだろう。
なんでもかんでも、『考える』の一言で結論づけるなと。
しかし、『善』というものの範型が無いのだから、そうとしか言えない。
敢えて言うなら、考えて導き出された答えは『善』にしか成りえないという事だろう。
例えば、売春を『悪』だと思っている人が、売春をする時で考えて見よう。
ある女性が、そうしなければならない(例えば経済的な)理由があって考えた挙句、
売春を決意したのであれば、それはその人にとって行動としては『善い事』になる。
何故なら、そうしなければ、生きて行く事が出来ないからだ。
売春するぐらいなら、『死』を選んだ方が、『善い』といった所で、
では、自ら死を選ぶ事は果たして『善』か『悪』か。
どちらを選んでも、彼女にとっては考えた末の『最善』の行動と言えるのだ。
(考えれば考える程パラドクスに陥るとは良く言ったものだ)
売春が善い事だと言っているのではない。
反論したい方は、売春などしなくとも、世界中の誰もが平等に食べていける世の中を作ってください。
くれぐれも、誤解なきよう。

要は、行動を起こす時に大衆心理に飲み込まれてはいけないと言いたいのである。
もしかしたら、『楽しいから』とか『少数派になりたくないから』とかいう理由で、
都合よく『善』を持ち出していないか、自分を疑って欲しい。
デカルトという人は、限りなく自分を疑って、『考えている自分だけは疑えない』事に気付いた。
彼は人生を賭けて、その事を証明した。
まぁ、そこまでしろとは流石に言えないのだが、自分を疑う事を知らない人が余りに多い事に
ある種の脱力感を覚えるのである。
何故『善い』と判断したのか、何故『悪い』と判断したのか、そもそも『善悪』とは何か。
おおもとの行為を判断する時、まず先にそちらを考えるべきなのである。

『考える』
やはり、私はその言葉に帰結する。

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