世界財産の95%は5%の金持ちが所有するのだそうだ。
そう聞くと、マルクスも支持したくなる。
労働者達はその鬱憤を晴らす為に、なけなしの金をはたいて、娯楽やショッピングに興じるが、
それらはまた、資本家達の私腹を肥やすことになる。
全くもって、このジレンマという奴が資本主義の象徴とも言えるのだが、
だからと言って、マルクスの思想(共産主義)が破綻をきたした現在としては、
それに替わる社会システムというものが見出せないのも事実である。
プラトンはこうなる事を予見して、哲人政治なるものを構想したのだと思う。
これは所謂、独裁政治や専制政治とは違って賢人達が愚民を正しき道に導き、
よりよい社会を作るという発想のようだが、
その愚民と呼ばれる人々からすれば、自由を制限さるという点に於いて、独裁政治となんら変わりないだろう。
(尤もどの社会でも、ある程度は自由は制限されるが)
よって、これも実現の見込みは無さそうである。
結局の所、新しい社会システムを何処にも見出せないとなるとなるならば、
やはり個人思想というか、要は自分の考えというものを我々は模索する以外ないのではないだろうか。
何処の国、何処の社会に組み込まれていようと、考える自分は平等に存在出来る。
「そんな考えは甘い?」
確かにそうかも知れない。
自由を奪われ、死と隣併せの生活をしている人々にとって、自分の考えなんてものは殆ど無力である。
生活というものは、極めて厄介な存在である。
それさえ無ければ、我々はどんなに自由に幸福に生きていけるだろう。
『ものを食べなければいけない』『住居がなければ暮らせない』というのは、
私にとっても、まるで神から下された罰であるかのように立ちはだかる。
私にとっての人生の苦しみとは、自分で考え、正しき事を推し進めたくとも、
実際には妥協し、嘘を言い、時には正義を押し殺して生活をしている事である。
もちろん、出来る限りは自分の考えを推し進める。だが、ギリギリの所では、どうしても妥協してしまう。
ソクラテスは「食うために生きるのではない。生きるために食うのだ」と言った。
これは真理である。
だが、だからと言って私はソクラテスのように毒杯をあおる事は出来ない。
私は『死』を恐れている訳ではない。しかしそれは、『死』を体験することが出来ないと知っているからに過ぎない。
私は『生きたい』。
『生きる』という時に目の前に立ちはだかる生活が憎い。
生活さえ無ければ・・・・・・・・・・
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