世界は『私』が認識する事によって存在する。
世界が自分中心に周っているかのような、物言いであるが、確かにそうなのである。
『私』が世界を知るということは、私によって世界が知られるとも言える。
私によって知られていない世界は、存在するのかしないのか解らないではないか。
解らないものについて、存在云々は絶対に言えない筈である。
ところで、『私』以外のものが、世界を認識するという事が出来るのだろうか?
「いやいや、あなただけでなく、私だって世界を認識している」
まさにその通りで、『私』だって世界を認識しているのである。
あたたにとっての『私』が世界を認識しているという事に於いて、やはり『私』だけが世界を認識出来るのだ。
この驚くべき事実を我々はどう考えたら良いのだろう。
「世界は『私』が認識する事によって存在する」
とは言ったが、私が認識していない世界も何処かに存在している。
何故なら私が現在認識している世界が存在の全てであれば、私はこれ以上ものを考える必要も世界を探求する必要もないからだ。
しかし、日々新しい発見があるし、考え自体も変化していく。
自分の中の世界は無限に拡がっていく可能性があるのである。
科学の進歩は日進月歩である。
宇宙のからくりの殆どは科学によって解明されていくと言う。
だが、それらを研究しているのは科学者であり、『私』ではない。
いくら科学が進歩した所で、『私』が認識しない限り世界の拡がりには成り得ない。
このことは『私』を考える上で、非常に重要な事だと思う。
世界には貧困に喘ぐ人々がいる。
差別に苦しむ人々もいる。
何も考えず、何も知ろうとしない人々の『私の世界』では、それらは存在していない事になるだろう。
我々が考え、知るという事は、即ち『世界は『私』が認識する事によって存在する』
という事を認識する所から始まるのではないだろうか。
さて、最後に『私が認識していない世界も何処かに存在している』とはどういう事なのか?
私はそこに『神』を見る。
神がそれらの存在を見ているのではないかと。
我々人間が知り得る事には自ずから限界がある。
にも関わらず、『世界は『私』が認識する事によってしか存在出来ない』という矛盾を説明するには、
人智を超えた存在がある事を認めるしかない。
だが、現存の宗教が言う所の神とは違うと思う。
現存の宗教が言う『神』とは人間が創ったもの、人間が想像したものと言わざるを得ない。
何故ならそこに人が仲介として存在してしまっているから。(例えば預言者)
人が仲介してしまっている時点で『私』の認識ではなくなってしまっているのだ。
私が思う神とは、人間には決して理解出来ない存在。
人間の思考では決して辿りつけない真実を知る存在。
そして、矛盾のない存在である。
我々人間が出来ることは、考えること位である。
『世界は『私』が認識する事によってしか存在出来ない』のであれば、
その一つである『私の世界』は、私が責任をもって知らなければならない。
何故って、それが『世界の全て』なのだから。
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